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「上遠野富之助」の版間の差分

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{{Infobox 人物
[[ファイル:上遠野富之助.jpg|サムネイル|上遠野富之助<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029144/3|title=上遠野富之助病中雑話|accessdate=2020.10.18|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>]]
|氏名=上遠野 富之助
[[File:KADONO Tominosuke's Grave 20170604-02.jpg|thumb|名古屋市天白区の八事霊園内の上遠野富之助の墓(2017年6月)]]
|ふりがな=かどの とみのすけ
'''上遠野 富之助'''(かどの とみのすけ、[[1859年]][[11月13日]]([[安政]]6年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[1928年]]([[昭和]]3年)[[5月26日]]<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E9%81%A0%E9%87%8E%E5%AF%8C%E4%B9%8B%E5%8A%A9-1066282 デジタル版 日本人名大辞典+Plus]</ref>)は、明治・大正期の実業家。名古屋商業会議所会頭、名古屋鉄道社長。
|画像=上遠野富之助.jpg
|画像サイズ=200px
|画像説明=肖像写真
|生年月日=[[1859年]][[11月13日]]([[安政]]6年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]])
|生誕地=[[出羽国]][[横手城]]下(現・[[秋田県]][[横手市]])
|没年月日=[[1928年]]([[昭和]]3年)[[5月26日]]・68歳没
|死没地=[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[南久屋町]]
|出身校=[[東京専門学校]]
|職業=[[実業家]]・[[名古屋市会]]議員
|栄誉=[[正六位]]勲四等
|親=上遠野群吾(実父)<br />上遠野実(養父)
|親戚=[[上遠野秀忠]](実兄)
}}
'''上遠野 富之助'''(かどの とみのすけ、[[1859年]][[11月13日]]〈[[安政]]6年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]〉 - [[1928年]]〈[[昭和]]3年〉[[5月26日]])は、[[明治]]から昭和初期にかけて活動した[[日本]]の[[実業家]]・[[政治家]]である。


[[秋田県]]出身ながら[[愛知県]][[名古屋市]]に移り名古屋財界で立身、[[名古屋商工会議所|名古屋商業会議所]]会頭や[[名古屋鉄道]]社長を務めた。政界では[[名古屋市会]]議員・同議長を歴任した。
== 人物 ==
[[出羽国]]横手の<ref name="kotobank"/>[[秋田藩]]士・上遠野群吾の二男として生まれる{{sfn|北見昌朗|2016|p=253}}<ref name=akitaji/>。[[秋田市立日新小学校|日新小学校]]の校長を経て、[[秋田改進党]]機関紙[[秋田日報]]の記者となった{{sfn|北見昌朗|2016|p=253}}。[[東京専門学校]]開学を知り、同校政治学科に学ぶ{{sfn|北見昌朗|2016|p=253}}。その間、[[報知新聞]]の記事執筆、[[東京府会]]の書記なども務める{{sfn|北見昌朗|2016|p=253}}。東京専門学校は[[1886年]](明治19年)に卒業{{sfn|北見昌朗|2016|p=253}}。名古屋財界の重鎮である[[奥田正香]]に認められ、[[名古屋商工会議所|名古屋商業会議所]]書記長に迎えられる{{sfn|北見昌朗|2016|p=254}}。[[1909年]](明治42年)には副会頭、[[1921年]]([[大正]]10年)には会頭となる{{sfn|北見昌朗|2016|p=254}}。その他、[[名古屋証券取引所|名古屋株式取引所]]理事、国際労働総会使用者代表も務めた{{sfn|北見昌朗|2016|p=254}}。


== 経歴 ==
[[1928年]]([[昭和]]3年)、胃がんで死去{{sfn|北見昌朗|2016|p=254}}。死後、遺言に従って、[[中区 (名古屋市)|中区]][[南久屋町]]の私邸が市に{{efn|『総合名古屋市年表 昭和編一』によれば、病床に就いていた上遠野が南久屋町の私邸を名古屋市長公舎として寄付したのは[[1928年]](昭和3年)5月18日のことであり、亡くなったのは同年5月26日のことである{{sfn|名古屋市会事務局|1964|p=154}}。}}、蔵書が名古屋商業会議所に寄付された{{sfn|北見昌朗|2016|p=254}}。
=== 前半生 ===
上遠野富之助は、[[安政]]6年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]](新暦:[[1859年]][[11月13日]])、[[出羽国]][[横手城]]下(現・[[秋田県]][[横手市]])に[[久保田藩|久保田]][[藩士]]上遠野群吾の次男として生まれた<ref name="senkaku-139">[[#senkaku|『秋田の先覚 2』]]139-149頁</ref>。実家上遠野家は代々[[剣術]]・[[槍術]]師範をつとめる家であり、実兄[[上遠野秀忠|秀忠]](幼名:馬之助)も剣術家となっている<ref name="senkaku-277">[[#senkaku|『秋田の先覚 2』]]277-292頁</ref>。一方で富之助は生まれて5か月で実子のいない伯父・上遠野実の[[養子縁組|養子]]に引き取られた<ref name="zatsuwa-1">[[#zatsuwa|『上遠野富之助病中雑話』]]1-5頁</ref>(養子だが[[戸籍]]上は豊の長男という扱い<ref name="senkaku-139"/>)。養父は久保田藩の[[儒学者]]で、初めは横手で暮らしたが[[藩校]]「[[明徳館 (久保田藩)|明徳館]]」で教えるべく久保田城下(現・[[秋田市]])へと移り住んだ<ref name="zatsuwa-1"/>。


