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「歴史修正主義」の版間の差分

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{{Otheruses|[[歴史学]]全般|[[マルクス主義]]における修正主義|修正主義}}
{{Otheruses|[[歴史学]]全般|[[マルクス主義]]における修正主義|修正主義}}
[[歴史学]]において'''歴史修正主義'''(れきししゅうせいしゅぎ、{{lang-en-short|Historical revisionism}})とは、[[歴史]]の再定義や再解釈の言説を指す用語である。一般に否定的・批判的な意味合いを込めて使用されることが多く、特に[[第二次世界大戦]]に関わる[[戦争犯罪]]・[[戦争責任]]に関わる議論で、それを否定または相対化する言説を指して歴史修正主義という用語が使用される。
[[歴史学]]において'''歴史修正主義'''(れきししゅうせいしゅぎ、{{lang-en-short|Historical revisionism}})とは、[[歴史]]的な記述の再解釈を示すものである<ref>{{cite book|和書|editor1-last=Krasner|editor1-first=Barbara|title=Historical Revisionism|url=https://books.google.com/books?id=N7jXDwAAQBAJ|series=Current Controversies|location=New York|publisher=Greenhaven Publishing LLC|date=2019|page=15|isbn=9781534505384|quote=The ability to revise and update historical narrative - historical revisionism - is necessary, as historians must always review current theories and ensure they are supported by evidence. [...] Historical revisionism allows different (and often subjugated) perspectives to be heard and considered.|accessdate=2020年4月4日}}</ref>。これは通常、歴史的な出来事や時間軸、現象について専門の学者が持つ[[オーソドックス]]な(確立された・受け入れられた・伝統的な)見解に挑戦することや、その見解とは反対の見解を示す[[証拠]]を紹介すること、関係者の動機や決定を再解釈したりすることを含む。歴史的記録の修正は、事実・証拠・解釈の新たな発見を反映することができ、その結果、歴史が修正される。劇的なケースでは、歴史修正主義は古い道徳的判断を覆すことを伴う。


基本的なレベルでは、正当な歴史修正は歴史の記述を発展させ洗練させるための一般的なプロセスであり、特に議論を呼ぶものではない。それよりもはるに物議を醸すのは、道徳的知見の逆転であり、主流の歴史家が(例えば)正の力と捉えていたものが負の力として描かれることである。このような修正主義は、以前の見解の支持者から(特に激しい言葉で)異議を唱えられそして以下のような不適切な方法を伴う場合には、[[否認主義]]として知られ違法な形の歴史修正主義となる可能性がある。
確立された歴史を「修正」することそれ自体は歴史の記述を発展させ洗練させるための一般的なプロセスであり、特に議論を呼ぶものではない{{Efn|The ability to revise and update historical narrative - historical revisionism - is necessary, as historians must always review current theories and ensure they are supported by evidence. [...] Historical revisionism allows different (and often subjugated) perspectives to be heard and considered."<ref name="Krasner2019">[[#Krasner 2019|Krasner 2019]]</ref>}}。し、主流の歴史家が(例えば)正の力と捉えていたものが負の力として描かれるような、道徳的知見の逆転を含む議論は遥かに物議を呼ぶ。このような修正は、主流の見解の支持者から(特に激しい言葉で)異議を唱えられる。そして不適切な方法を用い、あるいは最初から事実と異なる言説を広めること、[[ジェノサイド]]の否定などを目的とする場合には、特に批判の対象とされる。欧米圏においては[[ホロコースト否認]]に代表されるような事実異なる歴史像を広めることを意図して史実を否定す言説は「歴史修正主義」ではなく「[[否認主義|否定論]](''denial'')」呼ぶようにっており<ref name="武井2021piii">[[#武井 2021|武井 2021]], p. iii</ref>、西欧ではこの種の言説に法的規制を設定し違法化してい複数ある<ref name="武井2021pp179_185">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 179-185</ref>


日本語の「歴史修正主義」という用語は翻訳語であるが<ref name="岩崎リヒター2005p359">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 359</ref>、欧米圏における"Historical revisionism"よりも広く、曖昧な意味合いで使用され、単なる歴史の再解釈や俗説を指す場合もある<ref name="武井2021p73">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 73</ref>。
* 真正文書に対してありえない不信感を抱くことや、[[偽書]]・[[偽造文書]]を用いること。
* 書物や資料に対して誤った結論を与えること。
* 統計データの不正な操作。
* テキストを意図的に誤訳する。


== 語義 ==
この種の歴史修正主義は、歴史的記録の道徳的意味の再解釈を提示することがある<ref name="Evans-145">[[Richard J. Evans|Evans, Richard J.]] (2001) ''Lying About Hitler: History, Holocaust, and the David Irving Trial''. p.145. {{ISBN|0-465-02153-0}}. The author is a professor of Modern History at the [[University of Cambridge]], and was a major [[Expert witness|expert-witness]] in the ''[[Irving v. Lipstadt]]'' trial; the book presents his perspective of the trial, and the expert-witness report, including his research about the Dresden death count.</ref>。否認主義論者は'''修正主義'''('''リビジョニズム''')という言葉を使って、自分たちの努力を正当な歴史的探求であるかのように見せかけることがある。これは特に、「修正主義」が[[ホロコースト否認|ホロコースト否定]]に関連している場合に当てはまる。
「歴史修正主義」は歴史的事実の全面的な否定や意図的な矮小化、逆にある特定の側面のみの誇張、政治的な意図を持った歴史の書き換えなどを指してネガティブな意味合いで用いられる用語である<ref name="武井2021pi">[[#武井 2021|武井 2021]], p. i</ref><ref name="高橋2001piii">[[#高橋 2001|高橋 2001]], p. iii</ref>。


歴史学的な成果を無視した歴史の「修正」の問題は20世紀後半以降、とりわけ[[ナチス・ドイツ]]によって行われた[[ユダヤ人]]に対する虐殺の否定([[ホロコースト否認|ホロコースト否定]])や矮小化、[[第二次世界大戦]]の[[戦争責任]]論に関連している<ref name="武井2021pi"/><ref name="岩崎リヒター2005p359"/><ref name="高橋2001piii"/><ref name="井口ら2021p6">[[#井口ら 2021|井口ら 2021]], p. 6</ref>。ホロコースト否定論者の中には自ら「歴史修正主義者」を名乗って宣伝活動を行っている者もいるが<ref name="高橋2001pi1">[[#高橋 2001|高橋 2001]], p. 1</ref>、欧米においてはこの種の、最初から事実と異なる歴史像を広めることを意図して史実を否定する言説は「歴史修正主義」ではなく「否定論(''denial'')」と呼ぶようになっている<ref name="武井2021piii"/>。そして否定論の論陣をはる人は「否定論者(''denier'')」と呼ばれる<ref name="武井2021piii"/>。しかし、日本語では「歴史修正主義」と「否定論」は明確に区別されておらず、「歴史修正主義」という用語は両者を含んだ広い意味合いで使用されている<ref name="武井2021piv">[[#武井 2021|武井 2021]], p. iv</ref>。
== 概要 ==
[[岩崎稔]]/[[シュテフィ・リヒター]]によれば、「『[[修正主義]]』は、もともとかつての[[社会主義]]運動のなかで、正統的な教義や見解を逸脱した一派に貼りつける[[レッテル]]として用いられたものだった。それが、社会主義の教義ではなく、歴史の解釈をめぐって用いられるようになったのは、厳密に言えば、[[ナチスドイツ]]の行った行為をヨーロッパ現代史のなかでとのように理解するのかという点で、[[A・J・P・テイラー|テイラー]]や[[フリッツ・フィッシャー (歴史学者)|フィッシャー]]が1960年代に引き起こした論争的な議論に端緒を発している。」という<ref>[[岩崎稔]]/[[シュテフィ・リヒター]]「歴史修正主義-一九九〇年以降の位相」『岩波講座 アジア・太平洋戦争 1 なぜ、いまアジア太平洋戦争か』[[岩波書店]]、2005年11月8日 第1刷発行、ISBN 4-00-010503-5、359頁。</ref>。[[高橋哲哉]]によれば、「見直し=修正を拒否する歴史は、[[イデオロギー]]的に絶対化された歴史であるため、修正主義はかつては必ずしも悪い意味ではなかったが、近年ではネガティヴな意味で使われ、批判の対象に付けられるべき名前となった。[[ホロコースト否定論]]者たちが、みずから歴史修正主義者を名乗って活動していることが大きい。」という<ref name="高橋2001-iii">[[高橋哲哉]]『歴史/修正主義 <small>思考のフロンティア</small>』岩波書店、2001年1月26日 第1刷発行、ISBN 4-00-026434-6、iii頁。</ref>。[[佐藤学 (教育学者)|佐藤学]]によれば、「歴史修正主義は[[左翼]]の[[転向#社会主義・共産主義からの転向|転向者]]の語りという性格を持っている。」という<ref>[[佐藤学 (教育学者)|佐藤学]]「虚妄の歴史へのあくなき欲望」『歴史教科書大論争 別冊歴史読本87 第26巻第26号』[[新人物往来社]]、2001年10月25日 発行、137頁。</ref>。


このナチズムに関わる「歴史修正主義」の論理・心性が日本の戦争責任論における否定論と類似すると見られることから<ref name="岩崎リヒター2005p360">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 360</ref>、日本近現代史においては戦時中の日本軍の行為、いわゆる[[南京事件]](南京大虐殺)の否定や[[従軍慰安婦]]を自発的な娼婦と見なす観点を指して「歴史修正主義」という用語が用いられる<ref name="武井2021pi"/><ref name="高橋2001piii"/>。ただし、これらは欧米社会がホロコーストに当てはめる基準においては明確に否定論の分類に入る<ref name="武井2021p73"/>。日本語の「歴史修正主義」という用語はさらに広く曖昧な意味でも用いられ、学術的な再検証や単なる根拠の乏しい歴史の俗説を含むこともある<ref name="武井2021p73"/>。
== 各論 ==
=== 世界大戦をめぐる論争 ===
[[1926年]]、{{仮リンク|ハリー・エルマー・バーンズ|en|Harry Elmer Barnes}}は、"The Genesis of the World War"(『世界大戦の起源』)で、[[第一次世界大戦]]の原因を[[ドイツ帝国]]を中心とした[[中央同盟国]]では無く、[[露仏同盟]]側であるとした。


さらに、これらと同様の歴史の否認メカニズムは[[オスマン帝国]]における[[アルメニア人虐殺]]や[[ユーゴスラヴィア内戦]]における[[セルビア]]、[[クロアチア]]双方の主張に見られることが指摘されており、第二次世界大戦におけるドイツや日本に関連する言説だけに留まらない普遍的な主題とされる<ref name="岩崎リヒター2005p360">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 360</ref>。
[[1961年]]発表の[[フリッツ・フィッシャー (歴史学者)|F・フィッシャー]]『世界強国への道: ドイツの挑戦, 1914-1918年 (Griff nach der Weltmacht: Die Kriegzielpolitik des kaiserlichen Deutschland 1914–1918)』は逆に、ドイツは世界強国となるべく自発的に戦争を起こしたと主張した(フィッシャー論争)。


=== 用語の成立 ===
1961年には[[A・J・P・テイラー]]が『第二次世界大戦の起源』で、第二次世界大戦の原因を[[アドルフ・ヒトラー]]個人にではなく、欧米諸国の外交の失敗に求めた。これらの主張は激しい賛否両論を巻き起こし、彼らを批判する用法としての「'''歴史修正主義者'''」が生まれた(テイラー論争)。
日本語の「歴史修正主義(英語:''histrical revisionism''、独語:''Geschichtsrevisionismus'')」という用語は翻訳語である<ref name="岩崎リヒター2005p359"/>。「修正」という用語が明確に政治的な意味合いを帯びて登場したのは19世紀末の[[フランス]]で発生した[[ドレフュス事件]]である<ref name="武井2021p19">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 19</ref>。フランスの歴史学者[[ピエール・ヴィダル=ナケ|ヴィダル=ナケ]]は、ユダヤ系軍人ドレフュスの冤罪を巡る裁判の後まとめられた『ドレフュス事件史』に対して、ドレフュスの有罪を主張する右派団体の構成員が、ドレフュスの有罪を立証するために虚偽を入り交ぜた「事実」をまとめた本を『ドレフュス事件史』の「修正版」と銘打って出版した事例を「歴史の否定という意味での歴史修正主義の『文学的起源』としている」<ref name="ヴィダル=ナケ1995p98">[[#ヴィダル=ナケ 1995|ヴィダル=ナケ 1995]], p. 98</ref><ref name="武井2021p20">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 20</ref>。


次いで「修正主義」という用語が[[イデオロギー]]的な派閥を指す用語として用いられたのは[[社会主義]]運動の中における議論と権力闘争におけるレッテルとしてであった<ref name="武井2021pp23_24">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 23-24</ref><ref name="岩崎リヒター2005p359"/>。19世紀末、[[カール・マルクス]]の理論に基づき、[[階級闘争]]が激化し自然に[[ブルジョワ]]社会が崩壊して[[革命]]に至るだろうという理論を支持する社会主義者の主流派は、現実の状況がこれに合致していないとして理論の修正や改良を迫る者を侮蔑的な意味合いをこめて「修正主義者」と呼んだ<ref name="武井2021p24">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 24</ref>。20世紀においても[[レフ・トロツキー|トロツキー]]と[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が相互を修正主義者としたのを始め、[[共産主義]]国家では政治の場における非難の言葉として「修正主義」が用いられた<ref name="武井2021p25">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 25</ref>。
=== ホロコースト ===
[[1978年]]設立された、[[歴史見直し研究所|歴史修正研究所(歴史見直し研究所)]]は、学術的用法による歴史修正団体と自らを定義している<ref>[http://www.ihr.org/main/about.shtml ABOUT THE IHR] - The Institute for Historical Review{{en icon}}</ref>。同団体はホロコーストの事実そのものを疑問とし([[ホロコースト否認]])、ユダヤ人虐殺のガス室の実在を証明したら、5万ドルを支払うと主張した。


[[岩崎稔]]/[[シュテフィ・リヒター]]によれば、社会主義運動におけるレッテルとして使用されていた「修正主義」という用語が「歴史の解釈をめぐって用いられるようになったのは、厳密に言えば、[[ナチスドイツ]]の行った行為をヨーロッパ現代史のなかでとのように理解するのかという点で、[[A・J・P・テイラー|テイラー]]や[[フリッツ・フィッシャー (歴史学者)|フィッシャー]]が1960年代に引き起こした論争的な議論に端緒を発している。」<ref name="岩崎リヒター2005p359"/>{{Efn|1960年代頃まで、ドイツ歴史学会においては第二次世界大戦とナチズムの時代はドイツ史の中の例外であるとし、第二次世界大戦の戦争責任がドイツにあることは認めつつも、[[第一次世界大戦]]は「諸列強が戦争に引きずり込まれた」結果起こったもので特定の参戦国ではなく全ての列強が戦争責任を負うものであるとする立場が主流であった。フィッシャーが第一次世界大戦と第二次世界大戦の連続性を説き、第一次世界大戦におけるドイツ指導者の誤謬、[[ドイツ帝国]]と[[第三帝国]]の連続面を強調としてナチズムをドイツ史の一連の流れの中で理解しようとしたことは、これに反発する研究者との間で激しい論争を巻き起こした<ref name="ドイツ史研究入門pp
1985年、[[ピエール・ヴィダル=ナケ]]は「ナチス・ドイツがユダヤ人とジプシーに対して実践した大虐殺は存在しなくて、神話、作り話、詐欺に属することであるとする教説を、私はここで《'''レヴィジオニスム'''》と呼ぶことにする。」と宣言した<ref>[[ピエール・ヴィダル=ナケ]]著・[[石田靖夫]]訳「歴史修正主義に関するテーゼ (一九八五年)」『記憶の暗殺者たち』[[人文書院]]、一九九五年七月五日 初版第一刷発行、ISBN 4-409-51034-7、136頁。</ref>。ヴィダル=ナケによると、歴史修正を説く論者は、(1)「[[ジェノサイド]]というものはなかったし、それを象徴する道具、すなわち、毒ガス室は決して存在しなかった」、(2)「「最終解決」とは[[東欧]]方面へのユダヤ人の「追放」である」、(3)「ユダヤ人犠牲者の数字はそう言われてきたのよりも実際にはずっと低い数字である」、(4)「第二次世界大戦の重大な責任はヒトラーのドイツにはない」、(5)「30年代ならびに40年代における人類の重大な敵はナチス・ドイツでなく[[スターリン]]の[[ソ連]]である」、(5)「ジェノサイドは連合軍の、主にユダヤ人の、それもとりわけ[[シオニズム]]の[[プロパガンダ]]によってでっちあげられたものである」と主張するなどの共通点があるという<ref>ヴィダル=ナケ (1995)、40~41頁。</ref>。
294_295">[[#ドイツ史研究入門 2014|ドイツ史研究入門 2014]], pp. 294-295</ref>。}}"。

== 歴史学における「修正」と「歴史修正主義」 ==
[[歴史学]]において既存の歴史を「修正」することそれ自体は学術的な営みであり特異なものとはみなされない。新たな史料、視点、解釈など様々な要素によって研究者たちは常に歴史を更新し続けている。しかし、その中である種の特徴を持つ言説は特に「歴史修正主義」として分類され、多くの場合は非難の対象となる。

近代的な意味での歴史学は概ね19世紀頃に確立された。近代実証史学、あるいは近代歴史学の父と呼ばれる[[レオポルト・フォン・ランケ|レオポルド・ランケ]]は個人の主観を排して「それが実際にいかにあったか(wie es eigentlich gewesen ist)」のみを語るという有名なフレーズを書き残している<ref name="大戸2012pp232_235">[[#大戸 2012|大戸 2012]], pp. 232-235</ref><ref name="武井2021p4">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 4</ref>。これは[[フィクション]]や理念から始まって[[哲学]]を語るのではなく、[[事実]]のみを集めた実証的・客観的な歴史を再構築するという実証史学の立場を端的に表す表現である。しかし、歴史的「事実」は常に過去のものであり物理的に存在していない。そのためランケが実際に収集することが可能であった「事実」とは過去に書き記された(公)文書であった<ref name="大戸2012p235">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 235</ref>。しかし、書き残された文書がどれだけ事実を「確証」しているかという点が問題であった。文書を深く読み込むことで不動の「事実」を確立していくというランケ的な立場は歴史学の主流となったが<ref name="大戸2012p239">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 239</ref>、ある歴史過程全体を叙述しようとした時、複数ある史料のどれを重視するか、相互に矛盾する記録をどのように解決するか、併記するならば比重をどう置くかという問題が常に存在し、関連する史料を全て集め確認することの物理的な不可能性、史料に書かれなかったことの重要性なども相まって、歴史を叙述する側の判断と評価が介在せざるを得ない<ref name="大戸2012pp240_241">[[#大戸 2012|大戸 2012]], pp. 240-241</ref><ref name="武井2021p4"/>。さらに史料の精査([[史料批判]])を担う歴史学者自身も、ある時代、ある社会の価値観、文化的な枠組み、宗教的な世界観から自由であることはできず、さらに人間の思考は[[言語]]による制約を受ける<ref name="武井2021p5">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 5</ref>。

