「フランシス・プーランク」の版間の差分
→脚注: 脚注の列幅を指定(Template:Reflist#使用法_2およびWikipedia:アクセシビリティ#段組みを参照) |
m Cite web|和書における引数修正 |
||
(15人の利用者による、間の17版が非表示) | |||
23行目: | 23行目: | ||
}} |
}} |
||
{{Portal クラシック音楽}} |
{{Portal クラシック音楽}} |
||
'''フランシス・ジャン・マルセル・プーランク'''('''プランク'''、Francis Jean Marcel Poulenc {{IPA-fr|fʁɑ̃sis ʒɑ̃ maʁsɛl pulɛ̃k|lang}}<small> [http://ja.forvo.com/word/francis_poulenc#fr 発音例]</small>,[[1899年]][[1月7日]] - [[1963年]][[1月30日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]] |
'''フランシス・ジャン・マルセル・プーランク'''('''プランク'''、Francis Jean Marcel Poulenc {{IPA-fr|fʁɑ̃sis ʒɑ̃ maʁsɛl pulɛ̃k|lang}}<small> [http://ja.forvo.com/word/francis_poulenc#fr 発音例]</small>,[[1899年]][[1月7日]] - [[1963年]][[1月30日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]。歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、合唱曲、オペラ、バレエ、管弦楽曲に作品を残した。とりわけ、ピアノ組曲『[[3つの無窮動]]』(1919年)、バレエ『[[牝鹿]]』(1923年)、チェンバロ協奏曲『[[田園のコンセール]]』(1928年)、『[[オルガン協奏曲 (プーランク)|オルガン協奏曲]]』(1938年)、オペラ『[[カルメル派修道女の対話|カルメル会修道女の対話]]』(1957年)、ソプラノ、合唱と管弦楽のための『[[グローリア (プーランク)|グローリア]]』が知られている。その作風の広さは「修道僧と悪童が同居している」と形容される{{Refnest|group="注"|1950年7月26日の『パリ=プレス紙』において[[評論家]]の[[クロード・ロスタン]]が『[[ピアノ協奏曲 (プーランク)|ピアノ協奏曲 嬰ハ短調]]』を論評した際に使った表現<ref name>久野(2013)、257頁</ref>。}}。 |
||
ひとり息子として製造業で成功を収めた父から家業の跡取りとして期待をかけられ、音楽学校へ通うことを許されなかった。音楽は大部分を独学で身につけ、[[ピアニスト]]の[[リカルド・ビニェス]]に師事した。ビニェスはプーランクの両親の死後、彼の指導者となった。また、[[エリック・サティ]]とも面識を得て、彼の貢献の下で若き作曲家集団『[[フランス6人組|6人組]]』のひとりとなった。初期の作品を通じて、プーランクはその高き精神と不遜さによって知られるようになる。1930年代には彼の性分により強く真剣みを帯びた側面が現れ、中でもそうした傾向が顕著な1936年以降に作曲された宗教音楽は、肩ひじ張らない作品と互い違いに発表されていった。 |
|||
== 来歴・人物 == |
|||
=== 生い立ちと教育 === |
|||
[[Image:PoulencCommemorativePlaque.jpg|thumb|プーランクの住んでいた家(パリ6区メディシス通り5番地)]] |
|||
1899年に[[8区 (パリ)|パリ8区]]マドレーヌ地区の裕福な家庭に生まれる。両親は敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]教徒であった(父エミールは、叔父のカミーユと共に製薬会社[[ローヌ・プーラン]]の創設者)。5歳の頃から母親から[[ピアノ]]の手ほどきを受け、[[1914年]](15歳)からは[[スペイン]]出身の名ピアニスト、[[リカルド・ビニェス]]([[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]や[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]のピアノ曲の初演を数多く手がけた)にピアノを師事し、多大な影響を受ける{{efn|「私のすべてはビニェスに追っている」と語っていた<ref>アンリ・エル、8頁</ref>。}}。プーランクは幼なじみの女友達{{仮リンク|レイモンド・リノシエ|fr|Raymonde Linossier}}{{efn|大変な読書家でプーランクに文学的な面で大きく感化した<ref>アンリ・エル、11頁</ref>。}}と[[アドリエンヌ・モニエ]]が経営する{{仮リンク|オデオン通り|fr|Rue de l'Odéon}}7番地の書店「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」{{efn|蔵書の貸し出しも行っており、文学サロンとしても機能していた<ref>久野麗、24頁</ref>。}}に足繫く通い、そこで[[アンドレ・ブルトン]]、[[ルイ・アラゴン]]、そして[[ポール・エリュアール]]に出会う。それから数年後、彼らの詩がプーランクの音楽の抒情的表現への鍵を与えることになる<ref>アンリ・エル、12頁</ref>。 |
|||
[[バレエ・リュス]](ロシア・バレエ団)による『[[春の祭典]]』([[1913年]])、『[[パラード (バレエ)|パラード]]』([[1917年]]、台本:[[ジャン・コクトー]]、音楽:[[エリック・サティ]]、美術:[[パブロ・ピカソ]])の初演を見て感嘆する。 |
|||
作曲家としての業績に加え、プーランクは熟達したピアニストでもあった。特に[[バリトン]]の[[ピエール・ベルナック]](プーランクが声楽作品を書くにあたり助言も与えた)や[[ソプラノ]]の[[ドゥニーズ・デュヴァル]]との共演ではその協力関係に称賛が贈られた。この両名を伴ってヨーロッパとアメリカで演奏旅行を行ったほか、ピアニストとして多数の録音を遺した。彼は[[蓄音機]]の重要性をいち早く認識した作曲家であり、1928年以降は幅広く録音を行っていた。 |
|||
=== フランス6人組の一員として === |
|||
[[File:Les Six Tableau.jpg|thumb|upright=0.6|[[ジャック=エミール・ブランシュ]]によるフランス6人組]] [[File:Charles Koechlin 1.jpg|thumb|left|upright=0.5|シャルル・ケクラン]] |
|||
1917年頃ビニェスの紹介により、後の[[フランス6人組]]のメンバーであり同い年の[[ジョルジュ・オーリック]]や『パラード』の作曲者サティ、[[ポール・デュカス]]、[[モーリス・ラヴェル]]、声楽家の[[ジャーヌ・バトリ]]といった音楽家と出会う。中でもバトリとの出会いは重要で、プーランクは当時バトリの自宅に毎週のように集まる音楽家の一員となった。彼はそこで[[アンドレ・カプレ]]や[[アルテュール・オネゲル]]とも出会う。当時、バトリは渡米した[[ヴィユ・コロンビエ劇場]]の支配人の代理として劇場の運営を任されており、1917年12月には同劇場で[[ジェルメーヌ・タイユフェール]]、オーリック、[[ルイ・デュレ]]、オネゲル、[[ダリウス・ミヨー]]の作品とともに、プーランクの『{{仮リンク|黒人の狂詩曲|en|Rapsodie nègre}}(FP3)』の初演が行われた{{efn|この曲はサティに献呈されてる。}}。プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている<ref>プーランク、オーデル編、42-43頁</ref>。また、詩人[[ジャン・コクトー]]らの[[サロン]]に出入りするようになった。当時18歳だったプーランクは作曲を本格的に学習したいと考えたが、実業家であった父の反対により[[パリ音楽院]]には進学せず<ref>アンリ・エル35頁</ref>、3年間の兵役についた{{efn|1917年9月26日にはパリ音楽院の教授で、オペラ・コミック座の指揮者としても活躍していた[[ポール・ヴィダル]]のもとを訪れ、作品の提示を求められ、『黒人の狂詩曲』を見せたが、徹底的に罵倒された<ref>久野麗、36頁</ref>。}}。この間、[[1920年]]に『コメディア』誌上に批評家の{{仮リンク|アンリ・コレ|en|Henri Collet}}が掲載した論文「''[[ロシア5人組]]、[[フランス6人組]]、そして[[エリック・サティ]]''」によって「6人組」の名が広まった。 |
|||
除隊後の[[1921年]]から[[1924年]]にかけて、正式な音楽教育を受ける必要を感じ、[[ダリウス・ミヨー]]の勧めもあり[[シャルル・ケクラン]]について本格的に作曲を学ぶ。[[1922年]]にはミヨーなどと共に[[ウィーン]]の[[アルマ・マーラー]]宅を訪れ、そこで[[アルノルト・シェーンベルク]]、[[アントン・ヴェーベルン]]、[[アルバン・ベルク]]と会う。この年にはパリを訪れた[[バルトーク・ベーラ]]とも会う。[[1923年]]にパリで行われた[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]の『[[結婚 (ストラヴィンスキー)|結婚]]』初演の際の4人のピアニストの内の1人に予定されていたが、プーランクは病気となり初演には関われなかった(ストラヴィンスキーとは1916年にパリの楽譜店で出会って以来の友人であった)。 |
|||
[[1923年]]、ミヨーとともにイタリア旅行中であった24歳のプーランクは、[[バレエ・リュス]]を主宰する[[セルゲイ・ディアギレフ]]からの委嘱によって[[バレエ]]『[[牝鹿]](FP36)』を作曲し、翌[[1924年]]に[[モンテカルロ]]においてバレエ・リュスによって初演された。脚本はコクトー、舞台と衣装は[[マリー・ローランサン]]、振付・主演は[[ブロニスラヴァ・ニジンスカ]]という豪華なものだった。 |
|||
晩年、そして死後数十年にわたり、プーランクはとりわけ母国において軽妙洒脱な作曲家との名声を獲得する一方、その宗教音楽はしばしば見逃されてきた。21世紀に入って真剣さのある作品にもこれまで以上の注目が集まっており、世界中で『カルメル会修道女の対話』や『[[人間の声]]』の新たな演出が試みられ、演奏会や録音に歌曲、合唱曲が多数取り上げられている。 |
|||
=== 飛躍と成熟(1926年-1945年) === |
|||
[[File: Jean Cocteau b Meurisse 1923.jpg|thumb|upright=0.6|ジャン・コクトー]] |
|||
[[1927年]]、[[トゥレーヌ]]地方[[トゥール]]近郊{{仮リンク|ノワゼ|fr|Noizay}}に邸宅{{仮リンク|ル・グラン・コトー|fr|Le Grand Coteau}}を購入し、創作活動の場合ここに籠もり『[[ナゼルの夜会]](FP84)』などを完成させた。プーランクは[[1935年]]に[[ザルツブルク]]で[[バリトン]]歌手[[ピエール・ベルナック]]と{{efn|ベルナックは1926年に『陽気な歌』の初演を大成功に導いた功労者であった<ref>久野麗、119頁</ref>。}}再会を果たしている。 |
|||
プーランクは1936年[[8月17日]]の同僚でライバルでもあった作曲家の[[ピエール=オクターヴ・フェルー]]の痛ましい自動車事故による死の知らせに衝撃を受け、しばらく無頓着になっていた信仰心を取り戻した。[[ロカマドゥール]]礼拝堂の黒衣の聖母から受けた〈心への一撃〉によって作曲された『[[黒い聖母像への連禱]](FP82)』は以後晩年までプーランクが書き続けた一連の曲の宗教的合唱の先駆け的な存在となった<ref>『ラルース世界音楽事典』626項</ref>。 |
|||
大戦中はナチス占領下のフランスに留まり、彼の対独〈抵抗〉の意志を込めて[[ガルシア・ロルカ]]の想い出に『[[ヴァイオリンソナタ (プーランク)|ヴァイオリン・ソナタ]](FP119)』(1942年-1943年)を作曲し、[[ルイ・アラゴン]]の詩に曲を付けた『セー(FP 122)』(''C'')、そして声による[[レジスタンス運動|レジスタンス]]ともいうべき『[[人間の顔 (カンタータ)|人間の顔]] (FP120)』(1943年)を作曲した。 |
|||
== 生涯 == |
|||
=== 第二次世界大戦後(1946年-1959年) === |
|||
=== 若年期 === |
|||
初のオペラ作品『[[ティレジアスの乳房]](FP125)』は[[1947年]][[ 6月3日]]に、[[パリ]]・[[オペラ・コミック座]]にて初演された<ref>『ラルース世界音楽事典』、P1062</ref> |
|||
プーランクは[[パリ]][[8区 (パリ)|8区]]で、父エミール・プーランクとその妻ジェニー(旧姓ロワエル)の間に末っ子、そして唯一の男児として誕生した<ref>Schmidt (2001), p. 3</ref>。エミールは{{仮リンク|プーランク・フレール|en|Poulenc Frères}}(プーランク兄弟)社、成功を収めた製薬会社で後の[[ローヌ・プーラン]]社の共同代表であった<ref>Cayez, p. 18</ref>。エミールは[[アヴェロン県]][[エスパリオン]]の敬虔な[[カトリック教会|ローマカトリック]]の一家の出であった。妻のジェニーは幅広い芸術に関心を寄せるパリ市民の家の生まれである。プーランクは、この家庭環境によって彼自身の2つの特質が育まれたと考えていた。父方から受け継いだ深い信仰心と、母方からの国際的、芸術的な側面である<ref name=grove>Chimènes, Myriam and Roger Nichols. [http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/22202 "Poulenc, Francis"], Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 24 August 2014 {{subscription}}</ref>。評論家のクロード・ロスタンは後年、プーランクを「修道士半分、腕白小僧半分{{refn|"...y a en lui du moine et du voyou."<ref>Roy, p. 60</ref>"Voyou"には英語の定訳がなく、"naughty boy"<ref>Poulenc (2014), p. 247</ref>をはじめとして(本項ではこの訳語に従い「腕白小僧」とした)、"ragamuffin or street-urchin"<ref>Burton, p. 15</ref>、"guttersnipe"<ref>Buckland and Chimènes, p. 85</ref>、"bad boy"<ref>Ivry, p. 8</ref>、 "bounder"<ref>Schmidt (2001), p. 105</ref>、 "hooligan"<ref>Walker, Lynne. [http://docs.newsbank.com/openurl?ctx_ver=z39.88-2004&rft_id=info:sid/iw.newsbank.com:UKNB:TND1&rft_val_format=info:ofi/fmt:kev:mtx:ctx&rft_dat=1320515913BFD8E0&svc_dat=InfoWeb:aggregated5&req_dat=102CDD40F14C6BDA "The alchemical brother"], ''The Independent'', 27 January 1999</ref>、そして"rascal"<ref>Hewett, Ivan. [http://docs.newsbank.com/openurl?ctx_ver=z39.88-2004&rft_id=info:sid/iw.newsbank.com:UKNB:DST1&rft_val_format=info:ofi/fmt:kev:mtx:ctx&rft_dat=1453A628B2051590&svc_dat=InfoWeb:aggregated5&req_dat=102CDD40F14C6BDA "Part monk, part rascal"], ''The Daily Telegraph'', 23 March 2013</ref>など、様々な語が当てられている。なお、プチ・ロワイヤル仏和辞典第3版では「非行少年、不良」などと訳されている<ref>{{Cite book|和書|title=プチ・ロワイヤル仏和辞典第3版 |publisher=[[旺文社]] |year=2003 |page=1613}}</ref>。|group= "注"}}」と評している。 |
|||
プーランクは[[1948年]]にピエール・ベルナックと1回目の[[米国]]へ演奏旅行に行き、大きな成功を収めた<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁</ref>。 |
|||
第2作の『[[カルメル派修道女の対話]](FP159)』([[1957年]]1月ミラノ・[[スカラ座]]で世界初演、6月[[パリ国立オペラ|パリ・オペラ座]]でフランス初演)は「ドビュッシーの『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』、ベルクの『[[ヴォツェック]]』に続く作品」と絶賛された<ref>『標準音楽辞典』、プーランクの項</ref>。プーランクの3作目にして最後のオペラ『[[人間の声]](FP171)』が[[1959年]][[2月6日]]に[[パリ]][[オペラ・コミック座]]にて初演された<ref>ジョン・ウォラック、513頁</ref>。 |
|||
[[File:P1040339 Paris VIII place des Saussaies rwk.JPG|thumb|left|alt=パリの様式で建てられた19世紀の建造物群|プーランクが生まれたソサエ広場。]] |
|||
=== 晩年(1960年-1963年) === |
|||
プーランクは音楽豊かな家庭に育った。母はピアノの確かな腕前を持ち、クラシック音楽からあまり高尚でない音楽まで幅広いレパートリーを有していた。これにより、プーランクは自身が言うところの「愛すべき劣等音楽」に対する、生涯にわたる趣味を得ることになった<ref name=h2>Hell, p. 2</ref>{{refn|ジェニー・プーランクの好みは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]から、[[アントン・ルビンシテイン]]のような作曲家が書いた感傷的なポピュラー作品にまで及んでいた<ref name=h2/>。プーランクはオペラ『[[カルメル派修道女の対話|カルメル会修道女の対話]]』(1956年)を「私へ音楽を明らかにしてみせてくれた、我が母の想い出に」捧げている<ref>''Quoted'' in Schmidt (2001), p. 6</ref>。|group= "注"}}。ピアノのレッスンは5歳から開始しており、8歳になって初めて耳にした[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の音楽が持つ独自の音色に魅せられた。彼の成長に影響を与えた楽曲には[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]と[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]のものがある。前者の『[[冬の旅]]』と後者の『[[春の祭典]]』は彼の中に深い印象を残した<ref>Hell, pp. 2–3</ref>。父の言いつけによりプーランクは一般的な学校教育課程を歩み、音楽学校ではなくパリの[[リセ・コンドルセ]]で学ぶことになった<ref>Schmidt (2001), pp. 6 and 23</ref>。 |
|||
プーランクは1960年に{{仮リンク|ドゥニーズ・デュヴァル|fr|Denise Duval}}と2回目の米国への演奏旅行に行き、再び歓迎された<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁</ref>。 |
|||
プーランクは[[1945年]]から世を去るまでの間、作曲のほかベルナックの伴奏者としてサティ、[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]と自作の録音に大部分の時間を費やした{{efn|積極的に演奏活動もし、録音も残されている。}}。彼は生涯独身であったが、友人たち、特にオーリックの支援と助言に多くを頼っていた。彼はパリとトゥレーヌの邸宅で理想とする友人の訪問に中断される孤独な生活を送った<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
晩年には様々な楽器とピアノのためのソナタに取り組む。[[1962年]]には『[[クラリネットソナタ (プーランク)|クラリネット・ソナタ]](FP184)』、『[[オーボエソナタ (プーランク)|オーボエ・ソナタ]](FP185)』を作曲した。 |
|||
プーランクはコクトーの原作に基づく彼の4番目のオペラ『地獄の機械』の作曲にかかったところで、[[1963年]] [[1月30日]]に[[心臓麻痺]]のためパリで死去した。 |
|||
1916年、女友達[[レイモンド・リノシエ]]{{refnest|group="注"|大変な読書家でプーランクを文学的な面で大きく感化した<ref>アンリ・エル、11頁</ref>。}}(1897年-1930年)に導かれて[[アドリエンヌ・モニエ]]が経営する{{仮リンク|オデオン通り|fr|Rue de l'Odéon}}7番地の書店「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」に出入りするようになり{{refn|蔵書の貸し出しも行っており、文学サロンとしても機能していた<ref>久野麗、24頁</ref>。|group="注"}}<ref>Poulenc (1978), p. 98</ref>、[[アンドレ・ブルトン]]、[[ギヨーム・アポリネール]]、[[マックス・ジャコブ]]、[[ポール・エリュアール]]、[[ルイ・アラゴン]]といった「アヴァンギャルド」の詩人たちに出会う。彼らの詩がプーランクの音楽の抒情的表現への鍵となり<ref>アンリ・エル、12頁</ref>、後年、彼は彼らの詩の多くに作曲を行うことになる<ref>Schmidt (2001), pp. 26–27</ref>。同年、ピアニストの[[リカルド・ビニェス]]に弟子入りする。伝記作家の[[アンリ・エル]]が述べるところでは、ビニェスは弟子のプーランクのピアノの技量、並びに彼の鍵盤楽器作品の様式に深い影響を与えたという。プーランクは後にビニェスについて次のように述べている。 |
|||
=== 私生活 === |
|||
[[File:Ricardo-vines.jpg|thumb|upright|alt=多くな口髭をたくわえた中年男性|ピアニストの[[リカルド・ビニェス]]。プーランクは1914年からビニェスに師事した。]] |
|||
私生活では[[同性愛者]]とされ{{efn|幼なじみの女性{{仮リンク|レイモンド・リノシエ|fr|Raymonde Linossier}}に求婚したこともあったが、プーランクの同性愛傾向を知るリノシエはこれを断った<ref>久野麗、90頁</ref>。}}、{{仮リンク|リシャール・シャンレール|fr|Richard Chanlaire}}<ref>久野麗、90-91頁</ref>、レイモン・デトゥッシュ<ref>久野麗、138頁</ref>、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベール<ref>久野麗、266頁</ref>、ルイ・ゴーティエ<ref>久野麗、314頁</ref>が交際相手として知られている。プーランクが好んだのは、中流以下のインテリではない男性であった<ref>久野麗、138頁</ref>。 |
|||
<blockquote>彼は大変に愉快な男だった。奇怪なヒダルゴ(スペイン紳士のこと)だった彼は、立派な奇怪なひげを蓄え、平らなつばを持つ純然たるスペイン風[[ソンブレロ]]を被り、私がペダリングを十分に変えなかった時には履いていたボタンブーツで私のむこうずねを小突いた<ref>Poulenc (1978), p. 37</ref>(中略)私は彼を熱狂的に賛美した。というのも、当時、1914年時点では、我がドビュッシーと[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]を演奏した唯一の[[ヴィルトゥオーソ]]だったからだ。そうしてビニェスと出会ったことは私の生涯で最も重要なことだった: 何もかもが彼のおかげである(中略)事実、私の音楽での駆け出しの努力と私がピアノについて知ること全ては、ビニェスのおかげで得られたものなのだ<ref>''Quoted'' in Schmidt (2001), p. 20</ref>。</blockquote> |
|||
プーランクが17歳の時に母が他界、2年後に父も後を追った。これによりビニェスは教師を超えた存在となる。『[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]』のミリアム・シメヌ(Myriam Chimènes)の言によると、ビニェスは若きプーランクにとって「精神的指導者」であったという<ref name=grove/>。ビニェスは弟子に作曲をするよう激励し、後にプーランク初期の3つのピアノ作品の初演も手掛けたのである{{refn|3つの作品とは『[[3つの無窮動]]』、『3つのパストラル』、ピアノのための組曲である<ref name="Schmidt 2001, p. 21">Schmidt (2001), p. 21</ref>。|group= "注"}}。さらに、彼を通じて面識を得た2人の作曲家、[[ジョルジュ・オーリック]]と[[エリック・サティ]]の助けにより、プーランクは初期の成長を遂げていくことになる<ref>Hell, pp. 3–4</ref>。 |
|||
また、フランス滞在時{{efn|プロコフィエフがパリに滞在したのは概ね1920年から1935年頃}}の[[ロシア]]の作曲家[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]とは、ピアノや[[コントラクトブリッジ|ブリッジ]]を通じて親交が篤かった<ref>久野麗、101-102頁</ref>。唯一のピアノの弟子として[[カンヌ]]生まれフランスのピアニスト、[[ガブリエル・タッキーノ]]に教えた。 |