上遠野は[[明治維新]]後も旧藩校で学び、卒業後は頼まれて教職に就いた<ref name="zatsuwa-1"/>。[[1876年]](明治9年)のことで、赴任先は[[新屋 (秋田市)|新屋]]の[[秋田市立日新小学校|日新学校]]である<ref name="senkaku-139"/>。[[1878年]](明治11年)1月からは同校の第3代校長を任されたが、翌[[1879年]](明治12年)5月職を辞して[[東京]]へ出、漢学者[[岡松甕谷]]の門に入った<ref name="senkaku-139"/>。[[1881年]](明治14年)に帰郷すると[[大久保鉄作]]率いる[[秋田改進党]]の機関紙「[[秋田魁新報|秋田日報]]」の記者となる<ref name="senkaku-139"/>。しかし[[1883年]](明治16年)夏に職を辞して再び上京、[[大隈重信]]の[[東京専門学校]]([[早稲田大学]]の前身)に入学する<ref name="senkaku-139"/>。[[1886年]](明治19年)に卒業した後は在学中から議事録作成を手伝っていた[[東京都議会|東京府会]]に職を得るが、8か月ほどで同じく在学中から手伝っていた[[報知新聞]]に移り再び新聞記者となった<ref>[[#zatsuwa|『上遠野富之助病中雑話』]]10-17頁</ref>。
== 初代神野金之助との関係 ==
初代[[神野金之助 (初代)|神野金之助]]が経営する明治銀行や[[名古屋電気鉄道]]の役員も務め、[http://www.fukkatu-nagoya.com/sumiyoshi-kataribe/vol90.html 南久屋町の私邸は初代神野金之助の私邸は隣通し]で二人は公私ともに親密な関係であった。


=== 名古屋財界入り ===
初代神野金之助は危篤に際し特旨をもて従五位に陞叙せられた<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1705146/180?viewMode=|title=開校廿周年記念東三河産業功労者伝(神野金之助)|accessdate=2020.10.19|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>が、[https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000049975&ID=M0000000000000342222&TYPE=&NO= これは大正11年2月19日に明治銀行の頭取であった大三輪奈良太郎と連名で特旨を願い出て認められたためである。なお通説では初代神野金之助は生涯「ジンノ」姓であると言われているが、特旨を願い出した電報には「カミノ」姓となっている。]側近中の側近の二人が姓を間違える訳もなく、初代神野金之助が亡くなる前に「カミノ」姓に改称していたことになる。
[[ファイル:Okuda Masaka.jpg|thumb|upright|上遠野を名古屋に招いた[[奥田正香]]]]


報知新聞記者を続けていた上遠野だが、自伝によると[[1892年]](明治25年)頃から転職を考えるようになったという<ref name="zatsuwa-26">[[#zatsuwa|『上遠野富之助病中雑話』]]26-31頁</ref>。そうした折、会社の[[矢野龍渓]]に呼び出され、上京中の[[奥田正香]]を紹介された<ref name="zatsuwa-26"/>。奥田は[[味噌]]・[[醤油]]製造で財を成して[[1893年]](明治26年)より名古屋商業会議所(後の[[名古屋商工会議所]])会頭と[[名古屋株式取引所]]理事長を兼ねた名古屋の大物実業家である<ref>[[#hayashi|林董一『名古屋商人史』]]418-425頁</ref>。上遠野は奥田のすすめで名古屋商業会議所に書記長として勤めることとなり、1893年7月、[[愛知県]][[名古屋市]]へと移住した<ref name="zatsuwa-26"/>。
== 明治銀行の経営に参加 ==
1896年(明治29年)8月に初代[[神野金之助 (初代)|神野金之助]]、奥田正香など名古屋の新興財閥が中心となって設立され、1898年(明治31年)1月に初代神野金之助が頭取となった。明治41年に経済悪化の影響を受け、上遠野富之助を常務取締役に取り立てられ経営の改善を図った。<ref>{{Cite book|title=神野金之助重行|date=2020.10.19|year=1940|publisher=神野金之助翁伝記編纂会}}</ref>大正3年5月に北濱銀行の破綻により取り付け騒ぎが発生し、対応策として上遠野富之助が常務取締役退任、大三輪奈良太郎が後任となった。その後初代金之助は大正4年に大三輪奈良太郎を副頭取にし、翌大正5年末に頭取を辞任した。<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955846/99|title=東京名古屋現代人物誌(大三輪奈良太郎)|accessdate=2020.10.19|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>


名古屋財界入りした上遠野は奥田の腹心、通称「四天王」の一人(他の3人は[[鈴木摠兵衛 (8代目)|鈴木摠兵衛]]・[[兼松煕]]・[[安東敏之]])として活動し名古屋財界での地盤を築いた<ref>[[#hayashi|林董一『名古屋商人史』]]425-426頁</ref>。初期に上遠野が関係した会社は名古屋株式取引所と鉄道車両メーカーの[[日本車輌製造]]である。名古屋株式取引所では[[1897年]](明治30年)1月理事に選出され、以後[[1908年]](明治41年)1月まで11年にわたり在任した<ref>[[#meikabu|『株式会社名古屋株式取引所史』]]255-257頁</ref>。日本車輌製造においては、奥田の依頼で設立に向け目論見書を作成したことが関係の発端で、発起人や会社設立時(1896年)の役員にはならなかったが1897年7月常務取締役に選ばれ、複数社に関わり多忙な社長の奥田を支える立場となった<ref>[[#nissha|『驀進 日本車輛80年のあゆみ』]]12-13・17頁</ref>。一方で商業会議所書記長の職は1897年3月に退いたが<ref name="senkaku-139"/>、[[1901年]](明治34年)5月に初めて同所の役員(工業副部長)に選ばれた<ref name="cci-257">[[#cci50|『名古屋商工会議所五十年史』]]257-260頁</ref>。商業会議所では[[1905年]](明治38年)4月に工業部長へ異動したのち、[[1909年]](明治42年)4月には副会頭に選ばれている<ref name="cci-257"/>。
== 名古屋電気鉄道の経営に参加 ==
名古屋電気鉄道は名古屋鉄道の前身であり、初代神野金之助は1894年(明治27年)の設立から係わり、初代取締役社長は甥の富田重助が就任する。神野金之助も1910年(明治43年)6月に取締役社長に就任する。1914年(大正3年)9月の電車焼討事件の責任を取り、神野金之助は相談役に退き、上遠野富之助が常務取締役に、甥の富田重助が社長に再任された<ref>{{Cite book|title=神野金之助重行|date=1940|year=|publisher=神野金之助翁伝記編纂会}}</ref>。上遠野富之助は1925年(大正14年)10月に社長に就任する。<ref>{{Cite book|title=上遠野富之助病中雑話|date=昭和3年|year=|publisher=上遠野亮三}}</ref>