こうした問題は歴史上の客観的事実を示すこと、あるいは公平な観点といった命題の不可能性を提起する<ref name="カー1962p34">[[#カー 1962|カー 1962]], p. 34</ref><ref name="武井2021p6">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 6</ref>。これに対して歴史学者[[E・H・カー]]は講演集『[[歴史とは何か]]』において歴史を[[山]]に例えて「見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるということにはなりません。歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません<ref name="カー1962p34"/>」と説明している<ref name="武井2021p6"/>。実際のところ、歴史学は過去の実像を細部まで完全に再現する手段を持たない。しかし、可能な限りにおいて多様な手段、史料を用いることで欠如部分はある程度想像力によって補い、蓋然性の高い推論を導き出して歴史の全体像を把握することができると考える<ref name="武井2021p8">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 8</ref>。

史料から歴史を復元する以上、新たな史料の発見、旧来の史料の見直し、新たな視点の導入など様々な要因によって歴史学が描き出す「歴史」は変化し得る。また、歴史学者の個性・文化的背景によって史料の選別の仕方、ある事実に対する評価や重要性もまた変化し、その客観性には制約が存在する<ref name="岡部2000p4">[[#岡部 2000|岡部 2000]], p. 4</ref><ref name="武井2021p12">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 12</ref>。さらに学界の外側を取り巻く様々な階層・背景の歴史に関心を持つ人々、あるいは持たない人々歴史の叙述に関与しており、こうした人々が歴史の選択や叙述に期待するものは多種多様であり専門家や学界の大勢とは一致しない<ref name="岡部2000p6">[[#岡部 2000|岡部 2000]], p. 6</ref>。

このため、そもそも不変の存在ではない歴史を「修正」すること自体は歴史学において元来学術的な行為であり、様々な要因から既存の歴史が「修正」され、さらにはそれが主流派の見解となることも当然起こり得るものである<ref name="武井2021p12"/>。こうした学術的な歴史の修正と「歴史修正主義」とされる歴史の修正の差異は、政治的意図の存在にあるとされる<ref name="武井2021p16">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 16</ref>。つまり、現在の政治的な主題に対する効用を意図して、「過去」を修正ないし隠蔽する、あるいは現在の体制の正当化や現状を必然的結果とみなすため、逆に現状を批判するために特定の筋書きを提供することが「主義(イズム)」としての「歴史修正主義」と言える<ref name="武井2021p16"/>。

== 世界大戦の戦争責任と歴史修正主義 ==
=== 第一次世界大戦の原因論と開戦責任 ===
歴史の「修正」が現実の政治に関わる問題として具体的な課題とされたのが[[第一次世界大戦]](1914年-1918年)の原因・戦争責任論であった。第一次世界大戦の勃発後、参戦諸国は国内外への世論工作の一環として旧来秘密であった外交文書を公表し始め、さらに[[ロシア革命]]に際して[[ボリシェビキ]]によって秘密外交の暴露が行われた。これらは「現代史」の本格的な発展を促したが、大戦の開戦原因の追究は当時の政治的問題と直結していたため関係国の政治・外交上の要求と密接に関連していた<ref name="ドイツ史研究入門p287">[[#ドイツ史研究入門 2014|ドイツ史研究入門 2014]], p. 287</ref>。また、[[総力戦]]となった第一次世界大戦がもたらした戦災はヨーロッパ諸国の戦争観・歴史認識に多大な影響を与えた。侵略戦争を違法とする観念や超国家的制度によって[[主権国家]]の行動を抑制しようとする[[国際主義|インターナショナリズム]]が第一次世界大戦後の国際政治に影響を及ぼすようになっていくのはこの頃からである<ref name="荒井2005p2">[[#荒井 2005|荒井 2005]], p. 2</ref>。

大戦に敗戦したドイツでは開戦責任の認識は深刻な問題であった。ドイツは戦後処理にあたって巨額の賠償請求や領土の割譲を課せられたが、この根拠となったのが第一世界大戦の開戦責任がドイツおよびその同盟諸国にあるという認識であった<ref name="ドイツ史研究入門p287"/><ref name="武井2021p26">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 26</ref>。ドイツでは開戦責任の一方的な押し付けとしてこれに対する強い反発が生まれ、戦争責任の所在についての認識を「修正」することは国家的な要請となった。この結果、イギリス・フランスの学者とドイツの研究者の間で「戦争責任論争」が引き起こされた<ref name="ドイツ史研究入門p287"/>。実際の政策における連合国側の正当性を崩すことを企図して、[[ドイツ外務省]]には戦争責任課が作られ、外郭団体として「戦争原因研究本部」が作られて、戦争責任に対する認識を「修正」するべく研究の蓄積と諸外国への宣伝、広報活動が行われた<ref name="武井2021pp26_27">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 26-27</ref>{{Efn|荒井訳ではドイツ外務省の戦争責任報告部。具体的な活動は外郭団体として宣伝を担当するドイツ連合労働委員会と学問分野を担当する戦争責任研究本部が共同で研究と報告活動を行った。歴史認識の構築の中心となったのは研究本部の機関紙『戦争責任問題(''Die Kriegsschuldfrage'')』であり、編集責任者の元軍人[[アルフレート・フォン・ヴェーゲラー]](Alfred von Wegerer)をはじめ、多くの論説家が俸給を受け取って定期刊行物に戦争責任問題について執筆し諸外国への宣伝活動を行った。その活動は極めて精力的であり、当時高等学校を卒業したばかりであった歴史家[[尾鍋輝彦]]はドイツ語の学習のために頻繁にドイツの出版社にカタログを注文していたために一人前の歴史学者と間違われヴェーゲラーから『ヴェルサイユ戦費テーゼに対する反駁』と題する英文書籍が寄贈されたことを回想し、「この書はよほど広範にばらまかれたことだろう」と感想を述べている。このように熱心な活動と潤沢な予算の下で大規模な資料の収拾や検証が行われたが、反面国家機構による強力な介入はドイツ人研究者による戦争責任問題の自由な研究を阻害し、学問的成果は貧弱であったと評され、具体的な「ドイツの大義」の弁護を担う役はヴェーゲラーのような歴史学の素人か外国人の歴史家の手に委ねられた<ref name="武井2021pp26_27"/><ref name="荒井2005pp84_86">[[#荒井 2005|荒井 2005]], pp. 84-86</ref>。}}。

アメリカの側では、第一次世界大戦への参戦が[[旧大陸]]への不干渉という伝統的な政策を不当に転換させたものであるという批判の観点から開戦原因の再検討が進められた<ref name="武井2021p28">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 28</ref>。大統領[[ウッドロー・ウィルソン]]への批判や[[反ユダヤ主義|反ユダヤ]]的な[[ウォールストリート]]批判、[[孤立主義]]の追求とない交ぜで進んだ開戦責任論の追及は一種の政治運動となっていった<ref name="武井2021p29">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 29</ref>。この議論の中で、20世紀初頭の代表的な「歴史修正主義者」とされる{{仮リンク|ハリー・エルマー・バーンズ|en|Harry Elmer Barnes}}は[[1927年]]、"The Genesis of the World War"(『世界大戦の起源』)で、[[第一次世界大戦]]の原因を[[ドイツ帝国]]を中心とした[[中央同盟国]]では無く、[[露仏同盟]]側であるとした<ref name="武井2021p31">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 31</ref>。ドイツ外務省はこのバーンズの言説に国益を見出し、バーンズを支援した<ref name="武井2021p32">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 32</ref>。

第二次世界大戦をはさみ、[[1961年]]に発表された[[フリッツ・フィッシャー (歴史学者)|F・フィッシャー]]『世界強国への道: ドイツの挑戦, 1914-1918年 (Griff nach der Weltmacht: Die Kriegzielpolitik des kaiserlichen Deutschland 1914–1918)』は逆に、ドイツは世界強国となるべく自発的に戦争を起こしたと主張した(フィッシャー論争)。

=== 第二次世界大戦と戦争犯罪 ===
[[第二次世界大戦]]は史上最大規模の[[戦争]]となり、その最中に行われた戦争犯罪や戦前期からの人権問題はいわゆる「歴史修正主義」における中心的な論点となっている。ナチス・ドイツ期における[[ユダヤ人]]の迫害、とりわけ[[ホロコースト否認|ホロコーストの否定]]または矮小化([[ホロコースト否認|否認論]])、あるいは責任転嫁の問題は1970年代にホロコースト否定論が本格的に勃興して以来、現在に至るまで盛んに論じられている<ref name="武井2021pp71_81">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 71-81</ref>。アジア・太平洋戦線に関連しては日本軍による戦争犯罪の否定、矮小化を行う言説がホロコースト否定論を始めとした否定論と類似した「論理」「心性」が見られることから「歴史修正主義」として扱われる<ref name="岩崎リヒター2005p360"/><ref name="武井2021p73"/><ref name="高橋2001p6">[[#高橋 2001|高橋 2001]], p. 6</ref>。

==== 歴史修正主義の論理と心性 ====
{{Quote box
| quote = ...過去が普通に過ぎ去ってゆくといっても、それは消え去るということではない。例えば、ナポレオン一世の時代は、歴史的な研究において繰り返し現在化される。アウグスティヌスの古典的著作もまたしかりである。だがこうした過去は、明らかに、それらがかつての同時代人に対してもっていた迫真性を失っている。まさにそれだからこそ、こうした過去は歴史家の手に委ねられる。それに反して、ナチズムの過去は(中略)いつの間にか消え去る、あるいは力が弱まっていくといった過程をとらない。それどころかますます生き生きとし、力強くなっているようにさえ思われる。とはいえ、それは模範としてではなく悪しき前例としてであり、まさしく現在として立ちはだかる過去、裁きの剣のように現代の頭上につり下がっている過去としてなのだ<ref name="ノルテ1995p39">[[#ノルテ 1995|ノルテ 1995]], p. 39</ref>。(中略)だが、過去が過ぎ去ろうとしないことに不快の念を表わし、もう「終わり」にして、ドイツの過去を原則的にもはや他の国の過去と異ならないものにしたいと思っているのは、果たして日常生活のなかの「実際のドイツ国民」の頑迷さだけなのだろうか<ref name="ノルテ1995p41">[[#ノルテ 1995|ノルテ 1995]], p. 41</ref>。...
| source=-{{仮リンク|エルンスト・ノルテ|en|Ernst Nolte}}『過ぎ去ろうとしない過去』
| align = right
| width = 23em
}}
第二次世界大戦を巡る歴史修正主義的言説の心性の基底を成すのが未来永劫に至るまで罪を問われ続ける(とされる)歴史を破棄すること、「普通」の国の歴史を持つことの希求である<ref name="武井2021p39">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 39</ref><ref name="高橋2001pp1_6">[[#高橋 2001|高橋 2001]], pp. 1-6</ref>。第二次世界大戦における戦争犯罪は戦勝国によって主導された[[ニュルンベルク裁判]]や[[東京裁判]]によって「裁かれ」たが、これらを戦勝国による一方的な断罪として拒絶する意見は常に出され続けた。犯罪者扱いされない「『普通』の国としての歴史、恥じる必要のない国民の物語(武井)<ref name="武井2021p39"/>」の追求は、ドイツや日本だけが悪いのか、未来永劫謝罪し続けなければならないのか、と言う心情と共に歴史の認識の「修正」を要求する言論を形成していくこととなる。西ドイツの歴史家{{仮リンク|エルンスト・ノルテ|en|Ernst Nolte}}はドイツが抱えるナチズムの過去を「過ぎ去ろうとしない過去」と表現し<ref name="ノルテ1995p39">[[#ノルテ 1995|ノルテ 1995]], p. 39</ref>。そしてノルテは、ナチ体制下の[[強制収容所]]は[[ソヴィエト連邦]]の強制収容所に起源を持つもので、[[毒ガス]]という「技術的な側面」を除けば歴史上特殊なものではないと主張した<ref name="武井2021p119">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 119</ref><ref name="ノルテ1995pp46_49">[[#ノルテ 1995|ノルテ 1995]], pp. 46-49</ref>。

こうした歴史修正主義的な言説の根底にある「論理」は、自国(ナチス・ドイツや大日本帝国)が犯罪を犯していたとしたら、その国民は「子々孫々まで」罪人扱いされざるを得ない。従って自国は犯罪を犯していなかったのでなければならないというものであることが指摘される<ref name="高橋2001p6">[[#高橋 2001|高橋 2001]], p. 6</ref>。

==== 日本における歴史修正主義 ====
日本において歴史修正主義という表現は概ね第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の否定や相対化、あるいは日本の戦争目的の正当性を主張する言説を指して用いられる。第二次世界大戦における日本の正当性を主張する立場は古くは[[林房雄]]の『大東亜戦争肯定論』(1964年-1965年)などのようにいわゆる[[戦後歴史学]]に対抗して存在していた<ref name="成田2006p44">[[#成田 2006|成田 2006]], p. 44</ref>。

日本語における「歴史修正主義」という用語の定義が明確でなく広い意味合いで使用されるため、研究者がこの用語を用いる際にはしばしば何を歴史修正主義と呼ぶか、あるいはそう分類するか、について説明が加えられる。岩崎/リヒターは新しい歴史教科書をつくる会や自由主義史観について「...このような九〇年代半ば以降に澎湃と沸き起こって来た感情的、情動的な反応全体と、それにいたる前史をあわせて、本稿では『歴史修正主義』と呼んでいる。『歴史修正主義』を歴史の書き直し行為と混同しないことが肝要である」と述べ<ref name="岩崎リヒター2005p363">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 363</ref>、[[成田龍一]]は「...いまひとつ、ナショナリズムをことさらに強調してみせる一派が台頭してきた。つくる会を含む『歴史修正主義』の立場を声高に主張するグループである』として区分する。倉橋耕平は「...他方、日本では、戦後の歴史館を『自虐史観』だといってその相対化を試みたり、『東京裁判史観の克服』を主張したり、『慰安婦は売春婦で、反日勢力の陰謀』と言ったり、『南京大虐殺はなかった』と過去の歴史を否定する勢力が、慣例的に『歴史修正主義』と呼ばれるに至っている。その意味で私たちが学問分野のなかで呼んでいる''『歴史修正主義』とは、実際のところ『歴史否認論』『歴史否定論』にほかならない。とはいえ、本書ではこれらの含意を維持しながら、慣例に沿って『歴史修正主義』と表記する''<ref name="倉橋2018p23">[[#倉橋 2018|倉橋 2018]], p. 23</ref>{{Efn|強調は原文に従っている。ただし原文での強調方式は斜体ではなく傍点。}}」と説明する。

これらに見られるように日本において歴史修正主義(あるいは「日本型歴史修正主義」)の文脈で言及と批判の対象になるのは、特に[[歴史教科書問題]]の議論のに関連して1990年代に隆盛した日本の歴史教科書の記述の変更を目指す[[新しい歴史教科書を作る会]]の活動や、[[藤岡信勝]]が提唱した[[自由主義史観]]に代表される一連の言説である<ref name="高橋2001p4">[[#高橋 2001|高橋 2001]], p. 4</ref><ref name="成田2006p44"/><ref name="岡部2000p11">[[#岡部 2000|岡部 2000]], p. 11</ref><ref name="倉橋2018p23">[[#倉橋 2018|倉橋 2018]], p. 23</ref><ref name="高橋2001pp1_6"/><ref name="成田2006p44"/>。

こうした日本版歴史修正主義とも呼ばれる第二次世界大戦における日本の戦争犯罪を否定する言説は、その論理や心性がナチス・ドイツの犯罪を巡る否定論と類似することが指摘される<ref name="岩崎リヒター2005p360"/><ref name="高橋2001pp1_6"/>。即ち、捏造された罪によって我々だけが犯罪者扱いされてきたという感情を背景にガス室や南京大虐殺は実証的にあり得ないという議論が提起され、それが熱心な広報・宣伝活動を伴う<ref name="高橋2001pp1_6"/>。
==== 歴史修正主義の論法とレトリック ====
歴史修正主義的言説には複数の共通した特徴があることが指摘される。武井彩佳によれば、歴史修正主義の論法において重要な特徴の1つは、歴史上の事実とされている出来事について「証拠がない」と主張し、証拠が(相当な量)示されたとしても「証拠を示せ」と主張し続けること、また示された証拠が捏造されたものであるとの疑念をかけ、疑われた側に立証責任を転嫁して証拠が「捏造ではないことを証明する」よう要求することである<ref name="武井2021pp64_70">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 64-70</ref>。そして、事実に対する疑念や証拠の捏造の可能性を「繰り返す」ことが鍵であり、「事実ではないかもしれない」という印象を徐々に周囲に広め、学術的に非常に蓋然性の高い見解と低い見解との境界を曖昧にしていくことが目的となる<ref name="武井2021pp64_70"/>。

フランスの歴史学者[[ピエール・ヴィダル=ナケ]]はナチスの戦争犯罪を否定する歴史修正主義の方法に次のような諸原理の存在を指摘している<ref name="ヴィダル=ナケ1995pp44_50">[[#ヴィダル=ナケ 1995|ヴィダル=ナケ 1995]], pp. 44-50</ref>。
* 「一人のユダヤ人によってもたらされる直接の証言はどれも嘘か作り話である。」
* 「解放後の証言あるいは資料はどれも偽造である。無視してよいか、『噂』扱いにしてよいか、そのいずれかである。」
* 「ナチスの方法について直接の情報を教えてくれる資料は一般にどれも、偽造か、ごまかしのある資料か、そのどちらかである。」
* 「直接の証言をもたらすナチス関係の資料はどれも、コード化された言語でそれが書いてあれば、その名目的価値で受け止められるが、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]のある種の演説とか、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]の『日記』のある個所のように、直接的な言語で書いてあれば、無視(あるいは、過小評価)される。」
* 「戦争の終結後のもたらされたナチスによる証言はどれも、それが東側の、あるいは西側の裁判でなされるにせよ(中略)拷問の下でか、それとも脅迫によって得られたとみなされる。」
* 「大量毒ガス殺人が物的にいかに不可能であるかということを示すために、似而・技術の武器庫がそっくりそのまま動員される。」
* 「毒ガス室は非存在がその属性の一つであるがゆえに存在しないと、いうことが出来る。」
* 「最後に、この恐るべき歴史を納得のいくもの、信じられるものにすることのできるもの、事態の推移を刻印できるもの、政治のレヴェルでの比較項を提供できるものはすべて、とりわけ、無視されるか、それとも、改竄されるかする。」