|||
プーランクと同い年であったオーリックは音楽面でプーランクよりも早熟だった。両名が出会った時点で既に、オーリックの音楽はパリの重要な演奏会場で演奏されていたのである。この2人の若い作曲家は音楽的な外形と情熱を共有しており、オーリックはプーランクの生涯を通じた最も信頼できる友人であり導き手となった<ref name=h4/>。プーランクは彼を「わが精神の真の兄弟」と呼んだ<ref name="Schmidt 2001, p. 21"/>。変わり者であったサティはフランスの楽壇の主流派からは孤立していたが、オーリック、[[ルイ・デュレ]]、[[アルテュール・オネゲル]]らの台頭しつつある若い作曲家たちに指導を施していた。いったんは[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]の素人と見てプーランクを追い払ったが、考え直して「新しい若者のためのグループ(Les Nouveaux Jeunes)」と呼んでいた自分が世話する者たちのサークルに迎え入れた<ref>Schmidt (2001), pp. 38–39</ref>。プーランクはサティから受けた影響について「精神と音楽の両面において直接的かつ広範」なものだったと記述している<ref>Romain, p. 48</ref>。ピアニストの[[アルフレッド・コルトー]]はプーランクの『[[3つの無窮動]]』が「サティの皮肉めいた外見を投影し、現代の神経質な知的サークルの水準に適合させたもの」だと評している<ref name=h4>Hell, p. 4</ref>。 |
|||
== 音楽観など == |
|||
[[File:Père-Lachaise - Francis Poulenc 01.jpg|thumb|upright=0.7|[[ペール・ラシェーズ墓地]]のプーランクの墓]] |
|||
[[1953年]]に行われたスイス・ロマンド・ラジオ放送のインタビューで、プーランクは自己の来歴や音楽観について語っている。その中で、若い頃に影響を受けた作曲家として、[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]、[[エリック・サティ|サティ]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の4人を、音楽家のベスト5(無人島に持っていきたい音楽)として、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、ストラヴィンスキーを、生理的に受け付けない作曲家として[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]、[[アルベール・ルーセル|ルーセル]]の名を挙げている<ref>プーランク、オーデル編、181頁</ref>。 |
|||
=== 初期作品群と「6人組」 === |
|||
プーランクはインタビューの中で「音楽で[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]に勝るものはない」<ref>プーランク、オーデル編、26頁</ref>と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。また、ストラヴィンスキーについては『春の祭典』ではなく、『[[プルチネルラ]]』、『[[妖精の接吻]]』、『[[カルタ遊び]]』などの「ヨーロッパ的」な作品に影響を受けたと語っている<ref>プーランク、オーデル編、69-70頁</ref>。 |
|||
[[Image:PoulencCommemorativePlaque.jpg|thumb|プーランクの住んでいた[[6区 (パリ)|パリ6区]]メディシス通り5番地の家に掲げられた銘板。]] |
|||
プーランクは1917年12月に『[[黒人の狂詩曲]]』で作曲家としてのデビューを飾った{{refnest|group="注"|この時の演奏会の曲目には[[ジェルメーヌ・タイユフェール|タイユフェール]]、オーリック、デュレ、オネゲル、[[ダリウス・ミヨー|ミヨー]]の作品が並んでおり、プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている<ref>プーランク(1994)、42-43頁</ref>。}}。これは全5楽章からなる[[バリトン]]と小編制のアンサンブルのための10分ほどの楽曲である{{refn|プーランク研究者のカール・B・シュミットは『黒人の狂詩曲』に先立つ作品として2つの楽曲を挙げている。いずれも演奏されないまま作曲者自身によって破棄されたピアノ独奏曲の『Processional pour la crémation d'un mandarin』(訳例:中国官吏の火葬の達人)(1914年)と前奏曲集(1916年)である<ref>Schmidt (1995), pp. 11–12</ref>。その後の1917年から1919年にかけて作曲された作品にも破棄されたか、もしくは散逸してしまったものがある<ref>Schmidt (1995), p. 525</ref>。|group= "注"}}。この作品はサティに献呈され、[[メゾソプラノ]]の[[ジャーヌ・バトリ]]が手がけていた新作によるコンサート・シリーズの中で初演された。当時のパリではアフリカの芸術が流行しており、プーランクは[[リベリア]]のものであるということになっていた韻文が出版されているのを喜んでいたが、パリでそぞろ歩きを好む人々のスラングで溢れていた。ある詩は曲中の2つの部分に使用されている。初演に抜擢されたバリトンは怖気づいてしまい、歌手ではない作曲者自身が飛び入りで参加した。こうした「jeu d'esprit(機転による演奏)」はこの後も数多く行われることになり、英語話者の評論家は「leg-Poulenc」と呼ぶようになった<ref>Harding, p. 13</ref>{{refn|英口語にみられる表現「leg-pulling」 - ユーモアのある楽しい欺き - をもじった表現である<ref>[http://www.oed.com/view/Entry/107003?redirectedFrom=leg-pulling#eid39632778 "leg-pull"], ''[[オックスフォード英語辞典|Oxford English Dictionary]]'', retrieved 20 September 2014 {{subscription}}</ref>。|group= "注"}}。ラヴェルはこの作品を面白がり、プーランクの自ら民話を生み出す能力に言及している<ref>Machart, p. 18</ref>。強く感銘を受けたストラヴィンスキーは自らの影響力を行使してプーランクとある出版社の契約を確保してやり、プーランクはこの親切を生涯忘れることはなかった<ref>Poulenc (1978), p. 138</ref>。一方、1917年9月26日にはパリ音楽院の教授でオペラ・コミック座の指揮者としても活躍していた[[ポール・ヴィダル]]のもとを訪れ、作品の提示を求められたため『黒人の狂詩曲』を見せたが、徹底的に罵倒されたという<ref>久野麗、36頁</ref>。 |
|||
[[File:Les Six Tableau.jpg|thumb|left|『6人組の面々』(Le Groupe des Six)、[[ジャック=エミール・ブランシュ]]画、1922年。中央はピアニストの[[マルセル・メイエ]]。左側は下から[[ジェルメーヌ・タイユフェール|タイユフェール]]、[[ダリウス・ミヨー|ミヨー]]、[[アルテュール・オネゲル|オネゲル]]、ピアニストの[[ジャン・ヴィエネル]]。右側で立っているのがプーランクと[[ジャン・コクトー|コクトー]]、着席しているのが[[ジョルジュ・オーリック|オーリック]]。[[ルイ・デュレ|デュレ]]は描かれていない<ref name="bialek">{{cite magazine |last1=Bialek |first1=Mireille |date=December 2012 |accessdate=2021-10-31 |number=15 |url=https://amis-musees-rouen.fr/fichiers/gazette/gazette_2012.pdf |title=Jacques-Émile Blanche et le Groupe des Six |magazine=La Gazette des Amis des Musées de Rouen et du Havre |page=7}}</ref>。]] |
|||
プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃に[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった<ref name=jiten>『標準音楽辞典』、プーランクの項</ref>。1910年の冬、楽譜屋で『[[冬の旅]]』の楽譜を見つけ「突然自分の人生の中で非常に深い何かが変化したことを発見した」そして、彼は繰り返し『[[菩提樹 (シューベルト)|菩提樹]]』、『烏』、『辻音楽師』を弾いたが「中でも『幻の太陽』には特に惹かれた」と言う<ref>高橋英郎、112頁</ref>。 |
|||
1917年にラヴェルと知り合い、音楽について真剣な議論を交わすほどの関係になった。自分が高く称賛する作曲家よりもなんとも思わない作曲家を評価するというラヴェルの判断を聞き、プーランクは落胆することになる<ref name=rn117>Nichols, p. 117</ref>{{refn|プーランクの記憶では、ラヴェルは[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]は天才、シューマンは平凡で[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]に大きく劣る、ドビュッシーの後期(『[[遊戯 (ドビュッシー)|遊戯]]』など)は貧弱、[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]の[[管弦楽法]]は能力に欠けると述べたという<ref name=rn117/>。シャブリエの音楽はプーランクがとりわけ熱中していたもののひとつだった。1950年代には次のように述べている。「ああ!シャブリエ、人が父を愛するかの如く私は彼を愛している!子に甘い父、いつも朗らかで、ポケットは美味しいものでいっぱいになっている。シャブリエの音楽は尽くせぬ宝物庫、私には欠かせないものなのだ。どんなに暗い日々にもシャブリエの音楽が私を癒してくれる、わかるだろ(中略)私は悲しい人間なのだ - 悲しい人間が皆そうであるように、笑うことが好きなのだ<ref>Poulenc (1978), p. 54</ref>。」|group= "注"}}。彼はこの不幸な出会いをサティに打ち明けた。サティは見下げるかのようなラヴェルの通り名で応じている。曰く、ラヴェルは「多量のがらくた」を語ったのだという<ref name=rn117/>{{refn|プーランクがサティの言葉を引用した原文表現は次の通り。"Ce c... de Ravel, c'est stupide tout ce qu'il dit!"<ref name=p6375>Poulenc (1963), p. 75</ref>|group= "注"}}。長年にわたり、プーランクはラヴェルの音楽についてどっちつかずの態度を取ったが、人間としては敬意を払ってきた。ラヴェルが自作の音楽について謙虚な態度を取っていることが特にプーランクには魅力的に映り、彼は生涯を通じてラヴェルの示した模範を追求したのである<ref name=n117>Nichols, pp. 117–118</ref>{{refn|プーランクは1958年に、自分がいかにラヴェルを賛美しているか、そして言葉のみでなく、ピアニストとしてラヴェルの作品を解釈することを通じてそのことを表現できることに喜びを感じてきた、と語っている<ref name=t1958/>。|group= "注"}}。 |
|||
実業家であった父の反対により[[パリ音楽院]]には進学せず<ref>アンリ・エル、35頁</ref>、[[第一次世界大戦]]末期から直後の戦後期にあたる1918年1月から1921年1月まで、プーランクは徴兵されフランス陸軍に従軍していた。1918年7月から10月の[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]への派兵を経て、以降は補助的な任務を歴任し、最後は[[フランス空軍|空軍]]のタイピストとして兵役を終えた<ref name=h9/>。任務中にも作曲のための時間を取ることが可能だったため<ref name=grove/>、ピアノのための『3つの無窮動』や『4手のためのピアノソナタ』が{{仮リンク|サン=マルタン=シュル=ル=プレ|en|Saint-Martin-sur-le-Pré}}の地元の小学校のピアノを用いて書かれた。またアポリネールの詩のよる初となる歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』が完成している。ソナタは世間に大した印象を残すことはなかったが、歌曲集で彼の名がフランスで知られるようになり、『3つの無窮動』はたちまち国境を超える成功を収めた<ref name=h9>Hell, pp. 9–10</ref>。戦時中に音楽制作の急場を経たことで、プーランクは使用可能ないかなる楽器に対しても作曲を進めるということについて、多くを学んだのであった。そしてその後、彼の一部の作品は一般的でない演奏者の組み合わせを想定したものとなっていく<ref name=guardian>"Francis Poulenc", ''The Guardian'', 31 January 1963, p. 7</ref>。 |
|||
ピアノ以外の楽器については、弦楽器よりも管楽器の音色を好んだ<ref name=cd>濱田滋郎 CD(F00G 20460)ライナーノート</ref>ため、管弦楽曲では管楽器が重要な役割を演じることが多く、室内楽曲においても管楽器のための作品が多い。なお、プーランクはさまざまな楽器の組み合わせで室内楽曲を作曲しているが、その中に同一の組み合わせのものはない。 |
|||
キャリアのこの段階に至り、プーランクは自身が通り一遍の音楽教育を受けていないことを意識するようになった。評論家で伝記作家の[[ジェレミー・サムズ]]は、世の中の潮流が[[ロマン派音楽|ロマン派]]の豊潤さに背を向け、技術的には洗練されていないにもかかわらず、「新鮮で無頓着な魅力」に賛意を示してくれたのは、彼にとって幸運なことだったと記している<ref name=opera>Sams, Jeremy. [http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/O903945 " Poulenc, Francis"], ''[[新グローヴオペラ事典|The New Grove Dictionary of Opera]]'', Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 24 August 2014 {{subscription}}</ref>。[[モンパルナス]]地区に所在する[[サル・ホイヘンス]]でプーランク初期の4作品が初演されることになるが、ここでは1917年から1920年にかけてチェリストのフェリクス・ドラグランジュが若い作曲家たちの音楽による演奏会を催していた。そうした作曲家にはオーリック、デュレ、オネゲル、[[ダリウス・ミヨー]]、[[ジェルメーヌ・タイユフェール]]がおり、彼らにプーランクを加えて一緒に「[[フランス6人組|6人組]]」として知られるようになる<ref>Hell, pp. 13–14</ref>。評論家の[[アンリ・コレ]]は彼らのあるコンサートが終わった後で『[[ロシア5人組]]、フランス6人組、そしてエリック・サティ』と題した論文を『コメディア』誌上に発表している。ミヨーによると |
|||
プーランクは生粋のパリっ子であり都会人であった。彼が作る曲は軽快、軽妙で趣味がよく<ref name=jiten></ref>、[[ユーモア]]と[[アイロニー]]と知性があり「[[エスプリ]]の作曲家」と言われる<ref name=cd></ref>が、敬虔なカトリック教徒であった両親の影響を受け、宗教曲や合唱曲も手掛けている。自身はこの分野について「わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものをそこに注ぎ込んだつもりです。(略)わたしが何か新しいものをもたらしたとするならば、それはまさにこの分野の仕事ではないかと思います」と述べている<ref>プーランク、オーデル編、66頁</ref>。 |
|||
<blockquote>コレは全くもって恣意的なやり方で、オーリック、デュレ、オネゲル、プーランク、タイユフェール、そして私の6人の作曲家の名前を選んだ。それは単に我々が互いに知り合いかつ友人であり、同じプログラムに掲載されていたという理由に過ぎず、我々の考え方や気質が異なることは微塵も考慮されていない。オーリックとプーランクは[[ジャン・コクトー|コクトー]]の思想を追っており、オネゲルはドイツ・ロマン派の申し子、私が傾倒しているのは地中海の抒情的芸術なのだ(中略)コレの論文が与えた広い影響は6人組を誕生せしめてしまうことになった<ref>''Quoted'' in Hell, pp. 14–15</ref>{{refn|ミヨーの見方は後の著作家から疑問視されている。学術誌『Music & Letters』では、1957年にVera Rašínはコレの選択が恣意的であったという証言に疑義を呈し、「6人組」という標語はこの一団を自ら庇護した[[ジャン・コクトー]]が慎重に準備したのではないかと推測した<ref name=vr>Rašín, Vera. [https://www.jstor.org/stable/729312 "'Les Six' and Jean Cocteau"], ''Music & Letters'', April 1957, pp. 164–169 {{subscription}}</ref>。音楽学者の[[ロバート・オーリッジ]]も2003年に同様の見解を提唱している<ref>Orledge, pp. 234–235</ref>。|group="注"}}。</blockquote> |
|||
[[File:Charles Koechlin 1.jpg|thumb|[[シャルル・ケクラン]]。プーランクはケクランの下で作曲を学んだ。]] |
|||
== 作品の特徴 == |
|||
コクトーは年代こそ「6人組」と近かったものの、この一団にとっては父親的な存在であった<ref name=vr/>。彼の文芸スタイルはエルの表現によれば「逆説的かつ精巧」で、反ロマン主義、簡潔にして不遜なものだった<ref>Hell, p. 13</ref>。これがプーランクには非常に魅力的にうつり、彼がコクトーの言葉に曲を付けたのは1919年が最初で1961年が最後となる<ref>Hell, pp. 13 and 93; and Schmidt (2001), p. 451</ref>。「6人組」のメンバーが共同制作を行う際には、各人は各々の担当部分を仕上げて、それらを繋げて作品とする形式を取った。彼らによる1920年のピアノ組曲『[[6人組のアルバム]]』は6つの独立した無関係な楽曲で構成されている<ref>Hinson, p. 882</ref>。また1921年の[[バレエ]]『[[エッフェル塔の花嫁花婿]]』にはミヨーが3曲、オーリック、プーランク、タイユフェールが2曲ずつ、オネゲルが1曲を提供した。既に6人組から距離を置いていたデュレは曲を書いてない<ref>Desgraupes, p. 5; and Hell, p. 19</ref>。 |
|||
プーランクは[[旋律]]に対する生来の感覚、そのプロポーションやフレージングにおける全体性やしなやかさの感覚を持っていた<ref>『ラルース世界音楽事典』、1417頁</ref>。 |
|||
1920年代になってもプーランクは正式に音楽を学んでないことを気に病み続けていた。サティは音楽学校というものに懐疑的だったが、ラヴェルは作曲の講義を受けてみてはどうかと助言した。ミヨーからは作曲家で教育者の[[シャルル・ケクラン]]を勧められた<ref name=h21>Hell, p. 21</ref>{{refn|ケクランはラヴェル同様[[ガブリエル・フォーレ]]門下であったが、プーランクはフォーレの音楽への愛情面で彼らとは相容れなかった。フォーレの研究者である[[ジャン=ミシェル・ネクトゥー]]は、プーランクの反感は奇妙に思える、なぜなら「6人組」の中でプーランク「が透明な明朗性、自作における歌唱の質の高さ、そして魅力の面でフォーレに最も近い」からであるとコメントしている<ref>Nectoux, p. 434</ref>。|group= "注"}}。プーランクは1921年から1925年にかけて断続的に彼の下で学ぶことになる<ref>Schmidt (2001), p. 144</ref>。 |
|||
プーランクは[[調]]・[[旋法]]体系の優位を決して疑わなかった。[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]以降の主な作曲家の誰よりも多く[[減七和音]]をつかったとは言え、[[半音階]]性は彼の音楽にあっては束の間の現象に過ぎなかった。[[書法]]、[[和声]]、[[リズム]]の面でも、彼は特に創意に溢れていたわけではなかった。彼にとって最も重要な要素は何にもまして旋律であり、既に探索され、多くの仕事がなされ、枯渇してしまったと思われた領域の中で、最新の音楽地図を頼りに、彼は未発見の旋律の巨大な宝庫へたどり着いたのである<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 [[1942年]]の手紙の中で「自分が[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]やドビュッシー、ラヴェルのような和声の革新をやった作曲家でないことは自分が誰よりもよく知っている。しかし、他人の和声を使うことを気にしない新しい音楽の余地はあると思う。モーツァルトやシューベルトもそうだったのではないか」と書いている<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
=== 1920年代:高まる名声 === |
|||
小沼純一によればプーランクの楽曲には次のような特徴「4小節や8小節よりさらに短い2小節がしばしば使われる旋律の単位、通常の長さより一拍か二拍ほど旋律線を短く刈り込んでしまう展開、七や九の和音への偏愛。故意に二度や七度をそのまま使って、不協和音を目立たせるスタイル。[[精神分裂症|分裂症]]と呼べそうな急激な気分の転換。クライマックスのままエンディングに至らない[[カタルシス]]の回避。安定しているのに、しばし宙吊りの緊張が作られる[[コーダ]]。作品の短さと簡潔さなど」が見られる<ref>小沼純一、293~294頁</ref>。 |
|||
1920年代初頭から、プーランクは国外、特に[[イギリス]]において演奏家及び作曲家として高く評価されるようになった。[[アーネスト・ニューマン]]は1921年に『[[ガーディアン|マンチェスター・ガーディアン]]』紙に次のように書いている。「私はまだ20代になったばかりの若者、フランシス・プーランクに注目している。彼は第1級の道化人へと成長するはずである。」プーランクの連作歌曲『リボンの結び目』は[[コルネット]]、[[トロンボーン]]、[[ヴァイオリン]]、打楽器という普通でない組み合わせの楽器群が伴奏となっており、そこでニューマンはそれまでほとんど聞いたことのないような楽しいおふざけを聞いたのだと語っている<ref>Newman, Ernest. "The week in music", ''The Manchester Guardian'', 28 April 1921, p. 5</ref>。1922年にミヨーと共に[[ウィーン]]へ赴いたプーランクは、[[アルバン・ベルク]]、[[アントン・ヴェーベルン]]、[[アルノルト・シェーンベルク]]と出会っている。フランスから来た2人はいずれも、これらオーストリアの同業者による革命的な[[十二音技法]]からは影響を受けなかったが、それを牽引する提案者としてこの3人を賞賛した<ref>Hell, p. 23</ref>。翌年、プーランクは[[セルゲイ・ディアギレフ]]から完全長のバレエ音楽の委嘱を受けた。プーランクは題材をフランスの古典である『{{仮リンク|雅なる宴|en|fête galante}}』を現代に移し替えたものにしようと心を決めた。この作品『[[牝鹿]]』は最初は1924年1月に[[モンテカルロ]]で、その後5月にパリで[[アンドレ・メサジェ]]の指揮により上演され、たちまち成功を収めた。同作品はプーランク有数の知名度を誇る作品であり続けている<ref>Hell, pp. 24–28</ref>。バレエの成功に続いてプーランクを有名にしたのは、思いがけずサティと疎遠になった理由であった。プーランクが新たに交友を持った人物の中に作家の[[ルイ・ラロワ]]がいたが、サティは彼を執念深く敵視していたのである<ref name=s136>Schmidt (2001), p. 136</ref>。やはりディアギレフと組んだバレエ『うるさがた』で同じように成功を手にしたばかりであったオーリックも、ラロワと交際したためサティから拒絶されてしまっていた<ref name=s136/>。 |
|||
[[File:W-Landowska2-crop.jpg|thumb|alt=微笑む中年女性の肩から上を写した写真|upright|1923年以来友人であり仕事仲間でもあった[[ワンダ・ランドフスカ]]。]] |
|||
当時の[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]が好んだ大胆で鮮やかな[[複調]]の響きを彼も特に好んで取り込み、旋律同士や和音同士をその手法によって重ねることが多く見られる。 |
|||