1905年1月、上遠野は明治銀行の[[監査役]]に選ばれた<ref>「[{{NDLDC|2949810/22}} 商業登記 株式会社明治銀行登記事項変更]」『[[官報]]』第6480号、1905年2月8日</ref>。明治銀行は奥田や名古屋の大地主[[神野金之助 (初代)|初代神野金之助]]らが1896年に起こした銀行である<ref>[[#hayashi|林董一『名古屋商人史』]]381-385頁</ref>。銀行が[[日露戦争]]後の恐慌で経営不振に陥った1908年1月、上遠野は常務取締役に取り立てられ(当時の頭取は神野金之助)、業務の整理改善を任された<ref name="kamino-232">[[#kamino|『神野金之助重行』]]232-241頁</ref>。翌1909年には神野や[[伊藤祐民|伊藤守松]]とともに[[渋沢栄一]]を団長とする「渡米実業団」に参加し、[[アメリカ合衆国]]各地を視察した<ref>[[#zatsuwa|『上遠野富之助病中雑話』]]44-49頁</ref><ref>{{Cite web |title=渡米実業団|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団 |url=https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/1909/index.html |website=www.shibusawa.or.jp |access-date=2023-08-26}}</ref>。帰国後の[[1910年]](明治43年)10月、常務を務める日本車輌製造で奥田の後任として第2代社長に昇格する<ref name="nissha-41">[[#nissha|『驀進 日本車輛80年のあゆみ』]]41-43頁</ref>。しかしながら業界不振と[[名古屋銀行 (東海銀行の前身)|名古屋銀行]]関係者による株式買収のため8か月後の[[1911年]](明治44年)6月に取締役社長を辞任し、同社との関係を断った<ref name="nissha-41"/>。
== 名古屋無電放送の設立に携わる ==

1924年(大正13年)に二代[[神野金之助 (2代目)|神野金之助]]を発起人として[[NHK名古屋放送局]]の前身である名古屋無電放送の設立に尽力した。翌1925年(大正14年)に認可・設立となり、上遠野富之助は理事を務め二代神野金之助は理事長<ref>{{Cite web|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018799/201|title=ラヂオ年鑑. 1926年度|accessdate=2020.10.18|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>となった。同年7月の本放送開始は「JOCK、名古屋放送局であります」という第一声と共に始まり神野理事長の祝辞や君が代の奏楽、上遠野富之助会頭の祝詞などが、ラジオを通じて伝えられた。<ref>{{Cite web|url=https://history.nagoya-cci.or.jp/meiji/h8.html|title=大正14年(1925)名古屋放送局の開局|accessdate=2020.10.19|publisher=名古屋商工会議所}}</ref>
上記会社の他には、名古屋の電力会社[[名古屋電灯]]で[[1898年]](明治31年)3月監査役に就任、[[1904年]](明治37年)1月からは取締役に転じて[[1906年]](明治39年)5月まで在任した<ref name="meiden-235">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]235-237頁</ref>。電気事業では続いて奥田正香や兼松煕らが主導する[[名古屋電力]]の設立に参画、日本車輌製造を代表して発起人に加わり、1906年10月の会社設立とともに取締役兼営業部長に就いた<ref name="meiden-177">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]177-183頁</ref>。同社は[[木曽川]]で[[八百津発電所]]の工事を進めたが<ref name="meiden-177"/>、未開業のまま1910年10月に名古屋電灯へと吸収された<ref name="meiden-166">[[#meiden|『名古屋電燈株式會社史』]]166-177頁</ref>。この合併に伴い同年11月より兼松らと名古屋電灯取締役に転じ<ref name="meiden-166"/>、その後[[1912年]](明治45年)12月まで務めた<ref name="meiden-235"/>。また1906年11月、奥田を社長としてガス会社[[名古屋瓦斯]]([[東邦ガス]]の前身)が発足すると同社に監査役として入った<ref>[[#tohogas|『社史 東邦瓦斯株式会社』]]17-20頁</ref>。こちらは名古屋瓦斯が[[東邦電力]](名古屋電灯の後身)に吸収される[[1922年]](大正11年)6月まで長きにわたり務めている<ref>[[#tohogas|『社史 東邦瓦斯株式会社』]]315頁</ref>。

=== 名古屋市政での活動 ===
上遠野は実業界進出の傍ら[[名古屋市会]]議員として名古屋市制にも参画した<ref name="senkaku-139"/>。市会議員には1901年10・11月実施の第5回選挙で初当選<ref>[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]335-338頁</ref>。6年の任期を全うしたのち[[1907年]](明治40年)10・11月実施の第7回選挙で再選される<ref>[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]341-345頁</ref>。この間、1905年1月から1909年1月にかけて市会議員の互選で市会議長に選ばれている<ref>[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]578-579頁</ref>。

1911年10月、市会議員の互選で今度は市参事会の構成員たる名誉職市参事会員に選ばれ、[[1913年]](大正2年)11月にかけて務めた<ref>[[#shikai1|『名古屋市会史』第一巻]]566頁</ref>。同年10月実施の第9回市会議員選挙で3度目の当選を果たすが、任期途中の[[1915年]](大正4年)2月に市会議員を辞職した<ref>[[#shikai3|『名古屋市会史』第一巻]]349-353頁</ref>。辞任に際し、長年の功労を表彰して議長の名をもって市会から感謝状が贈られている<ref>[[#shikai3|『名古屋市会史』第三巻]]709-712頁</ref>。

その後[[1917年]](大正6年)になり、[[阪本釤之助]]の後任名古屋市長に名が挙がり市会の互選で第三候補者に立てられたが、第一候補者の[[佐藤孝三郎]]が任命されたため上遠野が市長に就くことはなかった<ref>[[#shikai3|『名古屋市会史』第三巻]]1167-1175頁</ref>。

=== 名古屋電気鉄道の経営 ===
上遠野を名古屋財界に引き入れた奥田正香は、1913年10月に遊廓移転をめぐる汚職事件([[稲永疑獄]])が発覚し周辺人物が相次ぎ検挙されたことで引退を決め、財界から去っていった<ref>[[#hayashi|林董一『名古屋商人史』]]428頁</ref>。しかし上遠野本人は奥田グループの没落を他所に神野金之助のグループへと鞍替えし、名古屋財界での地位を維持することに成功した<ref name="nagae">[[#nagae|長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』]]90-93頁</ref>。なお上遠野は神野や奥田の勧めで1913年7月に新居(名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]][[南久屋町]]1丁目3番地<ref name="senkaku-139"/>)を建てたが、ここは神野邸の隣家であった<ref>[[#zatsuwa|『上遠野富之助病中雑話』]]54・62頁</ref>。