ドイツ哲学者[[三島憲一]]は、1980年代にエルンスト・ノルテや彼を批判する[[ユルゲン・ハーバーマス]]、さらには政財界や一般市民も巻き込んで行われたドイツの論争({{仮リンク|歴史家論争|en|Historikerstreit}})における歴史修正主義の議論を評して、物語的語り口を好み、物事についてはっきりさせたくないときには抽象的かつ大きな言葉や表現によって装飾されたレトリックを駆使すると評する<ref name="三島1995p247">[[#三島 1995|三島 1995]], p. 247</ref>{{Efn|具体例として三島は次のような文章を挙げる「暗闇に対する光の勝利について語られる場合、それは素朴なオプティミズム風の仕方で理解されてはならない。光の中で、はじめて光の部分は明るく、影の部分は暗くなるのであり、光の中でのみ闘いが戦われ、光の中でのみ傷口はあるがままにさらけ出されるのである。光、すなわちよりす鋭く包括的な意識は善なのではなく、善と悪との前提であり、その中に浮かんでくるのは、ほとんど例外なしに両者の混合形態である<ref name="三島1995p247"/>」。これはノルテが終戦後35年の節目に、第三帝国の歴史も修正(Revision)を必要するのではないか?と問う講演の記録の一部である。}}。

==== 検証と論証 ====
歴史修正主義的言説、あるいは否定論に共通する特徴の一つは「客観的な事実」の「検証」という形式をとって一見実証的な手続きによって歴史的な事実と見なされている事柄の信憑性に疑問を持たせる手法である<ref name="岩崎リヒター2005p364">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 364</ref>。一般に大規模な虐殺や戦争犯罪は同時代人による現場の検証が困難であり、目撃者も全体の事象の中の極一部を目撃し、それを年月を経てから思い出しているに過ぎない。また、史料の残存状況も悪く正確な統計資料などは得られないことが普通である<ref name="岩崎リヒター2005p365">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 365</ref>。この結果として、虐殺における犠牲者の数などの数字が様々な史料や検証過程で矛盾し、その正確な確定はできない。この点を「検証」し、死者の数が一致しないことを強調して実際の数は遥かに少なかったに違いない、あるいは虐殺の事実そのものがなかったであろうという結論を導きだす<ref name="岩崎リヒター2005p365"/>。典型的には600万人とされるホロコーストによるユダヤ人の死亡数や、南京事件における30万人という数値がその対象となる<ref name="岩崎リヒター2005pp364_370">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], pp. 364-370</ref>。

また否定の論証においては、疑似科学的な専門的検証も行われる。ホロコースト否定においては、[[ロイヒター報告]]と呼ばれるガス室の検証などがこの典型である。自称「死刑の専門家」である[[フレッド・ロイヒター]]はポーランドでガス室跡の「検証」を行い、大量殺害を行った毒物の痕跡がほとんど検出されなかったことを報告した<ref name="武井2021p106">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 106</ref><ref name="岩崎リヒター2005p365"/>。これは実際に現地に行き化学物質の痕跡を確認するという一見科学的な手法を取っているが、実際にはロイヒターはこうした化学物質の検証を行う専門知識を持っていなかった<ref name="武井2021p108">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 108</ref><ref name="岩崎リヒター2005p365"/>。また、ロイヒターはアメリカの死刑執行施設(毒ガスを使っていた)とアウシュビッツの比較を行い、アメリカの施設に見られる設備(青酸ガスの温度調整設備など)がアウシュビッツに見られないことをガス室の否定の論拠とした。同じく一見「毒ガスによる処刑施設」という同じカテゴリーの「比較」であるが、実際にはアメリカの設備はただ一人の死刑囚を確実に死亡させるための特別室が用意されるものであったため、多数の人間を一括処理するアウシュビッツとは構造自体が異なり、さらにドイツとアメリカの施設の技術的な系譜も異なるために、同一の設備が存在しなければならない必然性がない<ref name="岩崎リヒター2005p367">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 367</ref>。

こうした「論証」方法は「『事実』なるものに過剰な負荷をかける仕掛け」と評される<ref name="岩崎リヒター2005p367"/>。即ち、ある事実が認定されるためにはある条件を満たさなければならないが、その条件は証明できないので、事実は存在しない、という論法である。これは例えば数字については「ユダヤ人の死者の数は、つねに間違いなく、平時の統計調査のように数字が特定されなくてはならない→死者数には特定不可能な点がある→したがって、そもそも死者は存在しない<ref name="岩崎リヒター2005p367"/>」や、「南京市の犠牲者数は、それを観察し研究するものによって、つねに同一の数値として特定できるものでなくてはならない→特異な状況に対するさまざまな位置からの証言が示す数字は、時間と空間の限定も異なっているために一致しないように見える→したがって、虐殺そのものははじめから存在しなかった<ref name="岩崎リヒター2005p368">[[#岩崎・リヒター 2005|岩崎・リヒター 2005]], p. 368</ref>」という形式をとり、行政文書に関連しては「ユダヤ人絶滅がナチによって組織的に遂行されるためには、それを命令するヒトラーの行政文書が存在するはずである→そのような典型的な命令書は発見できなかった→したがって、ホロコーストは存在しない」といった形を取る<ref name="岩崎リヒター2005p367"/>{{Efn|公文書を中心とした実証主義的な手法に依拠した戦争犯罪の検証は一般に困難である。典型的な事例であるホロコーストや南京事件は上層部門による公文書史料が乏しい。ホロコーストの犠牲者数はその総数についての総括文書が残されておらず、破棄を免れた実働部隊の統計資料などが研究の基本となる。しかし特にソ連領内の状況は確認困難であり、死者数は推計値以上のものにはなりえない<ref name="芝2008pp236">[[#芝 2008|芝 2008]], pp. 230-</ref>。南京事件の場合も、日本軍の現地司令官級の人物は「文書足跡」を残しておらず、その研究は現地にいた欧米人のジャーナリストの目撃証言や生存者からの聞き取り調査に大きく依拠している。だが、ジャーナリストは時間軸的にも地理的にも全体の経過の中の極僅かの部分を目撃したに過ぎず、生存者たちの証言は戦後の調査によるもので、8年以上の時間的懸隔がある<ref name="楊2000pp173_181">[[#楊 2000|楊 2000]], pp. 173-181</ref>。}}。

==== 陰謀論 ====
歴史修正主義と関連性が大きい思考の枠組みに[[陰謀論]]がある。陰謀論の特徴は現実に発生する出来事は見かけ通りのことはなく、また偶然でもなく、全て何らかの組織の意図や計画が背後に隠されているという思考の枠組みである<ref name="秦2022p5">[[#秦 2022|秦 2022]]. p. 5</ref>。一般に「事実」として受けいれられていることの背後に隠された「真実」があるはずであり、それを明らかにするという陰謀論の語り口は開戦原因や戦争責任の議論において頻繁に歴史修正主義的に適用される。

アメリカの学者ハリー・エルマー・バーンズは戦間期において第一次世界大戦へのアメリカの賛成は([[ウッドロー・ウィルソン]]大統領が主張したような)正義のためではなく、政治経済的な動機によるものであり、むしろドイツは被害者であったという主張を展開していた<ref name="武井2021p31">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 31</ref>。この観点自体は現在の歴史学においても誤ったものではないが、本来アメリカは外国の戦争に関与すべきではないのに、政治経済上の都合から不当にも戦争に引き込まれたという議論を強めたバーンズは第二次世界大戦後には陰謀論に傾斜していくようになる<ref name="武井2021p33">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 33</ref>。

バーンズが展開したのはアメリカ大統領[[フランクリン・ローズベルト]]が日本の[[真珠湾攻撃]]を察知していたにもかかわらず、第二次世界大戦への参戦を望んだため故意に警戒態勢を取らずにアメリカ太平洋艦隊を見殺しにしたという陰謀論であった<ref name="武井2021p33"/>。バーンズを始めとしたアメリカにおける修正主義の論者は、本来参戦を望んでいなかったアメリカ国民を欺いて戦争に引き込んだのはローズベルトであり、太平洋艦隊が前代未聞の大損害を被ったのは彼の陰謀によるものとして彼はその責任をとるべきであると主張した<ref name="須藤2004pp34_35">[[#須藤 2004|須藤 2004]], pp. 34-35</ref>。この陰謀説はアメリカでは特にローズベルトの前の大統領であった[[ハーバート・フーヴァー]]や[[ハミルトン・フィッシュ]]のようなローズベルトの政敵たちによって熱心に展開されることになる。特にフーヴァーは[[大恐慌]]を防げなかった無能な大統領というレッテルを覆そうと生涯をかけて努力を重ね、その中でローズベルトの陰謀を激しく批判した<ref name="須藤2004pp35_36">[[#須藤 2004|須藤 2004]], pp. 35-36</ref>。このアメリカにおけるローズベルト陰謀論は、真珠湾攻撃が卑劣な奇襲であるというローズベルトの見解に対し、事前に全てを知っていてわざと攻撃を成功させたのであるから非難されるにあたらず、むしろ日本はアメリカの謀略によって戦争に引き込まれたという主張の根拠として日本にも輸入されている<ref name="須藤2004p37">[[#須藤 2004|須藤 2004]], p. 37</ref><ref name="武井2021p34">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 34</ref>。

社会の背後で暗躍する組織や集団を想定する論法も好んで用いられる。典型的には[[ユダヤ陰謀論]]がそれであり、ホロコーストは[[シオニスト]]([[イスラエル]])がでっちあげ、これを利用してイスラエルが建国されドイツから補償金を奪い、[[パレスチナ]]人を抑圧して世界支配の計画を遂行しているというのは、ホロコースト否定論においてしばしば見られる論説である<ref name="武井2021pp74_76">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 74-76</ref>。[[日中戦争]]に関連して[[コミンテルン]]もこうした陰謀の主体として言及される。一般に[[関東軍]]によるとされる[[張作霖爆殺事件]]の真犯人をコミンテルンであるとしたり、[[蒋介石]]がコミンテルンに操られていた、従って日本だけが侵略の責任を負うわけではないと言った言説が代表的なものとなる<ref name="倉橋2018p50">[[#倉橋 2018|倉橋 2018]], p. 50</ref>。

こうした陰謀論は「ユダヤ人」や「共産主義者」という影で歴史を操る真犯人を想定することで、開戦責任の相対化や戦争犯罪の責任所在を曖昧化をする<ref name="倉橋2018p51">[[#倉橋 2018|倉橋 2018]], p. 51</ref><ref name="武井2021p33"/>。

== 法的規制 ==
欧米、特に[[ヨーロッパ]]においてはホロコーストや他の[[ジェノサイド]]の「歴史修正(否定)」は法的規制が進展しており<ref name="武井2021p179">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 179</ref>、「歴史修正主義」は[[法]]や[[表現の自由]]といった観点においても議論の対象となっている<ref name="武井2021pp179_185"/>。

ホロコースト否定論を巡る議論はしばしば法廷の場でも争われるが、こうした裁判ではしばしば「ホロコーストが事実であるか否か」の証明が裁判を通じて争われることで、裁判自体が否定論の宣伝の場として利用されることがある<ref name="武井2021p113">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 113</ref>。

2021年現在、ヨーロッパの約半数の国がホロコーストやジェノサイドの否定に対して何らかの形で法的な規制を実施している<ref name="武井2021p179">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 179</ref>。これらは主としてナチスによるユダヤ人の殺戮を否定する言説を規制する場合が多いが、フランスのようにより広くナチスの「[[人道に対する罪]]」の否定を禁止する([[ゲッソー法]])場合もあり<ref name="オックマン2020p33">[[#オックマン 2020|オックマン 2020]], p. 33</ref>、さらに旧共産圏の東ヨーロッパ諸国では共産主義体制下の犯罪行為の否定を禁止する事例が増えている<ref name="武井2021p181">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 181</ref>。

こうした規制はナチスの事例を始めとして近現代史のジェノサイドを対象としている。武井彩佳の指摘によれば、法的規制は「歴史の真実」を守るというよりも、否定論・歴史修正主義的な言説がその歴史的な事件を経験した当事者を攻撃する性質を帯びており、さらにそれは特定の人種・民族・集団への敵意の表現という性質を持つことから、特定集団への[[ヘイトスピーチ]]の一種として規制するものと捉えることができる<ref name="武井2021pp182_183">[[#武井 2021|武井 2021]], pp. 182-183</ref>{{Efn|1985年以来、ドイツではナチスの犯罪の否定を犠牲者の「侮辱」であるという理由で禁止している<ref name="三島1995p253">[[#三島 1995|三島 1995]], p. 253</ref>。}}。

一方で、こうした歴史言説の否定は[[表現の自由]]を侵害するという観点での批判もある。特定の歴史的事象を正しいものとしてそれに反する言説を規制することは、とりもなおさず国家が「公的な歴史」を規定することと同一の性質を持つ<ref name="武井2021p184">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 184</ref>。このため、法的規制を実施しない国も多く、特に[[アメリカ]]、[[イギリス]]、[[オーストラリア]]のような[[英米法]]の体系を持つ国では具体的な法規制に慎重である<ref name="武井2021p184"/>。しかし、このためにこれらの国は歴史修正主義の温床ともなっている<ref name="武井2021p184"/>。一方で、ホロコースト否定論などについて特に強力な規制を課すドイツでは、[[連邦憲法裁判所|憲法裁判所]]が「ホロコースト否定論は『虚言』であるゆえ、表現の自由の保障は認められない」との判断を出した。「つまり、嘘はそもそも『意見』ではなく、表現の自由の保障の対象にならない(武井)」として自由な言論とせず、多数の有罪判決を出している<ref name="武井2021p192">[[#武井 2021|武井 2021]], p. 192</ref>。

== 各国の修正主義を巡る議論 ==
「修正主義(Revisionism)」と呼ばれる歴史研究・歴史解釈の潮流ははドイツや日本の戦争責任論に留まるものではなく、また「修正主義」の名で呼ばれる論説は必ずしもホロコースト否認論に代表されるような歴史修正主義の言説と同種のものでもない。各国で独自の背景を持った歴史の「修正」の議論が展開されている。これらの「修正」の在り方は一様ではなく、その社会的な受容のされ方も異なる。以下に「修正主義」の名で呼ばれる、あるいは歴史の「修正」に関わる各国の議論の一部を例示する。


=== アメリカ ===
=== アメリカ ===
{{Quote box
[[渡辺惣樹]]は、アメリカにおける歴史修正主義とは、第二次世界大戦前の米英両国の外交に過ちはなかったか、あったとすれば何が問題だったのか、それを真摯に探ろうとする歴史観だが、「歴史修正主義者」と見做された学者は学会主流から排斥され、著書の出版を妨害されたり個人の評判を貶められたとしている。その後、次第に歴史修正主義に立つ歴史観が優勢になり、レッテル貼りの効果は急激に低下していると述べている<ref>[[渡辺惣樹]]『戦争を始めるのは誰か』 {{要ページ番号|date=2018年12月31日}}</ref>。
| quote = 来たる[[国立航空宇宙博物館]]のエノラ・ゲイ号の展示における、わが軍の男女の適切な描写に関する上院の見解をここに表明する。第二次世界大戦時のエノラ・ゲイ号の役割は、アメリカ人と日本人の命を救うという、第二次世界大戦の慈悲深い終結をもたらしたことへの貢献において重大なものであり、現行の国立航空宇宙博物館のエノラ・ゲイ号展示の台本は修正主義的で{{Efn|正統主義の立場における歴史認識は、[[広島]]と[[長崎]]への原子爆弾の投下がなければ第二次世界大戦は遥かに長引き、これなしで日本本土上陸作戦によって日本を降伏させていればアメリカ兵だけでさらに100万人の犠牲が出ており、その数倍の日本人が死亡した。従って原爆の投下はこれら予想される犠牲者の数を最小限に減らし多くのアメリカ人と日本人の命をも救うものであったというものである<ref name="藤田2019p25">[[#藤田 2019|藤田 2019]], p. 25</ref>。この認識を改める立場も「修正主義」と呼ばれる。エノラ・ゲイ号の展示に関わる議論においては、アメリカ在郷軍人会はこの救われたアメリカ人の「100万人」という数字に強くこだわった<ref name="藤田2019p23">[[#藤田 2019|藤田 2019]], p. 23</ref>。}}、多くの第二次世界大戦従事者とって侮辱的であり(中略)また連邦法が定めるところによれば、「わが軍の男女の勇敢かつ犠牲的な貢献は、アメリカの現在および将来の世代を鼓舞するように描写される」ものであるため、戦争におけるアメリカの役割を記念するに際し、国立航空宇宙博物館は、連邦法の下、当時の適切なコンテクストにおいて歴史を描写する義務を負うものである...
| source=-アメリカ合衆国上院国立航空宇宙博物館非難決議<ref name="藤田2019p21引用">[[#藤田 2019|藤田 2019]], p. 21の引用より孫引き。</ref>
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| width = 23em
}}
アメリカの歴史学の潮流としての「修正主義(リヴィジョニズム)」は1960年代以降盛んになった[[新左翼]]的な歴史認識を指すものでもある。これはアメリカ的[[自由主義]]のみを肯定的評価の尺度としアメリカ史を近現代世界史の基準とするような伝統的アメリカ史学を批判しその相対化を求める主張である<ref name="岡部2000p11">[[#岡部 2000|岡部 2000]], p. 11</ref>。アメリカの歴史修正主義は自国の政治・外交に対して批判的な立ち位置を取り、戦争や戦間期の外交についてもアメリカと敵対する国を共に中立的に扱おうとする<ref name="岡部2000p12">[[#岡部 2000|岡部 2000]], p. 12</ref>。アメリカの修正主義者たちの主張は[[ベトナム反戦運動]]や[[公民権運動]]の主張にも触発されていた。敗戦や戦争犯罪の反省といった背景を持たないアメリカの伝統史学は保守的・国家主義的傾向を持ち、修正主義史学は受け入れられない傾向にある<ref name="岡部2000p12"/>。こうした背景からアメリカにおける修正主義は1990年代以降日本などで隆盛した歴史修正主義と「修正」の方向性が異なっていることに注意する必要がある<ref name="岡部2000p12"/>。