10年の時が経ち、プーランクは歌曲から室内楽曲、新たなバレエ、そして協奏曲『[[オーバード (プーランク)|オーバード]]』と多種多様な作品を生み出していた。エルはケクランの影響によりプーランクの自然で簡素な様式が時おり抑制されており、またプーランクが本当の色彩により自分を表現するにあたってオーリックが有用な助言を提供したと唱えている。これら2人の友人の音楽で1926年に開かれたコンサートにおいて、プーランクの歌曲を初めて[[バリトン]]の[[ピエール・ベルナック]]が歌うことになった。エルの言によれば、「プーランクは間もなくその名前とは分かち難くなった」のであった<ref>Hell, pp. 31–32</ref>。プーランクと近しい関係となったもうひとりの演奏家が[[チェンバロ|クラヴサン]]奏者の[[ワンダ・ランドフスカ]]である。彼は[[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]の『[[ペドロ親方の人形芝居]]』(1923年)でランドフスカが独奏をするのを聞いていた。同作品はこの当時の作品にクラヴサンを用いた先駆け的楽曲であり、彼はたちまちその音色に魅了された。ランドフスカの依頼によりプーランクは『[[田園のコンセール]]』を作曲、1929年にランドフスカの独奏、[[ピエール・モントゥー]]指揮[[パリ交響楽団]]によって初演された<ref>Canarina, p. 341</ref>。 |
|||
[[無調]]音楽が主流となった戦後も単純明快な作風の調性音楽を書き続けたプーランクであったが、一方で[[ピエール・ブーレーズ]]の主催する現代音楽アンサンブル「[[ドメーヌ・ミュジカル]]」の演奏会には常連として足繁く通うなど、前衛的な[[現代音楽]]にも理解を見せた。 |
|||
伝記作家のリチャード・D・E・バートンが述べたところでは、プーランクは1920年代終盤には羨まれるような立場に居たように思われるという。プロとして成功を収め、独立して裕福で、父からは相当な額の遺産を受け継いでいたのである<ref name=b37>Burton, p. 37</ref>。パリから南西へ230[[キロメートル]]に位置する[[アンドル=エ=ロワール県]]、{{仮リンク|ノワゼ|en|Noizay}}に、{{仮リンク|ル・グラン・コトー|fr|Le Grand Coteau}}と呼ばれる大きな邸宅を購入したプーランクは、安らかな環境で作曲するためにこの地へ逃れてきていた<ref name=b37/>。しかし、彼は主として同性愛であった自らの性的嗜好と折り合いをつけることにもがき、悩まされていた。初めてとなる真剣な恋愛関係を持ったのは[[画家]]の{{仮リンク|リシャール・シャンレール|en|Richard Chanlaire}}であった<ref>久野(2013)、90-91頁</ref>。彼はシャンレールに『田園のコンセール』の写譜を送り、そこへ次のように記した。「貴方によって私の人生は変わりました、貴方は幾年もの私の渇きの陽光であり、生きて働く理由なのです<ref>Ivry, p. 68</ref>。」にもかかわらず、プーランクはこの恋愛の継続中に友人のレイモンド・リノシエに求婚していた。彼女はプーランクの同性愛傾向をよく知っていただけでなく<ref>久野(2013)、90頁</ref>、他に心惹かれる人物がいたためプロポーズを断ったのだが、これによって両者の関係はぎこちないものとなってしまった<ref name=i74/><ref>Schmidt (2001), p. 154</ref>。プーランクには幾度も抑鬱期が訪れることになるが、その最初のものが降りかかって作曲する能力にも影響が出ていた。さらに1930年1月にリノシエが32歳で急逝、彼は打ちのめされた。リノシエの死にあたってこう記している。「私の青年時代の全てが彼女と別れようとしている、人生のあの頃の何もかもが彼女だけのものだった。すすり泣いている(略)今、20歳の私がいる<ref name=i74>Ivry, p. 74</ref>。」シャンレールとの恋愛関係は1931年には先細りとなっていくが、2人は生涯友人であり続けた<ref>Ivry, p. 86; and Schmidt (2001), p. 461</ref>。 |
|||
== 歌曲 == |
|||
[[File:Eluard Harcourt 1945.jpg|thumb|left|upright=0.65|エリュアール]][[File:Apollinaire.jpg|thumb|upright=0.65|アポリネール]][[File:JEB - Etude pour le portrait de Max Jacob.jpg|thumb|upright=0.65|マックス・ジャコブ]][[File:Portrait Aragon (cropped).jpg|thumb|left|upright=0.65|ルイ・アラゴン]] |
|||
[[ギヨーム・アポリネール]]の『動物詩集』からの6つの詩に作曲した『動物詩集(FP15)』(1918~1919年)は二十歳の若者にしては極めて個性的で力量ある成果であり、短くて捉えどころのない詩の雰囲気が、しばしば言葉の変則的な配置という単純だが、驚くべき手段で捉えられている。[[1935年]]にはベルナックと『ポール・エリュアールの5つの詩(FP77)』を作曲した。プーランクは思春期からエリュアールの詩に魅せられてきた。彼は「そこには私の理解できない静けさ」があったと言う。『5つの詩』で鍵が錠前の中できしみ、[[1936年]]の『ある日ある夜(FP86)』で扉が開いたのである。これは[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]の『{{仮リンク|優しい歌(フォーレ)|label=優しい歌|en|La Bonne Chanson (Fauré)}}』に比肩し得る作品である。ここにはプーランクの他の歌曲の幾つかに見られる筆致、即ち『ホテル(FP107)』での感傷性や『村人の歌(FP117)』に見られる世俗性はないが、他の点では非常に個性的である。ひとつの歌の中で速度が変わる場合、プーランクはサティの先例に倣って、それを〈発展的〉というよりも〈連続的〉な設定にしている<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
=== 1930年代:新たな真剣さ === |
|||
ピアノと声はしばしば互いに異なった[[強弱法]]で進むが、これは彼以前にはあまり探求されることのなかった歌曲の作曲法の局面である。伴奏の書法は決して複雑ではないが、単に〈[[ペダル#楽器のペダル|ペダル]]の頻繁な使用〉が必要とされる。これ以降、プーランクの歌曲作曲技法はほとんど変化を見せず、むしろ方法の絶えざる精錬へと向かう。いかにより少ない手段で多くを語るかという試みであり、彼が賛嘆して止まなかった画家[[アンリ・マティス]]の純粋な描線の追求でもある。この傾向は彼の歌曲の中でも最も〈入念に書かれた〉『冷気と火(FP147)』([[1950年]])で頂点に達する。エリュアールの詩への最後の作品は『画家の仕事』(FP161)([[1956年]])である。『モンテカルロの女(FP180)』はプーランクの声楽作品の最後の重要なもので、コクトーの詩につけたこの曲は『人間の声(FP171)』と同様に憂鬱な心の状態の激しい恐怖をプーランクが完全に理解していたことを示している<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
1930年代のはじめに、それまで2年間歌曲を書いていなかったプーランクは再び歌を書くようになった。{{仮リンク|フランソワ・ド・マレルブ|en|François de Malherbe}}の詩に基づいて書かれた『墓碑銘』はリノシエの想い出に作曲されており、ピアニストの[[グレアム・ジョンソン]]はこの作品を「あらゆる意味において深遠な歌曲」であると評している<ref>Johnson, p. 140</ref>{{refn|『墓碑銘』に加え、プーランクは他の作品もリノシエの想い出に捧げている。『[[ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ]]』(1922年)、歌曲『彼女の優しい小さな顔』(1939年)、バレエ『[[典型的動物]]』(1941年)、歌曲集『カリグラム』から第7曲「旅」である<ref>Schmidt (2001), p. 480</ref>。|group= "注"}}。翌年にはアポリネールやマックス・ジャコブらの詩によって3つの歌曲集を書いており、中には真剣味のある音色の曲もあるかと思えば、かつての名残のように気楽さを見せる楽曲もある。これは1930年代初頭の他の作品にも通ずるところである<ref>Hell, pp. 38–43</ref>。1932年には他の作曲家らとともに作品が初めてテレビ放映されることになり、[[英国放送協会|BBC]]の放送で[[レジナルド・ケル]]と[[ギルバート・ヴィンター]]が『[[クラリネットとファゴットのためのソナタ]]』を演奏した<ref>[http://genome.ch.bbc.co.uk/c88bcd0c71bd447fbc38c2ed188a8c46 "A Television Transmission by the Baird Process will take place during this programme"], Genome – ''Radio Times'', 1923–2009, BBC, retrieved 17 October 2014</ref>。この頃からお抱え運転手のレイモン・デトゥーシュの関係が始まっている<ref name="久野138">久野(2013)、138頁</ref>。以前のシャンレールの場合と同様に、情熱的であった恋愛関係は深く永続的な友人関係へと変化していった。デトゥーシュは1950年代に結婚しているが、プーランクとは生涯にわたり親しい間柄であった<ref>Schmidt p. 476</ref>。 |
|||
[[File:Rocamadour fda.jpg|alt=崖の上にある小さな村の景色|thumb|プーランクに宗教作品の霊感を与えた[[ロカマドゥール]]。]] |
|||
プーランクの歌曲は概して短い部分からなり、多くは2小節か4小節の[[楽節]]構成になっている。彼の技法は彼が採り上げた[[シュルレアリスム]]派の詩人と共通するところが多く、個々の要素を各々が共鳴し合うように置くことを重視した。-中略-プーランクの歌曲においては、その一息ごとに歌が溢れ出てくる。音楽の豪奢な享楽家というプーランクにまつわる伝説はこの周到を極めた職人への最高度の賛辞である<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
1936年に起こった出来事により宗教的信仰心が再び呼び覚まされたプーランクの音楽は、新たな厳粛さの深みへと進んでいく。1936年8月17日に同僚でライバルでもあった作曲家の[[ピエール=オクターヴ・フェルー]]が自動車事故で死去との報が入る。首が切断されたという痛ましい死の報せに衝撃を受け、彼はしばらく無頓着になっていた信仰心を取り戻した。プーランクはその直後の休暇中に[[ロカマドゥール]]の聖所を訪ねた。彼は後にこう説明している。 |
|||
<blockquote>数日前に仕事仲間の悲劇的な死の報を受けたばかりだった(中略)私たち人間を形作るものの脆さに思いを巡らすほどに、今一度私は精神的な人生へと引き込まれていったのだ。ロカマドゥールには幼少期の信仰を私に取り戻させる効果があった。この聖所がフランス最古であることは疑いなく(中略)私を魅了する全てを兼ね備えていた。(中略)このロカマドゥール訪問当夜、私は女声とオルガンのための『[[黒い聖母像への連禱]]』に取り掛かった。当作品においては、その気高き教会で私に強い感銘を与えた「農夫の献身」の空気を伝えんとしてある<ref>Poulenc (2014), p. 233</ref>。</blockquote> |
|||
ロカマドゥール礼拝堂の黒衣の聖母から受けた心への一撃によって作曲された『黒い聖母像への連禱』は以後晩年までプーランクが書き続けた一連の曲の宗教的合唱の先駆け的な存在となった<ref>『ラルース世界音楽事典』626頁</ref>。続く作品群も新たに見出された厳粛さを引き継いでおり、エリュアールの[[シュルレアリスム|超現実]]的、[[ヒューマニズム|人文主義]]的な詩に作曲した多くの歌曲などがそれにあたる。1937年には初となる大規模な礼拝用作品である無伴奏ソプラノと混声合唱のための『[[ミサ曲 ト長調 (プーランク)|ミサ曲 ト長調]]』を作曲した。この作品は彼の全宗教作品の中で最も頻繁に演奏されている<ref name=sacred>Thibodeau, Ralph. [https://search.proquest.com/docview/1202458 "The Sacred Music of Francis Poulenc: A Centennial Tribute"], ''Sacred Music'', Volume 126, Number 2, Summer 1999, pp. 5–19 {{subscription}}</ref>。新作の全てがこうした深刻な方向性であったわけではない。{{仮リンク|イヴォンヌ・プランタン|en|Yvonne Printemps}}を主役に据えた劇付随音楽『マルゴ王妃』では16世紀の舞踏音楽の模倣を行っており、『[[フランス組曲 (プーランク)|フランス組曲]]』の名前で人気を博した<ref>Hell, p. 48</ref>。依然として音楽評論家は概して軽妙な作品によってプーランクを特徴づけており、1950年代に入るまで彼の厳粛な側面は広く認知されるに至らなかった<ref name=moore>Moore, Christopher. [https://search.proquest.com/docview/1514322251 "Constructing the Monk: Francis Poulenc and the Post-War Context"], ''Intersections'', Volume 32, Number 1, 2012, pp. 203–230 {{subscription}}</ref>。 |
|||
『ラルース世界音楽事典』では「[[ポール・エリュアール]]、[[ギヨーム・アポリネール]]、{{仮リンク|ルイーズ・ド・ヴィルモラン|en|Louise de Vilmorin}}の詩による歌曲は彼の全創作期間を通じてほぼ規則的に書かれており、識者からは集中力と[[韻律 (言語学)|韻律法]]の質の高さ、ゆえに評価を受けているのであるが、〈玄人受け〉にとどまっている感がある。オーケストラ作品、劇場作品は良く演奏されるが、ピアノ曲、歌曲は評判が良いのにもかかわらず、埋もれているのは事実である」と評価している<ref>『ラルース世界音楽事典』、1417頁</ref>。 |
|||
プーランクは1936年に頻繁にベルナックとのリサイタルを開くようになった。2人はパリの[[高等師範学校 (フランス)|エコール・ノルマル]]で『ポール・エリュアールの5つの詩』を初演した。以降ベルナックが表舞台を退く1959年までの20年以上にわたり、彼らはパリ及び国外でともに演奏活動を継続することになる。プーランクはこの同志のために90以上の歌曲を書いており<ref name=bernac>Blyth, Alan. [http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/02837 "Bernac, Pierre"], Grove Music Online, Oxford University Press, retrieved 5 October 2014 {{subscription}}</ref>、彼との出会いを自身の専門家としてのキャリアを通じた「3つの大きな出会い」のひとつに数えている。他の2人はエリュアールとランドフスカである<ref>Ivry, p. 96</ref>{{refn|ベルナックの声質と感性豊かな音楽家としての気質が、プーランクが「歌曲」(Mélodie)を作曲するスタイルに大きな影響を与えた。これはプーランクの友人であったテノールの[[ピーター・ピアーズ]]と作曲家の[[ベンジャミン・ブリテン]]の音楽的関係性に匹敵する程度のものであったが、イギリスの2人の場合とは異なりプーランクとベルナックはあくまでも仕事上のパートナーであった<ref name=bernac/><ref name="Johnson, p. 15">Johnson, p. 15</ref>。|group= "注"}}。ジョンソンの言葉を借りると「25歳のベルナックはプーランクの相談役であり良心であったがゆえ」、プーランクは彼に歌曲のみならず、オペラや合唱音楽の作曲においても助言を求めて彼に頼ったのであった<ref>Poulenc (1991), p. 11</ref>。 |
|||
1930年代を通じてプーランクはイギリスの聴衆から人気を得ていた。[[ロンドン]]のBBCとは実り多き関係を築き上げ、彼の作品の多くが放送された<ref>Doctor, pp. 69, 74, 78, 147, 226, 248, 343, 353–354, 370–371, 373, 380 and 382</ref>。1938年にはベルナックを伴って初のイギリスツアーを行っている<ref>Poulenc (2014), p. 141</ref>。[[アメリカ合衆国]]でも同様に人気を博しており、多くの人がその音楽を「フランスの機知、優雅さ、高潔な精神の神髄」であると考えていた<ref name=ny>"N.Y. Musical Tributes to Francis Poulenc", ''The Times'', 17 April 1963, p. 14</ref>。1930年代の終盤にも、プーランクの作品は深刻さと軽快さの間を揺れ動いていた。『[[悔悟節のための4つのモテット]]』(1938年-1939年)と歌曲『矢車菊』(1939年)は死への悲痛な瞑想であるが、歌曲集『[[偽りの婚約 (プーランク)|偽りの婚約]]』は『牝鹿』の精神を取り戻したような作品だ、というのがエルの見解である<ref name="Hell, pp. 60–61">Hell, pp. 60–61</ref>。 |
|||
=== 1940年代:大戦と戦後 === |
|||
プーランクは[[第二次世界大戦]]中もしばしの期間を従軍して過ごしている。1940年6月2日に召集を受け、[[ボルドー]]の防空部隊に所属した<ref>Schmidt (2001), p. 266</ref>。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|ドイツへの降伏]]後の1940年7月18日にプーランクは動員を解かれることになった。同年の夏は家族や友人たちと、フランス中南部の[[ブリーヴ=ラ=ガイヤルド]]で過ごしている<ref>Schmidt (2001), p. 268</ref>。大戦勃発初期には新作にはあまり手を付けず、『牝鹿』の[[管弦楽法|オーケストレーション]]の手直しや、1932年に書かれたピアノと木管楽器のための[[六重奏曲 (プーランク)|六重奏曲]]の改訂に取り組んでいた。ブリーヴ=ラ=ガイヤルドでは新しく3つの楽曲を書きはじめ、10月にノワゼの自宅に戻ると4作目に着手した。これらはピアノと語り手のための『[[小象ババールの物語]]』、『[[チェロソナタ (プーランク)|チェロソナタ]]』、バレエ『[[典型的動物]]』、そして歌曲集『[[平凡な話]]』である<ref name="Hell, pp. 60–61"/>。 |
|||
[[File:Paris Opera full frontal architecture, May 2009.jpg|alt=巨大な19世紀の劇場の外観|thumb|left|[[パリ]]の[[ガルニエ宮|オペラ座]]。『[[典型的動物]]』は1942年にここで初演された。]] |
|||
戦争中の大半をパリで過ごしたプーランクはベルナックと共にリサイタルを開き、フランス語の歌ばかりを取り上げた{{refn|プーランクは後年、自分たちがフランス語の歌曲のみを演奏したと回想しているが、これは正確ではない。一部のプログラムにはドイツ語の歌曲、特に[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の作品が含まれていた<ref name=fancourt/><ref>Ivry, p. 119</ref>。|group= "注"}}。公知の同性愛者であったプーランクは[[ナチス・ドイツによるフランス占領|ナチスの規則]]に照らすと危険な立場に置かれていたにもかかわらず(デトゥーシュは辛うじて逮捕、国外追放を免れていた)、彼は音楽の中でドイツをものともしない数多くの振る舞いをした<ref name=fancourt>[[デイジー・ファンコート|Fancourt, Daisy]]. [http://holocaustmusic.ort.org/resistance-and-exile/french-resistance/les-six/ "Les Six"], Music and the Holocaust, retrieved 6 October 2014</ref>。アラゴンやエリュアールといった{{仮リンク|フランスのレジスタンス|label=フランスのレジスタンス運動|en|French Resistance}}で有名な詩人たちの詩に作曲した。また、1942年にパリの[[ガルニエ宮|オペラ座]]で初演された『典型的動物』には、反ドイツの歌である「Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine」などを盛り込んで複数回繰り返させた<ref>Poulenc (2014), pp. 207–208</ref><ref name=simeone>Simeone Nigel. [https://www.jstor.org/stable/25434357 "Making Music in Occupied Paris"], ''The Musical Times'', Spring, 2006, pp. 23–50 {{subscription}}</ref>{{refn|曲の題名は直訳すると「あなたたちはアルザスとロレーヌを所有すべきでない」となる。[[普仏戦争]]でドイツがフランスに勝利して[[アルザス=ロレーヌ]]の大部分を割譲させた時代に遡る、フランスで人気の高い愛国歌である。第一次世界大戦後にフランスは同地域を奪還していたが、『典型的動物』が書かれた時期には再びドイツの支配下に置かれていた<ref name=simeone/>。|group= "注"}}。彼が創立メンバーに名を連ねた国民戦線は、ミヨーや[[パウル・ヒンデミット]]などの演奏禁止された音楽家との関係性によりナチスから疑いの目を向けられていた<ref>Schmidt, p. 284</ref>。1943年には8編のエリュアールの詞を基に、[[ベルギー]]に向けた2群の無伴奏合唱のための[[カンタータ]]『[[人間の顔 (カンタータ)|人間の顔]]』を作曲する。終曲「自由」で終わるこの作品はドイツ支配下のフランスでは演奏することが出来なかった。初演は1945年にロンドンのBBCスタジオで行われて放送され<ref>"Broadcasting Review", ''The Manchester Guardian'', 24 March 1945, p. 3</ref>、パリでの演奏ようやく1947年になってから行われた<ref>Hell, p. 67</ref>。『[[タイムズ]]』紙の音楽評論家は、後にこの作品が「当代屈指の合唱曲であり、それ自体が無視に甘んじたことでプーランクが追いやられてきた『二流』(petit maître)というカテゴリーから、彼を脱出させる」と記している<ref>[[ウィリアム・マン (評論家)|Mann, William]]. "Poulenc's Choral Masterpiece", ''The Times'', 8 March 1963, p. 15</ref>。他にも対独抵抗の意志を込めて[[ガルシア・ロルカ]]の想い出に捧げた『[[ヴァイオリンソナタ (プーランク)|ヴァイオリン・ソナタ]]』(1942年-1943年)や[[ルイ・アラゴン]]の詩に曲を付けた『セー』(''C'')を作曲した。 |
|||
1945年1月にフランス政府の委嘱を受けたプーランクとベルナックは、パリから空路向かったロンドンで熱狂的な歓迎を受けた。[[ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団]]はこの作曲家の栄誉を称えてレセプションを開催<ref>"Court Circular", ''The Times'', 5 January 1945, p. 6</ref>、[[ロイヤル・アルバート・ホール]]でプーランクと[[ベンジャミン・ブリテン]]の独奏で『[[2台のピアノのための協奏曲 (プーランク)|2台のピアノのための協奏曲]]』を演奏<ref>"Albert Hall", ''The Times'', 8 January 1945, p. 8</ref>、ベルナックとは[[ウィグモア・ホール]]と[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]でリサイタルを開催して歌曲(mélodie)やピアノ作品を演奏、BBCへの録音も行った<ref>"National Gallery Concert", ''The Times'', 10 January 1945, p. 8; and Schmidt (2001), p. 304</ref>。ベルナックは人々の反応に圧倒されていた。彼とプーランクがウィグモア・ホールの舞台へ歩み出ると「聴衆は起立し、歌う前にもかかわらず私は感動のあまり泣き出してしまった<ref>Schmidt (2001), p. 303</ref>。」2週間の滞在を終えた2人は、1940年5月に運行を開始していた初となる[[ボート・トレイン]]に乗ってロンドンを後にパリへ旅立った<ref>"The Paris Boat-Train", ''The Manchester Guardian'', 16 January 1945, p. 4</ref>。 |
|||
プーランクはパリで『小象ババールの物語』と、上演時間約1時間の短い[[オペラ・ブッフ]]の形式を取ったオペラ処女作『[[ティレジアスの乳房]]』の総譜を完成させた<ref name=sams/>。この作品は1917年上演のアポリネールの{{仮リンク|ティレジアスの乳房 (戯曲)|label=同名の戯曲|fr|Les Mamelles de Tirésias}}により書かれている。サムズはこのオペラが「高潔な精神を持つ混沌」であり、「さらに深く悲しい主題 - 産み育て、戦禍で破壊されたフランスを再発見する必要性」が隠されている、と述べている<ref name=sams>Sams, p. 282</ref>。1947年6月3日に[[オペラ=コミック座]]で初演されたこの作品は<ref>『ラルース世界音楽事典』、1062頁</ref>、評論家からは好評を得るも大衆人気の獲得には至らなかった{{refn|この作品はアメリカには1953年、イギリスにはブリテンとピアーズが[[オールドバラ音楽祭]]で上演した1958年まで届けられなかった<ref name=sams/>。プーランクの全3作品のオペラの中で、大差をつけられて人気最下位に甘んじている。残り2作品の『[[カルメル派修道女の対話|カルメル会修道女の対話]]』と『[[人間の声]]』は、いずれも2012年から2014年の間に世界中で4倍以上の上演回数に恵まれている<ref>[http://www.operabase.com/oplist.cgi?id=none&lang=en&is=&by=Francis+Poulenc&loc=&stype=abs&sd=7&sm=10&sy=2012&etype=abs&ed=&em=&ey= "Francis Poulenc"], Operabase, retrieved 6 October 2014</ref>。|group= "注"}}。女声の主要な役を演じた[[ドゥニーズ・デュヴァル]]は作曲者お気に入りの[[ソプラノ]]となり、頻繁にリサイタルで共演したほか、作品もいくつか献呈されている<ref>Schmidt (2001), pp. 291 and 352</ref>。彼はデュヴァルを私を涙させる[[サヨナキドリ|ナイチンゲール]](Mon rossignol à larmes)と呼んだ<ref>Poulenc (1991), p. 273</ref>。 |
