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田中定吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日[1][2][3][4])- 1929年昭和4年)1月5日[5][6][7])は、明治から昭和初期の実業家政治家衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂[2]、俳号・笑蛙[8]

経歴

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讃岐国香川郡高松紺屋町[8](現香川県[5]高松市[4][6][9][10]紺屋町[8])で、富豪[4]・田中仁八郎の二男[注釈 1]として生まれる[8]。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した[2][4][5][8][10]。1893年(明治26年)3月、家督相続した[3][4]

帰郷して、高松銀行取締役を務めた[3][4][8]。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任[4][5][6][10]。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた[8]

政界では高松市会議員に就任[3][4][5][6][9][10]。1897年(明治30年)香川県会議員に選出され[2][3][4][5][6][8][9][10]、1901年(明治34年)11月から1903年(明治36年)3月まで県会議長を務めた[8][11]立憲政友会香川県支部幹事として党勢の拡大に尽力した[2][4]。1903年3月の第8回衆議院議員総選挙で香川県高松市から出馬して初当選[2][4][8][9][12]。その後、1924年(大正13年)5月の第15回総選挙まで5回再選され、衆議院議員に通算6期在任した[5][6][7][8]。この間、政友会幹事、同協議員などを務めた[7]

国政選挙歴

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親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『大日本人物誌』た之部117頁、『人事興信録 第4版』た22頁、『大正人名辞典 第3版』2092頁では長男。

出典

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  1. ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、24頁。
  2. ^ a b c d e f 『大日本人物誌』た之部117頁。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』た22頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『大正人名辞典 第3版』2092頁。
  5. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』357頁。
  6. ^ a b c d e f 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』255頁。
  7. ^ a b c 『立憲政友会功労者追遠録』205-206頁。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 『香川県人物・人名事典』52-53頁。
  9. ^ a b c d 『現代日本の政治家』政友会89-90頁。
  10. ^ a b c d e 『新代議士名鑑』407頁。
  11. ^ 『香川県人物・人名事典』344頁。
  12. ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』32頁。
  13. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』72頁。
  14. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第14回』25頁。
  15. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第15回』29頁。
  16. ^ 『人事興信録 第8版』タ30頁。

参考文献

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  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
  • 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
  • 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『香川県人物・人名事典』四国新聞社、1985年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。