これに関連して、アメリカでは第二次世界大戦中の日本への[[原子爆弾]]の投下を巡る歴史認識を巡る議論において「修正主義学派」と呼ばれる潮流が議論の一端を担っている。アメリカでは第二次世界大戦はドイツや日本といった侵略的な国家の拡張を食い止めた戦争(良い戦争)であると解釈されてきた<ref name="ヤング1998p240">[[#ヤング 1998|ヤング 1998]], p. 240</ref>。これは20世紀にはベトナム戦争中にうねりを見せた反戦運動の活動家たちも含めた社会の共通の認識であった。アメリカの学者{{仮リンク|マリリン・B・ヤング|en|Marilyn B. Young}}はこうした信条の例として、第二次世界大戦の時はシンプルにアメリカが善で枢軸国が悪だと認識できていたという元[[ニューヨーク州]]知事[[マリオ・クオモ]]を取り上げている{{Efn|「『わたしの生涯で最大の出来事は、第二次世界大戦だった』と前ニューヨーク州知事だったマリオ・クオモは最近のインタヴューで回想している。『そしてわれわれは、二度とそれを再現することはできなかった』。彼はこうつづけた。第二次世界大戦は、『この国が深く、たったひとつの大義を信じられた最後のときだった。それはなぜか。それは、[[東条英機|東条]]のせいだった。あのけしからん[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]のせいだった。[[ベニト・ムッソリーニ|ムソリーニ]]のせいだった。あのろくでなしめ。あのこそ泥たちは、真夜中にわれわれを襲った。われわれは善で、彼らは悪だった。団結しようぜ、とわれわれはいい、やつらをやっつけた。われわれはこの共同での取り組みの中に、この一般市民、社会、家族の中に、力を見いだした。一致団結するという考えは、わたしの生涯では、第二次世界大戦のときにいちばんいい結果をもたらした。あんな戦争は、これまでなかった』と、クオモはぼやいている。ヴェトナム戦争後の不快な数年間でさえ、アメリカ人はまだ思い出の中の一九四五年という陽光の中で身を温めることができそうだった<ref name="ヤング1998pp240_241">[[#ヤング 1998|ヤング 1998]], pp. 240-241</ref>。」}}。しかし、原子爆弾の投下という歴史上の出来事としての第二次世界大戦の文脈においてアメリカの正義を無条件に認めることへの懐疑を導き出すものであった。このため、ベトナム戦争や冷戦の終結といった歴史の節目に、戦争に関わる議論が盛んになる度に原爆投下をどのように理解するかを巡る歴史論争が生起した。原爆投下を巡る歴史研究には、その軍事的・道義的正当性を強調する正統主義学派(orthodoxy)、原爆投下の政治外交的な動機を重視する修正主義学派、そして軍事的動機と政治的動機の複合性から理解しようとする学派(藤田怜史はこれを「ポスト修正主義」と呼んでいる)という3つの潮流が存在している<ref name="藤田2019pp51_52">[[#藤田 2019|藤田 2019]], pp. 51-52</ref>。
[[林義勝]]によれば、アメリカでは、1990年代、歴史学あるいは歴史叙述の意味やその正当性を問う議論が、歴史学界の範囲を超えて国民の間に幅広い関心を引くようになり、1994年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校「{{仮リンク|全米歴史教育センター|en|National Center for History in the Schools}}」から発行された『合衆国史のための全国基準』をめぐる論争が起きた。[[スミソニアン協会]]傘下の[[国立航空宇宙博物館]]の[[エノラ・ゲイ#スミソニアン博物館展示騒動|展示企画が事実上中止に追い込まれた]]が、いずれも、その「修正主義的な」姿勢を問題にした保守的メディアや政治家との歴史認識をめぐる論争であった、という<ref>林義勝「アメリカにおける歴史認識をめぐって」[[歴史学研究会]]編『歴史における「修正主義」 シリーズ 歴史学の現在 4』青木書店、2000年5月25日 第1版第1刷発行、ISBN 4-250-99065-6、155~156頁。</ref>。これらの論争は、1960年代の社会の人種・エスニイスィティによる文化の差異を尊重することを求める多文化主義と、旧来の白人男性中心の伝統的・愛国主義的価値観に根ざした文化と社会を維持し続けるかどうかという「[[文化戦争]]」の一面と捉えられるという<ref>林 (2000)、156頁。</ref>。

また20世紀後半になると、公民権運動や[[性差別]]撤廃運動の興隆とともに、アメリカ史で「正統」の地位を占めていた[[白人]]の、しかも[[男性]]を中心とした伝統的価値観を見直し、より幅広い集団の歴史的経験を取り込んだ歴史が構築され教えられるようになった<ref name="林2000pp156_157">[[#林 2000|林 2000]], pp. 156-157</ref>。

1994年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校「{{仮リンク|全米歴史教育センター|en|National Center for History in the Schools}}」から発行された『合衆国史のための全国基準』をめぐる論争が起きた。1995年には[[スミソニアン協会]]傘下の[[国立航空宇宙博物館]]による、原爆投下を実行した爆撃機、[[エノラ・ゲイ#スミソニアン博物館展示騒動|エノラ・ゲイ号の展示企画が事実上中止に追い込まれた]]が、いずれも、その「修正主義的な」姿勢を問題にした保守的メディアや政治家との歴史認識をめぐる論争であった。これらの論争は、1960年代の社会の人種・エスニイスィティによる文化の差異を尊重することを求める多文化主義と、旧来の白人男性中心の伝統的・愛国主義的価値観に根ざした文化と社会を維持し続けるかどうかという「[[文化戦争]]」の一面と捉えられるという<ref name="林2000p156">[[#林 2000|林 2000]], p. 156</ref>。

これらの議論の文脈においては「修正主義」は「わが国は、本質的に悪い国である。アメリカのすべての観念は堕落しており、この国の歴史には、圧政と残虐行為の例が散乱している。アメリカの物語は、文化的帝国主義の物語であり、抑圧された白人男性たちがいかにして、自分たちの意思や価値観を温和な先住民族やアフリカから来た黒人奴隷、女性たちにおしつけていたかを物語っている([[ラッシュ・リンボー]])」ものだと理解され、保守派・正統主義の立場からの非難の言葉として用いられる<ref name="ウォレス1998p206">[[#ウォレス 1998|ウォレス 1998]]</ref>。


=== イスラエル ===
=== イスラエル ===
イスラエル現代史の文脈において「修正主義」という用語はまず[[ゼエヴ・ジャボチンスキー|ウラジーミル・ゼェヴ・ジャボティンスキー]]の主張に起源を持つ{{仮リンク|修正主義シオニズム|en|Revisionist Zionism|label=修正主義シオニズム}}を指す用語である。世界中に離散した[[ユダヤ人]]の{{仮リンク|大イスラエル|label=エレツ・イスラエル|en|Greater Israel}}(大イスラエル、[[パレスチナ]]およびその周辺)帰還を目指したのが[[シオニズム]]運動であるが、[[イギリス]]が第一次世界大戦中、[[パレスチナ]]にユダヤ人国家を建設することに同意した[[バルフォア宣言]]を出したことや、戦後処理によってパレスチナ地域がイギリスの[[委任統治領]]となるなどの政治情勢の変化に伴い、シオニズムの実現が現実味を帯び始めた。こうして[[イギリス委任統治領パレスチナ]]において、1920年代には現地住民であるアラブ人に対して「ユダヤ人多数派」を創出することが志向された<ref name="森2008p9">[[#森 2008|森 2008]], p. 9</ref>。
[[臼杵陽]]によれば、「{{仮リンク|新しい歴史家|en|New Historians|latel=新しい歴史学}}」{{refnest|group="注釈"|{{仮リンク|ベニー・モリス|en|Benny Morris}}は、アラブ人のユダヤ国家予定地からの追放に関し、シオニストによる組織的計画性には否定的であったが、国家予定地にできるだけアラブ住民を残さないという「暗黙の了解」があったと結論づけた<ref>臼杵 (2000)、62頁。</ref>。{{仮リンク|アヴィ・シュライム|en|Avi Shlaim}}は、シオニストとトランスヨルダンの[[アブドゥッラー1世|アミール・アブドゥッラー]]が共謀したうえでパレスチナ・アラブを犠牲にして[[第一次中東戦争]]でパレスチナを分割したと主張した<ref>臼杵 (2000)、66頁。</ref>。[[イラン・パペ]]は、イスラエル建国をめぐる最初のアラブ・イスラエル紛争の歴史を、犠牲者としてのパレスチナ人の運命を全面に押し出した<ref>臼杵 (2000)、70頁。</ref>。}}は、[[イスラエル]]建国にともなう暴力的な出来事を明るみに出し、イスラエルの国民性にとって危険になりつつある兆候を示し、彼らが提起した問題は、自分たちは被害者であり犠牲者であったという言説を孕んでおり、[[ホロコースト]]までもが[[パレスチナ問題|パレスチナ人難民問題]]と同じ土俵で論じられることになったが、{{仮リンク|イスラエル建国神話|en|The Founding Myths of Israel}}のタブーを破った「新しい歴史家」に対して、反対者からパルチザン的だとして「修正主義者」の「汚名」が着せられた、という<ref>[[臼杵陽]]「イスラエル現代史における「修正主義」-「新しい歴史家」にとっての戦争、イスラエル建国、そしてパレスチナ人-」[[歴史学研究会]]編『歴史における「修正主義」 シリーズ 歴史学の現在 4』青木書店、2000年5月25日 第1版第1刷発行、ISBN 4-250-99065-6、56頁。</ref>。「新しい歴史家」の{{仮リンク|ベニー・モリス|en|Benny Morris}}は、「修正主義」がイスラエルでは大イスラエル主義を唱える[[ゼエヴ・ジャボチンスキー|ウラジーミル・ゼェヴ・ジャボティンスキー]]の右翼的な{{仮リンク|修正主義シオニズム|en|Revisionist Zionism|label=修正主義シオニスト}}を示す用語であること、テイラーをはじめとする欧米の「修正主義者」が行っているような、ユダヤ人に対する[[ナチズム]]の犯罪を免罪するかのような「修正主義」が存在すること、{{仮リンク|冷戦の起源|en|Origins of the Cold War}}論争においてソ連を正当化する姿勢をとったアメリカの「修正主義者」と同一化されることへの拒否などから、その呼称を拒絶した<ref>臼杵 (2000)、56~57頁。</ref>。

この中で重要な運動であったのが、ジャポティンスキーが創始した右派の修正主義シオニズム運動と、左派の[[労働シオニズム]]運動であった<ref name="森2008p9"/>。この2つの運動は、当時の西欧列強諸国からユダヤ人国家という枠組みの政治的保障をとりつけパレスチナに国家を構築しようという主張(政治的シオニズム)と、実際のパレスチナへの植民活動を通じて現地にユダヤ人の定住社会を構築しこれを国家へと昇華しようとする運動(実践的シオニズム)という、それ以前のシオニズムの2大潮流というべき活動に源流を持つ<ref name="森2008pp9_11">[[#森 2008|森 2008]], pp. 9-11</ref>。シオニズムにおける「修正」という用語は歴史学的というよりは政治的な用語であり、その意図するところは実践的シオニズムの体現としてパレスチナへの入植を進める労働シオニズム運動に対し、これを19世紀末に開催された[[第1回シオニスト会議]]において組織化された政治的シオニズムの枠組みから「逸脱」したものとして「修正」するという立場を示すことであった<ref name="森2008pp9_11"/>。

「修正主義者」たちは政治的配慮から国家の建設や領土といった最終的な目標への言及に慎重であった労働シオニズムを批判し、エレツ・イスラエルの分割に繋がるあらゆる妥協を拒否し、国家建設の宣言をただちに行うことを要求した<ref name="森2008pp9_11"/>。ジャポティンスキーは左派が目指すイスラエル国家成立に向けてのアラブ人との交渉による合意は成立する余地がなく、ただ「鉄の壁(軍事力)」によってのみそれは成立しうるとした<ref name="森2008pp96_97">[[#森 2008|森 2008]], pp. 96-97</ref>。ジャポティンスキーの主張は、左派はアラブ人がシオニズムを理解していないから反対しているとしているが、そうではなくアラブ人はシオニズムを完全に理解しているからこそ激しく反対しているのであると主張した。そして現地のアラブ人にとってパレスチナこそが故郷であり民族的な存在の中心地である以上、そこにユダヤ人国家を構築することに抵抗するのはむしろ当然の反応であり、従って軍事力によってアラブ人を抑えユダヤ人を追い出せる可能性が無いことを認めさせた後にのみ初めてアラブ人と「合意」が可能であるとした<ref name="森2008pp96_97"/>{{Efn|「アラブ人が我々を追い出すことに成功するだろうという一縷の望みを持ち続ける限り、世界における何ものも-やわらかい言葉も魅惑的な約束も-彼らにこの希望を捨てさせることはできない。それは正に彼らが烏合の衆ではなく生きた人々だからだ。そして生きた人々は異邦人の入植者を追い出すというすべての望みを諦めた時にのみ、そして鉄の壁のすべての裂け目がふさがれた時にのみ、そのような運命的な問題について譲歩する用意ができるだろう。そうなって初めて、『否、決して』をスローガンとする極端主義的なグループが影響力を失い、彼らの影響力がより穏健なグループに移行するだろう。それから初めて穏健派が妥協のための提案を申し出るだろう。それから漸く彼らは、自分たちを追い出さないという保証や市民的・民族的な権利の平等といった実際的な問題について我々と交渉し始めるだろう<ref name="森2008pp97_98引用">[[#森 2008|森 2008]], pp. 97-98の引用より孫引き。</ref>」}}。

この修正主義シオニズムは1930年代には{{仮リンク|ブリット・ハビリョニーム|en|Brit HaBirionim}}(凶徒連合)という[[ファシズム]]的分派を出し<ref name="森2008p139">[[#森 2008|森 2008]], p. 139</ref>、また分裂の過程で誕生した地下軍事組織[[イルグン]]は現代[[イスラエル]]の右派政党[[リクード]]へと発展していく<ref name="森2008p139"/>。

[[臼杵陽]]によれば、イスラエルの歴史学において「修正主義者」という非難の言葉が用いられたのは1980年代末以降の「{{仮リンク|新しい歴史家|en|New Historians|latel=新しい歴史学}}」を巡る議論においてである<ref name="臼杵2000p56">[[#臼杵 2000|臼杵 2000]], p. 56</ref>。ユダヤ人が常に被害者・犠牲者であったという{{仮リンク|イスラエル建国神話|label=神話|en|The Founding Myths of Israel}}を公式化しているイスラエルにおいて、イスラエル建国過程における暴力的な出来事を指摘し、加害者・抑圧者としてのユダヤ人(イスラエル人)について述べる言説がイスラエルの学者{{仮リンク|ベニー・モリス|en|Benny Morris}}などによって発表されたことで激しい論争が展開されることとなった<ref name="臼杵2000p56"/>{{Efn|{{仮リンク|ベニー・モリス|en|Benny Morris}}は、アラブ人のユダヤ国家予定地からの追放に関し、シオニストによる組織的計画性には否定的であったが、国家予定地にできるだけアラブ住民を残さないという「暗黙の了解」があったと結論づけた<ref name="臼杵2000p62">[[#臼杵 2000|臼杵 2000]], p. 62</ref>。[[オックスフォード大学]]の{{仮リンク|アヴィ・シュライム|en|Avi Shlaim}}は、シオニストとトランスヨルダンの[[アブドゥッラー1世|アミール・アブドゥッラー]]が共謀したうえでパレスチナ・アラブを犠牲にして[[第一次中東戦争]]でパレスチナを分割したと主張した<ref name="臼杵2000p66">[[#臼杵 2000|臼杵 2000]], p. 66</ref>。[[イラン・パペ]]は、イスラエル建国をめぐる最初のアラブ・イスラエル紛争の歴史を、犠牲者としてのパレスチナ人の運命を全面に押し出した<ref name="臼杵2000p70">[[#臼杵 2000|臼杵 2000]], p. 70</ref>。}}。これに反対する論者は、こうした言説を「修正主義」として非難した<ref name="臼杵2000p56"/>。

ベニー・モリス自身はイスラエルにおいて「修正主義」はジャポティンスキー的な「修正主義シオニスト」を指す言葉であり、また欧米において[[ホロコースト否認]]論者が「修正主義」と呼ばれてもいること、{{仮リンク|冷戦の起源|en|Origins of the Cold War}}論争においてソ連を正当化する姿勢をとったアメリカの「修正主義者」と同一視されることへの拒否から、この呼称を拒絶した<ref name="臼杵2000p57">[[#臼杵 2000|臼杵 2000]], p. 57</ref>。そして、それにもましてベニー・モリスはイスラエルには「[[歴史学]]」の名に値する歴史記述など存在しておらず、従来の歴史家はシオニズムのイデオローグに過ぎずそもそも「正統派」が存在していないために「修正主義」などは論外であると主張した<ref name="臼杵2000p57"/>。アヴィ・シュライムは、この「新しい歴史家」という呼称は自己賛美的であり不適切としつつ、イスラエルの正統派の歴史は「歴史学以前」の代物であり「新しい歴史家」たちこそが真の「歴史学」に値する仕事をしていると評している<ref name="臼杵2000p58">[[#臼杵 2000|臼杵 2000]], p. 58</ref>。


=== 韓国 ===
=== 韓国 ===
[[尹健次]]によと、1970年代、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で、[[ベトナム戦争|ベトナム政策]]の誤りの追求、[[冷戦]]開始期の政策への疑念などから、正統派主流派の”公式見解挑戦する「修正主義」の立場、つまり[[リベラル]]側からの研究[[朝鮮争]]を含むアメリカのアジア政策の反省と再評価へと繋がり、1980代、修正主義理論に脚した[[ブルース・カミングス]]『朝鮮戦争の起源』などが、韓国の歴史学界に大きな影響を及ぼした、という<ref>[[尹健次]]「韓国に「修正主義」はあるのか」[[歴史学研究会]]編『歴史における「修正主義」 シリーズ 歴史学の現在 4』青木書店、2000年5月25日 第1版第1刷発行、ISBN 4-250-99065-6、29~30頁。</ref>。1980年代以降、韓国現代史に対する新しい解釈を持ち出した「修正主義史観」あるいは「民衆史観」などと呼ばれるものは、それ以の韓国の歴史研究、歴史認識、歴史教育に変化をもたらした、という<ref> (2000)、30頁。</ref>。
[[尹健次]]によれば、韓国で「修正主義」いう用語が一定の意図のもとで使用されたのは、アメリカの正統主義史学・公式見解に対する批判としての「修正主義」と関連してのことであった<ref name="尹2000p30">[[#尹 2000|尹 2000]], p. 30</ref>。ベトナム戦争などを契機としたアメリカの正統派主流派の見解にする「修正主義」見直しは同時に後のアメリカのアジア政策の再評価をも促した。1981修正主義場をとっていた[[ブルース・カミングス]]『朝鮮戦争の起源』を刊行すると、韓国の若手研究者たちの間に大きな影響を及ぼした。1980年代以降「修正主義史観」あるいは「民衆史観」(民族史観<ref name="木村2020">[[#木村 2020|木村 2020]]</ref>)などと呼ばれるものそれであり、の韓国の歴史研究認識教育に大きな変化をもたらした<ref name="2000p30"/>。