|||
[[File:Pierre-Bernac-1968.jpg|alt=Image of bald late middle-aged man|thumb|[[ピエール・ベルナック]]、1960年代。]] |
|||
大戦後すぐ、プーランクは女性と恋愛関係になった。その女性、フレデリーク(フレディ)・レベデフとの間には1946年に娘のマリー=アンジュを授かった。子どもは誰が父親であるかを知らさせずに育てられたが(プーランクは名親ということになっていたと思われる)、プーランクは彼女への支援を惜しまず、また彼女がプーランクの遺産の第1の相続人となっている<ref name="Johnson, p. 15"/>。 |
|||
戦後になって、プーランクはストラヴィンスキーの最新作を否定して、[[新ウィーン楽派]]の教えのみが確かであると主張する、若い世代の作曲家たちと意見を戦わせた。プーランクはストラヴィンスキーを擁護し、「1945年もになって我々は十二音技法の美学のみが現代音楽への唯一の救済であるかのように語るのか」と、信じ難いという思いを表明した<ref name=moore/>。彼の見解では、ベルクは音列主義を行きつくところまで用い、シェーンベルクの音楽は今や「砂漠、石のスープ、模造音楽、もしくは詩的ビタミン」であり、彼に[[ピエール・ブーレーズ]]などの敵対作曲家をもたらしていた{{refn|音楽的には異なっていながらも、プーランクとブーレーズは私的に友好的関係を保っていた。出版されたプーランクの書簡集に、気の置けない手紙でのやり取りが記録されている<ref>Poulenc (1994), pp. 818, 950 and 1014</ref>。|group= "注"}}。プーランクとそりの合わない人々は、彼に時代遅れで軽薄な戦前の遺物であえるとのレッテルを貼ろうとした。これが原因となってプーランクはさらに真剣な作品に焦点を定め、フランスの大衆にそうした作品を聴かせようと試みることになる。アメリカやイギリスには強固な合唱の伝統があったために彼の宗教音楽もたびたび演奏されたが、フランスでの演奏機会はずっと少なく、そのために大衆や評論家が彼の真剣な楽曲を認知しないままとなることが少なくなかった<ref name=moore/><ref name=h74/>{{refn|1949年に |
|||
[[ロバート・ショウ (指揮者)|ロバート・ショウ]]がアメリカで行った、1936年作曲のミサ曲の新録音を聴いて興奮したプーランクはこう叫んだ。「ようやく私が真面目な作曲家だということを世界が知ることになる<ref name=moore/>。」|group= "注"}}。 |
|||
1948年にベルナックを伴った演奏旅行で、プーランクは初めてアメリカを訪れて大きな成功を収めた<ref name=h74>Hell, p. 74</ref><ref name="#1">『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁</ref>。その後1961年までの間に頻繁に同国に赴くと、ベルナックやデュヴァルとリサイタルを開催したほか、[[ソロ (音楽)|ソリスト]]として[[ボストン交響楽団]]の委嘱により作曲された『[[ピアノ協奏曲 (プーランク)|ピアノ協奏曲]]』(1949年)を初演するなどした<ref name=grove/>。 |
|||
=== 1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年 === |
|||
プーランクの1950年代は、私生活での新しいパートナーの登場で幕を開けた。その人物、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベールは旅のセールスマンだった<ref>Ivry, p. 170</ref><ref>久野(2013)、266頁</ref>。本業は実り多く、エリュアールの詩による7曲から成る歌曲集『冷気と火』(1950年)、そして1950年に画家の{{仮リンク|クリスチャン・ベラール|en|Christian Bérard}}の想い出へ書かれて翌年初演された[[スターバト・マーテル (プーランク)|スターバト・マーテル]]が生み出されている<ref>Hell, pp. 97 and 100</ref>。 |
|||
[[File:Our Lady of Mount Carmel Church, Quidenham, Norfolk - Windows - geograph.org.uk - 1084822.jpg|thumb|alt=一列に並ぶ修道女の姿を描いた教会のステンドグラス|left|{{仮リンク|コンピエーニュの殉教者|en|Martyrs of Compiègne}}を描いた{{仮リンク|クイデンハム|en|Quidenham}}の教会にある[[ステンドグラス]]。]] |
|||
1953年、プーランクは[[スカラ座]]と[[ミラノ]]の出版社[[リコルディ]]からバレエの委嘱を受けた。はじめは{{仮リンク|コルトナの聖マルガリタ|en|Margaret of Cortona}}の話を構想したが、彼女の生涯は舞踏では表現不可能であると思い至る。宗教的主題でオペラを書くことを希望した彼に対し、リコルディは[[ジョルジュ・ベルナノス]]による映像化されていない映画台本であった『カルメル会修道女の対話』を提案した。テクストは{{仮リンク|ゲルトルート・フォン・ル・フォール|en|Gertrud von Le Fort}}が描いた{{仮リンク|コンピエーニュの殉教者|en|Martyrs of Compiègne}}、[[フランス革命時]]に信仰のためにギロチンにかけられた修道女たちを扱った小説に基づいている。プーランクはこれを「いたく感動的かつ崇高な作品」であり<ref name=t1958>"Les Dialogues de Poulenc: The Composer on his Opera", ''The Times'', 26 February 1958, p. 3</ref>、自作の[[リブレット (音楽)|リブレット]]として理想的であると考えると、1953年8月に作曲に着手した<ref>Hell, pp. 78–79</ref>。 |
|||
このオペラの作曲中、プーランクは2つのショックに苦しめられた。作家の{{仮リンク|エメット・レイヴァリー|en|Emmet Lavery}}がル・フォールの小説を舞台化する権利を有しており、ベルナノスの遺作と権利衝突を起こしていることを知る。これによってオペラの仕事を中断することになった<ref>Gendre, Claude, "The Literary Destiny of the Sixteen Carmelite Martyrs of Compiègne and the Role of Emmet Lavery", ''Renascence'', Fall 1995, pp. 37–60</ref>。同時期にルベールが重篤な病に冒されてしまった{{refn|彼の病名は[[胸膜炎]]や[[肺癌]]など、様々に言われている<ref name=moore/><ref>Schmidt (2001), p. 404</ref>。|group= "注"}}。極端な不安の結果プーランクは神経に変調をきたし、1954年11月にパリ郊外の[[ライ=レ=ローズ]]にある医院に入院、安静となった<ref>Schmidt (2001), p. 397</ref>。回復した頃にはレイヴァリーとの間の文学的権利、[[ロイヤルティー]]の支払いに関する紛争には片が付いており、ベルナックと手広く行っている演奏旅行の合間に『カルメル会修道女の対話』の仕事を再開した。1920年代以降彼の個人資産は減少を続けており、リサイタルを開いて相当額の収入を得る必要があったのである<ref>Burton, p. 42</ref>。 |
|||
オペラの仕事を続ける間、他の仕事にはほとんど手を付けなかった。例外は2つのフランス歌曲と「6人組」時代からの旧友であるオーリック、ミヨーも加わった合作『[[マルグリット・ロンの名による変奏曲]]』(1954年)から「牧歌」である<ref>Hell, pp. 97 and 104</ref>。プーランクがオペラの最後のページを書いていた1955年10月、ルベールが47歳でこの世を去った。プーランクは友人に次のように書き送っている。「リュシアンは10日前に苦役から救い出されました。『カルメル会修道女』の最終稿が完成したのは愛しい人が最期に息をした、まさにその瞬間だったのです<ref name=moore/>。」 |
|||
オペラの初演は1957年1月に、スカラ座においてイタリア語翻訳で行われた<ref name=sams/>。プーランクはこれからフランス初演までの間に、後期作品の中でも指折りの人気を誇る『[[フルートソナタ (プーランク)|フルートソナタ]]』を書き上げた。曲は6月の[[ストラスブール音楽祭]]において、[[ジャン=ピエール・ランパル]]と作曲者自身の演奏で披露された<ref>Mawer, Deborah (2001). Notes to Hyperion CD CDH55386 {{oclc|793599921}}</ref>。『カルメル会修道女の対話』がパリのオペラ座で初演されたのは、その3日後の6月21日であった。初演は大成功となりプーランクは大いに安堵した<ref name=bio/>。作品に向けられた評は「ドビュッシーの『[[ペレアスとメリザンド (ドビュッシー)|ペレアスとメリザンド]]』、ベルクの『[[ヴォツェック]]』に続く作品」という絶賛であった<ref name="jiten" />。この頃にプーランクは退役軍人のルイ・ゴーティエとの最後の恋愛関係に落ちていく<ref name="kuno314">久野(2013)、314頁</ref>。両名はプーランクが没するまでパートナーであり続けた<ref>Ivry p. 194 and Schmidt (2001), p. 477</ref>。プーランクが恋愛対象として好んだのは、中流以下のインテリではない男性だったのである<ref name="久野138" />。 |
|||
{{Quote box |bgcolor=#FDF0F0 |salign=right| quote = 大大大音楽家になるという思想に囚われているというわけではないのだが{{refn|プーランクのフランス語原文は「grrrrrand」であり、これは彼の造語である<ref name=p917/>。|group= "注"}}、多くの人にとって自分が単に好色な『二流』(petit maître)である事実はやはり私を苛立たせる(中略)スターバト・マーテルに始まり『人間の声』に至るまで、そのような面白おかしいものではなかったろうと述べねばなるまい。| source = プーランクの手紙より、1959年<ref name=p917>Poulenc 1994, letter 917, ''quoted'' in Moore, Christopher. "Constructing the Monk: Francis Poulenc and the Post-War Context", ''Intersections'', Volume 32, Number 1, 2012, pp. 203–230</ref>|align=right| width=30%}} |
|||
1958年、プーランクは旧知の友人であるコクトーと協力し、コクトーが1930年に著した[[モノドラマ]]『{{仮リンク|人間の声 (コクトー)|label=人間の声|en|The Human Voice}}』のオペラ化の仕事に取り掛かった{{refn|当時の音楽サークルではプーランクが、スポットライトは自分ひとりを浴びたいと願っていることで知られていた[[マリア・カラス]]のために独唱オペラを書いているという冗談が囁かれた。しかしデュヴァルを別にすると、カラス以外に主役を演じるべき人物が思い当たらなかったのは事実である<ref name=s283>Sams, p. 283</ref>。|group= "注"}}。この作品は1959年2月6日にコクトーの演出でオペラ=コミック座で初演され<ref>ジョン・ウォラック、513頁</ref>、デュヴァルが電話を通じて別れた恋人に話しかける見捨てられた悲劇の女性を演じた<ref name=s283/>。5月には公の場からの引退を表明したベルナックとの最後のコンサートが行われ、数か月後に迫ったプーランクの60回目の誕生日に花を添えた<ref name=bio>[http://www.poulenc.fr/en/?Biography "Biography"], Francis Poulenc: musicien français 1899–1963, retrieved 22 October 2014</ref>。 |
|||
プーランクは1960年と1961年にアメリカを訪問している。1960年の訪米はドゥニーズ・デュヴァルに帯同するもので、再び歓迎を受けた<ref name="#1"/>。これらの演奏旅行の間にニューヨークの[[カーネギー・ホール]]でデュヴァルにより『人間の声』のアメリカ初演が行われ<ref name=s283/>、[[ボストン]]で[[シャルル・ミュンシュ]]の指揮によりソプラノと4部の混声合唱、管弦楽のための大規模作品『[[グローリア (プーランク)|グローリア]]』が世界初演された<ref>Schmidt (2001), p. 446</ref>。1961年には187ページに及ぶシャブリエに関する著作を出版する。この本は1980年代に評論家によって「彼は旋律が第1に重要であること、そしてユーモアが本質的に真剣であることといった事柄に関する見解を共有する作曲家について、愛と洞察をもって筆を走らせている」と評されている<ref>Nichols, Roger. [https://www.jstor.org/stable/960821 "Views of Chabrier"], ''The Musical Times'', July 1983, p. 428 {{subscription}}</ref>。生涯独身であった彼の孤独な生活は、パリとトゥレーヌの邸宅で理想とする友人の訪問に中断されながら営まれていった<ref name="grove248" />。最晩年の12か月間の間には合唱と管弦楽のための『[[テネブレの7つの応唱]]』、『[[クラリネットソナタ (プーランク)|クラリネットソナタ]]』、『[[オーボエソナタ (プーランク)|オーボエソナタ]]』などの作品が生み出された<ref name=grove/>。 |
|||
[[File:Père-Lachaise - Francis Poulenc 01.jpg|thumb|upright|[[ペール・ラシェーズ墓地]]にあるプーランクの墓。生年が1899年でなく1900年と記載されている。]] |
|||
1963年1月30日、[[リュクサンブール公園]]に面した邸宅でプーランクは心臓発作を起こして生涯を終えた。コクトーの原作に基づく彼の4番目のオペラ『地獄の機械』の作曲に取り掛かったところだった。葬儀は近くの[[サン=シュルピス教会]]で執り行われた。彼の遺志に従い、本人の作品は演奏されなかった。代わりに[[マルセル・デュプレ]]が教会の大オルガンで[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の楽曲を演奏した<ref name=sacred/>。亡骸は彼の家族とともに[[ペール・ラシェーズ墓地]]で眠りについている<ref name=bio/><ref>Schmidt (2001), p. 463</ref>。 |
|||
== 音楽観 == |
|||
1953年に行われたスイス・ロマンド・ラジオ放送のインタビューで、プーランクは自己の来歴や音楽観について語っている。その中で、若い頃に影響を受けた作曲家として、[[シャブリエ]]、[[エリック・サティ|サティ]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]の4人を、音楽家のベスト5(無人島に持っていきたい音楽)として、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、ストラヴィンスキーを、生理的に受け付けない作曲家として[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]、[[アルベール・ルーセル|ルーセル]]の名を挙げている<ref>プーランク(1994)、181頁</ref>。 |
|||
プーランクはインタビューの中で「音楽でモーツァルトに勝るものはない<ref>プーランク、オーデル編、千葉文夫訳『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』筑摩書房、1994年、26頁</ref>」と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。また、ストラヴィンスキーについては『春の祭典』ではなく、『[[プルチネルラ]]』、『[[妖精の接吻]]』、『[[カルタ遊び]]』などの「ヨーロッパ的」な作品に影響を受けたと語っている<ref>プーランク(1994)、69-70頁</ref>。 |
|||
プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃にシューベルトの歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった<ref name="jiten">『標準音楽辞典』音楽之友社、1966年、プーランクの項</ref>。1910年の冬、楽譜屋で『[[冬の旅]]』の楽譜を見つけ「突然自分の人生の中で非常に深い何かが変化したことを発見した。」彼は繰り返し「[[菩提樹 (シューベルト)|菩提樹]]」、「烏」、「辻音楽師」を弾いたが「中でも『幻の太陽』には特に惹かれた」という<ref>高橋英郎、112頁</ref>。 |
|||
ピアノ以外の楽器については弦楽器よりも管楽器の音色を好んだため<ref name=cd>[[濱田滋郎]]、CDライナーノート、プーランク:室内楽作品集、[[ドイツ・グラモフォン]]、F00G 20460</ref>、管弦楽曲では管楽器が重要な役割を演じることが多く、室内楽曲においても管楽器のための作品が多い。なお、プーランクはさまざまな楽器の組み合わせで室内楽曲を作曲しているが、その中に同一の組み合わせのものはない。 |
|||
プーランクは生粋のパリっ子であり都会人であった。彼が作る曲は軽快、軽妙で趣味がよく<ref name="jiten" />、ユーモアとアイロニーと知性があり「エスプリの作曲家」と言われるが<ref name=cd />、敬虔なカトリック教徒であった両親の影響を受け、宗教曲や合唱曲も手掛けている。自身はこの分野について、「わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものをそこに注ぎ込んだつもりです。(略)わたしが何か新しいものをもたらしたとするならば、それはまさにこの分野の仕事ではないかと思います」と述べている<ref>プーランク(1994)、66頁</ref>。 |
|||
[[無調]]音楽が主流となった戦後も単純明快な作風の調性音楽を書き続けたプーランクであったが、一方で[[ピエール・ブーレーズ]]の主催する現代音楽アンサンブル「[[ドメーヌ・ミュジカル]]」の演奏会には常連として足繁く通うなど、前衛的な[[現代音楽]]にも理解を見せた。また、概ね1920年から1935年頃にフランスに滞在した[[ロシア]]の作曲家[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]とは、ピアノや[[コントラクトブリッジ|ブリッジ]]での交流により親交が篤かった<ref>久野(2013)、101-102頁</ref>。 |
|||
== 楽曲 == |
|||
{{See also|プーランクの楽曲一覧}} |
|||
[[image:Emmanuel Chabrier.jpg|right|thumb|プーランクが大きな影響を受けたと告白する[[エマニュエル・シャブリエ]]。]] |
|||
プーランクは[[旋律]]に対する生来の感覚、そのプロポーションやフレージングにおける全体性やしなやかさの感覚を持っていた<ref name="larousse417">『ラルース世界音楽事典』、1417頁</ref>。 |
|||
プーランクは[[調]]・[[旋法]]体系の優位を決して疑わなかった。[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]以降の主な作曲家の誰よりも多く[[減七の和音|減七和音]]をつかったとは言え、[[半音階]]性は彼の音楽にあっては束の間の現象に過ぎなかった。[[書法]]、[[和声]]、[[リズム]]の面でも、彼は特に創意に溢れていたわけではなかった。プーランクの音楽は本質的に[[全音階]]である。これはプーランクの音楽芸術の主たる特徴が彼のメロディの才能にあるからだ、というのが[[アンリ・エル]]の見解である<ref>Hell, p. 87</ref>。『グローヴ事典』の[[ロジャー・ニコルズ (音楽学者)|ロジャー・ニコルズ]]の言によれば「プーランクには何にもまして重要な要素はメロディであって、彼は最新の音楽地図に基づいて調査、発掘、枯渇してしまったと思われた領域から、未発見の膨大な旋律の宝庫へたどり着く手段を見出したのだ<ref name=grove/>。」コメンテーターのジョージ・ケックは次のように書いている。「彼のメロディは簡素で、心地よく、容易に記憶でき、さらに実に多くの場合感情豊かである<ref name=k18>Keck, p. 18</ref>。」 |
|||
プーランクは自身の和声言語は独創的なものではないと述べていた。 1942年の手紙の中で「自分が[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]やドビュッシー、ラヴェルのような和声の革新をやった作曲家でないことは自分が誰よりもよく知っている。しかし、他人の和声を使うことを気にしない新しい音楽の余地はあると思う。モーツァルトやシューベルトもそうだったのではないか」と書いている<ref name="grove248" />。作曲家の[[レノックス・バークリー]]は次のように記している。「生涯を通じ、彼は伝統的な和声を使うことで満足してしていた。しかしその使用法が非常に個性的かつ、またただちに彼のものであると了解し得るものとなっており、これによって彼の音楽には新鮮さと妥当性が生まれている<ref name=mt/>。」ケックはプーランクの和声言語をこう考えていた。「彼の書く旋律同様に美しく、興味深く、彼らしい(中略)明晰で簡素な和声がはっきりと確立された調性の中で半音階的に動くわけであるが、それは経過に過ぎないことがほとんどである<ref name=k18/>。」プーランクは音楽理論を学ぶ機会に恵まれなかった。数多くあるラジオでのインタビューのある一幕で、彼は「理論、教義、規則に従う作曲を終わりにしよう!」と呼び掛けている<ref>Schmidt, p. 342</ref>。彼は[[ルネ・レイボヴィッツ]]が先導した、彼が思うところの当時の[[十二音技法]]信奉者の独断的態度に否定的であり<ref>Poulenc (2014), p. 36</ref>、かつては高い期待をかけていた[[オリヴィエ・メシアン]]の音楽が理論的アプローチの導入に影響を受けてしまったことを大いに嘆いていた{{refn|以前はメシアンをフランス有数の有望な若き作曲家に選んでいたプーランクは<ref>Langham Smith, Richard. [https://www.jstor.org/stable/1002571 "More Fauré than Ferneyhough"], ''The Musical Times'', November 1992, pp. 555–557 {{subscription}}</ref>、1950年にミヨーに宛てた手紙の中で密かにメシアンの近作を「[[ビデ]]から出る聖水」になぞらえている<ref>Chimènes, p. 171</ref>。|group= "注"}}。エルにとっては、プーランクの音楽の大多数が「人間の声の純粋に旋律的な連想から直接的または間接的に霊感を受けている」という<ref>Hell, pp. 87–88</ref>。プーランクは骨を惜しまぬ職人であったが、彼にとって音楽は容易く生み出せるものであるという「容易さ伝説」(la légende de facilité)が生まれていた。本人はこのことについて以下のように述べている。「その作り話は許してもよい、なぜなら私は努力を見せないためにあらゆることをしているのだから<ref>Buckland and Chimènes, p. 6</ref>。」 |
|||
小沼純一によればプーランクの楽曲には次のような特徴「4小節や8小節よりさらに短い2小節がしばしば使われる旋律の単位、通常の長さより一拍か二拍ほど旋律線を短く刈り込んでしまう展開、七や九の和音への偏愛。故意に二度や七度をそのまま使って、不協和音を目立たせるスタイル。[[精神分裂症|分裂症]]と呼べそうな急激な気分の転換。クライマックスのままエンディングに至らない[[カタルシス]]の回避。安定しているのに、しばし宙吊りの緊張が作られる[[コーダ (音楽)|コーダ]]。作品の短さと簡潔さなど」が見られるという<ref>小沼純一、293-294頁</ref>。 |
|||
[[ピアニスト]]の[[パスカル・ロジェ]]は1999年に、プーランクのどちらの面の音楽的本質も等しく重要だとコメントしている。「彼の全部を受け止めねばならない。もし真面目な面かそうでない面、いずれかを取り去ってしまえば彼を損なってしまうことになる。片方の面を消して得られるものは、彼の真の姿を薄く映した複製写真に過ぎない<ref name=larner>Larner, Gerald. "Maître with the light touch", ''The Times'', 6 January 1999, p. 30</ref>。」プーランクもこの二項対立を認識していたが<ref name=larner/>、彼は自分の全作品で「健康、明晰、剛健 - ストラヴィンスキーがスラブ風であるのと同じく、端的にフランス風な音楽」にしたいと望んでいたのであった<ref name=l162>[[ポール・ランドルミ|Landormy, Paul]]. 162</ref>{{refn|"Je souhaite une musique saine, claire et robuste, une musique aussi franchement française que celle de Strawinsky est slave."<ref name=l162/>|group= "注"}}。 |