上遠野は神野系企業においては上記の通り1908年より明治銀行の常務取締役であった。しかし[[1914年]](大正3年)8月、名古屋にも支店を持っていた大阪[[北浜銀行]]の破綻を契機に[[取り付け騒ぎ]]が発生<ref name="kamino-232"/>。明治銀行では善後策として[[日本銀行]]から大三輪奈良太郎を常務取締役に迎えると決め、同年10月上遠野は取り付け騒ぎの引責という形で常務を辞して大三輪に譲った<ref name="kamino-232"/>。明治銀行常務から退いた上遠野は次いで[[名古屋電気鉄道]]に移った<ref name="nagae"/>。この名古屋電気鉄道は名古屋市内の[[路面電車]](市内線)と郊外の鉄道路線(郡部線)を運営していた鉄道事業者である。1908年から1910年にかけて神野金之助の甥[[富田重助]]が、1910年以後は神野自身が社長を務めていた<ref>[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]50-51・133頁</ref>。上遠野と名古屋電気鉄道の関わりは1910年12月の取締役就任を発端とする<ref name="meitetsu-120">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]120-121頁</ref>。1914年9月に運賃値下げ問題が原因で[[電車焼き討ち事件]]が発生し、同年11月に創業者[[岡本清三]]が常務取締役を引責辞任すると、上遠野が後任常務に昇格した<ref name="meitetsu-71">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]71-77頁</ref>。

1915年12月、運賃問題の善後処理が終わったことで神野金之助は富田重助に社長の座を譲った<ref name="meitetsu-71"/>。以後、名古屋電気鉄道は社長の富田と常務の上遠野に[[支配人]]の[[跡田直一]]を加えた3人が経営の中心を担う体制となっている<ref name="meitetsu-71"/>。上遠野が参画した時期の名古屋電気鉄道は焼き討ち事件発生で当初予定よりも運賃を引き下げたために業績不振に陥っていたが、間もなく[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]が起こると回復に向かった<ref name="meitetsu-71"/>。

[[1920年]](大正9年)7月、富田と上遠野は当時の名古屋市長佐藤孝三郎に呼び出され、名古屋電気鉄道市内線の市営化を正式に提起された<ref name="meitetsu-81">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]81-98頁</ref>。会社側では重役会で1か月にわたって議論した末に市に対して市内線市営化に応ずる旨を回答する<ref name="meitetsu-81"/>。これにより市と会社の間で市営化交渉が始まるが、一旦決まった譲渡価格が市会で減額されたため交渉は長期化した<ref name="meitetsu-81"/>。交渉の途上、市営化が予定される市内線を名古屋電気鉄道に残して郊外路線(郡部線)は新会社に移すことが決定される<ref name="meitetsu-99">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]99-103頁</ref>。上遠野は新会社の発起人総代として設立に携わり、[[1921年]](大正10年)7月1日、新会社・[[名古屋鉄道]](名鉄)が発足すると初代常務取締役に就任した(社長は富田重助)<ref name="meitetsu-99"/>。一方、市内線の市営化交渉は同年10月に決着し、翌1922年8月1日をもって名古屋電気鉄道から名古屋市への市内線事業引継ぎが実行に移され「[[名古屋市電]]」が開業、同時に名古屋電気鉄道は[[解散]]した<ref name="meitetsu-81"/>。

=== 商工会議所会頭に就任 ===
[[ファイル:KADONO Tominosuke's Grave 20170604-02.jpg|thumb|upright|[[八事霊園]]内にある墓(2017年6月)]]

1921年1月8日、上遠野は1909年以来副会頭を務める名古屋商業会議所において鈴木摠兵衛の後任として会頭に就任した<ref name="cci50-262">[[#cci50|『名古屋商工会議所五十年史』]]262-265頁</ref>。在任中の[[1924年]](大正13年)4月、政府より[[スイス]]・[[ジュネーヴ]]で開かれる第6回国際労働総会([[国際労働機関]] (IOL) 総会)の使用者代表委員に指名された<ref>「[{{NDLDC|2955639/5}} 彙報 代表委員・代表委員顧問指名]」『[[官報]]』第3491号、1924年4月16日</ref>。これは[[商業会議所連合会]]からの推薦による<ref name="zatsuwa-65">[[#zatsuwa|『上遠野富之助病中雑話』]]65-95頁</ref>。4月中に出国し、総会に出席したのち[[イタリア]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[イギリス]]などを旅行しアメリカ経由で同年10月帰国した<ref name="zatsuwa-65"/>。

1922年2月、神野金之助が死去した。同年6月、神野が関わった会社のうち大手紡績会社東洋紡績(現・[[東洋紡]])の監査役に神野の後任として入っている<ref name="toyobo">[[#toyobo|『東洋紡績七十年史』]]641-643頁</ref>。また上遠野は神野家の後継者となった[[神野金之助 (2代目)|2代神野金之助]]とも事業を共にし、[[NHK名古屋放送局]]の前身である社団法人名古屋放送局の設立に関係した。放送事業への関与は2代神野金之助の相談に乗って「名古屋無電放送株式会社」の出願に加わったことに始まる<ref>[[#jock|『名古屋放送局沿革史』]]208-210頁</ref>。その後競願者をまとめて社団法人名古屋放送局を立ち上げることが決まると上遠野は創立委員の一人に選ばれる<ref>[[#jock|『名古屋放送局沿革史』]]8-9頁</ref>。[[1925年]](大正14年)1月に法人の役員選挙があり、上遠野は代表理事に推された<ref>[[#jock|『名古屋放送局沿革史』]]15-16・18頁</ref>。同年7月15日の[[ラジオ放送]]開始に際しては上遠野も開局式に参加し、理事長神野金之助の式辞などに続いて上遠野も商業会議所会頭として祝詞を放送で読み上げている<ref>[[#jock|『名古屋放送局沿革史』]]40-43頁</ref>。翌[[1926年]](大正15年)8月、東京・大阪両放送局との統合で[[日本放送協会|社団法人日本放送協会]]が発足すると同法人の本部理事および東海支部理事に転じた<ref>[[#jock|『名古屋放送局沿革史』]]98-99頁</ref>。