1970年代は韓国の歴史学界においては世代交代の時期でもあった。独立後の韓国における[[朝鮮の歴史|韓国史・朝鮮史]]の研究は[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]](1910年-1945年)に主として[[朝鮮総督府]]傘下の組織や[[京城帝国大学]]の下で働いていた日本人学者による研究状況を引き継いでいた<ref name="木村2020p27">[[#木村 2020|木村 2020]], p. 27</ref>。日本時代の研究は植民地支配の正当化を図ったものとして激しい批判に晒されることとなったが、初期の韓国の歴史学界を担ったのは日本統治時代末期に[[旧制高等教育機関|高等教育]]を受け、日本留学経験を持つ研究者たちであり、1970年代まで彼らが学界の重鎮として大きな影響力を持っていた<ref name="木村2020pp27,35">[[#木村 2020|木村 2020]], pp. 27, 35</ref>。
=== ドイツ ===
1986年6月6日、{{仮リンク|エルンスト・ノルテ|de|Ernst Nolte}}は『[[フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング|フランクフルター・アルゲマイネ]]』紙で「過ぎ去ろうとしない過去」を発表し、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ]]はソ連の「[[収容所群島]]」の模倣であり、{{仮リンク|カンボジア・ジェノサイド|en|Cambodian genocide|label=ポル・ポトの大虐殺}}などと比較可能であるとして、[[ホロコースト]]の歴史的意味合いを相対化しようとした<ref>[[石田勇治]]「現代ドイツの歴史論争」[[歴史学研究会]]編『歴史における「修正主義」 シリーズ 歴史学の現在 4』青木書店、2000年5月25日 第1版第1刷発行、ISBN 4-250-99065-6、184頁、エルンスト・ノルテ著/清水多吉・小野島康雄訳「過ぎ去ろうとしない過去 <small>書かれはしたが、行われなかった講演</small>」ユルゲン・ハーバーマス、エルンスト・ノルテ他著/徳永恂、清水多吉、三島憲一、小野島康雄、辰巳伸知、細見和之訳『過ぎ去ろうとしない過去 <small>ナチズムとドイツ歴史家論争</small>』人文書院、一九九五年六月三〇日 初版第一刷発行、ISBN 4-409-51035-5、39~49頁。</ref>。[[ユルゲン・ハーバーマス]]は、ナチ犯罪を絶対無比のものと捉え、ドイツ人はアウシュヴィッツという極限を経験することでようやく普遍的な西欧理念に辿り着くことができたとし<ref name="石田2000-185">石田 (2000)、185頁。</ref>、ノルテ、{{仮リンク|アンドレアス・ヒルグルーバー|de|Andreas Hillgruber}}、[[ミヒャエル・シュテュルマー]]らを「修正主義」的であるとして、[[ヘルムート・コール]]政権の進める[[国家主義]]的歴史政策と連動していると非難した<ref>[http://www.zeit.de/1986/29/eine-art-schadensabwicklung Eine Art Schadensabwicklung 11. Juli 1986, 8:00 Uhr Die apologetischen Tendenzen in der deutschen Zeitgeschichtsschreibung] - 『[[ディー・ツァイト]]』Von Jürgen Habermas{{de icon}}</ref>({{仮リンク|歴史家論争|en|Historikerstreit}})。この論争の背景には、「保守的転換」を標榜する[[ヘルムート・コール|コール]]政権の歴史政策と、これに批判的な左翼知識人との対立があった、という<ref name="石田2000-185"/>。


「植民地史観」とも呼ばれる日本統治時代の朝鮮史理解は、朝鮮社会の停滞性と他律性(あるいは[[事大主義|事大性]])を強調するものであったことが韓国の歴史認識の確立において特に強い反発の対象であった<ref name="尹2000p34">[[#尹 2000|尹 2000]], p. 34</ref><ref name="木村2020p27"/>。そして[[北朝鮮]]の歴史学動向の影響もうけつつ、朝鮮社会の自律的発展、自生的な資本主義への道を強調した[[内在的発展論]](朝鮮の近代化が日本の植民地統治によってもたらされたのではなく、朝鮮は本来独自に近代化の道を進んでいたのであり、これが植民地体制に組み込まれていく過程で変容していったとする)が提起されたが、基本的な近代史理解の枠組みは日本時代のそれを引き継いでおり、朝鮮(韓国)の近代化は萌芽段階に留まり、[[朝鮮王朝]](李氏朝鮮)社会の硬直性故に資本主義的発展は十分に進まず最終的に独立を喪失するという帰結を迎えたと理解された。そのため歴史学においては朝鮮史における「近代化阻害要因」を探すことに関心が向けられていた<ref name="木村2020p37">[[#木村 2020|木村 2020]], p. 37</ref>。1980年代に入ると日本統治時代の経験を持たない新世代の歴史学者の台頭、そして韓国の民主化という大きな政治的変動の中で「内在的発展」をより強調した新たな韓国史像が作られていくこととなる<ref name="木村2020pp38-52">[[#木村 2020|木村 2020]], pp. 38-52</ref>{{Efn|木村幹の整理によれば、同じ頃に日本でも朝鮮史研究者の世代交代が起きていた。日本の戦後朝鮮近代史研究は韓国の第一世代に近い、戦前に高等教育を受けた世代と、戦後に彼らを批判する形で台頭した第二世代と言える人々が担っていた。しかし第二世代は絶対数が少なく一人の研究者が広範な領域をカバーする必要性に迫られたために実証面において多くの問題を抱えることとなった。1980年代に入ると第三世代と呼ぶべき多くの若手研究者が朝鮮史研究に参入し、それ以前の研究に実証的な観点から批判を加えた。1980年代以降の韓国史学界が朝鮮の「内在的発展」論の不徹底を批判してそれを更に推し進めたのに対し、日本では「内在的発展論」の限界に批判が行われ、イデオロギー的な色彩を帯びた議論として過去のものとなって行った。このため1980年代を境に日本と韓国で朝鮮近代史像が大きく乖離し始めた。木村幹はこの研究史的な潮流の差異20世紀後半以降の日本と韓国の歴史館を巡る対立の背景の1つと指摘する<ref name="木村2020p57">[[#木村 2020|木村 2020]], p. 57</ref>。}}。
=== 日本 ===
{{seealso|第一次教科書問題|歴史教科書問題#第二次教科書問題|歴史戦}}
[[高橋哲哉]]によれば、「1990年代後半に「[[自虐史観]]」批判を掲げて登場し、「[[日本の慰安婦問題|日本軍〈慰安婦〉問題]]は国内外の[[反日]]勢力の陰謀」「[[南京事件|南京大虐殺]]はなかった([[南京事件論争]])」とまで叫ぶに至った([[藤岡信勝]]を始めとする「[[自由主義史観]]研究会」「[[新しい歴史教科書をつくる会]]」などの)勢力が「日本版歴史修正主義」と呼ばれるようになった。」という<ref name="高橋2001-iii"/>。[[小浜逸郎]]によれば、「[[左翼|サヨク]]の用いた[[レッテル]]のうち、「[[軍国主義者]]」「[[ナショナリスト]]」「[[ショーヴィニスト]]」「[[ネット右翼|ネトウヨ]]」などの次にきたのが「歴史修正主義者」であり、新しい研究や発掘や考察に基づいて歴史を修正する(見直す)なら、悪いことではないが、実際には、専らサヨクが悪意をもって保守派に投げつけるネガティヴなレッテルとして使われた。」という<ref>[[小浜逸郎]]『デタラメが世界を動かしている』[[PHP研究所]]、2016年5月 ISBN 978-4-569-83040-7、333頁。</ref>。[[加地伸行]]によれば、「歴史上の事で確定していることを改新しようとしているとして非難するときに「歴史修正主義」というレッテルを貼っている。保守派が左筋の歴史観を自虐史観として批判しているが、それを歴史修正主義と称して左筋は非難しているわけである。」という<ref>[[加地伸行]]「「歴史修正主義」のレッテルは権力闘争の道具」『マスコミ偽善者列伝 建て前を言いつのる人々』[[飛鳥新社]]、2018年 ISBN 978-4-86410-597-2、112~115頁。</ref>。


ただし、こうした韓国史像の変化・修正が「修正主義」という概念の下で理解され得るかは明確ではない。尹健次は「韓国に『修正主義』はあるのか」というテーマで論考を立てているものの、それにはっきりとした回答を与えておらず<ref name="尹2000p50-51">[[#尹 2000|尹 2000]], pp. 50-51</ref>、[[木村幹]]は1970年代から80年代にかけての韓国史学界における自国史理解の変化を「修正主義」という用語で説明していない<ref name="木村2020"/>。
1995年1月に[[日本]]で「ホロコーストは作り話だった。ナチ・ガス室はなかった」と主張する論説を掲載した[[文藝春秋|文藝春秋社]]の月刊誌『[[マルコポーロ (雑誌)|マルコポーロ]]』がアメリカのユダヤ人団体から指摘・批判を受けて廃刊になった([[マルコポーロ事件]])。


=== アイルランド ===
[[山崎雅弘]]は、戦後の歴史観を「[[自虐史観]]」と批判する歴史修正主義者は、先の戦争中に[[大日本帝国]]が[[国策]]として展開した「思想戦」や「宣伝戦」の継続を行っているとしており、また、[[日中戦争]]、[[太平洋戦争]]中に[[大日本帝国]]が展開した「思想戦」や「宣伝戦」の継続だとしたら、後者が最終的にどのような結果を日本にもたらしたかを踏まえることで、「思想戦」や「宣伝戦」の行く末や、それが日本国民にもたらしうる結果についても、ある程度予見することができる(日本が世界から孤立し、敗北する)と主張している<ref>{{Cite book|和書|title=山崎雅弘. 歴史戦と思想戦 ――歴史問題の読み解き方 kindle版|date=2019/5|year=2019|publisher=集英社新書|page=位置番号22-197/3444}}</ref>。
アイルランド史において{{仮リンク|修正主義 (アイルランド)|label=修正主義者(リヴィジョニスト)|en|Revisionism (Ireland)}}とは、イギリス支配を否定し「貧困」を始めとした[[アイルランド]]が抱える諸問題の根源をイギリス統治に求める民族主義史観と呼ばれる見解を解体して新しいアイルランド史像を描き出そうとした歴史家たちを指す<ref name="高神2000pp111-113">[[#高神 2000|高神 2000]], pp. 111-113</ref>。民族主義史観はイギリスに対するアイルランド人の抵抗を基調に据え、1916年の[[イースター蜂起]]およびその後の[[アイルランド独立戦争|独立戦争]]という武力闘争を1922年のアイルランド独立(南部26州)の達成要因として重視する。そして独立後のアイルランド政府は独立の正当性を民族主義的な歴史解釈によって確立しようとしており、このような民族主義史観の解釈が歴史教育の一般方針とされた<ref name="高神2000pp111-113"/>。

こうした民族主義史観は実証性を欠きがちであった。その「非科学性」を批判した歴史学者{{仮リンク|セオドア・ウィリアム・ムーディー|en|Theodore William Moody}}を中心とするグループは、ランケ流の実証主義的な歴史学による「科学的な」アイルランド史を模索した。彼はイギリスの歴史学界の動向からも影響を受け「アイルランド独立を頂点とし、すべてがそれに収斂していくという」民族主義史観を書き換えようとした<ref name="高神2000p113">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 113</ref>。このアイルランド歴史学界の潮流が修正主義や修正主義学派という名で呼ばれる。

修正主義者による民族主義史観への批判は1969年以降の[[北アイルランド問題|北アイルランド紛争]]の激化や、アイルランドの[[ヨーロッパ共同体|EC]]加盟に伴い激しさを増した。「ヨーロッパ人」としてのアイルランド人のアイデンティティの確立が必要とされる中での民族主義史観の中核を成す[[ナショナリズム]]への疑問、さらには独立後のアイルランドが抱える多くの問題からくる、「アイルランドは本当に独立するべきだったのか」という問いかけがこの潮流の中にあった<ref name="高神2000p114">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 114</ref>。そして修正主義者はアイルランド独立における武力闘争の側面ではなく、平和的な独立を目指した(イギリス時代の)合法的な民族運動に光を当てるべきだとも主張した<ref name="高神2000pp115-118">[[#高神 2000|高神 2000]], pp. 115-118</ref>。この批判は、民族主義史観がアイルランド史をイギリスに対する闘争の歴史として描き、北アイルランドの回収まではアイルランドの独立は部分的にしか達成されないとしていることが、テロ活動を繰り返す武装組織[[アイルランド共和軍]](IRA)の活動を正当化しているという批判でもあった<ref name="高神2000p110">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 110</ref>。

一方でムーディーやその後身の修正主義史家の過剰な「修正」に対する批判の声も次第に大きくなった。この批判は専門の歴史学者よりも画家・哲学者・文芸評論家などの間で強く主張され、アイルランドの修正主義論争は「修正主義史家と民族主義史家とのあいだではなく、専門の歴史家と、歴史家とはいえない民族主義的知識人とのあいだで本格化したといえる(高神)」<ref name="高神2000p122">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 122</ref>。民族主義的知識人たちはイギリス支配を正当化しアイルランド人の抵抗を不必要なものとして描く修正主義を否定し、アイルランド史は国民が国家に誇りを持つように書かれなければならないとした<ref name="高神2000p122"/>。

現代歴史学の観点からアイルランドの歴史学者の多くは民族主義史観に批判的である<ref name="高神2000pp122_123">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 122-123</ref>。一方で、アイルランドの修正主義史家は、IRAの活動を正当化するような民族主義史観の批判に積極的に取り組んできたものの、そのために客観的な分析よりも武力闘争による民族運動を否定することに主眼をおいた解釈を提示しており、武力闘争を伴う民族運動を過小評価し合法的民族運動を過大評価しているともされる<ref name="高神2000pp125_126">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 125-126</ref>。その後、IRAの武力闘争の停止なども相まって、アイルランド史研究は修正主義史観の「修正」という方向に進路を取り、修正主義史家の解釈に対する実証的批判が行われている<ref name="高神2000p127">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 127</ref>。西洋史研究者[[高神信一]]は、イギリスがアイルランドを植民地化した事実が消え去ることはなく、北アイルランド紛争も解決しない以上、アイルランド史解釈は民族主義史観と修正主義史観を振り子のように振れ続けるであろうと述べる<ref name="高神2000p127">[[#高神 2000|高神 2000]], p. 127</ref>。


==脚注==
==脚注==
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{{Reflist|2}}
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==関連文献==
=== 参考文献 ===
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* {{Cite book |和書 |author={{仮リンク|マリリン・B・ヤング|en|Marilyn B. Young}} |translator=[[島田三蔵]] |chapter=ヴェトナムと「良い戦争」|title=戦争と正義 エノラ・ゲイ展論争から|series=[[朝日選書]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1998-8 |isbn=978-4-02-259707-6 |ref=ヤング 1998 }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[トマ・オックマン]] |other=[[山元一]]監訳、[[橋爪英輔]]訳 |date=2020-6 |title=フランス法における歴史修正主義と憎悪表現 |journal=[[法學研究]] |volume=93 |issue=6 |pages=31-44 |publisher=[[慶応義塾大学|慶應義塾大学法学研究会]] |crid=1050850092122588928 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20200628-0031 |accessdate=2022-10-15 |ref=オックマン 2020}}
* {{Cite book|洋書|editor1-last=Krasner|editor1-first=Barbara|title=Historical Revisionism|url=https://books.google.com/books?id=N7jXDwAAQBAJ|series=Current Controversies|location=New York|publisher=Greenhaven Publishing LLC|date=2019|page=15|isbn=9781534505384|accessdate=2020年4月4日|ref=Krasner 2019}}

=== 関連文献 ===
*[[鹿島徹]]『可能性としての歴史 ―越境する物語り理論―』岩波書店、2006、ISBN 4000224654
*[[鹿島徹]]『可能性としての歴史 ―越境する物語り理論―』岩波書店、2006、ISBN 4000224654
*松浦寛「ロベール・フォリソンと不快な仲間たち ―歴史修正主義の論理と病理―」上智大学仏語・仏文学論集2000年3月。[https://ci.nii.ac.jp/naid/110000187424/]
*松浦寛「ロベール・フォリソンと不快な仲間たち ―歴史修正主義の論理と病理―」上智大学仏語・仏文学論集2000年3月。[https://ci.nii.ac.jp/naid/110000187424/]
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*山田朗『歴史修正主義の克服』高文研、2001
*山田朗『歴史修正主義の克服』高文研、2001
*小田中直樹「歴史理論(回顧と展望―二〇〇四年の歴史学界)」(『史学雑誌』114-5、2005年)
*小田中直樹「歴史理論(回顧と展望―二〇〇四年の歴史学界)」(『史学雑誌』114-5、2005年)
*倉橋耕平「歴史修正主義とサブカルチャー ―90年代保守言説のメディア文化―」青弓社 2018年2月 ISBN 978-4787234322
*[[ユルゲン・ハーバーマス]]『近代 未完のプロジェクト』岩波現代文庫
*[[ユルゲン・ハーバーマス]]『近代 未完のプロジェクト』岩波現代文庫