|||
=== 管弦楽曲、協奏曲 === |
|||
プーランクが大オーケストラを駆使した主要作品は2つの[[バレエ音楽|バレエ]]、『[[シンフォニエッタ (プーランク)|シンフォニエッタ]]』、4つの鍵盤楽器のための協奏曲である。バレエの1作目である『[[牝鹿]]』は1924年に初演され、彼の作品中でも有数の知名度を保っている。『グローヴ事典』のニコルズは、澄みわたり旋律豊かな音楽は深い象徴性も、また浅い象徴性さえも持たず、「[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]風味にした金管の小さなパッセージで強調され、感情に訴えるような短9度で終わっている」という事実だけである、と書いている<ref name=grove/>。4曲ある協奏曲のうち最初の2作品は気楽な作品の流れに位置している。[[チェンバロ|クラヴサン]]と管弦楽のための『[[田園のコンセール]]』はパリに住む人間から見た田舎の風景を想起させる。終楽章にある[[ファンファーレ]]によってパリ郊外の[[ヴァンセンヌ]]の兵舎で吹かれる[[ビューグル]]が心に浮かんでくる、とニコルズは評している<ref name=grove/>。『[[2台のピアノのための協奏曲 (プーランク)|2台のピアノのための協奏曲]]』は同様に、純粋に娯楽として書かれた作品である。ここでは様々な様式が用いられている。第1楽章は[[バリ]]の[[ガムラン]]を彷彿をさせるような形で終了しており、緩徐楽章は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]風に開始させ、それをプーランクは徐々に彼独自の風合いで満たしていく<ref>Delamarche, p. 4</ref>。『[[オルガン協奏曲 (プーランク)|オルガン協奏曲]]』でははるかに真剣味が高まっている。プーランクはこの作品が自身の宗教音楽の「周辺地区にある」と述べている。一部のパッセージは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の教会音楽から引用されており、一方では陽気なポピュラー音楽風の間奏曲も入っている。2つ目のバレエ音楽である『[[典型的動物]]』はいまだ『牝鹿』の人気に並べていないが、オーリックとオネゲルの両名はいずれも和声の趣味の良さと工夫に飛んだ[[管弦楽法]]を賞賛している<ref>Hell, p. 64</ref>。オネゲルは次のように書いている。「彼に影響を与えた[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]、[[エリック・サティ|サティ]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]はもはや完全に同化されている。彼の音楽を聴けば思うだろう - これはプーランクだと<ref>Schmidt (2001), p. 275</ref>。」『シンフォニエッタ』は戦前期の軽薄さへの逆戻りである。彼はこう思うようになったという。「私は年甲斐もなく若作りをしすぎてしまった(中略)(本作は])『牝鹿』の新版であるが、若い娘たち(牝鹿のこと)は48歳である - これはひどい<ref name=moore/>!」『[[ピアノ協奏曲 (プーランク)|ピアノ協奏曲]]』は当初失望を与えることもあった。多くの人はこの曲がプーランクが広めるようになっていた、戦前期の音楽からの進歩とは言えないと感じたのである。この作品は時代が下って再評価を受けるようになってきており、1996年に作家のクレア・ドゥラマルシェ(Claire Delamarche)はプーランクの最良の協奏的作品に位置付けている<ref>Delamarche, p. 6</ref>。 |
|||
=== ピアノ曲 === |
|||
非常に腕の立つピアニストだったプーランクは日頃ピアノに向かって作曲し、キャリアを通じて多くのピアノのための作品を書いた。ビニェスからはサステイン・ペダルの精妙な使用による明快で、しかも色彩的なピアノ奏法を学び、自身のピアノ音楽にあってもペダルの頻繁な使用に固執した。このような様式は彼の初期の作品において『4手のためのピアノソナタ』(1918年)での和らげられた[[オスティナート]]の多用や『[[3つの無窮動]]』(1919年)での[[アルベルティ・バス]]風の音型のようにしばしば法外なまでの通俗音楽性を具現化することにもなる。 |
|||
アンリ・エルの見立てによれば、プーランクのピアノ書法は打楽器的なものと、より穏やかなクラヴサンを思わせるものに大別できるという。エルはプーランク自身の思い通り、プーランク最高のピアノ音楽は歌曲の伴奏の中にあると考えている<ref name=grove/><ref>Hell, p. 88</ref>。作家のキース・W.・ダニエルの考えるところでは、ピアノ作品の大多数は「『小品』と呼ばれるようなもの」である<ref>Daniel, p. 165</ref>。作曲者自身は1950年代に自身のピアノ作品を批判的に振り返り、次のように述べている。「『無窮動』と『ハ長調の組曲』、『3つの小品』は許容可能である。2集の即興曲、変イ長調の間奏曲、一部の夜想曲のことは非常に好んでいる。『ナポリ』と『[[ナゼルの夜会]]』は猶予なく非難する<ref>Schmidt (2001), p. 182</ref>。」 |
|||
プーランク自身がお墨付きを与えた『[[15の即興曲 (プーランク)|15の即興曲]]』は、1932年から1959年の間で折々に書かれていった{{refn|プーランクが上記コメントを行った時点ではまだ12曲しか生まれていなかった。第1集となった1番から10番が1920年代、11番と12番の第2集が1930年代、13番から15番は1958年と1959年に作曲された<ref name=grove/>。|group= "注"}}。全曲が簡素にできており、最長の作品も3分をわずかに超えるのみである。形式は多様で、素早くバレエ風なものから、繊細な抒情性をもつもの、古風な行進曲、無窮動、ワルツ、そして強く心に迫る歌手の[[エディット・ピアフ]]の音楽による肖像に及ぶ<ref name=ledin3>Ledin, Marina and Victor. [http://marylebone.naxosmusiclibrary.com/blurbs_reviews.asp?catNum=553931&filetype=About+this+Recording&language=English "Francis Poulenc (1899–1963) Piano Music, Volume 3"], Naxos Music Library, retrieved 22 October 2014</ref>。曲の被献呈者は[[マルグリット・ロン]]からエディット・ピアフまで幅広い。プーランクのお気に入りの間奏曲は3曲あるうちの最後の作品である。1番と2番は1934年8月に作曲され、変イ長調が1943年3月に続いた。コメンテーターのマリーナとヴィクトル・ルダン(Marina, Victor Ledin)はこの作品についてこう表現している。「『魅力的』という言葉の具現化である。音楽は単純にページを進むかのように見えて、続いて現れる音は非常に誠実で自然な方法に則り、雄弁さと紛れもないフランスらしさを備えている<ref name=ledin>Ledin, Marina and Victor. [http://marylebone.naxosmusiclibrary.com/blurbs_reviews.asp?catNum=553929&filetype=About+this+Recording&language=English "Francis Poulenc (1899–1963) Piano Music, Volume 1"], Naxos Music Library, retrieved 22 October 2014</ref>。」8曲の『夜想曲』はおよそ10年間にわたって書かれていった(1929年-1938年)。プーランクがそれらを当初からひとまとまりの組として構想していたかどうかにかかわらず、彼は第8番を「曲集の[[コーダ (音楽)|コーダ]]となるもの」(Pour servir de Coda au Cycle)と題した。分類名こそ[[ジョン・フィールド|フィールド]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]、[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]と共通の名前を付されているが、プーランクの楽曲は先立つ作曲家の作品には似ておらず、空想的な音詩というよりも「人前や私的な出来事の夜の情景であり音像」となっている<ref name=ledin/>。 |
|||
プーランクが許容しにくいと評したのは全て初期の作品である。『3つの無窮動』は1919年、ハ長調の組曲は1920年、3つの小品は1928年の楽曲である。これら全部が短い曲から構成されており、1番長い3つの小品の第2曲「賛歌」でも演奏時間は約4分である<ref name=ledin3/>。作曲者自身によって非難の槍玉に挙げられた2作品のうち、『ナポリ』(1925年)は3楽章から成るイタリアの素描である。もう片方の『ナゼルの夜会』について作曲家の[[ジェフリー・ブッシュ]]は「フランスで[[エドワード・エルガー|エルガー]]の『[[エニグマ変奏曲]]』の相当するもの」、すなわち友人たちの性格のミニチュアスケッチであると評した。プーランクは嘲ってみせたが、ブッシュはこの作品が独創的かつ機知に富んでいると判じた<ref>Bush, p. 11</ref>。プーランク自身には褒められも貶されもしなかったピアノ曲としては、よく知られる楽曲として2つの『[[3つのノヴェレッテ|ノヴェレッテ]]』(1927年-1928年)、子供のための6つの小曲集『村人たち』(1933年)、7曲から成るピアノ版の『[[フランス組曲 (プーランク)|フランス組曲]]』(1935年)、2台のピアノのための『シテール島への船出』(1953年)などがある<ref>Hell, pp. 100–102</ref>。 |
|||
[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]のために書かれた『散歩』(1921年)では四度や七度に基づく硬い響きの和声語法が現れ、書法は他のどのピアノ曲よりも分厚くなっている。彼のピアノ曲の大部分は自己の芸術の素材を再検討した1930年代の初め以降に書かれている<ref name="grove248">『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
=== 室内楽曲 === |
|||
ニコルズは『グローヴ事典』で室内楽曲を明瞭に分けられる3つの時期に分類している。最初の4つのソナタは初期にあたり、全てがプーランクが22歳になるまでの間に書かれている。『[[2つのクラリネットのためのソナタ|2つのクラリネット]]』(1918年)、『[[4手のためのピアノソナタ (プーランク)|4手ピアノ]]』(1918年)、『[[クラリネットとファゴットのためのソナタ|クラリネットとファゴット]]』(1922年)、そして『[[ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ|ホルン、トランペットとトロンボーン]]』(1922年)である<ref>Keck, p. 285</ref>。ここにはプーランクの受けた多種多様な影響が早くから示されており、[[ロココ]]の「ディヴェルティスマン」(ディヴェルティメント)の模倣や型破りな和声、幾ばくか[[ジャズ]]の影響もみられる。4曲とも簡潔さ - 各々10分未満である - いたずら好きな性格、ウィットが特徴となっており、ニコルズはこれらを酸味であると表現した。この時期の室内楽作品には他に1917年の『[[黒人の狂詩曲]]』(器楽が主で、一部に声楽が入る)、『[[ピアノ、オーボエとファゴットのための三重奏曲]]』(1926年)などがある<ref name=grove/>。 |
|||
中期室内楽曲は1930年代、1940年代に作曲された。最も有名な[[六重奏曲 (プーランク)|ピアノと木管楽器のための六重奏曲]](1932年)は気楽路線の作品であり、活発な両端楽章とその間の「ディヴェルティスマン」から構成される。プーランクはこの作品を含む室内楽曲数曲に不満を覚え、初演から数年経って大幅な改訂を施している(この楽曲の場合は1939年-1940年)<ref>Hell, p. 59</ref>{{refn|[[プーランクの楽曲一覧]]には主要な改訂年もまとめられている。|group= "注"}}。他の改訂作品は『[[ヴァイオリンソナタ (プーランク)|ヴァイオリンソナタ]]』(1942年-1943年)と『[[チェロソナタ (プーランク)|チェロソナタ]]』(1948年)である。弦楽器へ曲を書くことはプーランクにとって容易ではなく、これらのソナタの完成までには2度の失敗があり{{refn|初期のヴァイオリンソナタが1919年にホイヘンス・コンサートで演奏されているが、出版されることはなく現在は散逸している<ref>Schmidt (1995), p. 29</ref>。|group= "注"}}、1947年には弦楽四重奏曲の草稿が破棄されている{{refn|ここでの主題には1947年の『シンフォニエッタ』に転用されたものがあると、エルは言及している<ref>Hell, p. 73</ref>。|group= "注"}}。両ソナタは性格的に重々しさが優位であり、ヴァイオリンソナタの方は[[フェデリコ・ガルシーア・ロルカ]]の想い出へと捧げられている<ref name=grove/>。エル、シュミット、そしてプーランク自身も含めた評論家たちは、この作品が管楽器のソナタよりも効果の面で劣る、そして同じことがチェロソナタにも一定程度あてはまると看做していた<ref>Daniel, p. 122; Hell, p. 65; and Schmidt (2001), pp. 282–283 and 455</ref>。ピアノと18の楽器のための『[[オーバード (プーランク)|オーバード、舞踊協奏曲]]』(1930年)はほとんど管弦楽のような効果を実現するものの、奏者の数はさほど多くない{{refn|エルは「室内オーケストラのための作品」という別個の分類を儲け、そこにこの作品と2つの行進曲と間奏曲(1937年)を配している<ref>Hell, p. 104</ref>。|group= "注"}}。この時期のその他の室内楽曲には、プーランクの作品中でも最も肩の凝らない2作品『[[フランス組曲 (プーランク)|フランス組曲]]』(1935年)、『3つの無窮動』(1946年)の小アンサンブルへの編曲がある<ref>Schmidt (2001) p. 148</ref>。 |
|||
最後の3つのソナタは木管楽器とピアノのための楽曲、『[[フルートソナタ (プーランク)|フルート]]』(1956年-1957年)、『[[クラリネットソナタ (プーランク)|クラリネット]]』(1962年)、『[[オーボエソナタ (プーランク)|オーボエ]]』(1962年)のためのソナタである。『グローヴ事典』によれば、これらの楽曲は「その技術的専門性と深い美しさ」によりレパートリーとして定着しているという。ホルンとピアノのための[[ホルンとピアノのためのエレジー|エレジー]](1957年)はホルン奏者の[[デニス・ブレイン]]の想い出に書かれている<ref name=grove/>。この作品はプーランクが十二音技法を試した数少ない用例で、12の音から成る音列が簡潔に用いられている<ref>Schmidt (2001), p. 419</ref>。 |
|||
=== 歌曲 === |
|||
[[File:Eluard Harcourt 1945.jpg|thumb|upright=0.65|[[ポール・エリュアール|エリュアール]]]] |
|||
[[File:Apollinaire.jpg|thumb|upright=0.65|[[ギヨーム・アポリネール|アポリネール]]]] |
|||
[[File:JEB - Etude pour le portrait de Max Jacob.jpg|thumb|upright=0.65|[[マックス・ジャコブ]]]] |
|||
[[File:Portrait Aragon (cropped).jpg|thumb|upright=0.65|[[ルイ・アラゴン]]]] |
|||
プーランクはキャリアを通じて歌曲を作曲し、このジャンルの作品数は膨大なものである{{refn|2013年に発売された歌曲全集はCD4枚組で、演奏時間は全部で5時間を超える<ref>Johnson, pp. 4–10</ref>。|group= "注"}}。ジョンソンの見立てでは、ほとんどの傑作は1930年代、1940年代に書かれているという<ref>Johnson, p. 13</ref>。性格的には様でありながらも、歌曲にはプーランクの詩人の好みが色濃く出ている。彼はキャリア開始当初から[[ギヨーム・アポリネール]]の韻文を好んでおり、1930年代中盤からは[[ポール・エリュアール]]の作品に曲を付けることが最も多くなった。他に頻繁に作品を選択した詩人には[[ジャン・コクトー]]、[[マックス・ジャコブ]]、{{仮リンク|ルイーズ・ド・ヴィルモラン|en|Louise Lévêque de Vilmorin}}がいた<ref>Hell, pp. 93–97</ref>。音楽評論家のアンドリュー・クレメンツは、エリュアールの詩による歌曲にプーランクの最高級の傑作が数多く含まれると考えている<ref name=ac>Clements, Andrew. [https://www.theguardian.com/music/2013/oct/17/poulenc-the-complete-songs-review "Poulenc: The Complete Songs – review"], ''The Guardian'', 17 October 2013</ref>。 |
|||
アポリネールの『動物詩集』からの6つの詩に作曲した『動物詩集』(1918-1919年)は二十歳の若者にしては極めて個性的で力量ある成果であり、短くて捉えどころのない詩の雰囲気が、しばしば言葉の変則的な配置という単純だが、驚くべき手段で捉えられている。1935年にはベルナックと『ポール・エリュアールの5つの詩』を作曲した。プーランクは思春期からエリュアールの詩に魅せられてきた。彼は「そこには私の理解できない静けさ」があったと言う。『5つの詩』で鍵が錠前の中できしみ、1936年の『ある日ある夜』で扉が開いたのである。これは[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]の『{{仮リンク|優しい歌(フォーレ)|label=優しい歌|en|La Bonne Chanson (Fauré)}}』に比肩し得る作品である。ここにはプーランクの他の歌曲の幾つかに見られる筆致、即ち『ホテル』での感傷性や『村人の歌』に見られる世俗性はないが、他の点では非常に個性的である。ひとつの歌の中で速度が変わる場合、プーランクはサティの先例に倣って、それを〈発展的〉というよりも〈連続的〉な設定にしている<ref name="grove248" />。 |
|||
ピアノと声はしばしば互いに異なった[[強弱法]]で進むが、これは彼以前にはあまり探求されることのなかった歌曲の作曲法の局面である。伴奏の書法は決して複雑ではないが、単に〈[[ペダル#楽器のペダル|ペダル]]の頻繁な使用〉が必要とされる。これ以降、プーランクの歌曲作曲技法はほとんど変化を見せず、むしろ方法の絶えざる精錬へと向かう。いかにより少ない手段で多くを語るかという試みであり、彼が賛嘆して止まなかった画家[[アンリ・マティス]]の純粋な描線の追求でもある。この傾向は彼の歌曲の中でも最も〈入念に書かれた〉『冷気と火(FP147)』([[1950年]])で頂点に達する。エリュアールの詩への最後の作品は『画家の仕事』(1956年)である。『モンテカルロの女』はプーランクの声楽作品の最後の重要なもので、コクトーの詩につけたこの曲は『人間の声』と同様に憂鬱な心の状態の激しい恐怖をプーランクが完全に理解していたことを示している<ref name="grove248" />。 |
|||
プーランクの歌曲は概して短い部分からなり、多くは2小節か4小節の[[楽節]]構成になっている。彼の技法は彼が採り上げた[[シュルレアリスム]]派の詩人と共通するところが多く、個々の要素を各々が共鳴し合うように置くことを重視した。-中略-プーランクの歌曲においては、その一息ごとに歌が溢れ出てくる。音楽の豪奢な享楽家というプーランクにまつわる伝説はこの周到を極めた職人への最高度の賛辞である<ref name="grove248" />。 |
|||
『ラルース世界音楽事典』では「ポール・エリュアール、ギヨーム・アポリネール、ルイーズ・ド・ヴィルモランの詩による歌曲は彼の全創作期間を通じてほぼ規則的に書かれており、識者からは集中力と[[韻律 (言語学)|韻律法]]の質の高さ、ゆえに評価を受けているのであるが、玄人受けにとどまっている感がある。オーケストラ作品、劇場作品は良く演奏されるが、ピアノ曲、歌曲は評判が良いのにもかかわらず、埋もれているのは事実である」と評価している<ref name="larousse417" />。 |
|||
デニス・スティーヴンスは「プーランクの歌曲は40年以上に亘り、彼が選んだ歌詞のごとく、スタイルにおいても質においても変化に富んでいる。-中略-彼が伝統的な美しい音楽を書く能力があるということは偉大なフランスの詩人エリュアールの超現実主義の詩につけた『ある日ある夜』(1937年)によって良く証明されている。恐らくこれは彼の最も優れた歌曲集であろう。また、プーランクが20歳の時の歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』において、見事な洗練された精巧さで書いていたことでも分かる」と評している<ref>デニス・スティーヴンス、『歌曲の歴史』、240頁</ref>。 |
デニス・スティーヴンスは「プーランクの歌曲は40年以上に亘り、彼が選んだ歌詞のごとく、スタイルにおいても質においても変化に富んでいる。-中略-彼が伝統的な美しい音楽を書く能力があるということは偉大なフランスの詩人エリュアールの超現実主義の詩につけた『ある日ある夜』(1937年)によって良く証明されている。恐らくこれは彼の最も優れた歌曲集であろう。また、プーランクが20歳の時の歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』において、見事な洗練された精巧さで書いていたことでも分かる」と評している<ref>デニス・スティーヴンス、『歌曲の歴史』、240頁</ref>。 |
||
難解であるアポリネール以降の現代詩を扱うプーランクの手腕は「こうした詩はしばしばかなり難解だが、プーランクによる音楽への移し替えは常に詩をくっきりと明確にする」のである。実際、文字として、言葉として与えられた詩を実際どのように読むか、解釈するかはしばしば易しいことではない。そうしたものをプーランクは明瞭に意味の方向性を示す<ref>小沼純一、253頁</ref>。例えば、エリュアールの詩において、テクストだけでは実は分かりにくい |
難解であるアポリネール以降の現代詩を扱うプーランクの手腕は「こうした詩はしばしばかなり難解だが、プーランクによる音楽への移し替えは常に詩をくっきりと明確にする」のである。実際、文字として、言葉として与えられた詩を実際どのように読むか、解釈するかはしばしば易しいことではない。そうしたものをプーランクは明瞭に意味の方向性を示す<ref name="konuma253">小沼純一、253頁</ref>。例えば、エリュアールの詩において、テクストだけでは実は分かりにくいストーリー的なもの、感触と言うものをプーランクの音楽は忠実に詩の一つの読み方として提示する。一種の翻訳になっている。同時に、たとえ詩の意味が分からなくても、音楽の調子によって、伝わってしまうこともある。エリュアールの詩においては平易さがあり、一つ一つは分かり易いのに、逆に分かり易いがために、様々なイメージが喚起されるのだが、それを一つの流れとして、分節化して意味を音楽的に立ち昇らせる。これがプーランクのアプローチなのである<ref>小沼純一、278-279頁</ref>。ベルナックは「歌曲作曲家としてのプーランクの奇跡は、まさに彼が誤読をしなかったことだ」と断言している<ref name="konuma253" />。 |
||
[[末吉保雄]]は「プーランクにとって文学や美術の世界は音楽の外にあるものではなく、エリュアールの詩もローランサンも、言わばそれらは生きた〈風土〉そのものであった。25年に亘るベルナックとの演奏活動が歌曲を容易に日常的な場にさせたことは否めない。-中略-彼がこの場で選んだ詩と詩人{{ |
[[末吉保雄]]は「プーランクにとって文学や美術の世界は音楽の外にあるものではなく、エリュアールの詩もローランサンも、言わばそれらは生きた〈風土〉そのものであった。25年に亘るベルナックとの演奏活動が歌曲を容易に日常的な場にさせたことは否めない。-中略-彼がこの場で選んだ詩と詩人{{refn|同時代のシュルレアリストの詩人が中心で、ロンサールのような古典は少数。|group="注"}}を見れば、その言葉は彼が共に生きた、この風土を語っていて、その言葉を共有していた。プーランクは自分の音楽がこの人々と共に彼らの日々の感情や夢、あるいは憂鬱や不安を歌い、祈る、それ以外の意味を持つとは思ってもみなかった。プーランクがその最良の資質を声楽曲に開花させた背景は以上の通りである。歌曲が日々の場であれば、内心の祈りは合唱曲に、そして、その総合は歌劇に形を成した。他の分野、室内楽やピアノ曲も、それは人声と詩を省かれた声楽、あるいは声楽の器楽への移入と見ることもできる」と述べている<ref>末吉保雄、288-289頁</ref>。 |
||
