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平山訓子

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ひらやま おしえ

平山 訓
晩年の訓子おしえこ
1924年(大正13年)新宿有明堂にて
生誕 蔵原 訓(くらはら おしえ)
1882年12月20日
日本の旗 日本熊本県下益城郡小川町(現・宇城市
死没 1925年5月1日、享年44(満42歳没)
別名 平山 訓子(ひらやま おしえこ)
職業 ジャーナリスト(熊本の女性初)、文人、歌人、実業家
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平山 訓子(ひらやま おしえこ、1882年12月20日 - 1925年5月1日[注釈 1] は、熊本初の女性ジャーナリスト、文人、歌人実業家。本名は平山 訓(ひらやま おしえ)、旧姓蔵原、元和歌山県知事衆議院議員蔵原敏捷は実弟である[4]

生涯

熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身[5]、父・蔵原あつし、母・そでの長女として生まれる[4]

1901年3月、熊本女学校[注釈 3]を卒業後まもなく、徳島県出身(生まれは東京府[注釈 4]の平山八十五郎[注釈 5]と結婚、一児をもうけるが、1903年5月、夫八十五郎が米国ハーバード大学留学中に客死したため、同年9月、九州日日新聞社(のち、熊本日日新聞社に社名変更)に入社した[4][注釈 6]。熊本の女性記者第一号として活動する[5][8][4]。「戦争と婦人」「回春病院の半日」など数多の連載署名記事[注釈 7]を残し、1908年3月に退社した[4]

のち、上京し大日本婦人教育会の幹事として活動する[21][22][注釈 8]。その一環としてか、1912年2月には『名流大家の観たる理想の婦人及家庭』(実業之日本社)に、理想の婦人像について、大隈重信津田梅子蔵原惟郭これひろ[注釈 9]など13名[注釈 10] の名流大家(教育者)の一人として執筆している[注釈 11]。その間、「かげ草」[33]、「伯父さん」[34]、「おきのさん」[35]などの小説や『小公子』の翻訳[36]などの文筆活動を手がけた。

その傍ら事業活動もおこない、代々木有明ありあけ製菓(製菓工場)[37]新宿有明ありあけ堂(喫茶、洋食、菓子販売)[38][32][注釈 12]をそれぞれ開業したが[注釈 13]1925年に持病の心臓病[注釈 15] が悪化し、5月1日死去[19]。享年44(満42歳没)。墓は小川町の蔵原家墓地にあり、夫八十五郎とともに眠っている[19]。訓子の死後、有明製菓は実弟の蔵原史樹としき[37][40][注釈 16]、有明堂は実子の春海はるみが引き継いだ[51][41][注釈 17]

1925年に発表した『歌集 有明ありあけ[注釈 18]は遺稿[注釈 19]で、坂元雪鳥せっちょうはその巻末に、追悼文「小母さんを想ふ」[注釈 20]を寄せている[8][57]。また、与謝野晶子訓子おしえこの死を悼み、訪熊ほうゆうした折に親しく訓子の実家を訪ねてその霊を慰めている[58]

「踊りつつ吾はゆくなり四十歳よそとせの 神の恵みに識れる大路おほぢを」

訓子の辞世の歌である[59]