==関連項目==
==関連項目==
* '''全般'''
*[[ネット右翼]]
*[[Qアノン]]
** [[歴史学]]
*[[陰謀論]]
*** [[実証主義]]
*[[否認主義]]
*** [[史料批判]]
*[[歴史認識]]
** [[歴史認識]]
* '''戦争責任論'''
*[[白人至上主義]]
** [[戦争責任]]
*[[アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件]]
** [[人道に対する罪]]
*[[否定と肯定]]
** [[ジェノサイド]]
*[[ウクライナにおける「ネオナチ問題」]]
** [[ホロコースト否認]]
** [[南京事件論争]]
** [[慰安婦問題]]
** [[否認主義]]
* '''陰謀論'''
** [[陰謀論]]
* '''個別の事項'''
** [[反ユダヤ主義]]
** [[ホロコースト]]
** [[白人至上主義]]
** [[南京事件]]
** [[日本への原子爆弾投下]]
** [[アルメニア人虐殺]]
** [[パレスチナ問題]]
** [[忘却政策]]
** [[北アイルランド紛争]]
** [[ウクライナにおける「ネオナチ問題」]]
** [[東欧革命]]
* '''社会'''
** [[ネット右翼]]
** [[Qアノン]]
* '''その他'''
** [[アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件]]
** [[否定と肯定]]


==外部リンク==
==外部リンク==

2022年11月23日 (水) 15:12時点における版

歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、: Historical revisionism)とは、歴史の再定義や再解釈の言説を指す用語である。一般に否定的・批判的な意味合いを込めて使用されることが多く、特に第二次世界大戦に関わる戦争犯罪戦争責任に関わる議論で、それを否定または相対化する言説を指して歴史修正主義という用語が使用される。

確立された歴史を「修正」することそれ自体は歴史の記述を発展させ洗練させるための一般的なプロセスであり、特に議論を呼ぶものではない[注釈 1]。しかし、主流の歴史家が(例えば)正の力と捉えていたものが負の力として描かれるような、道徳的知見の逆転を含む議論は遥かに物議を呼ぶ。このような修正は、主流の見解の支持者から(特に激しい言葉で)異議を唱えられる。そして不適切な方法を用い、あるいは最初から事実と異なる言説を広めること、ジェノサイドの否定などを目的とする場合には、特に批判の対象とされる。欧米圏においてはホロコースト否認に代表されるような事実と異なる歴史像を広めることを意図して史実を否定する言説は「歴史修正主義」ではなく「否定論denial)」と呼ぶようになっており[2]、西欧ではこの種の言説に法的規制を設定し違法化している国が複数ある[3]

日本語の「歴史修正主義」という用語は翻訳語であるが[4]、欧米圏における"Historical revisionism"よりも広く、曖昧な意味合いで使用され、単なる歴史の再解釈や俗説を指す場合もある[5]

語義

「歴史修正主義」は歴史的事実の全面的な否定や意図的な矮小化、逆にある特定の側面のみの誇張、政治的な意図を持った歴史の書き換えなどを指してネガティブな意味合いで用いられる用語である[6][7]

歴史学的な成果を無視した歴史の「修正」の問題は20世紀後半以降、とりわけナチス・ドイツによって行われたユダヤ人に対する虐殺の否定(ホロコースト否定)や矮小化、第二次世界大戦戦争責任論に関連している[6][4][7][8]。ホロコースト否定論者の中には自ら「歴史修正主義者」を名乗って宣伝活動を行っている者もいるが[9]、欧米においてはこの種の、最初から事実と異なる歴史像を広めることを意図して史実を否定する言説は「歴史修正主義」ではなく「否定論(denial)」と呼ぶようになっている[2]。そして否定論の論陣をはる人は「否定論者(denier)」と呼ばれる[2]。しかし、日本語では「歴史修正主義」と「否定論」は明確に区別されておらず、「歴史修正主義」という用語は両者を含んだ広い意味合いで使用されている[10]

このナチズムに関わる「歴史修正主義」の論理・心性が日本の戦争責任論における否定論と類似すると見られることから[11]、日本近現代史においては戦時中の日本軍の行為、いわゆる南京事件(南京大虐殺)の否定や従軍慰安婦を自発的な娼婦と見なす観点を指して「歴史修正主義」という用語が用いられる[6][7]。ただし、これらは欧米社会がホロコーストに当てはめる基準においては明確に否定論の分類に入る[5]。日本語の「歴史修正主義」という用語はさらに広く曖昧な意味でも用いられ、学術的な再検証や単なる根拠の乏しい歴史の俗説を含むこともある[5]

さらに、これらと同様の歴史の否認メカニズムはオスマン帝国におけるアルメニア人虐殺ユーゴスラヴィア内戦におけるセルビアクロアチア双方の主張に見られることが指摘されており、第二次世界大戦におけるドイツや日本に関連する言説だけに留まらない普遍的な主題とされる[11]

用語の成立

日本語の「歴史修正主義(英語:histrical revisionism、独語:Geschichtsrevisionismus)」という用語は翻訳語である[4]。「修正」という用語が明確に政治的な意味合いを帯びて登場したのは19世紀末のフランスで発生したドレフュス事件である[12]。フランスの歴史学者ヴィダル=ナケは、ユダヤ系軍人ドレフュスの冤罪を巡る裁判の後まとめられた『ドレフュス事件史』に対して、ドレフュスの有罪を主張する右派団体の構成員が、ドレフュスの有罪を立証するために虚偽を入り交ぜた「事実」をまとめた本を『ドレフュス事件史』の「修正版」と銘打って出版した事例を「歴史の否定という意味での歴史修正主義の『文学的起源』としている」[13][14]

次いで「修正主義」という用語がイデオロギー的な派閥を指す用語として用いられたのは社会主義運動の中における議論と権力闘争におけるレッテルとしてであった[15][4]。19世紀末、カール・マルクスの理論に基づき、階級闘争が激化し自然にブルジョワ社会が崩壊して革命に至るだろうという理論を支持する社会主義者の主流派は、現実の状況がこれに合致していないとして理論の修正や改良を迫る者を侮蔑的な意味合いをこめて「修正主義者」と呼んだ[16]。20世紀においてもトロツキースターリンが相互を修正主義者としたのを始め、共産主義国家では政治の場における非難の言葉として「修正主義」が用いられた[17]

岩崎稔シュテフィ・リヒターによれば、社会主義運動におけるレッテルとして使用されていた「修正主義」という用語が「歴史の解釈をめぐって用いられるようになったのは、厳密に言えば、ナチスドイツの行った行為をヨーロッパ現代史のなかでとのように理解するのかという点で、テイラーフィッシャーが1960年代に引き起こした論争的な議論に端緒を発している。」[4][注釈 2]"。

歴史学における「修正」と「歴史修正主義」

歴史学において既存の歴史を「修正」することそれ自体は学術的な営みであり特異なものとはみなされない。新たな史料、視点、解釈など様々な要素によって研究者たちは常に歴史を更新し続けている。しかし、その中である種の特徴を持つ言説は特に「歴史修正主義」として分類され、多くの場合は非難の対象となる。

近代的な意味での歴史学は概ね19世紀頃に確立された。近代実証史学、あるいは近代歴史学の父と呼ばれるレオポルド・ランケは個人の主観を排して「それが実際にいかにあったか(wie es eigentlich gewesen ist)」のみを語るという有名なフレーズを書き残している[19][20]。これはフィクションや理念から始まって哲学を語るのではなく、事実のみを集めた実証的・客観的な歴史を再構築するという実証史学の立場を端的に表す表現である。しかし、歴史的「事実」は常に過去のものであり物理的に存在していない。そのためランケが実際に収集することが可能であった「事実」とは過去に書き記された(公)文書であった[21]。しかし、書き残された文書がどれだけ事実を「確証」しているかという点が問題であった。文書を深く読み込むことで不動の「事実」を確立していくというランケ的な立場は歴史学の主流となったが[22]、ある歴史過程全体を叙述しようとした時、複数ある史料のどれを重視するか、相互に矛盾する記録をどのように解決するか、併記するならば比重をどう置くかという問題が常に存在し、関連する史料を全て集め確認することの物理的な不可能性、史料に書かれなかったことの重要性なども相まって、歴史を叙述する側の判断と評価が介在せざるを得ない[23][20]。さらに史料の精査(史料批判)を担う歴史学者自身も、ある時代、ある社会の価値観、文化的な枠組み、宗教的な世界観から自由であることはできず、さらに人間の思考は言語による制約を受ける[24]

こうした問題は歴史上の客観的事実を示すこと、あるいは公平な観点といった命題の不可能性を提起する[25][26]。これに対して歴史学者E・H・カーは講演集『歴史とは何か』において歴史をに例えて「見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるということにはなりません。歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません[25]」と説明している[26]。実際のところ、歴史学は過去の実像を細部まで完全に再現する手段を持たない。しかし、可能な限りにおいて多様な手段、史料を用いることで欠如部分はある程度想像力によって補い、蓋然性の高い推論を導き出して歴史の全体像を把握することができると考える[27]

史料から歴史を復元する以上、新たな史料の発見、旧来の史料の見直し、新たな視点の導入など様々な要因によって歴史学が描き出す「歴史」は変化し得る。また、歴史学者の個性・文化的背景によって史料の選別の仕方、ある事実に対する評価や重要性もまた変化し、その客観性には制約が存在する[28][29]。さらに学界の外側を取り巻く様々な階層・背景の歴史に関心を持つ人々、あるいは持たない人々歴史の叙述に関与しており、こうした人々が歴史の選択や叙述に期待するものは多種多様であり専門家や学界の大勢とは一致しない[30]

このため、そもそも不変の存在ではない歴史を「修正」すること自体は歴史学において元来学術的な行為であり、様々な要因から既存の歴史が「修正」され、さらにはそれが主流派の見解となることも当然起こり得るものである[29]。こうした学術的な歴史の修正と「歴史修正主義」とされる歴史の修正の差異は、政治的意図の存在にあるとされる[31]。つまり、現在の政治的な主題に対する効用を意図して、「過去」を修正ないし隠蔽する、あるいは現在の体制の正当化や現状を必然的結果とみなすため、逆に現状を批判するために特定の筋書きを提供することが「主義(イズム)」としての「歴史修正主義」と言える[31]

世界大戦の戦争責任と歴史修正主義

第一次世界大戦の原因論と開戦責任

歴史の「修正」が現実の政治に関わる問題として具体的な課題とされたのが第一次世界大戦(1914年-1918年)の原因・戦争責任論であった。第一次世界大戦の勃発後、参戦諸国は国内外への世論工作の一環として旧来秘密であった外交文書を公表し始め、さらにロシア革命に際してボリシェビキによって秘密外交の暴露が行われた。これらは「現代史」の本格的な発展を促したが、大戦の開戦原因の追究は当時の政治的問題と直結していたため関係国の政治・外交上の要求と密接に関連していた[32]。また、総力戦となった第一次世界大戦がもたらした戦災はヨーロッパ諸国の戦争観・歴史認識に多大な影響を与えた。侵略戦争を違法とする観念や超国家的制度によって主権国家の行動を抑制しようとするインターナショナリズムが第一次世界大戦後の国際政治に影響を及ぼすようになっていくのはこの頃からである[33]

大戦に敗戦したドイツでは開戦責任の認識は深刻な問題であった。ドイツは戦後処理にあたって巨額の賠償請求や領土の割譲を課せられたが、この根拠となったのが第一世界大戦の開戦責任がドイツおよびその同盟諸国にあるという認識であった[32][34]。ドイツでは開戦責任の一方的な押し付けとしてこれに対する強い反発が生まれ、戦争責任の所在についての認識を「修正」することは国家的な要請となった。この結果、イギリス・フランスの学者とドイツの研究者の間で「戦争責任論争」が引き起こされた[32]。実際の政策における連合国側の正当性を崩すことを企図して、ドイツ外務省には戦争責任課が作られ、外郭団体として「戦争原因研究本部」が作られて、戦争責任に対する認識を「修正」するべく研究の蓄積と諸外国への宣伝、広報活動が行われた[35][注釈 3]

アメリカの側では、第一次世界大戦への参戦が旧大陸への不干渉という伝統的な政策を不当に転換させたものであるという批判の観点から開戦原因の再検討が進められた[37]。大統領ウッドロー・ウィルソンへの批判や反ユダヤ的なウォールストリート批判、孤立主義の追求とない交ぜで進んだ開戦責任論の追及は一種の政治運動となっていった[38]。この議論の中で、20世紀初頭の代表的な「歴史修正主義者」とされるハリー・エルマー・バーンズ英語版1927年、"The Genesis of the World War"(『世界大戦の起源』)で、第一次世界大戦の原因をドイツ帝国を中心とした中央同盟国では無く、露仏同盟側であるとした[39]。ドイツ外務省はこのバーンズの言説に国益を見出し、バーンズを支援した[40]

第二次世界大戦をはさみ、1961年に発表されたF・フィッシャー『世界強国への道: ドイツの挑戦, 1914-1918年 (Griff nach der Weltmacht: Die Kriegzielpolitik des kaiserlichen Deutschland 1914–1918)』は逆に、ドイツは世界強国となるべく自発的に戦争を起こしたと主張した(フィッシャー論争)。

第二次世界大戦と戦争犯罪

第二次世界大戦は史上最大規模の戦争となり、その最中に行われた戦争犯罪や戦前期からの人権問題はいわゆる「歴史修正主義」における中心的な論点となっている。ナチス・ドイツ期におけるユダヤ人の迫害、とりわけホロコーストの否定または矮小化(否認論)、あるいは責任転嫁の問題は1970年代にホロコースト否定論が本格的に勃興して以来、現在に至るまで盛んに論じられている[41]。アジア・太平洋戦線に関連しては日本軍による戦争犯罪の否定、矮小化を行う言説がホロコースト否定論を始めとした否定論と類似した「論理」「心性」が見られることから「歴史修正主義」として扱われる[11][5][42]

歴史修正主義の論理と心性

...過去が普通に過ぎ去ってゆくといっても、それは消え去るということではない。例えば、ナポレオン一世の時代は、歴史的な研究において繰り返し現在化される。アウグスティヌスの古典的著作もまたしかりである。だがこうした過去は、明らかに、それらがかつての同時代人に対してもっていた迫真性を失っている。まさにそれだからこそ、こうした過去は歴史家の手に委ねられる。それに反して、ナチズムの過去は(中略)いつの間にか消え去る、あるいは力が弱まっていくといった過程をとらない。それどころかますます生き生きとし、力強くなっているようにさえ思われる。とはいえ、それは模範としてではなく悪しき前例としてであり、まさしく現在として立ちはだかる過去、裁きの剣のように現代の頭上につり下がっている過去としてなのだ[43]。(中略)だが、過去が過ぎ去ろうとしないことに不快の念を表わし、もう「終わり」にして、ドイツの過去を原則的にもはや他の国の過去と異ならないものにしたいと思っているのは、果たして日常生活のなかの「実際のドイツ国民」の頑迷さだけなのだろうか[44]。...
エルンスト・ノルテ英語版『過ぎ去ろうとしない過去』

第二次世界大戦を巡る歴史修正主義的言説の心性の基底を成すのが未来永劫に至るまで罪を問われ続ける(とされる)歴史を破棄すること、「普通」の国の歴史を持つことの希求である[45][46]。第二次世界大戦における戦争犯罪は戦勝国によって主導されたニュルンベルク裁判東京裁判によって「裁かれ」たが、これらを戦勝国による一方的な断罪として拒絶する意見は常に出され続けた。犯罪者扱いされない「『普通』の国としての歴史、恥じる必要のない国民の物語(武井)[45]」の追求は、ドイツや日本だけが悪いのか、未来永劫謝罪し続けなければならないのか、と言う心情と共に歴史の認識の「修正」を要求する言論を形成していくこととなる。西ドイツの歴史家エルンスト・ノルテ英語版はドイツが抱えるナチズムの過去を「過ぎ去ろうとしない過去」と表現し[43]。そしてノルテは、ナチ体制下の強制収容所ソヴィエト連邦の強制収容所に起源を持つもので、毒ガスという「技術的な側面」を除けば歴史上特殊なものではないと主張した[47][48]

こうした歴史修正主義的な言説の根底にある「論理」は、自国(ナチス・ドイツや大日本帝国)が犯罪を犯していたとしたら、その国民は「子々孫々まで」罪人扱いされざるを得ない。従って自国は犯罪を犯していなかったのでなければならないというものであることが指摘される[42]

日本における歴史修正主義

日本において歴史修正主義という表現は概ね第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の否定や相対化、あるいは日本の戦争目的の正当性を主張する言説を指して用いられる。第二次世界大戦における日本の正当性を主張する立場は古くは林房雄の『大東亜戦争肯定論』(1964年-1965年)などのようにいわゆる戦後歴史学に対抗して存在していた[49]

日本語における「歴史修正主義」という用語の定義が明確でなく広い意味合いで使用されるため、研究者がこの用語を用いる際にはしばしば何を歴史修正主義と呼ぶか、あるいはそう分類するか、について説明が加えられる。岩崎/リヒターは新しい歴史教科書をつくる会や自由主義史観について「...このような九〇年代半ば以降に澎湃と沸き起こって来た感情的、情動的な反応全体と、それにいたる前史をあわせて、本稿では『歴史修正主義』と呼んでいる。『歴史修正主義』を歴史の書き直し行為と混同しないことが肝要である」と述べ[50]成田龍一は「...いまひとつ、ナショナリズムをことさらに強調してみせる一派が台頭してきた。つくる会を含む『歴史修正主義』の立場を声高に主張するグループである』として区分する。倉橋耕平は「...他方、日本では、戦後の歴史館を『自虐史観』だといってその相対化を試みたり、『東京裁判史観の克服』を主張したり、『慰安婦は売春婦で、反日勢力の陰謀』と言ったり、『南京大虐殺はなかった』と過去の歴史を否定する勢力が、慣例的に『歴史修正主義』と呼ばれるに至っている。その意味で私たちが学問分野のなかで呼んでいる『歴史修正主義』とは、実際のところ『歴史否認論』『歴史否定論』にほかならない。とはいえ、本書ではこれらの含意を維持しながら、慣例に沿って『歴史修正主義』と表記する[51][注釈 4]」と説明する。

これらに見られるように日本において歴史修正主義(あるいは「日本型歴史修正主義」)の文脈で言及と批判の対象になるのは、特に歴史教科書問題の議論のに関連して1990年代に隆盛した日本の歴史教科書の記述の変更を目指す新しい歴史教科書を作る会の活動や、藤岡信勝が提唱した自由主義史観に代表される一連の言説である[52][49][53][51][46][49]

こうした日本版歴史修正主義とも呼ばれる第二次世界大戦における日本の戦争犯罪を否定する言説は、その論理や心性がナチス・ドイツの犯罪を巡る否定論と類似することが指摘される[11][46]。即ち、捏造された罪によって我々だけが犯罪者扱いされてきたという感情を背景にガス室や南京大虐殺は実証的にあり得ないという議論が提起され、それが熱心な広報・宣伝活動を伴う[46]