音楽学者の[[イヴォンヌ・グーヴェルネ]]は1973年の歌曲総説の中でこう述べている。「プーランクを得て、旋律線はテクストに上手く符合してある面ではテクストを補完するかのように思われる。これは与えられた詩句の音楽がまさに神髄を射抜くという音楽の持つ能力によるものである。プーランクは言葉の色彩を際立たせ、誰よりも巧みにフレーズを生み出した<ref name=gouverne>Gouverné, Yvonne. [http://www.poulenc.fr/userfiles/downloads/poulenc_yvonne_gouverne_en.pdf "Francis Poulenc"], Francis Poulenc: musicien français 1899–1963, retrieved 27 October 2014</ref>。」軽い作品のうちでよく知られている作品のひとつが、[[ジャン・アヌイ]]が1940年にパリ風のワルツとして書いた戯曲を用いて作曲した『[[愛の小径]]』である<ref>Johnson, p. 64</ref>。対照的にモノローグ『モンテ・カルロの女』(1961年)は賭博中毒の年配の女性を描いており、鬱の恐怖に対する作曲者のつらい理解をうつし出している<ref>Johnson, p. 128</ref>。 |
|||
プーランクの歌曲の歌手には女性では{{仮リンク|マリア・フロイント|en|Marya Freund}}、[[ジャーヌ・バトリ]]、[[クレール・クロワザ]]、{{仮リンク|シュザンヌ・ペイニョ|en|Suzanne Peignot}}、{{仮リンク|ドゥニーズ・デュヴァル|fr|Denise Duval}}、男性では[[ピエール・ベルナック]]、{{仮リンク|ドダ・コンラッド|en|Doda Conrad}}を挙げることができる<ref>小沼純一、255頁</ref>。録音実績などから[[フェリシティ・ロット]]の貢献は見逃せない{{efn|『人間の声』や『モンテカルロの女』も録音している(EAN:0794881655823)。}}。また、日本では[[村田健司]]が録音、歌唱、指導などに幅広く活躍している<ref>[http://www.atelier-d-c.com/ アトリエ・デュ・シャンのホームページ、2021年11月6日閲覧]</ref>。 |
|||
<gallery widths="96px" heights="184px" mode=packed> |
|||
File:Claire Croiza 1931.jpg|クレール・クロワザ |
|||
File:Pierre-Bernac-1968.jpg|ピエール・ベルナック |
|||
File:Jane Bathori 001.jpg|ジャーヌ・バトリ |
|||
File:Suzanne rivière-peignot.JPG|シュザンヌ・ペイニョ |
|||
File:Paul Payen et Denise Duval.JPEG|ドゥニーズ・デュヴァルとポール・ペイアン |
|||
</gallery> |
|||
クレメンツはエリュアール歌曲に「プーランクの以前の管弦楽曲、器楽曲にあった不安定さ、軽薄な外面性からは離れた地平にある」深遠さを見出している<ref name=ac/>。『ルイ・アラゴンの2つの詩』(1943年)の第1曲は単に「C」という題名となっており、ジョンソンはこれを次のように評している。「世界的に知られた傑作である。かつて戦禍を歌った曲として最も類稀であり、そしておそらく最も感動的である<ref>Johnson, p. 70</ref>。」 |
|||
===主な包括的歌曲録音=== |
|||
=== 合唱曲 === |
|||
プーランクは4曲のオーケストラを伴った合唱曲と13曲の無伴奏の合唱曲を書いており、ピアノ伴奏の合唱曲はない<ref>末吉保雄、286頁</ref>。彼の合唱曲は宗教曲が中心で、世俗的なものは『{{仮リンク|酒飲み歌|en|Chanson à boire (Poulenc)}} 』(1922年)、『7つの歌』(1936年)、『小さな声』(1936年)、『{{仮リンク|枯渇 (プーランク)|label=枯渇|en|Sécheresses (Poulenc)}} 』(1937年)、『[[人間の顔 (カンタータ)|人間の顔]] 』(1943年)、『ある雪の夕暮れ』(1944年)、『8つのフランスの歌』(1945年)となっている<ref name="konuma253" />。初期に書かれた無伴奏合唱のための『酒飲み歌』を除くと、プーランクが合唱音楽を書き始めたのは1936年だった。この年に書かれたのは3つの合唱作品、『7つの歌』(エリュアールほかの詩による)、『小さな声』(児童合唱のための)、そして女声または児童合唱とオルガンのための宗教作品『[[黒い聖母像への連禱]]』である<ref>Hell, pp. 98–99</ref>。 |
|||
無伴奏合唱のための『[[ミサ曲 ト長調 (プーランク)|ミサ曲 ト長調]]』(1937年)についてグーヴェルネは、[[バロック音楽|バロック]]の様式によるものを有しており、その「活気と喜ばしく騒ぎ立てる様には彼の信仰心がはっきりと示されている」と評している<ref name=gouverne/>。プーランクが見出した新たな宗教的テーマは『[[悔悟節のための4つのモテット]]』(1938年-1939年)へ引き継がれるが、合唱作品でも重要性の高いのが世俗[[カンタータ]]『人間の顔』(1943年)である。この作品はミサ曲同様に無伴奏であり、エリュアールの詩に複雑な作曲が施されている。プーランクは祈りの雰囲気を醸し出すために合唱の純粋な響きを求めており、演奏を成功させるためには高い技量を有する歌い手が必要である<ref name=grove/>。他の[[ア・カペラ]]の作品としては『クリスマスの4つのモテット』(1952年)があり、この作品では厳しいリズムと音調の正確性が合唱に要求される<ref>Vernier, David. [http://www.classicstoday.com/review/resonant-resplendent-poulenc-motets-mass-chansons/ "Resonant, Resplendent Poulenc Motets, Mass, Chansons"], Classics Today, retrieved 18 July 2016</ref>。 |
|||
管弦楽伴奏つきの合唱作品として重要なものには『[[スターバト・マーテル (プーランク)|スターバト・マーテル]]』(1950年)、『[[グローリア (プーランク)|グローリア]]』(1959年-1960年)、『[[テネブレの7つの応唱]]』(1961年-1962年)がある。これらの楽曲は全て[[キリスト教式文|教式文]]を基にしており、元来[[グレゴリオ聖歌]]に作曲されたものである<ref name=sacred/>。『グローリア』において、プーランクの信仰心は祈りの静けさと神秘的な心情を間に挟みつつ、溢れんばかりに喜ばしく表出されており、最後は穏やかな静寂で締めくくられる<ref name=sacred/>。そこでは「栄光、神にあれ」というアクセントの置き方に見られるように、故意に信仰のなさそうな合唱の書法を採りながら、その一方で、[[オスティナート]]、舞い上がるようなソプラノ、比類ない旋律が[[マイケル・ティペット|ティペット]]の言葉通り「豊かなるものに参加する契約で結ばれた」信心深い人であることを示している<ref name="grove248" />。プーランクは1962年に[[ピエール・ベルナック|ベルナック]]へこう書き送っている。「テネブレを書き終えたところです。美しいと思っています。グロリアとスターバト・マーテルを加え、3つの上出来な宗教作品に恵まれました。もし私が辛くも地獄行きを免れるのなら、これらが私の[[煉獄]]での時間を数日でも減らしてくれんことを<ref name=sacred/>。」プーランク自身が実演を聴くことのできなかった『テネブレの7つの応唱』は大編成の管弦楽を用いているが、ニコルズはこの作品が新たな思考の集中を示していると考えている<ref name=grove/>。評論家のラルフ・シボドーにとってはこの作品は作曲者の[[レクイエム]]かもしれないと思われ、「彼の宗教作品の中では最も前衛的で、最も感情的に求められるものが高く、音楽的には最も興味深く、彼の宗教的最高傑作(magnum opus sacrum)である『カルメル会修道女の対話』に唯一比肩し得る作品である<ref name=sacred/>。」アンリ・エルによれば「プーランクが書いた合唱音楽は非常に模範的で、豊かで、味わい深いものだった」のである<ref>アンリ・エル、77頁</ref>。 |
|||
=== オペラ === |
|||
[[File:Tiresias.jpg|thumb|alt=非常に抽象的な舞台演出|{{仮リンク|シルヴァン・レールミッテ|fr|Sylvain Lhermitte}}デザインの『[[ティレジアスの乳房]]』。]] |
|||
プーランクはキャリアの折り返しを迎えてからオペラと向きうことになった。20代前半から名声を獲得してきた彼が、最初のオペラへの挑戦した時には40代になっていた。彼自身はこのことを、自ら選択した題材に取り組むまでに成熟する必要があったからだと説明している。1958年にはインタビューで次のように答えている。「24歳時点で『牝鹿』は書くことが出来たが、モーツァルトの天才性やシューベルトの早熟さを持たない限り30歳の作曲家は『カルメル会修道女』を書くことはできなかった - 問題はあまりに深いものだったのだ<ref name=t1958/>。」プーランクの3作あるオペラは、いずれも「1920年代の冷笑的意匠家」からは遠く離れた心理的深みを示している、というのがサムズの見解である。『[[ティレジアスの乳房]]』(1947年)は奔放な筋書きにもかかわらず、懐旧の念と喪失の感覚に満ちている。他の2作『[[カルメル派修道女の対話|カルメル会修道女の対話]]』(1957年)と『[[人間の声]]』(1959年)では真剣さが明らかで、プーランクは深い人間の苦しみを描写する。サムズはそこに、作曲者自身の抑鬱によるもがきが反映されていると考えている<ref name=grove/>。 |
|||
オペラからは、プーランクが音楽的技術の面で純朴で不確かな駆け出しの頃からいかに歩みを進めてきたのかが示される。後に撤回されたコメディ・ブッフ『理解されない憲兵』からほとんど四半世紀後に、機知とシュルレアリスム風の風刺が効いた『[[ティレジアスの乳房]]』が書かれた。ニコルズは『グローヴの事典』で『ティレジアスの乳房』が「抒情的な独唱、早口な二重唱、[[コラール]]、テノールやベースの赤子による[[ファルセット]]の旋律線」を配備しており、「可笑しさと美しさの両面での成功を収めている」としている<ref name=grove/>。 |
|||
[[File:Georges-Bernanos.jpg|thumb|left|upright=0.55|[[ジョルジュ・ベルナノス|ベルナノス]]]] |
|||
『カルメル会修道女の対話』は全く異なった種類の作品であり、単純な抒情的スタイルで書かれた宗教作品である<ref name="#2">ジョン・ウォラック、556頁</ref>。このオペラは[[ジョルジュ・ベルナノス]]による稀に見る優れた[[リブレット (音楽)|リブレット]]にとりわけ効果的に作曲したものである<ref name="#3">ドナルド・ジェイ・グラウト、848頁</ref>。プーランクは3作のオペラの全てで過去の作曲家を参考にしているが、その影響は疑いのない彼自身の音楽に融合されている。『カルメル会修道女の対話』の出版譜において、彼は[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]、[[クラウディオ・モンテヴェルディ|モンテヴェルディ]]、[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]に負うものがあると謝意を表明している<ref name=grovedc/>。評論家の[[ルノー・マシャール]]は『カルメル会修道女』が[[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]の『[[ピーター・グライムズ]]』と並び、世界中で上演されている第二次大戦後に書かれたものとしては実に稀有なオペラであると記している<ref>[[ルノー・マシャール|Machart, Renaud]]. [http://www.poulenc.fr/userfiles/downloads/poulenc_renaud_machart_en.pdf "Francis Poulenc"], Francis Poulenc: musicien français 1899–1963, retrieved 27 October 2014</ref>。なお、このオペラの原作『{{仮リンク|断頭台下の最後の女|de|Die Letzte am Schafott}}』にはアメリカの劇作家{{仮リンク|エメット・ラヴェリー|en|Emmet Lavery}}による英語による舞台劇脚本が存在し、この小説を基にしたすべての上演権を握っていた。最終的に問題は決着したが{{refn|「エメット・ラヴェリー氏の承諾により」とクレジットを入れることになった。|group= "注"}}、この権利を巡る交渉がプーランクには大きな精神的負担となった<ref name="kuno314" />。 |
|||
たとえ大編成の管弦楽のために作曲を行っていようとも、プーランクはオペラでは威力を最大から絞って用いており、木管のみ、金管のみ、弦楽のみで書かれた部分がしばしば登場する。ベルナックの貴重な助言により、彼は人の声の利用に高い技術を発揮し、音楽を各登場人物の[[テッシトゥーラ]]に一致させている<ref name=grovedc>Sams, Jeremy. [http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/O901332 "Dialogues des Carmélites"], ''The New Grove Dictionary of Opera'', Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 22 October 2014 {{subscription}}</ref>。最後のオペラである『人間の声』の頃には、プーランクはオーケストラの伴奏が全くなくてもソプラノにフレーズを割り振れると感じるようになっていた。一方、オーケストラが演奏するときには、音楽が「官能性に浸る」ようになることを求めたのであった<ref>Sams, Jeremy. [http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/O905501 "Voix humaine, La"], ''The New Grove Dictionary of Opera'', Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 22 October 2014 {{subscription}}</ref>。この作品はソプラノのドゥニーズ・デュヴァルのために書かれた45分の[[モノローグ]]である。皮肉にも[[抒情悲劇]]と題されたこの作品は、劇的には十分成功しているとは言い難いが、声のための偉業である<ref name="#2"/>。 |
|||
これらの3作品は三者三様ではあるが、女性に関わる問題を扱っているという共通点がある。『カルメル派修道女の対話』では女性と宗教、制度の問題、『ティレジアスの乳房』では出産について問い掛けられており、『人間の声』では恋とその破綻、電話と言う新しいメディアが女性を通して浮き彫りにされている<ref>小沼純一、206-207頁</ref>。 |
|||
=== 録音 === |
|||
プーランクは1920年代に音楽の普及に[[蓄音機]]が果たす役割の重要性を認識していた作曲家のひとりであった<ref name=grove/>。彼の作品の最初の録音は1928年に[[メゾソプラノ]]の[[クレール・クロワザ]]が作曲者自身のピアノ伴奏によりフランスの[[コロムビア・グラモフォン|コロムビア]]へ行ったもので、曲は歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』全曲であった<ref>Bloch, p. 34</ref>。彼は[[EMI]]のフランス支社を中心に夥しい数の録音を遺した。ベルナック、[[ドゥニーズ・デュヴァル|デュヴァル]]とは自作に加えて[[エマニュエル・シャブリエ|シャブリエ]]、ドビュッシー、[[シャルル・グノー|グノー]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]の歌曲を録音している<ref>[http://www.worldcat.org/title/recital-by-pierre-bernac-baritone-and-francis-poulenc-piano/oclc/3211740&referer=brief_results "A recital by Pierre Bernac and Francis Poulenc"]; and [http://www.worldcat.org/title/francis-poulenc-et-denise-duval-interpretent/oclc/18020844&referer=brief_results "Francis Poulenc et Denise Duval interprètent"], both WorldCat, retrieved 22 October 2014</ref>。『[[小象ババールの物語]]』の録音では自らピアノを担当し、俳優の{{仮リンク|ピエール・フレネー|en|Pierre Fresnay}}と[[ノエル・カワード]]が語りを担当した<ref>Hell, p. 112</ref>。EMIは2005年に『Francis Poulenc & Friends』と題したDVDを発売しており、そこにはプーランクがデュヴァル、[[ジャン=ピエール・ランパル]]、[[ジャック・フェヴリエ]]、[[ジョルジュ・プレートル]]と共に自作自演を行う姿を記録した映像が収められている<ref>[http://www.worldcat.org/title/francis-poulenc-friends/oclc/64431808&referer=brief_results "Francis Poulenc & Friends"], WorldCat, retrieved 21 November 2014</ref>。 |
|||
[[File:Benjamin Britten, London Records 1968 publicity photo for Wikipedia crop.jpg|thumb|alt=カメラを見据える中年の男性|upright|left|プーランクの友人で演奏も行った[[ベンジャミン・ブリテン]]。]] |
|||
1984年に集計されたプーランク作品の録音一覧には1300人以上の指揮者、同奏者、アンサンブルが名を連ねている。指揮者としては[[レナード・バーンスタイン]]、[[シャルル・デュトワ]]、[[ダリウス・ミヨー]]、[[シャルル・ミュンシュ]]、[[ユージン・オーマンディ]]、プレートル、[[アンドレ・プレヴィン]]、[[レオポルト・ストコフスキー]]らが挙げられている。歌手としてはベルナック、デュヴァルに加え、[[レジーヌ・クレスパン]]、[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]、[[ニコライ・ゲッダ]]、[[ピーター・ピアーズ]]、[[イヴォンヌ・プランタン]]、[[ジェラール・スゼー]]らがいる。器楽奏者として紹介されているのはブリテン、フェヴリエ、[[エミール・ギレリス]]、[[ユーディ・メニューイン]]、[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]などである<ref>Bloch, pp. 241–253</ref>。 |
|||
プーランクのピアノ作品の全曲録音は、彼の唯一のピアノの弟子だった[[ガブリエル・タッキーノ]](EMI)をはじめ、パスカル・ロジェ([[デッカ・レコード|デッカ]])、[[ポール・クロスリー]]([[ソニー・クラシカル|CBS]])、エリック・パーキン([[シャンドス]])、[[エリック・ル・サージュ]]([[RCAレコード|RCA]])、[[オリヴィエ・カザール]]([[ナクソス (レコードレーベル)|Naxos]])によるものがある<ref>[http://www.worldcat.org/search?q=poulenc+piano+music&qt=results_page "Poulenc Piano Music"], WorldCat, retrieved 22 October 2014</ref><ref>Gill, Dominic and Charles Timbrell. [http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/27351 "Tacchino, Gabriel"], Grove Music Online, Oxford University Press, retrieved 10 October 2014 {{subscription}}</ref>。室内楽作品の全集録音はナッシュ・アンサンブル([[ハイペリオン・レコード|Hyperion]])、エリック・ル・サージュとフランスの独奏者たち(RCA)、様々なフランスの若手音楽家(Naxos)によって行われている<ref name=larner/><ref>[http://www.worldcat.org/search?q=poulenc+chamber+music&qt=results_page#%2528x0%253Amusic%2Bx4%253Acd%2529format "Poulenc Chamber Music"], WorldCat, retrieved 22 October 2014</ref>。 |
|||
『カルメル会修道女の対話』の世界初演は録音されており、CDで刊行された。フランス初演のすぐ後に最初のスタジオ録音が行われ、以降少なくとも10種類のライブ、スタジオ録音がCDまたはDVDで行われている。大半はフランス語だが、ドイツ語のものが1種、英語のものも1種存在する<ref>[http://www.worldcat.org/search?qt=worldcat_org_all&q=Poulenc+Carmelites#x0%253Amusic-%2C%2528x0%253Amusic%2Bx4%253Acd%2529%2C%2528x0%253Amusic%2Bx4%253Alp%2529%2C%2528x0%253Amusic%2Bx4%253Acassette%2529%2C%2528x0%253Amusic%2Bx4%253Adigital%2529format "Poulenc Carmelites"] WorldCat, retrieved 27 October 2014</ref>。 |
|||
プーランクの歌曲の歌手には女性では{{仮リンク|マリア・フロイント|en|Marya Freund}}、[[ジャーヌ・バトリ]]、[[クレール・クロワザ]]、{{仮リンク|シュザンヌ・ペイニョ|en|Suzanne Peignot}}、[[ドゥニーズ・デュヴァル]]、男性では[[ピエール・ベルナック]]、{{仮リンク|ドダ・コンラッド|en|Doda Conrad}}を挙げることができる<ref>小沼純一、255頁</ref>。録音実績などから[[フェリシティ・ロット]]の貢献は見逃せない{{refn|『人間の声』や『モンテカルロの女』も録音している(EAN:0794881655823)。|group="注"}}。また、日本では[[村田健司]]が録音、歌唱、指導などに幅広く活躍している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.atelier-d-c.com/ |title=アトリエ・デュ・シャンのホームページ |accessdate=2021-11-06}}</ref>。 |
|||
{{Hidden begin |titlestyle = background:cyan; |title=主な包括的歌曲録音一覧。右の[表示]をクリックして展開。}} |
|||
{| class="wikitable" |
{| class="wikitable" |
||
!レーベル |
!レーベル |
||
139行目: | 259行目: | ||
|- |
|- |
||
|} |
|} |
||
{{Hidden end}} |
|||
<!-- 調整を試みましたが、どうしてもこのギャラリーは記事体裁のバランスを欠くため、いったんコメントアウトします。 |
|||
== 合唱曲 == |
|||
<gallery widths="96px" heights="124px" mode=packed> |
|||
プーランクは4曲のオーケストラを伴った合唱曲と13曲の無伴奏の合唱曲を書いており、ピアノ伴奏の合唱曲はない<ref>末吉保雄、286頁</ref>。世俗的な歌曲に対し、彼の合唱曲は宗教曲が中心で、世俗的なものは『{{仮リンク|酒飲み歌|en|Chanson à boire (Poulenc)}} (FP31)』(1922年)、『7つの歌(FP81)』(1936年)、『小さな声(FP83)』(1936年)、『{{仮リンク|枯渇 (プーランク)|label=枯渇|en|Sécheresses (Poulenc)}} (FP90)』(1937年)、『[[人間の顔 (カンタータ)|人間の顔]] (FP120)』(1943年)、『ある雪の夕暮れ(FP126)』(1944年)、『8つのフランスの歌(FP130)』(1945年)となっている<ref>小沼純一、253頁</ref>。 |
|||
File:Claire Croiza 1931.jpg|クレール・クロワザ |
|||
『人間の顔』はエリュアールの詩に複雑な作曲が施されており、プーランクは祈りの雰囲気を醸し出すために合唱の純粋な響きを求めている。『[[グローリア (プーランク)|グローリア ト長調]](FP177)』(1959年)では「栄光、神にあれ」というアクセントの置き方に見られるように、故意に信仰のなさそうな合唱の書法を採りながら、その一方で、[[オスティナート]]、舞い上がるようなソプラノ、比類ない旋律が[[マイケル・ティペット|ティペット]]の言葉通り「豊かなるものに参加する契約で結ばれた」信心深い人であることを示している<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
File:Jane Bathori 001.jpg|ジャーヌ・バトリ |
|||
アンリ・エルによれば「プーランクが書いた合唱音楽は非常に模範的で、豊かで、味わい深いものだった」のである<ref>アンリ・エル、77頁</ref>。 |
|||
File:Suzanne rivière-peignot.JPG|シュザンヌ・ペイニョ |
|||
File:Paul Payen et Denise Duval.JPEG|ドゥニーズ・デュヴァルとポール・ペイアン |
|||
== オペラ == |
|||
</gallery> |
|||
[[File:Georges-Bernanos.jpg|thumb|upright=0.55|ベルナノス]] |