脚注

注釈

  1. ^ 「訓子」のふりがなは「おしえこ」[1][2]国立国会図書館のNDLサーチでは、読みを「クニコ→オシエコ」に訂正している[3]
  2. ^ このエピソードは「近代肥後異風者伝」で紹介されたもの[8]。「近代肥後異風者伝」は熊本日日新聞朝刊に2001年4月から2010年3月まで連載され、幕末~昭和初期に活躍した熊本の85人を収録、のち10人を加えて書籍化され出版されている[9]
  3. ^ 訓子が学んだ当時の校母は竹崎順子。訓子は、師と仰ぐ順子先生の思い出を感謝の気持ちを込めて綴っている[6]。また、女学校時代の友人に野田タキノと野口精子せいこ[7]がいる。タキノは野田卯太郎の娘で松野鶴平に嫁ぐが、その仲をとりもったのが訓子である[注釈 2]。野口精子は歌人で『夕ばえ』[10]など多くの作品を残しているが、1921年8月の精子の予期せぬ死を悼み、訓子は月刊誌『新人』に追悼文を寄せている[11]
  4. ^ 平山家は徳島藩馬廻二百石の家柄でルーツは徳島県である[8]が、八十五郎の出生地は東京府[12][13][14]
  5. ^ 平山八十五郎について次の記述がある。「札幌農学校入学前(東京帝国大学予科生の時、1889年1892年頃)[12]、八十五郎は東都に名の知れた、日本の陵上競技黎明史に残るような運動家であった。すこぶる発達した心臓の持ち主で[15]、足が一直線に伸びる華麗なフォームで走り、当時は誰もが彼に歯が立たなかった(松村松年談)。1898年7月に札幌農学校農学科を卒業[13][14]したが、その後、米国留学中に客死した。」という趣旨の記述があり、併せて札幌農学校時代の第16回遊戯会(体育会)における八十五郎の活躍ぶりを伝えている[16][17]。前述の松村松年は札幌農学校の3年先輩で[18]、東京帝国大学予科の同級生にビタミンB1の発見者、鈴木梅太郎がいる[12]
  6. ^ 訓子は「入社の辞」[19]で次のように述べている。「...近時教育の普及がいちじるしく婦人界の活勢を添え来りしより各種の慈善会組織せられ学校教師出で看護婦出で電話交換手出るなど社会事業の一部が確かに婦人の力を待つことの多きに至れるは我らが深く悦びとする処なれども日々駸々しんしんとして進み行く文明の前途は尚広く長く極り無き理程を有するにあらずや見よや家庭組織の上に於て育児の上に於て近くは服装の上に於て緻密なる改善を加へ優しくして鋭き婦人の斧を揮うべき余地、勘だ少なしとせず、此時に当り時に其の指導者となり慰撫者となり或は鼓吹者となりて健全優美なる理想の地にそを引率し行くはまことに時代の必要と謂はざる可らず...」。男尊女卑の時代に果敢に挑戦した若き女性(このとき訓子は満20歳)の心意気が読み取れる。
  7. ^ 主な署名記事:「入社の辞」(1903年9月22日)、「新しき年の使ひ」(1904年元旦号)、「朝井夫人と語る上、下」(1904年4月13日、4月14日)、「いかづち艦長三村夫人と語る」(1904年4月15日~17日)、「病兵慰問記」(1904年7月17日)、「戦争と婦人」(1905年1月24日~29日)、「軍隊歓迎と婦人」(1905年10月26日)、「熊本母の会記」(1906年6月26日~7月1日)、「回春病院の半日」(1906年11月25日~12月8日)、「坪井葉煙草専売局を観る-工女労働の模様」(1907年6月28日~30日)など、日露戦争に関する記事が多い[4][8][20]。これらの署名記事は、「谷川憲介『近代熊本女性史年表』亜紀書房、1999年12月刊」に全文掲載されており[4]、ほかに「落葉かご」、「ふるさと日記」などの連載コラムや著名人との対談記事を執筆している[8]
  8. ^ 大日本婦人教育会は、1887年載仁ことひと親王妃を総裁に毛利安子公爵の母)を会長に創立されたもので、五〇〇名近い会員を擁し女子教育の向上と普及を活動目的に掲げている団体である[23]。本部は麹町区永田町一丁目十九番地にあり、訓子は名流婦人の間に伍して才色兼備をもって知られていた[21]。総会や各種行事への参加など、1908年11月から1917年5月までの訓子の活動が記録されている[24]
  9. ^ 蔵原惟郭は肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇市)の阿蘇蔵原家[25]の出身で、訓子の生家である小川蔵原家は阿蘇蔵原家の分家に当たり、その祖は二辺塚にべづか城主・蔵原志摩守惟長しまのかみこれなが(1490年-1560年)である[26]。小川蔵原家は阿蘇の名門・蔵原家をルーツとする旧家きゅうかであるが、いまは大きな屋敷跡の草におおわれた石垣だけが往時の栄華をしのばせている[4]1909年発行の『富貴要鑑』に、訓子の父・蔵原穆の名がある[27]。『富貴要鑑』は前年の高額所得者をリストアップしたものでこの年のみ発行されているが、中でも穆はかなり上位の所得者で[27]、小川町長を2回務めている[28][29]