歴史修正主義の論法とレトリック

歴史修正主義的言説には複数の共通した特徴があることが指摘される。武井彩佳によれば、歴史修正主義の論法において重要な特徴の1つは、歴史上の事実とされている出来事について「証拠がない」と主張し、証拠が(相当な量)示されたとしても「証拠を示せ」と主張し続けること、また示された証拠が捏造されたものであるとの疑念をかけ、疑われた側に立証責任を転嫁して証拠が「捏造ではないことを証明する」よう要求することである[54]。そして、事実に対する疑念や証拠の捏造の可能性を「繰り返す」ことが鍵であり、「事実ではないかもしれない」という印象を徐々に周囲に広め、学術的に非常に蓋然性の高い見解と低い見解との境界を曖昧にしていくことが目的となる[54]

フランスの歴史学者ピエール・ヴィダル=ナケはナチスの戦争犯罪を否定する歴史修正主義の方法に次のような諸原理の存在を指摘している[55]

  • 「一人のユダヤ人によってもたらされる直接の証言はどれも嘘か作り話である。」
  • 「解放後の証言あるいは資料はどれも偽造である。無視してよいか、『噂』扱いにしてよいか、そのいずれかである。」
  • 「ナチスの方法について直接の情報を教えてくれる資料は一般にどれも、偽造か、ごまかしのある資料か、そのどちらかである。」
  • 「直接の証言をもたらすナチス関係の資料はどれも、コード化された言語でそれが書いてあれば、その名目的価値で受け止められるが、ヒムラーのある種の演説とか、ゲッベルスの『日記』のある個所のように、直接的な言語で書いてあれば、無視(あるいは、過小評価)される。」
  • 「戦争の終結後のもたらされたナチスによる証言はどれも、それが東側の、あるいは西側の裁判でなされるにせよ(中略)拷問の下でか、それとも脅迫によって得られたとみなされる。」
  • 「大量毒ガス殺人が物的にいかに不可能であるかということを示すために、似而・技術の武器庫がそっくりそのまま動員される。」
  • 「毒ガス室は非存在がその属性の一つであるがゆえに存在しないと、いうことが出来る。」
  • 「最後に、この恐るべき歴史を納得のいくもの、信じられるものにすることのできるもの、事態の推移を刻印できるもの、政治のレヴェルでの比較項を提供できるものはすべて、とりわけ、無視されるか、それとも、改竄されるかする。」

ドイツ哲学者三島憲一は、1980年代にエルンスト・ノルテや彼を批判するユルゲン・ハーバーマス、さらには政財界や一般市民も巻き込んで行われたドイツの論争(歴史家論争英語版)における歴史修正主義の議論を評して、物語的語り口を好み、物事についてはっきりさせたくないときには抽象的かつ大きな言葉や表現によって装飾されたレトリックを駆使すると評する[56][注釈 5]

検証と論証

歴史修正主義的言説、あるいは否定論に共通する特徴の一つは「客観的な事実」の「検証」という形式をとって一見実証的な手続きによって歴史的な事実と見なされている事柄の信憑性に疑問を持たせる手法である[57]。一般に大規模な虐殺や戦争犯罪は同時代人による現場の検証が困難であり、目撃者も全体の事象の中の極一部を目撃し、それを年月を経てから思い出しているに過ぎない。また、史料の残存状況も悪く正確な統計資料などは得られないことが普通である[58]。この結果として、虐殺における犠牲者の数などの数字が様々な史料や検証過程で矛盾し、その正確な確定はできない。この点を「検証」し、死者の数が一致しないことを強調して実際の数は遥かに少なかったに違いない、あるいは虐殺の事実そのものがなかったであろうという結論を導きだす[58]。典型的には600万人とされるホロコーストによるユダヤ人の死亡数や、南京事件における30万人という数値がその対象となる[59]

また否定の論証においては、疑似科学的な専門的検証も行われる。ホロコースト否定においては、ロイヒター報告と呼ばれるガス室の検証などがこの典型である。自称「死刑の専門家」であるフレッド・ロイヒターはポーランドでガス室跡の「検証」を行い、大量殺害を行った毒物の痕跡がほとんど検出されなかったことを報告した[60][58]。これは実際に現地に行き化学物質の痕跡を確認するという一見科学的な手法を取っているが、実際にはロイヒターはこうした化学物質の検証を行う専門知識を持っていなかった[61][58]。また、ロイヒターはアメリカの死刑執行施設(毒ガスを使っていた)とアウシュビッツの比較を行い、アメリカの施設に見られる設備(青酸ガスの温度調整設備など)がアウシュビッツに見られないことをガス室の否定の論拠とした。同じく一見「毒ガスによる処刑施設」という同じカテゴリーの「比較」であるが、実際にはアメリカの設備はただ一人の死刑囚を確実に死亡させるための特別室が用意されるものであったため、多数の人間を一括処理するアウシュビッツとは構造自体が異なり、さらにドイツとアメリカの施設の技術的な系譜も異なるために、同一の設備が存在しなければならない必然性がない[62]

こうした「論証」方法は「『事実』なるものに過剰な負荷をかける仕掛け」と評される[62]。即ち、ある事実が認定されるためにはある条件を満たさなければならないが、その条件は証明できないので、事実は存在しない、という論法である。これは例えば数字については「ユダヤ人の死者の数は、つねに間違いなく、平時の統計調査のように数字が特定されなくてはならない→死者数には特定不可能な点がある→したがって、そもそも死者は存在しない[62]」や、「南京市の犠牲者数は、それを観察し研究するものによって、つねに同一の数値として特定できるものでなくてはならない→特異な状況に対するさまざまな位置からの証言が示す数字は、時間と空間の限定も異なっているために一致しないように見える→したがって、虐殺そのものははじめから存在しなかった[63]」という形式をとり、行政文書に関連しては「ユダヤ人絶滅がナチによって組織的に遂行されるためには、それを命令するヒトラーの行政文書が存在するはずである→そのような典型的な命令書は発見できなかった→したがって、ホロコーストは存在しない」といった形を取る[62][注釈 6]

陰謀論

歴史修正主義と関連性が大きい思考の枠組みに陰謀論がある。陰謀論の特徴は現実に発生する出来事は見かけ通りのことはなく、また偶然でもなく、全て何らかの組織の意図や計画が背後に隠されているという思考の枠組みである[66]。一般に「事実」として受けいれられていることの背後に隠された「真実」があるはずであり、それを明らかにするという陰謀論の語り口は開戦原因や戦争責任の議論において頻繁に歴史修正主義的に適用される。

アメリカの学者ハリー・エルマー・バーンズは戦間期において第一次世界大戦へのアメリカの賛成は(ウッドロー・ウィルソン大統領が主張したような)正義のためではなく、政治経済的な動機によるものであり、むしろドイツは被害者であったという主張を展開していた[39]。この観点自体は現在の歴史学においても誤ったものではないが、本来アメリカは外国の戦争に関与すべきではないのに、政治経済上の都合から不当にも戦争に引き込まれたという議論を強めたバーンズは第二次世界大戦後には陰謀論に傾斜していくようになる[67]

バーンズが展開したのはアメリカ大統領フランクリン・ローズベルトが日本の真珠湾攻撃を察知していたにもかかわらず、第二次世界大戦への参戦を望んだため故意に警戒態勢を取らずにアメリカ太平洋艦隊を見殺しにしたという陰謀論であった[67]。バーンズを始めとしたアメリカにおける修正主義の論者は、本来参戦を望んでいなかったアメリカ国民を欺いて戦争に引き込んだのはローズベルトであり、太平洋艦隊が前代未聞の大損害を被ったのは彼の陰謀によるものとして彼はその責任をとるべきであると主張した[68]。この陰謀説はアメリカでは特にローズベルトの前の大統領であったハーバート・フーヴァーハミルトン・フィッシュのようなローズベルトの政敵たちによって熱心に展開されることになる。特にフーヴァーは大恐慌を防げなかった無能な大統領というレッテルを覆そうと生涯をかけて努力を重ね、その中でローズベルトの陰謀を激しく批判した[69]。このアメリカにおけるローズベルト陰謀論は、真珠湾攻撃が卑劣な奇襲であるというローズベルトの見解に対し、事前に全てを知っていてわざと攻撃を成功させたのであるから非難されるにあたらず、むしろ日本はアメリカの謀略によって戦争に引き込まれたという主張の根拠として日本にも輸入されている[70][71]

社会の背後で暗躍する組織や集団を想定する論法も好んで用いられる。典型的にはユダヤ陰謀論がそれであり、ホロコーストはシオニストイスラエル)がでっちあげ、これを利用してイスラエルが建国されドイツから補償金を奪い、パレスチナ人を抑圧して世界支配の計画を遂行しているというのは、ホロコースト否定論においてしばしば見られる論説である[72]日中戦争に関連してコミンテルンもこうした陰謀の主体として言及される。一般に関東軍によるとされる張作霖爆殺事件の真犯人をコミンテルンであるとしたり、蒋介石がコミンテルンに操られていた、従って日本だけが侵略の責任を負うわけではないと言った言説が代表的なものとなる[73]

こうした陰謀論は「ユダヤ人」や「共産主義者」という影で歴史を操る真犯人を想定することで、開戦責任の相対化や戦争犯罪の責任所在を曖昧化をする[74][67]

法的規制

欧米、特にヨーロッパにおいてはホロコーストや他のジェノサイドの「歴史修正(否定)」は法的規制が進展しており[75]、「歴史修正主義」は表現の自由といった観点においても議論の対象となっている[3]

ホロコースト否定論を巡る議論はしばしば法廷の場でも争われるが、こうした裁判ではしばしば「ホロコーストが事実であるか否か」の証明が裁判を通じて争われることで、裁判自体が否定論の宣伝の場として利用されることがある[76]

2021年現在、ヨーロッパの約半数の国がホロコーストやジェノサイドの否定に対して何らかの形で法的な規制を実施している[75]。これらは主としてナチスによるユダヤ人の殺戮を否定する言説を規制する場合が多いが、フランスのようにより広くナチスの「人道に対する罪」の否定を禁止する(ゲッソー法)場合もあり[77]、さらに旧共産圏の東ヨーロッパ諸国では共産主義体制下の犯罪行為の否定を禁止する事例が増えている[78]

こうした規制はナチスの事例を始めとして近現代史のジェノサイドを対象としている。武井彩佳の指摘によれば、法的規制は「歴史の真実」を守るというよりも、否定論・歴史修正主義的な言説がその歴史的な事件を経験した当事者を攻撃する性質を帯びており、さらにそれは特定の人種・民族・集団への敵意の表現という性質を持つことから、特定集団へのヘイトスピーチの一種として規制するものと捉えることができる[79][注釈 7]

一方で、こうした歴史言説の否定は表現の自由を侵害するという観点での批判もある。特定の歴史的事象を正しいものとしてそれに反する言説を規制することは、とりもなおさず国家が「公的な歴史」を規定することと同一の性質を持つ[81]。このため、法的規制を実施しない国も多く、特にアメリカイギリスオーストラリアのような英米法の体系を持つ国では具体的な法規制に慎重である[81]。しかし、このためにこれらの国は歴史修正主義の温床ともなっている[81]。一方で、ホロコースト否定論などについて特に強力な規制を課すドイツでは、憲法裁判所が「ホロコースト否定論は『虚言』であるゆえ、表現の自由の保障は認められない」との判断を出した。「つまり、嘘はそもそも『意見』ではなく、表現の自由の保障の対象にならない(武井)」として自由な言論とせず、多数の有罪判決を出している[82]

各国の修正主義を巡る議論

「修正主義(Revisionism)」と呼ばれる歴史研究・歴史解釈の潮流ははドイツや日本の戦争責任論に留まるものではなく、また「修正主義」の名で呼ばれる論説は必ずしもホロコースト否認論に代表されるような歴史修正主義の言説と同種のものでもない。各国で独自の背景を持った歴史の「修正」の議論が展開されている。これらの「修正」の在り方は一様ではなく、その社会的な受容のされ方も異なる。以下に「修正主義」の名で呼ばれる、あるいは歴史の「修正」に関わる各国の議論の一部を例示する。

アメリカ

来たる国立航空宇宙博物館のエノラ・ゲイ号の展示における、わが軍の男女の適切な描写に関する上院の見解をここに表明する。第二次世界大戦時のエノラ・ゲイ号の役割は、アメリカ人と日本人の命を救うという、第二次世界大戦の慈悲深い終結をもたらしたことへの貢献において重大なものであり、現行の国立航空宇宙博物館のエノラ・ゲイ号展示の台本は修正主義的で[注釈 8]、多くの第二次世界大戦従事者とって侮辱的であり(中略)また連邦法が定めるところによれば、「わが軍の男女の勇敢かつ犠牲的な貢献は、アメリカの現在および将来の世代を鼓舞するように描写される」ものであるため、戦争におけるアメリカの役割を記念するに際し、国立航空宇宙博物館は、連邦法の下、当時の適切なコンテクストにおいて歴史を描写する義務を負うものである...
-アメリカ合衆国上院国立航空宇宙博物館非難決議[85]

アメリカの歴史学の潮流としての「修正主義(リヴィジョニズム)」は1960年代以降盛んになった新左翼的な歴史認識を指すものでもある。これはアメリカ的自由主義のみを肯定的評価の尺度としアメリカ史を近現代世界史の基準とするような伝統的アメリカ史学を批判しその相対化を求める主張である[53]。アメリカの歴史修正主義は自国の政治・外交に対して批判的な立ち位置を取り、戦争や戦間期の外交についてもアメリカと敵対する国を共に中立的に扱おうとする[86]。アメリカの修正主義者たちの主張はベトナム反戦運動公民権運動の主張にも触発されていた。敗戦や戦争犯罪の反省といった背景を持たないアメリカの伝統史学は保守的・国家主義的傾向を持ち、修正主義史学は受け入れられない傾向にある[86]。こうした背景からアメリカにおける修正主義は1990年代以降日本などで隆盛した歴史修正主義と「修正」の方向性が異なっていることに注意する必要がある[86]

これに関連して、アメリカでは第二次世界大戦中の日本への原子爆弾の投下を巡る歴史認識を巡る議論において「修正主義学派」と呼ばれる潮流が議論の一端を担っている。アメリカでは第二次世界大戦はドイツや日本といった侵略的な国家の拡張を食い止めた戦争(良い戦争)であると解釈されてきた[87]。これは20世紀にはベトナム戦争中にうねりを見せた反戦運動の活動家たちも含めた社会の共通の認識であった。アメリカの学者マリリン・B・ヤング英語版はこうした信条の例として、第二次世界大戦の時はシンプルにアメリカが善で枢軸国が悪だと認識できていたという元ニューヨーク州知事マリオ・クオモを取り上げている[注釈 9]。しかし、原子爆弾の投下という歴史上の出来事としての第二次世界大戦の文脈においてアメリカの正義を無条件に認めることへの懐疑を導き出すものであった。このため、ベトナム戦争や冷戦の終結といった歴史の節目に、戦争に関わる議論が盛んになる度に原爆投下をどのように理解するかを巡る歴史論争が生起した。原爆投下を巡る歴史研究には、その軍事的・道義的正当性を強調する正統主義学派(orthodoxy)、原爆投下の政治外交的な動機を重視する修正主義学派、そして軍事的動機と政治的動機の複合性から理解しようとする学派(藤田怜史はこれを「ポスト修正主義」と呼んでいる)という3つの潮流が存在している[89]

また20世紀後半になると、公民権運動や性差別撤廃運動の興隆とともに、アメリカ史で「正統」の地位を占めていた白人の、しかも男性を中心とした伝統的価値観を見直し、より幅広い集団の歴史的経験を取り込んだ歴史が構築され教えられるようになった[90]

1994年、カリフォルニア大学ロサンゼルス校「全米歴史教育センター英語版」から発行された『合衆国史のための全国基準』をめぐる論争が起きた。1995年にはスミソニアン協会傘下の国立航空宇宙博物館による、原爆投下を実行した爆撃機、エノラ・ゲイ号の展示企画が事実上中止に追い込まれたが、いずれも、その「修正主義的な」姿勢を問題にした保守的メディアや政治家との歴史認識をめぐる論争であった。これらの論争は、1960年代の社会の人種・エスニイスィティによる文化の差異を尊重することを求める多文化主義と、旧来の白人男性中心の伝統的・愛国主義的価値観に根ざした文化と社会を維持し続けるかどうかという「文化戦争」の一面と捉えられるという[91]

これらの議論の文脈においては「修正主義」は「わが国は、本質的に悪い国である。アメリカのすべての観念は堕落しており、この国の歴史には、圧政と残虐行為の例が散乱している。アメリカの物語は、文化的帝国主義の物語であり、抑圧された白人男性たちがいかにして、自分たちの意思や価値観を温和な先住民族やアフリカから来た黒人奴隷、女性たちにおしつけていたかを物語っている(ラッシュ・リンボー)」ものだと理解され、保守派・正統主義の立場からの非難の言葉として用いられる[92]

イスラエル

イスラエル現代史の文脈において「修正主義」という用語はまずウラジーミル・ゼェヴ・ジャボティンスキーの主張に起源を持つ修正主義シオニズム英語版を指す用語である。世界中に離散したユダヤ人エレツ・イスラエル英語版(大イスラエル、パレスチナおよびその周辺)帰還を目指したのがシオニズム運動であるが、イギリスが第一次世界大戦中、パレスチナにユダヤ人国家を建設することに同意したバルフォア宣言を出したことや、戦後処理によってパレスチナ地域がイギリスの委任統治領となるなどの政治情勢の変化に伴い、シオニズムの実現が現実味を帯び始めた。こうしてイギリス委任統治領パレスチナにおいて、1920年代には現地住民であるアラブ人に対して「ユダヤ人多数派」を創出することが志向された[93]

この中で重要な運動であったのが、ジャポティンスキーが創始した右派の修正主義シオニズム運動と、左派の労働シオニズム運動であった[93]。この2つの運動は、当時の西欧列強諸国からユダヤ人国家という枠組みの政治的保障をとりつけパレスチナに国家を構築しようという主張(政治的シオニズム)と、実際のパレスチナへの植民活動を通じて現地にユダヤ人の定住社会を構築しこれを国家へと昇華しようとする運動(実践的シオニズム)という、それ以前のシオニズムの2大潮流というべき活動に源流を持つ[94]。シオニズムにおける「修正」という用語は歴史学的というよりは政治的な用語であり、その意図するところは実践的シオニズムの体現としてパレスチナへの入植を進める労働シオニズム運動に対し、これを19世紀末に開催された第1回シオニスト会議において組織化された政治的シオニズムの枠組みから「逸脱」したものとして「修正」するという立場を示すことであった[94]