|||
--> |
|||
プーランクの音楽のほとんどは舞台のためのものではない。後に撤回されたコメディ・ブッフ『理解されない憲兵(FP20)』からほとんど四半世紀後に、機知とシュルレアリスム風の風刺が効いた『[[ティレジアスの乳房]](FP125)』が書かれた。『[[カルメル派修道女の対話]](FP159)』は全く異なった種類の作品であり、単純な抒情的スタイルで書かれた宗教作品である<ref>ジョン・ウォラック、556頁</ref>。このオペラは[[ジョルジュ・ベルナノス]]による稀に見る優れた[[リブレット (音楽)|リブレット]]にとりわけ効果的に作曲したものである<ref>ドナルド・ジェイ・グラウト、848頁</ref>。なお、このオペラの原作『{{仮リンク|断頭台下の最後の女|de|Die Letzte am Schafott}}』にはアメリカの劇作家{{仮リンク|エメット・ラヴェリー|en|Emmet Lavery}}による英語による舞台劇脚本が存在し、この小説を基にしたすべての上演権を握っていたため、この権利を巡る交渉の結果、問題は決着したが{{efn|「エメット・ラヴェリー氏の承諾により」とクレジットを入れることになった。}}、プーランクには大きな精神的負担となった<ref>久野麗、314頁</ref>。 |
|||
彼の最後の作品である『[[人間の声]](FP171)』は、ソプラノのドゥニーズ・デュヴァルのために書かれた45分の[[モノローグ]]である。皮肉にも〈[[抒情悲劇]]〉と題されたこの作品は、劇的には十分成功しているとは言い難いが、声のための〈偉業〉である<ref>ジョン・ウォラック、556頁</ref>。 |
|||
これらの3作品は三者三様ではあるが、〈女性〉に関わる問題を扱っているという共通点がある。『カルメル派修道女の対話』では女性と宗教、制度の問題、『ティレジアスの乳房』では出産について問い掛けられており、『人間の声』では恋とその破綻、電話と言う新しいメディアが女性を通して浮き彫りにされている<ref>小沼純一、206~207頁</ref>。 |
|||
== ピアノ曲 == |
|||
[[File:Ricardo Viñes 1919.jpg|thumb|upright=0.65|リカルド・ビニェス]] |
|||
プーランクはサステイニング・ペダルの精妙な使用による明快で、しかも色彩的なピアノ奏法をビニェスから学び、自信のピアノ音楽にあっても〈ペダルの頻繫な使用〉固執した。このような様式は彼の初期の作品において『4手のためのピアノソナタ(FP8)』(1918年)での和らげられた[[オスティナート]]の多用や『{{仮リンク|3つの無窮動|en|Trois mouvements perpétuels}}(FP14)』(1919年)での[[アルベルティ・バス]]風の音型のようにしばしば法外なまでの通俗音楽性を具現化することにもなる。[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]のために書かれた『プロムナード(FP24)』(1921年)では四度や七度に基づく硬い響きの和声語法が現れ、書法は他のどのピアノ曲よりも分厚くなっている。彼のピアノ曲の大部分は自己の芸術の素材を再検討した1930年代の初め以降に書かれている。彼自身のお気に入りは[[1932年]]から[[1959年]]に書かれた『{{仮リンク|15の即興曲|it|Improvisations}}(FP63、113、170、176)』の被献呈者は[[マルグリット・ロン]]から[[エディット・ピアフ]]にまで及んでいる。このことはピアノという楽器が彼の最も深遠な思索に適した媒体ではないことを証明している。不可解なことに、誰もが彼の最良の作品と見做しがちな『ナゼルの夜会』を本人は酷く嫌っていた<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。 |
|||
== 評価 == |
== 評価 == |
||
『音楽大事典』によれば「プーランクは単純さや明確さを重んじたサティやストラヴィンスキーらの影響の下にドイツ・[[ロマン派]]の重圧や[[半音階|クロマティズム]]から開放された真のフランス的伝統に立脚した音楽の創造を目指した。彼の音楽には洗練された感性と軽妙なユーモアに溢れ、瑞々しい詩的情緒がみなぎる作品に結実している。さらに、1936年以降の作品には宗教的感情や崇高さが加わり、深い独自の境地が窺える。母方の演劇愛好家の伯父の影響で、早くから[[舞台芸術]]に親しんだ」<ref>『音楽大事典』、2153頁</ref>。 |
『音楽大事典』によれば「プーランクは単純さや明確さを重んじたサティやストラヴィンスキーらの影響の下にドイツ・[[ロマン派音楽|ロマン派]]の重圧や[[半音階|クロマティズム]]から開放された真のフランス的伝統に立脚した音楽の創造を目指した。彼の音楽には洗練された感性と軽妙なユーモアに溢れ、瑞々しい詩的情緒がみなぎる作品に結実している。さらに、1936年以降の作品には宗教的感情や崇高さが加わり、深い独自の境地が窺える。母方の演劇愛好家の伯父の影響で、早くから[[舞台芸術]]に親しんだ」のだという<ref>『音楽大事典』、2153頁</ref>。 |
||
プーランクの音楽が持つ気質の2つの側面は、彼の生前、そして現在も誤解を生み続けている。作曲家の[[ネッド・ローレム]]が述べるように「彼は深い敬虔さを持ち、制御不能なほど官能的だった」のであり<ref>Rorem, Ned. [https://www.jstor.org/stable/943868 "Poulenc: A Memoir"], ''Tempo'', New Series, Number 64, Spring, 1963, pp. 28–29 {{subscription}}</ref>、これが故に一部の評論家による彼の真面目さを過小評価に繋がっている<ref name=larner/>。しかし、[[第二次世界大戦]]以降、語法上の複雑さが欠けているのは、決して感受性や技術の欠如を示すものではないと言うことが次第に理解されるようになってきた。また、フランスの[[宗教音楽]]の分野では[[オリヴィエ・メシアン|メシアン]]と最高位を争う一方、フランス歌曲に関しては[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]の死後、最も傑出した人物であるということも、明らかになってきた<ref name="grove246">『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁</ref>。 |
|||
{{仮リンク|ロジャー・ニコルズ (音楽学者) |label=ロジャー・ニコルズ|en|Roger Nichols (musical scholar)}}{{efn|『ニューグローヴ世界音楽大事典』のプーランクの項目の執筆者}}は「プーランクはシューベルトそのものではないにしても20世紀における後継者として最も相応しい人物であろう」と評している<ref>『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁</ref>。『西洋音楽史』のグラウトも「プーランクは歌曲の作曲家として高く評価されている」との見解を示し<ref>ドナルド・ジェイ・グラウト、848頁</ref>、プーランク本人も「アポリネールとエリュアールの詩に音楽をつけた」そう墓碑銘に記されたなら、それが最大の名誉だと語っている<ref>小沼純一、246頁</ref>。 |
|||
[[ロジャー・ニコルズ (音楽学者)|ロジャー・ニコルズ]]は「プーランクはシューベルトそのものではないにしても20世紀における後継者として最も相応しい人物であろう」と評している<ref name="grove248" />。『西洋音楽史』のグラウトも「プーランクは歌曲の作曲家として高く評価されている」との見解を示し<ref name="#3"/>、プーランク本人も「『アポリネールとエリュアールの詩に音楽をつけた』そう墓碑銘に記されたなら、それが最大の名誉だ」と語っている<ref>小沼純一、246頁</ref>。 |
|||
『ラルース世界音楽事典』によれば「プーランクは20世紀前半における最も偉大なフランスの作曲家の一人と今日考えられている」<ref>『ラルース世界音楽事典』、1417頁</ref>。 |
|||
音楽の新たな進歩に大きな影響こそ受けはしなかったものの、彼は常に若い世代の作曲家の作品に鋭い関心を向けていたのである。[[レノックス・バークリー]]は次のように回想している。「一部の芸術家とは異なり、彼は他人の作品に純粋な興味を持っており、自身のものからは遠く隔たった音楽にも驚くほど高い見識を有していた。彼は[[ピエール・ブーレーズ|ブーレーズ]]の『[[ル・マルトー・サン・メートル]]』が今日よりも遥かに無名であった頃から既にこの作品に親しんでおり、私に録音を再生して聴かせてくれたことを思い出す<ref name=mt>[https://www.jstor.org/stable/949032 "Francis Poulenc"], ''The Musical Times'', March 1963, p. 205 {{subscription}}</ref>。」ブーレーズの側は同じような見方をしておらず、2010年にこう述べていた。「知性の面で安易な道を選択する人々は必ずいるものだ。プーランクは『[[春の祭典|祭典]]』(春の祭典)の後から出てきた。それは前進ではなかった<ref>Clark, Philip, "The Gramophone Interview – Pierre Boulez", ''[[グラモフォン (雑誌)|Gramophone]]'', October 2010, p. 49</ref>。」彼の作品に長所を多く見出す作曲家もいた。[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]が1931年にプーランクへしたためたのは次のような言葉である。「貴方は本当に素晴らしい、そしてそれを貴方の音楽に何度も気づかされます<ref>Poulenc (1991), p. 94</ref>。」 |
|||
== 作品 == |
|||
{{main|プーランクの楽曲一覧}} |
|||
プーランクは晩年にこう述べた。「もし人々が50年後にも私の音楽にいまだ関心を寄せてくれているのであれば、それは『3つの無窮動』にではなく『スターバト・マーテル』に対してだろう。」『[[タイムズ]]』紙のジェラルド・ラーナーはプーランク生誕100周年に寄せて、彼の予言は誤りだった、1999年現在もその音楽的気質の両面により彼が広く称賛されているとコメントしている。「熱心なカトリック教徒と腕白小僧の両方、グローリアと牝鹿の両方、カルメル会修道女の対話とティレジアスの乳房の両方である<ref name=larner/>。」同時期に作家のジェシカ・ダッチェンはプーランクを次のように表現した。「音を立て泡を吹きだす[[ガリア人]]の力の塊が、あっという間に笑いと涙へといざなってくれる。彼の言語はどの世代にも明瞭に、直接的に、情け深く語られる<ref>Duchen, Jessica. [http://docs.newsbank.com/openurl?ctx_ver=z39.88-2004&rft_id=info:sid/iw.newsbank.com:UKNB:EGLL&rft_val_format=info:ofi/fmt:kev:mtx:ctx&rft_dat=0F26D24C063886B8&svc_dat=InfoWeb:aggregated5&req_dat=102CDD40F14C6BDA "Plucky chicken: Sensual, witty and unfairly dismissed as lightweight"], ''The Guardian'', 1 January 1999</ref>。」 |
|||
* [[オペラ]] |
|||
** 『[[ティレジアスの乳房]]』 |
|||
** 『[[カルメル派修道女の対話]]』 |
|||
** 『[[人間の声]]』 |
|||
『ラルース世界音楽事典』は「プーランクは20世紀前半における最も偉大なフランスの作曲家の一人と今日考えられている」と評している<ref name="larousse417" />。 |
|||
* [[管弦楽]]曲 |
|||
{{col-begin}}{{col-2}} |
|||
** [[バレエ音楽]]『[[エッフェル塔の花嫁花婿]]』(合作) |
|||
** バレエ音楽『[[牝鹿]]』 |
|||
** バレエ音楽『[[典型的動物|模範的動物たち]]』 |
|||
** 『[[フランス組曲 (プーランク)|フランス組曲]]』(管楽器、打楽器、チェンバロ、ハープ) |
|||
{{col-2}} |
|||
** 『2つの行進曲と間奏曲』(室内管弦楽) |
|||
** [[シンフォニエッタ (プーランク)|シンフォニエッタ]] |
|||
** [[マルグリット・ロン]]の名による変奏曲(合作) |
|||
{{col-end}} |
|||
* [[協奏曲]] |
|||
{{col-begin}}{{col-2}} |
|||
** [[クラヴサン]]と管弦楽のための[[田園のコンセール]](田園協奏曲) |
|||
** ピアノと18の楽器のための舞踊協奏曲『[[オーバード (プーランク)|オーバード]]』 |
|||
** [[2台のピアノのための協奏曲 (プーランク)|2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ニ短調]] |
|||
{{col-2}} |
|||
** [[オルガン協奏曲 (プーランク)|オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調]] |
|||
** [[ピアノ協奏曲 (プーランク)|ピアノ協奏曲 嬰ハ短調]] |
|||
{{col-end}} |
|||
* [[重奏|室内楽曲]] |
|||
{{col-begin}}{{col-2}} |
|||
** [[六重奏曲 (プーランク)|六重奏曲]]([[ピアノ]]、[[フルート]]、[[オーボエ]]、[[クラリネット]]、[[ホルン]]、[[ファゴット]]) |
|||
** {{仮リンク|ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ|en|Sonata for horn, trumpet and trombone}} |
|||
** {{仮リンク|ピアノ、オーボエとファゴットのための三重奏曲|en|Trio for oboe, bassoon and piano}} |
|||
** [[ヴァイオリンソナタ (プーランク)|ヴァイオリンソナタ]] |
|||
** {{仮リンク|チェロソナタ (プーランク)|label=チェロソナタ|en|Cello Sonata (Poulenc)}} |
|||
** [[フルートソナタ (プーランク)|フルートソナタ]] |
|||
{{col-2}} |
|||
** [[オーボエソナタ (プーランク)|オーボエソナタ]] |
|||
** {{仮リンク|2本のクラリネットのためのソナタ|en|Sonata for two clarinets}} |
|||
** [[クラリネットソナタ (プーランク)|クラリネットソナタ]] |
|||
** {{仮リンク|クラリネットとファゴットのためのソナタ|en|Sonata for clarinet and bassoon}} |
|||
** バガテル(ヴァイオリンとピアノ) |
|||
** {{仮リンク|ホルンとピアノのためのエレジー|fr|Élégie pour cor et piano}}(悲歌) |
|||
** 付随音楽「城館への招待」~クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲 |
|||
{{col-end}} |
|||
* 器楽曲 |
|||
{{col-begin}}{{col-2}} |
|||
** {{仮リンク|2台のピアノのためのソナタ (プーランク)|label=2台のピアノのためのソナタ|fr|Sonate pour deux pianos (Poulenc)}} |
|||
** シテールへの船出(2台ピアノ) |
|||
** 主題と変奏 変イ長調 |
|||
** 4手のためのピアノソナタ |
|||
{{col-2}} |
|||
** [[3つのノヴェレッテ]](ピアノ) |
|||
** [[ナゼルの夜会]](ピアノ) |
|||
** {{仮リンク|15の即興曲|it|Improvisations}}(ピアノ) |
|||
**: 第12番『[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]を讃えて』と第15番『[[エディット・ピアフ]]を讃えて』が有名。 |
|||
{{col-end}} |
|||
* [[合唱]]曲 |
|||
{{col-begin}}{{col-2}} |
|||
**『{{仮リンク|酒飲み歌|en|Chanson à boire (Poulenc)}}』''Chanson à boire'' (1922年) |
|||
**『7つの歌』''Sept Chansons'' (1936年) |
|||
** 『[[黒い聖母像への連禱]]』 ''Litanies à la Vierge Noire (Notre-Dame de Rocamadour)'' (1936年) |
|||
** 『小さな声』 ''Petites Voix'' (1936年) |
|||
** 『[[ミサ曲 ト長調 (プーランク)|ミサ曲 ト長調]]』 ''Messe en Sol Majeur'' (1937年) |
|||
** カンタータ『{{仮リンク|枯渇(プーランク)|label=枯渇|en|Sécheresses (Poulenc)}}』 ''Sécheresses'' (1937年、E. ジェイムス) |
|||
**『{{仮リンク|悔悟節のための4つのモテット|en|Quatre motets pour un temps de pénitence}}』''Quatre motets pour un temps de pénitence'' (1938/39年) |
|||
**: 『悔悛のための』や『悔悟の時のための』と訳される場合もある。 |
|||
** 『[[サルヴェ・レジーナ(プーランク)|サルヴェ・レジーナ]]』 ''Salve Regina'' (1941年) |
|||
{{col-2}} |
|||
** 『エクスルターテ・デオ』 ''Exultate Deo'' (1941年) |
|||
** [[カンタータ]]『[[人間の顔 (カンタータ)|人間の顔]]』 ''Figure humaine'' (1943年、[[ポール・エリュアール|P. エリュアール]]) |
|||
** 小カンタータ『ある雪の夕暮れ』 ''Un soir de neige'' (1944年、P. エリュアール) |
|||
**『フランスの歌 』''Chansons Française''s (1945年) |
|||
**『{{仮リンク|アッシジの聖フランシスコの4つの小さな祈り|en|Quatre petites prières de saint François d'Assise}}』 ''Quatre petites prières de Saint François d'Assise'' (1948年) |
|||
** 『[[スターバト・マーテル (プーランク)|スターバト・マーテル]]』 ''Stabat Mater'' (1950年) |
|||
** 『[[アヴェ・ヴェルム・コルプス]]』 ''Ave verum corpus'' (1952年) |
|||
** 『クリスマスための4つのモテット』 ''Quatre motets pour le temps de noël'' (1952年) |
|||
** 『[[グローリア (プーランク)|グローリア]]』''Gloria'' (1959年) |
|||
**『[[パドヴァのアントニオ|パドヴァの聖アントニオ]]の讃歌』 ''Laudes de Saint Antione de Padoue'' (1959年) |
|||
**『{{仮リンク|テネブレの7つの応唱|en|Sept répons des ténèbres}}』 ''Sept Repons des Téneèbres'' (1961年) |
|||
{{col-end}} |
|||
*歌曲 |
|||
{{col-begin}}{{col-2}} |
|||
**歌曲集『{{仮リンク|動物詩集、またはオルフェのお供たち|fr|Le Bestiaire ou Cortège d'Orphée}}』(ギヨーム・アポリネールの詩、1919年) |
|||
**歌曲集『{{仮リンク|陽気な歌|fr|Chansons gaillardes}}』(1925年) |
|||
**『ポール・エリュアールの5つの詩』(1935年) |
|||
**歌曲集『ある日ある夜』(ポール・エリュアールの詩、1937年) |
|||
**『ラ・グルヌイエール』(ギヨーム・アポリネールの詩、1938年) |
|||
**歌曲集『{{仮リンク|偽りの結婚 (プーランク)|label=偽りの結婚|fr|Fiançailles pour rire}}』(ルイーズ・ド・ヴィルモランの詩、1939年) |
|||
{{col-2}} |
|||
**『{{仮リンク|愛の小径|en|Les Chemins de l'amour}}』([[ジャン・アヌイ]]の詩、1940年) |
|||
**歌曲集『{{仮リンク|平凡な話|en|Banalités (Poulenc)}}』(ギヨーム・アポリネールの詩、1940年) |
|||
**歌曲集『冷気と火』(ポール・エリュアールの詩、1950年) |
|||
**歌曲集『画家の仕事』(ポール・エリュアールの詩、1956年) |
|||
*朗読とピアノ |
|||
**『[[小象ババールの物語]]』 |
|||
**: 日本語にも翻訳されている{{仮リンク|ジャン・ド・ブリュノフ|en|Jean de Brunhoff}}の絵本による音楽物語。 |
|||
{{col-end}} |
|||
== 著書 == |
|||
*『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』 ステファヌ・オーデル編、[[千葉文夫]]訳、[[筑摩書房]]、1994年、(ISBN 4-480-87244-2)。 |
|||
*''Journal de mes Mélodies''. Paris: Cicero, 1993. |
|||
*''Correspondance 1910-1963''. éd. Myriam Chimènes, Paris: Fayard, 1994. |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
||
{{Notelist2|colwidth=30em}} |
|||
<references group="注" /> |
|||
{{Notelist}} |
|||
=== 出典 === |
=== 出典 === |
||
{{Reflist|20em}} |
{{Reflist|colwidth=20em}} |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*『[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]』(第13巻) 、[[講談社]] (ISBN 978-4061916333) |
* 『[[ニューグローヴ世界音楽大事典]]』(第13巻) 、[[講談社]] (ISBN 978-4061916333) |
||
*『ラルース世界音楽事典』[[福武書店]] |
* 『ラルース世界音楽事典』[[福武書店]] |
||
* |
* [[アンリ・エル]](著)、評伝『フランシス・プーランク』 [[春秋社]]、[[村田健司]] (翻訳)、(ISBN 978-4393931349) |
||
*久野 |
* {{Cite book | 和書 | first=麗 |last=久野 | title=プーランクを探して-音楽と人生と | publisher=[[春秋社]] | date=2013-11-20 | isbn=978-4-393-93573-6}} |
||
*[[高橋英郎]] (著)、『エスプリの音楽』、春秋社(ISBN 978-4393934203) |
* [[高橋英郎]] (著)、『エスプリの音楽』、春秋社(ISBN 978-4393934203) |
||
*ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、『オックスフォードオペラ大事典』[[大崎滋生]]、[[西原稔]](翻訳)、[[平凡社]](ISBN 978-4582125214) |
* ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、『オックスフォードオペラ大事典』[[大崎滋生]]、[[西原稔]](翻訳)、[[平凡社]](ISBN 978-4582125214) |
||
*デニス・スティーヴンス (編集) 、『歌曲の歴史』 (ノートン音楽史シリーズ) 石田徹 (翻訳) 、石田美栄 (翻訳)、音楽之友社(ISBN 978-4276113749) |
* デニス・スティーヴンス (編集) 、『歌曲の歴史』 (ノートン音楽史シリーズ) 石田徹 (翻訳) 、石田美栄 (翻訳)、音楽之友社(ISBN 978-4276113749) |
||
*[[小沼純一]] (著)、『パリのプーランク その複数の肖像』、春秋社(ISBN 978-4393931493) |
* [[小沼純一]] (著)、『パリのプーランク その複数の肖像』、春秋社(ISBN 978-4393931493) |
||
*[[末吉保雄]] (著)、『最新名曲解説全集24 声楽曲Ⅳ』 [[門馬直美]]ほか (著)、[[音楽之友社]] (ISBN 978-4276010246) |
* [[末吉保雄]] (著)、『最新名曲解説全集24 声楽曲Ⅳ』 [[門馬直美]]ほか (著)、[[音楽之友社]] (ISBN 978-4276010246) |
||
*エヴリン=ユラール・ヴィルタール (著)、『フランス六人組―20年代パリ音楽家群像』、[[飛幡祐規]] (翻訳) 、[[晶文社]] (ISBN 978-4794950734) |
* エヴリン=ユラール・ヴィルタール (著)、『フランス六人組―20年代パリ音楽家群像』、[[飛幡祐規]] (翻訳) 、[[晶文社]] (ISBN 978-4794950734) |
||
*{{仮リンク|ドナルド・ジェイ・グラウト|label=D・J・グラウト|en|Donald Jay Grout}}(著)、『西洋音楽史(下)』[[服部幸三]] (翻訳) 、[[戸口幸策]] (翻訳) 、音楽之友社 (ISBN 978-4276112117) |
