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石川五右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
五右衛門の処刑
一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』

石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、弘治4年〈1558年〉? - 文禄3年8月24日1594年10月8日〉、12月12日とも)は、安土桃山時代盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された[1]。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。

従来、その実在が疑問視されてきたが、イエズス会宣教師であるペドロの日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 [要出典]

江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。

一般に知られる大盗賊「石川五右衛門」

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安土桃山時代に出没した怪盗。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による。

史料に残る五右衛門

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下記に石川五右衛門に関する記述がある史料を示す。史料に残された石川五右衛門の記録は、何れも彼の処刑に関わるものである。

ペドロ・モレホン

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まず、安土桃山時代から江戸時代初期の20年ほど日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本王国記』[2]によると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に、

「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」

と記している[3]

山科言経

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また、公家の山科言経の日記『言経卿記』には、文禄3年8月24日(1594年10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの宣教師の注釈と一致する。また、時代はやや下るものの1642年(寛永19年)に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。

続本朝通鑑

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また、(以下、「」、「」、「」は漢文の返り点)、『続本朝通鑑』(寛文10年(1670年)成立)には、

「頃年、有石川五右衛門者、或穿窬或強盗不止矣、秀吉令京尹前田玄以遍捜一レ之、遂捕石川、且縛二其母竝同類二十人許一烹殺之三条河原 — 續本朝通鑑

とある。

歴朝要紀

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『歴朝要紀』(天保3年(1832年)草稿完成)には、

「所司代法印前田玄以、捕賊石川五右衛門竝其母及其党二十殺于三条河原 — 歴朝要紀

とある。

伝説の五右衛門

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出生地は伊賀国遠江国(現浜松市)・河内国丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者抜け忍百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある。

丹後国の伊久知城を本拠とした豪族丹後石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏家老職を務めていたが、天正10年(1582年)、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門[注釈 1]は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の謀略を引き受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門の次男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる。

また一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも。

様々な伝説

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前述以外にも、その生涯についてはさまざまな説がある。

  • 幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返し、14歳か15歳の頃に父母を亡くす。19歳の頃からについては幾つかの説があり、主に「伊賀に渡り、忍者の弟子になった後、京を出て盗賊になった」や「奉公した男性の妻と駆け落ちした」などがある。
  • 百地三太夫百地丹波)について伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
  • その後手下や仲間を集めて、頭となり悪事を繰り返す。相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていた事もあり、庶民の英雄的存在になっていた。
  • 金の鯱(名古屋城・大坂城など諸説あり)を盗もうとしたとも伝わるが、これは別の盗賊団の混同かと思われる(柿木金助参照)。
  • 京都市伏見区の藤森神社に石川五右衛門寄進という手水鉢の受け台石がある。前田玄以配下に追われた五右衛門が神社に逃げ込んだ際、神社が管轄が違うと引き渡しに直ぐに応じなかったため、まんまと逃げおおせた。そのお礼として宇治塔の島の石造十三重塔(現重要文化財)の笠石を盗んで台石として寄進したものという。そのため、塔の島石塔の上から三番目の笠石は他のものに比べて新しいのだという。
  • 五右衛門の隠れ家は、方広寺大仏殿(京の大仏)門前にあった大仏餅屋にあったという。そこから鴨川河原に通じる抜け穴もあったという。
  • 秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが[4]秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせたため捕えられる。その後、捕えられた配下の一人に悪事や部下などをすべて暴かれてしまう。
  • 三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
  • 有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力だが娘は武士と結婚してるので謎の処刑記録)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
  • 鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所があるが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だという。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になった(南区コラム 【京都市公式】京都観光Navi- によれば「釜ヶ淵」の場所を鴨川と高瀬川の合流点あたりとしており、かつ元々はその地点から北へ約300m上流がその場所であったとしている)。
  • 処刑される前に「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」と辞世の歌を詠んだという(古今和歌集仮名序に、たとへ歌として挙げられている「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海(ありそうみ)の浜の真砂(まさご)はよみ尽くすとも」の本歌取か)。
  • 処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある[5]
  • 『一色軍記』では当時伏見城の築城に関わっていた仙石秀久が五右衛門を捕縛したという記述が残されている。

創作文芸

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江戸時代には伝説の大泥棒として認知され、数多くの創作作品が生まれた。

1776年(安永5年)以前成立の実録本『賊禁秘誠談』は石川五右衛門が大盗賊へ成長していく様子を武勇伝のように描き、五右衛門を小気味よい反逆者として描いた作品である[6]。この『賊禁秘誠談』の内容を典拠として、歌舞伎楼門五三桐』が生み出された[7]

歌舞伎『楼門五三桐』で、五右衛門を明国高官宋蘇卿(実在の貿易家宋素卿のもじり)の遺児とする設定は、謡曲「唐船」を参考にしたものである[8]。また、「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)は有名で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と科白を廻し、辞世の歌といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)と掛け科白で廻した後、山門の上下で「天地の見得」を切る。この場面の金襴褞袍(きんらんどてら)に大百日(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、今日では一般的な五右衛門像となっている。ただし、実際の南禅寺三門は文安4年(1447年)に焼失、再建は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)であるため、五右衛門の存命中には存在していない。

戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。これは処刑された盗賊としては破格の極めて立派な戒名である。

一方で彼の実際の行動について記録されている史料は少ない。反面、そのことが創作の作者たちの想像力と創作意欲をかき立てていることは間違いなく、彼に関しては古今数多くのフィクションが生み出されている。

石川五右衛門が登場する作品

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古典

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浄瑠璃・人形浄瑠璃
  • 石川五右衛門
  • 傾城吉岡染(近松門左衛門作)
  • 釜淵双級巴
  • 木下蔭狭間合戦
歌舞伎
文学
落語

現代

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小説
新歌舞伎・新作歌舞伎
再演は除く。
新劇・現代劇
再演は除く。
映画
テレビドラマ
漫画
音楽
アニメ
ラジオドラマ
テレビ人形劇
ゲーム
ライトノベル
  • 壬生一郎『信長の庶子』(2019年~、既刊5巻)イラスト:土田健太

その他

脚注

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注釈

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  1. ^ 石川秀廉とその子とされる。
  2. ^ a b 十三代目の子孫という設定の石川五ェ門が登場

出典

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 93頁。
  2. ^ Avila Giron "Relación del Reino de Nippon a que llaman Corruptante Japon(転訛してハポンと呼ばれている日本王国に関する報告)"
  3. ^ 佐久間正,他『大航海時代叢書11 日本王国記・日欧文化比較』岩波書店、1965年、226-227頁。ISBN 4-00-008511-5 
  4. ^ 矢野龍渓『出たらめの記』東亜堂書房、1915年、P.18頁。 
  5. ^ 『知識の王様 歴史 ボク&わたし 知っているつもり?』150頁。
  6. ^ 菊池庸介『近世実録の研究 -成長と展開-』汲古書院、2008年2月、101-118頁。 
  7. ^ 菊池庸介『近世実録の研究 -成長と展開-』汲古書院、2008年2月、203-211頁。 
  8. ^ 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典』岩波書店、1984年1月、264-265頁。 
  9. ^ “市川海老蔵、13年ぶり連続ドラマ主演 天下の大泥棒・石川五右衛門役”. ORICON STYLE (株式会社oricon ME). (2016年1月6日). https://www.oricon.co.jp/news/2064888/full/ 2016年1月6日閲覧。 
  10. ^ トップページ”. AMBITIOUS MISSION|SAGA PLANETS. 2021年12月25日閲覧。

外部リンク

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