  10. ^ 津田梅子成瀬仁蔵三輪田真佐子安部磯雄、棚橋絢子(私立東京高等女学校長)、蔵原惟郭山脇房子大隈重信嘉悦孝子下田歌子服部綾雄、荒川重秀(1891年創設当時の育英こう東京農業大学の前身)の教頭、札幌農学校の1期生)[30]、平山訓子の13名。訓子はこのとき満29歳。訓子以外は何れも教育界の重鎮で、13名の中で訓子は飛びぬけて若かった。
  11. ^ 訓子が執筆した第十六章は、次の文章で結んでいる。「...故に若し此等の人々にして、猶不平や不満やに閉されつつありとすれば、かい(隔たり)は此愛を握らないからであって、此愛を握り得る真境地に達することが出来れば、必らず境遇何ぞ運命何ぞと云ふ意気が湧き出て、笑って此世が渡れるかと思ひます。要するに私共は此清くして、貴き真の愛の境地をふまへることが肝要だと思ひます。」[31] 訓子の生きざまの一端が見える。しかし、これと前後して起きる渋川玄耳との恋愛事件とそれに続く玄児の離婚騒動が、訓子のその後の人生に暗い影を落としている[32]
  12. ^ 当時、有明堂は現在(2024年2月)の伊勢丹新宿店のはす向かいにあり[39]、与謝野晶子が出入りするなど文化人のサロンとして親しまれていた[32][8]。有明製菓を含め業績も好調だったようで、紳士録に訓子らの名がある[38][40][41]
  13. ^ ほかに、1922年戸塚町に出資金9000円(共同出資、訓子の出資金は3000円)で内外製菓を設立している[42]。これは投資目的だったようで翌1923年に資金を回収している[43]。また、後述の坂元雪鳥の追悼文[44]に「...緊要にしてしかも世に閑却されてゐる方面で、手をつけたい事業はかずかずその眼前に竝んで見えた...(中略)...若し爰に數年を假したなら、菓子屋有明堂の女将は忽ちに婦人界の闘將として打ち出でられるのであったと思ふと、親しい懐かしい小母さんを亡ったといふ私情の悲みに數倍する悼惜の念に堪へないものがある...」とある。訓子は有明製菓や有明堂を軸にして、事業を拡大したいという思いがあり、その根底には前述した「入社の辞」にあるように「優しくして鋭き婦人の斧を揮う」、という強い思いがあったのではないか。
  14. ^ かへるさ:帰りがけ。
  15. ^ 『歌集 有明』に一篇の詩が載せてある[45]。「『病める心臓』十二歳のとき 海水浴のかへるさ[注釈 14] はじめてお前が私に巣喰ふのを知った...(中略)...日向ぼっこの縁へ出て 静かに息を殺しながら 病めるお前を抱えてうららかな三日月を見て居る」、とある。前述したように、夫・八十五郎の心臓は「頗る発達した心臓」で、訓子のそれは「病める心臓」。足して2で割ったら、とも思うが皮肉なものである。
  16. ^ 史樹はその後、1934年4月1日から1936年8月10日まで和菓子の老舗・塩瀬総本家の代表取締役を務めている[46][47][48]。史樹は、東京帝国大学法科出身[49]で弁護士でもあるが、1936年9月15日に弁護士資格が失効している[50]ことから、退任事由は死亡と思われる。
  17. ^ 有明堂を引き継いだ時、春海は明治大学の学生であったが、のち松野鶴平との縁で鐘紡に入り静岡工場長を務め、妻・睦との間に三男三女をもうけた[52]。春海は、訓の死後、1930年まで店を守っていたようで、1931年の『大日本商工録』に営業税56円、所得税30円の記載がある[53]。以降有明堂についての記録は見当たらない。
  18. ^ 歌は全部で約270首あり時系列に並んでいる[54]。したがって、歌集は訓子の日記でもある。歌は、上京後の1908年に始まり1926年の辞世で終わっており、人生の後半の足跡を、和歌という形で残している。
  19. ^ 『明治大正歌書解題』には、「平山訓子遺稿」とあり、巻頭の歌とともに『詩歌集 有明』として紹介されている[55]
  20. ^ 坂元雪鳥は訓子より3、4歳ほど年上であるが、追悼文の中で、「小母さんと呼ぶのは、何處となく人を撫でしたがへる天性が自然に小母さんといふ風格を具へてゐたから、その風格に引きつけられて小母さんにしてしまった。それでも訓さんは小母さん貌をしたり、姉御づらをしたりする人ではなかった。察しがよくて氣が置けないながら、何處かに厳格さがあった。」と述懐している[44]。訓子は雪鳥について歌集の中で、「去年見しは日に背かれし君なりき いま見る君は日を抱く君」「その心かへ給ふなと母のごと 四つ年上の君に説く夕」(SS氏と語る)等と詠んでいる[56]。年上で名の知れた国文学者の雪鳥を「撫で順へる」訓子もそうだが、それを受容する雪鳥の人柄をしのばせる逸話である。

出典

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参考文献

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外部リンク