1921年から常務取締役を務める名古屋鉄道においては、1925年10月、初代社長富田重助が健康を理由に辞職したため上遠野が第2代社長に昇格した<ref name="meitetsu-108">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]108頁</ref>。常務の後任には取締役兼支配人の跡田直一が昇格している<ref name="meitetsu-108"/>。名古屋鉄道では新体制発足後も新線建設や周辺私鉄の統合など積極経営路線を継続した<ref name="meitetsu-108"/>。[[1927年]](昭和2年)11月、[[昭和天皇]]の[[犬山市|犬山]][[行幸]]に際して名古屋鉄道で[[お召し列車]]が運行された<ref name="meitetsu-116">[[#meitetsu|『名古屋鉄道社史』]]116-121頁</ref>。このお召し列車に同乗した上遠野は名古屋鉄道の経営に専念すると決意し、行幸終了直後に名古屋商業会議所会頭を辞職した<ref name="meitetsu-116"/>。商業会議所ではその後特別議員に選ばれ、[[1928年]](昭和3年)の名古屋商工会議所への改組後は顧問に推された<ref name="cci50-262"/>。

1928年5月になると[[胃癌]]の病状が悪化し<ref name="meitetsu-116"/>、[[5月26日]]午前10時、南久屋町の自邸にて死去した<ref>「上遠野翁逝く」『[[東京朝日新聞]]』1928年5月27日朝刊4頁</ref>。68歳没。葬儀は31日に[[建中寺]]にて行われた<ref name="meitetsu-116"/>。名古屋鉄道取締役社長在任中の死であり、死後、同社では富田重助が社長に再任された<ref name="meitetsu-116"/>。名古屋鉄道以外にも明治銀行取締役や東洋紡績監査役、日本放送協会理事在任中であった<ref name="toyobo"/><ref>「[{{NDLDC|2956943/10}} 商業登記 株式会社明治銀行変更]」『官報』第482号、1928年8月4日</ref><ref>「[{{NDLDC|2957095/14}} 法人登記 社団法人日本放送協会変更]」『官報』第629号、1929年2月5日</ref>。なお死期を悟った上遠野は生前、自邸を名古屋市へ寄付し、蔵書を名古屋商工会議所に寄贈(「上遠野文庫」と命名)していた<ref name="meitetsu-116"/>。南久屋町の旧邸はその後名古屋市長公舎として利用されたが、[[太平洋戦争]]後の戦後復興で道路用地となり現存しない<ref name="senkaku-139"/>。


== 著作 ==
== 著作 ==
* {{Cite book |和書 |title=上遠野富之助病中雑話 |date=1928-07 |publisher=上遠野亮三 |id={{全国書誌番号|44010592}} |ncid=BB06086236}}
* {{Cite book |和書 |title=上遠野富之助病中雑話 |date=1928-07 |publisher=上遠野亮三 |id={{全国書誌番号|44010592}} |ncid=BB06086236}} - 病床で口述した自伝

== 栄典 ==
* 1924年2月21日 - [[正六位]]に叙される<ref>「[{{NDLDC|2955587/4}} 授爵叙任及辞令]」『官報』第3439号、1924年2月13日</ref>。
* 1928年5月26日 - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]受章<ref>「[{{NDLDC|2956885/5}} 叙任及辞令]」『官報』第424号、1928年5月29日</ref>。


== 親族 ==
== 家族・親族 ==
* 兄 [[上遠野秀忠]](武術家<ref name=akitaji>『秋田人名大事典(第二版)』166頁。</ref>
* [[上遠野秀忠]](1854 - 1933年) - 剣術・槍術家<ref name="senkaku-277"/>
* 長男:上遠野亮三(1879年生) - 電気技術者、[[東洋電機製造]]第3代社長(1939年就任)<ref>[[#jinteki|『人的事業大系』製作工業篇(下)]]329頁</ref><ref name="koshin8">[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]カ121頁</ref>
** 亮三の妻アキは建築家[[曽禰達蔵]]の次女<ref name="koshin8"/>
* 次男:上遠野孝(1881年生) - 実業家、名古屋財界での地盤を父から引き継ぐ<ref>[[#hayakawa|早川北汀『中京現代人物評伝 弐』]]98-101頁</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=名古屋市会事務局|title=総合名古屋市年表 昭和編 一|year=1964|date=1964-11-25|language=ja|publisher=名古屋市会事務局|id={{全国書誌番号|49011383}}|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=上遠野富之助病中雑話 |publisher=上遠野亮三 |year=1928 |month=7 |id={{NDLJP|1029144}} |ref=zatsuwa }}
* {{Cite book|和書|editor=秋田県総務部秘書広報課 |title=秋田の先覚 2 近代秋田をつちかった人びと |publisher=秋田県 |year=1969 |id={{NDLJP|2972961}} |ref=senkaku }}
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* {{Cite book|和書|author=松下伝吉 |title=人的事業大系 |issue=製作工業篇(下)|publisher=中外産業調査会 |year=1940 |id={{NDLJP|1244472}} |ref=jinteki }}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|上遠野富之助}}
* {{Kotobank|上遠野 富之助}}
* [https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-6371 上遠野富之助 (第8版)] - 『人事興信録』データベース
* [https://www.nagoya-rekishi.com/taisho/1921/nagoya2.html 上遠野富之助が名古屋商業会議所の会頭に就任] - 愛知千年企業
* [https://www.nagoya-rekishi.com/taisho/1921/nagoya2.html 上遠野富之助が名古屋商業会議所の会頭に就任] - 愛知千年企業


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かどの とみのすけ

上遠野 富之助
肖像写真
生誕 1859年11月13日安政6年10月19日
出羽国横手城下(現・秋田県横手市
死没 1928年昭和3年)5月26日・68歳没
名古屋市中区南久屋町
出身校 東京専門学校
職業 実業家名古屋市会議員
上遠野群吾(実父)
上遠野実(養父)
親戚 上遠野秀忠(実兄)
栄誉 正六位勲四等
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上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日安政6年10月19日〉 - 1928年昭和3年〉5月26日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本実業家政治家である。

秋田県出身ながら愛知県名古屋市に移り名古屋財界で立身、名古屋商業会議所会頭や名古屋鉄道社長を務めた。政界では名古屋市会議員・同議長を歴任した。

経歴

前半生

上遠野富之助は、安政6年10月19日(新暦:1859年11月13日)、出羽国横手城下(現・秋田県横手市)に久保田藩士上遠野群吾の次男として生まれた[1]。実家上遠野家は代々剣術槍術師範をつとめる家であり、実兄秀忠(幼名:馬之助)も剣術家となっている[2]。一方で富之助は生まれて5か月で実子のいない伯父・上遠野実の養子に引き取られた[3](養子だが戸籍上は豊の長男という扱い[1])。養父は久保田藩の儒学者で、初めは横手で暮らしたが藩校明徳館」で教えるべく久保田城下(現・秋田市)へと移り住んだ[3]