「修正主義者」たちは政治的配慮から国家の建設や領土といった最終的な目標への言及に慎重であった労働シオニズムを批判し、エレツ・イスラエルの分割に繋がるあらゆる妥協を拒否し、国家建設の宣言をただちに行うことを要求した[94]。ジャポティンスキーは左派が目指すイスラエル国家成立に向けてのアラブ人との交渉による合意は成立する余地がなく、ただ「鉄の壁(軍事力)」によってのみそれは成立しうるとした[95]。ジャポティンスキーの主張は、左派はアラブ人がシオニズムを理解していないから反対しているとしているが、そうではなくアラブ人はシオニズムを完全に理解しているからこそ激しく反対しているのであると主張した。そして現地のアラブ人にとってパレスチナこそが故郷であり民族的な存在の中心地である以上、そこにユダヤ人国家を構築することに抵抗するのはむしろ当然の反応であり、従って軍事力によってアラブ人を抑えユダヤ人を追い出せる可能性が無いことを認めさせた後にのみ初めてアラブ人と「合意」が可能であるとした[95][注釈 10]

この修正主義シオニズムは1930年代にはブリット・ハビリョニーム英語版(凶徒連合)というファシズム的分派を出し[97]、また分裂の過程で誕生した地下軍事組織イルグンは現代イスラエルの右派政党リクードへと発展していく[97]

臼杵陽によれば、イスラエルの歴史学において「修正主義者」という非難の言葉が用いられたのは1980年代末以降の「新しい歴史家」を巡る議論においてである[98]。ユダヤ人が常に被害者・犠牲者であったという神話英語版を公式化しているイスラエルにおいて、イスラエル建国過程における暴力的な出来事を指摘し、加害者・抑圧者としてのユダヤ人(イスラエル人)について述べる言説がイスラエルの学者ベニー・モリス英語版などによって発表されたことで激しい論争が展開されることとなった[98][注釈 11]。これに反対する論者は、こうした言説を「修正主義」として非難した[98]

ベニー・モリス自身はイスラエルにおいて「修正主義」はジャポティンスキー的な「修正主義シオニスト」を指す言葉であり、また欧米においてホロコースト否認論者が「修正主義」と呼ばれてもいること、冷戦の起源英語版論争においてソ連を正当化する姿勢をとったアメリカの「修正主義者」と同一視されることへの拒否から、この呼称を拒絶した[102]。そして、それにもましてベニー・モリスはイスラエルには「歴史学」の名に値する歴史記述など存在しておらず、従来の歴史家はシオニズムのイデオローグに過ぎずそもそも「正統派」が存在していないために「修正主義」などは論外であると主張した[102]。アヴィ・シュライムは、この「新しい歴史家」という呼称は自己賛美的であり不適切としつつ、イスラエルの正統派の歴史は「歴史学以前」の代物であり「新しい歴史家」たちこそが真の「歴史学」に値する仕事をしていると評している[103]

韓国

尹健次によれば、韓国で「修正主義」という用語が一定の意図のもとで使用されたのは、アメリカの正統主義史学・公式見解に対する批判としての「修正主義」と関連してのことであった[104]。ベトナム戦争などを契機としたアメリカの正統派・主流派の見解に対する「修正主義」的な見直しは、同時に戦後のアメリカのアジア政策の再評価をも促した。1981年に修正主義の立場をとっていたブルース・カミングスが『朝鮮戦争の起源』を刊行すると、韓国の若手研究者たちの間に大きな影響を及ぼした。1980年代以降の「修正主義史観」あるいは「民衆史観」(民族史観[105])などと呼ばれるものがそれであり、以降の韓国の歴史研究・認識・教育に大きな変化をもたらした。[104]

1970年代は韓国の歴史学界においては世代交代の時期でもあった。独立後の韓国における韓国史・朝鮮史の研究は日本統治時代(1910年-1945年)に主として朝鮮総督府傘下の組織や京城帝国大学の下で働いていた日本人学者による研究状況を引き継いでいた[106]。日本時代の研究は植民地支配の正当化を図ったものとして激しい批判に晒されることとなったが、初期の韓国の歴史学界を担ったのは日本統治時代末期に高等教育を受け、日本留学経験を持つ研究者たちであり、1970年代まで彼らが学界の重鎮として大きな影響力を持っていた[107]

「植民地史観」とも呼ばれる日本統治時代の朝鮮史理解は、朝鮮社会の停滞性と他律性(あるいは事大性)を強調するものであったことが韓国の歴史認識の確立において特に強い反発の対象であった[108][106]。そして北朝鮮の歴史学動向の影響もうけつつ、朝鮮社会の自律的発展、自生的な資本主義への道を強調した内在的発展論(朝鮮の近代化が日本の植民地統治によってもたらされたのではなく、朝鮮は本来独自に近代化の道を進んでいたのであり、これが植民地体制に組み込まれていく過程で変容していったとする)が提起されたが、基本的な近代史理解の枠組みは日本時代のそれを引き継いでおり、朝鮮(韓国)の近代化は萌芽段階に留まり、朝鮮王朝(李氏朝鮮)社会の硬直性故に資本主義的発展は十分に進まず最終的に独立を喪失するという帰結を迎えたと理解された。そのため歴史学においては朝鮮史における「近代化阻害要因」を探すことに関心が向けられていた[109]。1980年代に入ると日本統治時代の経験を持たない新世代の歴史学者の台頭、そして韓国の民主化という大きな政治的変動の中で「内在的発展」をより強調した新たな韓国史像が作られていくこととなる[110][注釈 12]

ただし、こうした韓国史像の変化・修正が「修正主義」という概念の下で理解され得るかは明確ではない。尹健次は「韓国に『修正主義』はあるのか」というテーマで論考を立てているものの、それにはっきりとした回答を与えておらず[112]木村幹は1970年代から80年代にかけての韓国史学界における自国史理解の変化を「修正主義」という用語で説明していない[105]

アイルランド

アイルランド史において修正主義者(リヴィジョニスト)英語版とは、イギリス支配を否定し「貧困」を始めとしたアイルランドが抱える諸問題の根源をイギリス統治に求める民族主義史観と呼ばれる見解を解体して新しいアイルランド史像を描き出そうとした歴史家たちを指す[113]。民族主義史観はイギリスに対するアイルランド人の抵抗を基調に据え、1916年のイースター蜂起およびその後の独立戦争という武力闘争を1922年のアイルランド独立(南部26州)の達成要因として重視する。そして独立後のアイルランド政府は独立の正当性を民族主義的な歴史解釈によって確立しようとしており、このような民族主義史観の解釈が歴史教育の一般方針とされた[113]

こうした民族主義史観は実証性を欠きがちであった。その「非科学性」を批判した歴史学者セオドア・ウィリアム・ムーディー英語版を中心とするグループは、ランケ流の実証主義的な歴史学による「科学的な」アイルランド史を模索した。彼はイギリスの歴史学界の動向からも影響を受け「アイルランド独立を頂点とし、すべてがそれに収斂していくという」民族主義史観を書き換えようとした[114]。このアイルランド歴史学界の潮流が修正主義や修正主義学派という名で呼ばれる。

修正主義者による民族主義史観への批判は1969年以降の北アイルランド紛争の激化や、アイルランドのEC加盟に伴い激しさを増した。「ヨーロッパ人」としてのアイルランド人のアイデンティティの確立が必要とされる中での民族主義史観の中核を成すナショナリズムへの疑問、さらには独立後のアイルランドが抱える多くの問題からくる、「アイルランドは本当に独立するべきだったのか」という問いかけがこの潮流の中にあった[115]。そして修正主義者はアイルランド独立における武力闘争の側面ではなく、平和的な独立を目指した(イギリス時代の)合法的な民族運動に光を当てるべきだとも主張した[116]。この批判は、民族主義史観がアイルランド史をイギリスに対する闘争の歴史として描き、北アイルランドの回収まではアイルランドの独立は部分的にしか達成されないとしていることが、テロ活動を繰り返す武装組織アイルランド共和軍(IRA)の活動を正当化しているという批判でもあった[117]

一方でムーディーやその後身の修正主義史家の過剰な「修正」に対する批判の声も次第に大きくなった。この批判は専門の歴史学者よりも画家・哲学者・文芸評論家などの間で強く主張され、アイルランドの修正主義論争は「修正主義史家と民族主義史家とのあいだではなく、専門の歴史家と、歴史家とはいえない民族主義的知識人とのあいだで本格化したといえる(高神)」[118]。民族主義的知識人たちはイギリス支配を正当化しアイルランド人の抵抗を不必要なものとして描く修正主義を否定し、アイルランド史は国民が国家に誇りを持つように書かれなければならないとした[118]

現代歴史学の観点からアイルランドの歴史学者の多くは民族主義史観に批判的である[119]。一方で、アイルランドの修正主義史家は、IRAの活動を正当化するような民族主義史観の批判に積極的に取り組んできたものの、そのために客観的な分析よりも武力闘争による民族運動を否定することに主眼をおいた解釈を提示しており、武力闘争を伴う民族運動を過小評価し合法的民族運動を過大評価しているともされる[120]。その後、IRAの武力闘争の停止なども相まって、アイルランド史研究は修正主義史観の「修正」という方向に進路を取り、修正主義史家の解釈に対する実証的批判が行われている[121]。西洋史研究者高神信一は、イギリスがアイルランドを植民地化した事実が消え去ることはなく、北アイルランド紛争も解決しない以上、アイルランド史解釈は民族主義史観と修正主義史観を振り子のように振れ続けるであろうと述べる[121]

脚注

注釈

  1. ^ The ability to revise and update historical narrative - historical revisionism - is necessary, as historians must always review current theories and ensure they are supported by evidence. [...] Historical revisionism allows different (and often subjugated) perspectives to be heard and considered."[1]
  2. ^ 1960年代頃まで、ドイツ歴史学会においては第二次世界大戦とナチズムの時代はドイツ史の中の例外であるとし、第二次世界大戦の戦争責任がドイツにあることは認めつつも、第一次世界大戦は「諸列強が戦争に引きずり込まれた」結果起こったもので特定の参戦国ではなく全ての列強が戦争責任を負うものであるとする立場が主流であった。フィッシャーが第一次世界大戦と第二次世界大戦の連続性を説き、第一次世界大戦におけるドイツ指導者の誤謬、ドイツ帝国第三帝国の連続面を強調としてナチズムをドイツ史の一連の流れの中で理解しようとしたことは、これに反発する研究者との間で激しい論争を巻き起こした[18]
  3. ^ 荒井訳ではドイツ外務省の戦争責任報告部。具体的な活動は外郭団体として宣伝を担当するドイツ連合労働委員会と学問分野を担当する戦争責任研究本部が共同で研究と報告活動を行った。歴史認識の構築の中心となったのは研究本部の機関紙『戦争責任問題(Die Kriegsschuldfrage)』であり、編集責任者の元軍人アルフレート・フォン・ヴェーゲラー(Alfred von Wegerer)をはじめ、多くの論説家が俸給を受け取って定期刊行物に戦争責任問題について執筆し諸外国への宣伝活動を行った。その活動は極めて精力的であり、当時高等学校を卒業したばかりであった歴史家尾鍋輝彦はドイツ語の学習のために頻繁にドイツの出版社にカタログを注文していたために一人前の歴史学者と間違われヴェーゲラーから『ヴェルサイユ戦費テーゼに対する反駁』と題する英文書籍が寄贈されたことを回想し、「この書はよほど広範にばらまかれたことだろう」と感想を述べている。このように熱心な活動と潤沢な予算の下で大規模な資料の収拾や検証が行われたが、反面国家機構による強力な介入はドイツ人研究者による戦争責任問題の自由な研究を阻害し、学問的成果は貧弱であったと評され、具体的な「ドイツの大義」の弁護を担う役はヴェーゲラーのような歴史学の素人か外国人の歴史家の手に委ねられた[35][36]
  4. ^ 強調は原文に従っている。ただし原文での強調方式は斜体ではなく傍点。
  5. ^ 具体例として三島は次のような文章を挙げる「暗闇に対する光の勝利について語られる場合、それは素朴なオプティミズム風の仕方で理解されてはならない。光の中で、はじめて光の部分は明るく、影の部分は暗くなるのであり、光の中でのみ闘いが戦われ、光の中でのみ傷口はあるがままにさらけ出されるのである。光、すなわちよりす鋭く包括的な意識は善なのではなく、善と悪との前提であり、その中に浮かんでくるのは、ほとんど例外なしに両者の混合形態である[56]」。これはノルテが終戦後35年の節目に、第三帝国の歴史も修正(Revision)を必要するのではないか?と問う講演の記録の一部である。
  6. ^ 公文書を中心とした実証主義的な手法に依拠した戦争犯罪の検証は一般に困難である。典型的な事例であるホロコーストや南京事件は上層部門による公文書史料が乏しい。ホロコーストの犠牲者数はその総数についての総括文書が残されておらず、破棄を免れた実働部隊の統計資料などが研究の基本となる。しかし特にソ連領内の状況は確認困難であり、死者数は推計値以上のものにはなりえない[64]。南京事件の場合も、日本軍の現地司令官級の人物は「文書足跡」を残しておらず、その研究は現地にいた欧米人のジャーナリストの目撃証言や生存者からの聞き取り調査に大きく依拠している。だが、ジャーナリストは時間軸的にも地理的にも全体の経過の中の極僅かの部分を目撃したに過ぎず、生存者たちの証言は戦後の調査によるもので、8年以上の時間的懸隔がある[65]
  7. ^ 1985年以来、ドイツではナチスの犯罪の否定を犠牲者の「侮辱」であるという理由で禁止している[80]
  8. ^ 正統主義の立場における歴史認識は、広島長崎への原子爆弾の投下がなければ第二次世界大戦は遥かに長引き、これなしで日本本土上陸作戦によって日本を降伏させていればアメリカ兵だけでさらに100万人の犠牲が出ており、その数倍の日本人が死亡した。従って原爆の投下はこれら予想される犠牲者の数を最小限に減らし多くのアメリカ人と日本人の命をも救うものであったというものである[83]。この認識を改める立場も「修正主義」と呼ばれる。エノラ・ゲイ号の展示に関わる議論においては、アメリカ在郷軍人会はこの救われたアメリカ人の「100万人」という数字に強くこだわった[84]
  9. ^ 「『わたしの生涯で最大の出来事は、第二次世界大戦だった』と前ニューヨーク州知事だったマリオ・クオモは最近のインタヴューで回想している。『そしてわれわれは、二度とそれを再現することはできなかった』。彼はこうつづけた。第二次世界大戦は、『この国が深く、たったひとつの大義を信じられた最後のときだった。それはなぜか。それは、東条のせいだった。あのけしからんヒトラーのせいだった。ムソリーニのせいだった。あのろくでなしめ。あのこそ泥たちは、真夜中にわれわれを襲った。われわれは善で、彼らは悪だった。団結しようぜ、とわれわれはいい、やつらをやっつけた。われわれはこの共同での取り組みの中に、この一般市民、社会、家族の中に、力を見いだした。一致団結するという考えは、わたしの生涯では、第二次世界大戦のときにいちばんいい結果をもたらした。あんな戦争は、これまでなかった』と、クオモはぼやいている。ヴェトナム戦争後の不快な数年間でさえ、アメリカ人はまだ思い出の中の一九四五年という陽光の中で身を温めることができそうだった[88]。」
  10. ^ 「アラブ人が我々を追い出すことに成功するだろうという一縷の望みを持ち続ける限り、世界における何ものも-やわらかい言葉も魅惑的な約束も-彼らにこの希望を捨てさせることはできない。それは正に彼らが烏合の衆ではなく生きた人々だからだ。そして生きた人々は異邦人の入植者を追い出すというすべての望みを諦めた時にのみ、そして鉄の壁のすべての裂け目がふさがれた時にのみ、そのような運命的な問題について譲歩する用意ができるだろう。そうなって初めて、『否、決して』をスローガンとする極端主義的なグループが影響力を失い、彼らの影響力がより穏健なグループに移行するだろう。それから初めて穏健派が妥協のための提案を申し出るだろう。それから漸く彼らは、自分たちを追い出さないという保証や市民的・民族的な権利の平等といった実際的な問題について我々と交渉し始めるだろう[96]
  11. ^ ベニー・モリス英語版は、アラブ人のユダヤ国家予定地からの追放に関し、シオニストによる組織的計画性には否定的であったが、国家予定地にできるだけアラブ住民を残さないという「暗黙の了解」があったと結論づけた[99]オックスフォード大学アヴィ・シュライム英語版は、シオニストとトランスヨルダンのアミール・アブドゥッラーが共謀したうえでパレスチナ・アラブを犠牲にして第一次中東戦争でパレスチナを分割したと主張した[100]イラン・パペは、イスラエル建国をめぐる最初のアラブ・イスラエル紛争の歴史を、犠牲者としてのパレスチナ人の運命を全面に押し出した[101]
  12. ^ 木村幹の整理によれば、同じ頃に日本でも朝鮮史研究者の世代交代が起きていた。日本の戦後朝鮮近代史研究は韓国の第一世代に近い、戦前に高等教育を受けた世代と、戦後に彼らを批判する形で台頭した第二世代と言える人々が担っていた。しかし第二世代は絶対数が少なく一人の研究者が広範な領域をカバーする必要性に迫られたために実証面において多くの問題を抱えることとなった。1980年代に入ると第三世代と呼ぶべき多くの若手研究者が朝鮮史研究に参入し、それ以前の研究に実証的な観点から批判を加えた。1980年代以降の韓国史学界が朝鮮の「内在的発展」論の不徹底を批判してそれを更に推し進めたのに対し、日本では「内在的発展論」の限界に批判が行われ、イデオロギー的な色彩を帯びた議論として過去のものとなって行った。このため1980年代を境に日本と韓国で朝鮮近代史像が大きく乖離し始めた。木村幹はこの研究史的な潮流の差異20世紀後半以降の日本と韓国の歴史館を巡る対立の背景の1つと指摘する[111]

出典

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参考文献

関連文献

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  • 山田朗『歴史修正主義の克服』高文研、2001
  • 小田中直樹「歴史理論(回顧と展望―二〇〇四年の歴史学界)」(『史学雑誌』114-5、2005年)
  • ユルゲン・ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』岩波現代文庫

関連項目

外部リンク