上遠野は明治維新後も旧藩校で学び、卒業後は頼まれて教職に就いた[3]1876年(明治9年)のことで、赴任先は新屋日新学校である[1]1878年(明治11年)1月からは同校の第3代校長を任されたが、翌1879年(明治12年)5月職を辞して東京へ出、漢学者岡松甕谷の門に入った[1]1881年(明治14年)に帰郷すると大久保鉄作率いる秋田改進党の機関紙「秋田日報」の記者となる[1]。しかし1883年(明治16年)夏に職を辞して再び上京、大隈重信東京専門学校早稲田大学の前身)に入学する[1]1886年(明治19年)に卒業した後は在学中から議事録作成を手伝っていた東京府会に職を得るが、8か月ほどで同じく在学中から手伝っていた報知新聞に移り再び新聞記者となった[4]

名古屋財界入り

上遠野を名古屋に招いた奥田正香

報知新聞記者を続けていた上遠野だが、自伝によると1892年(明治25年)頃から転職を考えるようになったという[5]。そうした折、会社の矢野龍渓に呼び出され、上京中の奥田正香を紹介された[5]。奥田は味噌醤油製造で財を成して1893年(明治26年)より名古屋商業会議所(後の名古屋商工会議所)会頭と名古屋株式取引所理事長を兼ねた名古屋の大物実業家である[6]。上遠野は奥田のすすめで名古屋商業会議所に書記長として勤めることとなり、1893年7月、愛知県名古屋市へと移住した[5]

名古屋財界入りした上遠野は奥田の腹心、通称「四天王」の一人(他の3人は鈴木摠兵衛兼松煕安東敏之)として活動し名古屋財界での地盤を築いた[7]。初期に上遠野が関係した会社は名古屋株式取引所と鉄道車両メーカーの日本車輌製造である。名古屋株式取引所では1897年(明治30年)1月理事に選出され、以後1908年(明治41年)1月まで11年にわたり在任した[8]。日本車輌製造においては、奥田の依頼で設立に向け目論見書を作成したことが関係の発端で、発起人や会社設立時(1896年)の役員にはならなかったが1897年7月常務取締役に選ばれ、複数社に関わり多忙な社長の奥田を支える立場となった[9]。一方で商業会議所書記長の職は1897年3月に退いたが[1]1901年(明治34年)5月に初めて同所の役員(工業副部長)に選ばれた[10]。商業会議所では1905年(明治38年)4月に工業部長へ異動したのち、1909年(明治42年)4月には副会頭に選ばれている[10]

1905年1月、上遠野は明治銀行の監査役に選ばれた[11]。明治銀行は奥田や名古屋の大地主初代神野金之助らが1896年に起こした銀行である[12]。銀行が日露戦争後の恐慌で経営不振に陥った1908年1月、上遠野は常務取締役に取り立てられ(当時の頭取は神野金之助)、業務の整理改善を任された[13]。翌1909年には神野や伊藤守松とともに渋沢栄一を団長とする「渡米実業団」に参加し、アメリカ合衆国各地を視察した[14][15]。帰国後の1910年(明治43年)10月、常務を務める日本車輌製造で奥田の後任として第2代社長に昇格する[16]。しかしながら業界不振と名古屋銀行関係者による株式買収のため8か月後の1911年(明治44年)6月に取締役社長を辞任し、同社との関係を断った[16]

上記会社の他には、名古屋の電力会社名古屋電灯1898年(明治31年)3月監査役に就任、1904年(明治37年)1月からは取締役に転じて1906年(明治39年)5月まで在任した[17]。電気事業では続いて奥田正香や兼松煕らが主導する名古屋電力の設立に参画、日本車輌製造を代表して発起人に加わり、1906年10月の会社設立とともに取締役兼営業部長に就いた[18]。同社は木曽川八百津発電所の工事を進めたが[18]、未開業のまま1910年10月に名古屋電灯へと吸収された[19]。この合併に伴い同年11月より兼松らと名古屋電灯取締役に転じ[19]、その後1912年(明治45年)12月まで務めた[17]。また1906年11月、奥田を社長としてガス会社名古屋瓦斯東邦ガスの前身)が発足すると同社に監査役として入った[20]。こちらは名古屋瓦斯が東邦電力(名古屋電灯の後身)に吸収される1922年(大正11年)6月まで長きにわたり務めている[21]

名古屋市政での活動

上遠野は実業界進出の傍ら名古屋市会議員として名古屋市制にも参画した[1]。市会議員には1901年10・11月実施の第5回選挙で初当選[22]。6年の任期を全うしたのち1907年(明治40年)10・11月実施の第7回選挙で再選される[23]。この間、1905年1月から1909年1月にかけて市会議員の互選で市会議長に選ばれている[24]

1911年10月、市会議員の互選で今度は市参事会の構成員たる名誉職市参事会員に選ばれ、1913年(大正2年)11月にかけて務めた[25]。同年10月実施の第9回市会議員選挙で3度目の当選を果たすが、任期途中の1915年(大正4年)2月に市会議員を辞職した[26]。辞任に際し、長年の功労を表彰して議長の名をもって市会から感謝状が贈られている[27]

その後1917年(大正6年)になり、阪本釤之助の後任名古屋市長に名が挙がり市会の互選で第三候補者に立てられたが、第一候補者の佐藤孝三郎が任命されたため上遠野が市長に就くことはなかった[28]

名古屋電気鉄道の経営

上遠野を名古屋財界に引き入れた奥田正香は、1913年10月に遊廓移転をめぐる汚職事件(稲永疑獄)が発覚し周辺人物が相次ぎ検挙されたことで引退を決め、財界から去っていった[29]。しかし上遠野本人は奥田グループの没落を他所に神野金之助のグループへと鞍替えし、名古屋財界での地位を維持することに成功した[30]。なお上遠野は神野や奥田の勧めで1913年7月に新居(名古屋市中区南久屋町1丁目3番地[1])を建てたが、ここは神野邸の隣家であった[31]

上遠野は神野系企業においては上記の通り1908年より明治銀行の常務取締役であった。しかし1914年(大正3年)8月、名古屋にも支店を持っていた大阪北浜銀行の破綻を契機に取り付け騒ぎが発生[13]。明治銀行では善後策として日本銀行から大三輪奈良太郎を常務取締役に迎えると決め、同年10月上遠野は取り付け騒ぎの引責という形で常務を辞して大三輪に譲った[13]。明治銀行常務から退いた上遠野は次いで名古屋電気鉄道に移った[30]。この名古屋電気鉄道は名古屋市内の路面電車(市内線)と郊外の鉄道路線(郡部線)を運営していた鉄道事業者である。1908年から1910年にかけて神野金之助の甥富田重助が、1910年以後は神野自身が社長を務めていた[32]。上遠野と名古屋電気鉄道の関わりは1910年12月の取締役就任を発端とする[33]。1914年9月に運賃値下げ問題が原因で電車焼き討ち事件が発生し、同年11月に創業者岡本清三が常務取締役を引責辞任すると、上遠野が後任常務に昇格した[34]

1915年12月、運賃問題の善後処理が終わったことで神野金之助は富田重助に社長の座を譲った[34]。以後、名古屋電気鉄道は社長の富田と常務の上遠野に支配人跡田直一を加えた3人が経営の中心を担う体制となっている[34]。上遠野が参画した時期の名古屋電気鉄道は焼き討ち事件発生で当初予定よりも運賃を引き下げたために業績不振に陥っていたが、間もなく大戦景気が起こると回復に向かった[34]

1920年(大正9年)7月、富田と上遠野は当時の名古屋市長佐藤孝三郎に呼び出され、名古屋電気鉄道市内線の市営化を正式に提起された[35]。会社側では重役会で1か月にわたって議論した末に市に対して市内線市営化に応ずる旨を回答する[35]。これにより市と会社の間で市営化交渉が始まるが、一旦決まった譲渡価格が市会で減額されたため交渉は長期化した[35]。交渉の途上、市営化が予定される市内線を名古屋電気鉄道に残して郊外路線(郡部線)は新会社に移すことが決定される[36]。上遠野は新会社の発起人総代として設立に携わり、1921年(大正10年)7月1日、新会社・名古屋鉄道(名鉄)が発足すると初代常務取締役に就任した(社長は富田重助)[36]。一方、市内線の市営化交渉は同年10月に決着し、翌1922年8月1日をもって名古屋電気鉄道から名古屋市への市内線事業引継ぎが実行に移され「名古屋市電」が開業、同時に名古屋電気鉄道は解散した[35]

商工会議所会頭に就任

八事霊園内にある墓(2017年6月)

1921年1月8日、上遠野は1909年以来副会頭を務める名古屋商業会議所において鈴木摠兵衛の後任として会頭に就任した[37]。在任中の1924年(大正13年)4月、政府よりスイスジュネーヴで開かれる第6回国際労働総会(国際労働機関 (IOL) 総会)の使用者代表委員に指名された[38]。これは商業会議所連合会からの推薦による[39]。4月中に出国し、総会に出席したのちイタリアフランスドイツイギリスなどを旅行しアメリカ経由で同年10月帰国した[39]

1922年2月、神野金之助が死去した。同年6月、神野が関わった会社のうち大手紡績会社東洋紡績(現・東洋紡)の監査役に神野の後任として入っている[40]。また上遠野は神野家の後継者となった2代神野金之助とも事業を共にし、NHK名古屋放送局の前身である社団法人名古屋放送局の設立に関係した。放送事業への関与は2代神野金之助の相談に乗って「名古屋無電放送株式会社」の出願に加わったことに始まる[41]。その後競願者をまとめて社団法人名古屋放送局を立ち上げることが決まると上遠野は創立委員の一人に選ばれる[42]1925年(大正14年)1月に法人の役員選挙があり、上遠野は代表理事に推された[43]。同年7月15日のラジオ放送開始に際しては上遠野も開局式に参加し、理事長神野金之助の式辞などに続いて上遠野も商業会議所会頭として祝詞を放送で読み上げている[44]。翌1926年(大正15年)8月、東京・大阪両放送局との統合で社団法人日本放送協会が発足すると同法人の本部理事および東海支部理事に転じた[45]

1921年から常務取締役を務める名古屋鉄道においては、1925年10月、初代社長富田重助が健康を理由に辞職したため上遠野が第2代社長に昇格した[46]。常務の後任には取締役兼支配人の跡田直一が昇格している[46]。名古屋鉄道では新体制発足後も新線建設や周辺私鉄の統合など積極経営路線を継続した[46]1927年(昭和2年)11月、昭和天皇犬山行幸に際して名古屋鉄道でお召し列車が運行された[47]。このお召し列車に同乗した上遠野は名古屋鉄道の経営に専念すると決意し、行幸終了直後に名古屋商業会議所会頭を辞職した[47]。商業会議所ではその後特別議員に選ばれ、1928年(昭和3年)の名古屋商工会議所への改組後は顧問に推された[37]

1928年5月になると胃癌の病状が悪化し[47]5月26日午前10時、南久屋町の自邸にて死去した[48]。68歳没。葬儀は31日に建中寺にて行われた[47]。名古屋鉄道取締役社長在任中の死であり、死後、同社では富田重助が社長に再任された[47]。名古屋鉄道以外にも明治銀行取締役や東洋紡績監査役、日本放送協会理事在任中であった[40][49][50]。なお死期を悟った上遠野は生前、自邸を名古屋市へ寄付し、蔵書を名古屋商工会議所に寄贈(「上遠野文庫」と命名)していた[47]。南久屋町の旧邸はその後名古屋市長公舎として利用されたが、太平洋戦争後の戦後復興で道路用地となり現存しない[1]

著作

  • 『上遠野富之助病中雑話』上遠野亮三、1928年7月。 NCID BB06086236全国書誌番号:44010592  - 病床で口述した自伝

栄典

家族・親族

  • 実兄:上遠野秀忠(1854 - 1933年) - 剣術・槍術家[2]
  • 長男:上遠野亮三(1879年生) - 電気技術者、東洋電機製造第3代社長(1939年就任)[53][54]
  • 次男:上遠野孝(1881年生) - 実業家、名古屋財界での地盤を父から引き継ぐ[55]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 『秋田の先覚 2』139-149頁
  2. ^ a b 『秋田の先覚 2』277-292頁
  3. ^ a b c 『上遠野富之助病中雑話』1-5頁
  4. ^ 『上遠野富之助病中雑話』10-17頁
  5. ^ a b c 『上遠野富之助病中雑話』26-31頁
  6. ^ 林董一『名古屋商人史』418-425頁
  7. ^ 林董一『名古屋商人史』425-426頁
  8. ^ 『株式会社名古屋株式取引所史』255-257頁
  9. ^ 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』12-13・17頁
  10. ^ a b 『名古屋商工会議所五十年史』257-260頁
  11. ^ 商業登記 株式会社明治銀行登記事項変更」『官報』第6480号、1905年2月8日
  12. ^ 林董一『名古屋商人史』381-385頁
  13. ^ a b c 『神野金之助重行』232-241頁
  14. ^ 『上遠野富之助病中雑話』44-49頁
  15. ^ 渡米実業団|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団”. www.shibusawa.or.jp. 2023年8月26日閲覧。
  16. ^ a b 『驀進 日本車輛80年のあゆみ』41-43頁
  17. ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』235-237頁
  18. ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』177-183頁
  19. ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』166-177頁
  20. ^ 『社史 東邦瓦斯株式会社』17-20頁
  21. ^ 『社史 東邦瓦斯株式会社』315頁
  22. ^ 『名古屋市会史』第一巻335-338頁
  23. ^ 『名古屋市会史』第一巻341-345頁
  24. ^ 『名古屋市会史』第一巻578-579頁
  25. ^ 『名古屋市会史』第一巻566頁
  26. ^ 『名古屋市会史』第一巻349-353頁
  27. ^ 『名古屋市会史』第三巻709-712頁
  28. ^ 『名古屋市会史』第三巻1167-1175頁
  29. ^ 林董一『名古屋商人史』428頁
  30. ^ a b 長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』90-93頁
  31. ^ 『上遠野富之助病中雑話』54・62頁
  32. ^ 『名古屋鉄道社史』50-51・133頁
  33. ^ 『名古屋鉄道社史』120-121頁
  34. ^ a b c d 『名古屋鉄道社史』71-77頁
  35. ^ a b c d 『名古屋鉄道社史』81-98頁
  36. ^ a b 『名古屋鉄道社史』99-103頁
  37. ^ a b 『名古屋商工会議所五十年史』262-265頁
  38. ^ 彙報 代表委員・代表委員顧問指名」『官報』第3491号、1924年4月16日
  39. ^ a b 『上遠野富之助病中雑話』65-95頁
  40. ^ a b 『東洋紡績七十年史』641-643頁
  41. ^ 『名古屋放送局沿革史』208-210頁
  42. ^ 『名古屋放送局沿革史』8-9頁
  43. ^ 『名古屋放送局沿革史』15-16・18頁
  44. ^ 『名古屋放送局沿革史』40-43頁
  45. ^ 『名古屋放送局沿革史』98-99頁
  46. ^ a b c 『名古屋鉄道社史』108頁
  47. ^ a b c d e f 『名古屋鉄道社史』116-121頁
  48. ^ 「上遠野翁逝く」『東京朝日新聞』1928年5月27日朝刊4頁
  49. ^ 商業登記 株式会社明治銀行変更」『官報』第482号、1928年8月4日
  50. ^ 法人登記 社団法人日本放送協会変更」『官報』第629号、1929年2月5日
  51. ^ 授爵叙任及辞令」『官報』第3439号、1924年2月13日
  52. ^ 叙任及辞令」『官報』第424号、1928年5月29日
  53. ^ 『人的事業大系』製作工業篇(下)329頁
  54. ^ a b 『人事興信録』第8版カ121頁
  55. ^ 早川北汀『中京現代人物評伝 弐』98-101頁

参考文献

  • 『上遠野富之助病中雑話』上遠野亮三、1928年7月。NDLJP:1029144 
  • 秋田県総務部秘書広報課 編『秋田の先覚 2 近代秋田をつちかった人びと』秋田県、1969年。NDLJP:2972961 
  • 人事興信所 編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。NDLJP:1078684 
  • 東邦瓦斯 編『社史 東邦瓦斯株式会社』東邦瓦斯、1957年。NDLJP:2485031 
  • 東邦電力名古屋電灯株式会社史編纂員 編『名古屋電燈株式會社史』中部電力能力開発センター、1989年(原著1927年)。 
  • 東洋紡績七十年史編修委員会 編『東洋紡績七十年史』東洋紡績、1953年。NDLJP:2465460 
  • 長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』柳城書院、1916年。NDLJP:955846 
  • 名古屋市会事務局 編『名古屋市会史』第一巻、名古屋市会事務局、1939年。 
  • 名古屋市会事務局 編『名古屋市会史』第三巻、名古屋市会事務局、1941年。NDLJP:1451155 
  • 名古屋商工会議所 編『名古屋商工会議所五十年史』名古屋商工会議所、1941年。NDLJP:1217848 
  • 名古屋中央放送局 編『名古屋放送局沿革史』名古屋中央放送局、1940年。NDLJP:1686995 
  • 名古屋鉄道株式会社社史編纂委員会 編『名古屋鉄道社史』名古屋鉄道、1961年。NDLJP:2494613 
  • 日本車輌製造 編『驀進 日本車輛80年のあゆみ』日本車輌製造、1977年。NDLJP:11950322 
  • 野村浩司 編『株式会社名古屋株式取引所史』名毎社、1943年。NDLJP:1067993 
  • 早川北汀『中京現代人物評伝 弐』早川文書事務所、1934年。NDLJP:1108561 
  • 林董一『名古屋商人史』中部経済新聞社、1966年。NDLJP:2510115 
  • 堀田璋左右『神野金之助重行』神野金之助翁伝記編纂会、1940年。NDLJP:1684685 
  • 松下伝吉『人的事業大系』製作工業篇(下)、中外産業調査会、1940年。NDLJP:1244472 

外部リンク

先代
奥田正香
日本車輌製造社長
第2代:1910年 - 1911年
次代
森本善七
先代
鈴木摠兵衛
名古屋商業会議所会頭
第8代:1921年 - 1927年
次代
伊藤次郎左衛門
先代
富田重助
名古屋鉄道社長
第2代:1925年 - 1928年
次代
富田重助