* {{仮リンク|ドナルド・ジェイ・グラウト|label=D・J・グラウト|en|Donald Jay Grout}}(著)、『西洋音楽史(下)』[[服部幸三]] (翻訳) 、[[戸口幸策]] (翻訳) 、音楽之友社 (ISBN 978-4276112117) |
||
*『音楽大事典』 4巻 [[平凡社]] (ASIN |
* 『音楽大事典』 4巻 [[平凡社]] (ASIN : B00HG3V5GW) |
||
* |
* {{Cite book | 和書 | title=標準音楽辞典 | publisher=[[音楽之友社]] | date=1966 | isbn=978-4276000018}} |
||
* {{Cite book | 和書 | author=フランシス・プーランク | editor=ステファヌ・オーデル | translator=[[千葉文夫]] |title=プーランクは語る――音楽家と詩人たち | publisher=[[筑摩書房]] | date=1994 | isbn=978-4480872449 }} |
|||
* {{cite book | last= Bloch | first= Francine | year= 1984| title= Francis Poulenc, 1928–1982: Phonographie| location= Paris | publisher= Bibliothèque nationale, Département de la phonothèque nationale et de l'audiovisuel |language=fr| isbn= 978-2-7177-1677-1}} |
|||
* {{cite book | editor-last= Buckland | editor-first= Sidney | editor2= Myriam Chimènes|year= 1999| title= Poulenc: Music, Art and Literature | location= Aldershot | publisher= Ashgate | isbn= 978-1-85928-407-0}} |
|||
* {{cite book | last= Burton | first= Richard D E | year= 2002| title= Francis Poulenc | location=Bath | publisher= Absolute Press | isbn= 978-1-899791-09-5 }} |
|||
* {{cite book | last=Bush | first=Geoffrey | year= 1988| title=''Notes to CD set'' Poulenc – Works for Piano | location= Colchester| publisher=Chandos | oclc=705329248 }} |
|||
* {{cite book | last = Canarina | first = John | title = Pierre Monteux, Maître | location = Pompton Plains, US | publisher = Amadeus Press | year = 2003 | isbn = 978-1-57467-082-0 | url-access = registration | url = https://archive.org/details/pierremonteuxmai00cana }} |
|||
* {{cite book | last= Cayez | first= Pierre | year= 1988| title= Rhône-Poulenc, 1895–1975|language=fr| location= Paris | publisher= Armand Colin and Masson | isbn= 978-2-200-37146-3}} |
|||
* {{cite book | last= Chimènes | first= Myriam | year= 2001| title=L'esthétique dans les correspondances d'écrivains et de musiciens, XIXe–XXe siècles |language=fr|chapter= Évolution des goûts de Francis Poulenc à travers sa correspondance|location= Paris|editor= Arlette Michel |editor2=Loïc Chotard| publisher= Presses de l'Université de Paris-Sorbonne | isbn= 978-2-84050-128-2 }} |
|||
* {{cite book | last= Daniel | first= Keith W | year= 1982 | title= Francis Poulenc: His Artistic Development and Musical Style | location= Ann Arbor, US | publisher= UMI Research Press | isbn= 978-0-8357-1284-2}} |
|||
* {{cite book | last= Delamarche | first=Claire | year=1996 | title=''Notes to CD set'' Poulenc Concertos | location= London| publisher=Decca | oclc= 40895775 }} |
|||
* {{cite book | last=Desgraupes | first=Bernard |author2=Keith Anderson (trans) |year=1996 | title=''Notes to CD set'' Les mariés de la tour Eiffel| location=Munich | publisher=MVD | oclc= 884183553 }} |
|||
* {{cite book | last= Doctor | first= Jennifer | year= 1999| title= The BBC and Ultra-modern Music, 1922–1936 | location= Cambridge and New York | publisher= Cambridge University Press | isbn= 978-0-521-66117-1}} |
|||
* {{cite book | last= Harding| first=James | year=1994 | title=''Notes to CD set'' Ravel and Poulenc – Complete Chamber Music for Woodwinds, Volume 2 | location=London | publisher=Cala Records | oclc=32519527 }} |
|||
* {{cite book | last= Hell | first= Henri |author-link = アンリ・エル|author2=Edward Lockspeiser (trans)| year= 1959| title= Francis Poulenc |url=https://archive.org/stream/francispoulenc00hell#page/n11/mode/2up | location= New York | publisher= Grove Press | oclc= 1268174}} |
|||
* {{cite book | last= Hinson | first= Maurice | year= 2000| title= Guide to the Pianist's Repertoire| location= Bloomington, US | publisher= Indiana University Press | isbn= 978-0-253-10908-8}} |
|||
* {{cite book | last= Ivry | first= Benjamin | author-link = ベンジャミン・アイヴリー |year= 1996 | title= Francis Poulenc | location= London | publisher= Phaidon Press | isbn= 978-0-7148-3503-7}} |
|||
* {{cite book | last=Johnson | first=Graham | year= 2013| title=''Notes to CD set'' Francis Poulenc – The Complete Songs | location=London | publisher=Hyperion | oclc=858636867 }} |
|||
* {{cite book | last= Keck | first= George Russell | year= 1990| title= Francis Poulenc – A Bio-bibliography | location= New York | publisher=Greenwood Press | isbn= 978-0-313-25562-5}} |
|||
* {{cite book | last= Landormy | first= Paul | author-link = ポール・ランドルミ | title= La musique française après Debussy | year= 1943| location= Paris | publisher= Gallimard | oclc= 3659976}} |
|||
* {{cite book | last= Machart | first= Renaud | author-link = ルノー・マシャール |year= 1995| title= Poulenc | location= Paris |language=fr| publisher= Seuil | isbn= 978-2-02-013695-2 }} |
|||
* {{cite book | last= Nectoux |first= Jean-Michel |author-link=ジャン=ミシェル・ネクトゥー |year= 1991 |title= Gabriel Fauré – A Musical Life |location= Cambridge |publisher= Cambridge University Press |isbn= 978-0-521-23524-2 |author2=Roger Nichols (trans)}} |
|||
* {{cite book | last= Nichols| first=Roger | year= 1987| title= Ravel Remembered| location=London | publisher=Faber and Faber | isbn=978-0-571-14986-5 }} |
|||
* {{cite book | chapter=Satie and Les Six|title= French Music since Berlioz |last=Orledge|first= Robert|author-link =ロバート・オーリッジ |editor= Richard Langham Smith |editor2=Caroline Potter|location= Aldershot, UK and Burlington, US| publisher= Ashgate|year=2003|isbn=978-0-7546-0282-8}} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis |editor= Stéphane Audel| title= Moi et mes amis | year= 1963| language = fr | location=Paris and Geneva | publisher= Palatine | oclc= 504681160}} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis |editor= Stéphane Audel|translator =James Harding | year= 1978| title= My Friends and Myself | location= London | publisher= Dennis Dobson | isbn= 978-0-234-77251-5}} |
|||
* {{cite book |last=Poulenc | first=Francis | editor= Sidney Buckland |translator=Sidney Buckland| year= 1991| title= Francis Poulenc: Correspondence 1915–1963| location= London| publisher= Victor Gollancz | isbn= 978-0-575-05093-8}} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis |editor= Myriam Chimènes| year= 1994| title= Correspondance 1910–1963 | language=fr | location= Paris | publisher= Fayard | isbn= 978-2-213-03020-3}} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis |editor= Nicolas Southon|translator= Roger Nichols | year= 2014| title= Articles and Interviews – Notes from the Heart | location= Burlington, US | publisher= Ashgate | isbn= 978-1-4094-6622-2}} |
|||
* {{cite book | last= Romain | first= Edwin | year= 1978| title= A Study of Francis Poulenc's Fifteen Improvisations for Piano Solo | location=Hattiesburg, US | publisher= University of Southern Mississippi | oclc= 18081101}} |
|||
* {{cite book | last= Roy | first= Jean | author-link = ジャン・ロワ (音楽評論家) |year= 1964| title= Francis Poulenc | language=fr | location= Paris | publisher= Seghers | oclc= 2044230 }} |
|||
* {{cite book | chapter = Poulenc, Francis | title = The Penguin Opera Guide | author = Sams, Jeremy | author-link = ジェレミー・サムズ | editor = Amanda Holden | location = London | publisher = Penguin Books | year = 1997 | orig-year = 1993 | isbn = 978-0-14-051385-1 | url-access = registration | url = https://archive.org/details/operaguidepengui00nich }} |
|||
* {{cite book | last= Schmidt | first= Carl B | year= 1995| title= The Music of Francis Poulenc (1899–1963) – A Catalogue | location= Oxford and New York | publisher= Oxford University Press | isbn= 978-0-19-816336-7}} |
|||
* {{cite book | last= Schmidt | first= Carl B | year= 2001| title= Entrancing Muse: A Documented Biography of Francis Poulenc | location= Hillsdale, US | publisher= Pendragon Press | isbn= 978-1-57647-026-8}} |
|||
== 関連文献 == |
|||
* {{cite book | last= Bernac | first= Pierre | year= 1978| title= Francis Poulenc et ses mélodies | language=fr | location= Paris | publisher= Éditions Buchet-Chastel| oclc= 5075759 }} |
|||
* {{cite book | last= Lacombe | first= Hervé | author-link = エルヴェ・ラコンブ | year= 2013| title= Francis Poulenc | language=fr | location= Paris | publisher= Fayard | isbn=978-2-213-67199-4 }} |
|||
* {{cite book | last= Mellers | first= Wilfrid | author-link= ウィルフリッド・メラーズ | year= 1993 | title= Francis Poulenc | location= Oxford and New York | publisher= Oxford University Press | isbn= 978-0-19-816337-4 | url-access= registration | url= https://archive.org/details/francispoulenc0000mell_d8m2 }} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis | year= 1993|orig-year=1964| title= Journal de mes mélodies | language=fr | location=Paris | publisher= Cicero | isbn= 978-2-908369-10-6}} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis |editor= Lucie Kayas| year= 1999| title= À bâtons rompus (écrits radiophoniques, Journal de vacances, Feuilles américaines) | language=fr | location= Arles| publisher= Actes Sud | isbn= 978-2-7427-2033-0 }} |
|||
* {{cite book | last= Poulenc | first= Francis |editor= Nicolas Southon| year= 2011| title= J'écris ce qui me chante: écrits et entretiens | language=fr | location= Paris| publisher= Fayard | isbn= 978-2-213-63670-2}} |
|||
* {{cite book | editor-last= Ramaut | editor-first= Alban | year= 2005| title= Francis Poulenc et la voix | language=fr | location= Lyon | publisher= Symétrie | isbn= 978-2-914373-02-9}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{Commonscat|Francis Poulenc}} |
|||
{{commonscat}} |
|||
* [http://www.poulenc.fr/en/?Home Francis Poulenc 1899–1963, the official website (French and English version)] |
|||
*{{IMSLP|id=Poulenc, Francis}} |
|||
* [https://www.bbc.co.uk/music/artists/5e1ef22b-310a-46ad-885b-4897b8c9c85a Poulenc material] BBC Radioのアーカイヴ |
|||
* {{ChoralWiki}} |
|||
* {{IMSLP|id=Poulenc, Francis}} |
|||
* [http://archives.library.rice.edu/repositories/2/resources/548 Guide to the Lambiotte Family/Francis Poulenc archive, 1920–1994] (Woodson Research Center, Fondren Library, Rice University, Houston, TX, USA) |
|||
* {{IMDb name|0693590}} |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
312行目: | 364行目: | ||
[[Category:クラシックの教会音楽作曲家]] |
[[Category:クラシックの教会音楽作曲家]] |
||
[[Category:合唱音楽の作曲家]] |
[[Category:合唱音楽の作曲家]] |
||
[[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] |
|||
[[Category:第二次世界大戦期フランスの軍人]] |
|||
[[Category:フランス出身のLGBTの音楽家]] |
[[Category:フランス出身のLGBTの音楽家]] |
||
[[Category:LGBTのカトリック教会の信者]] |
|||
[[Category:LGBTのクラシック音楽家]] |
|||
[[Category:LGBTのクラシック音楽の作曲家]] |
|||
[[Category:パリ出身の人物]] |
[[Category:パリ出身の人物]] |
||
[[Category:1899年生]] |
[[Category:1899年生]] |
2024年12月9日 (月) 09:25時点における最新版
フランシス・プーランク | |
---|---|
プーランクとワンダ・ランドフスカ | |
基本情報 | |
生誕 |
1899年1月7日 フランス共和国、パリ8区 |
死没 |
1963年1月30日(64歳没) フランス、パリ6区 |
職業 | 作曲家、ピアニスト |
フランシス・ジャン・マルセル・プーランク(プランク、Francis Jean Marcel Poulenc フランス語: [fʁɑ̃sis ʒɑ̃ maʁsɛl pulɛ̃k] 発音例,1899年1月7日 - 1963年1月30日)は、フランスの作曲家、ピアニスト。歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、合唱曲、オペラ、バレエ、管弦楽曲に作品を残した。とりわけ、ピアノ組曲『3つの無窮動』(1919年)、バレエ『牝鹿』(1923年)、チェンバロ協奏曲『田園のコンセール』(1928年)、『オルガン協奏曲』(1938年)、オペラ『カルメル会修道女の対話』(1957年)、ソプラノ、合唱と管弦楽のための『グローリア』が知られている。その作風の広さは「修道僧と悪童が同居している」と形容される[注 1]。
ひとり息子として製造業で成功を収めた父から家業の跡取りとして期待をかけられ、音楽学校へ通うことを許されなかった。音楽は大部分を独学で身につけ、ピアニストのリカルド・ビニェスに師事した。ビニェスはプーランクの両親の死後、彼の指導者となった。また、エリック・サティとも面識を得て、彼の貢献の下で若き作曲家集団『6人組』のひとりとなった。初期の作品を通じて、プーランクはその高き精神と不遜さによって知られるようになる。1930年代には彼の性分により強く真剣みを帯びた側面が現れ、中でもそうした傾向が顕著な1936年以降に作曲された宗教音楽は、肩ひじ張らない作品と互い違いに発表されていった。
作曲家としての業績に加え、プーランクは熟達したピアニストでもあった。特にバリトンのピエール・ベルナック(プーランクが声楽作品を書くにあたり助言も与えた)やソプラノのドゥニーズ・デュヴァルとの共演ではその協力関係に称賛が贈られた。この両名を伴ってヨーロッパとアメリカで演奏旅行を行ったほか、ピアニストとして多数の録音を遺した。彼は蓄音機の重要性をいち早く認識した作曲家であり、1928年以降は幅広く録音を行っていた。
晩年、そして死後数十年にわたり、プーランクはとりわけ母国において軽妙洒脱な作曲家との名声を獲得する一方、その宗教音楽はしばしば見逃されてきた。21世紀に入って真剣さのある作品にもこれまで以上の注目が集まっており、世界中で『カルメル会修道女の対話』や『人間の声』の新たな演出が試みられ、演奏会や録音に歌曲、合唱曲が多数取り上げられている。
生涯
[編集]若年期
[編集]プーランクはパリ8区で、父エミール・プーランクとその妻ジェニー(旧姓ロワエル)の間に末っ子、そして唯一の男児として誕生した[2]。エミールはプーランク・フレール(プーランク兄弟)社、成功を収めた製薬会社で後のローヌ・プーラン社の共同代表であった[3]。エミールはアヴェロン県エスパリオンの敬虔なローマカトリックの一家の出であった。妻のジェニーは幅広い芸術に関心を寄せるパリ市民の家の生まれである。プーランクは、この家庭環境によって彼自身の2つの特質が育まれたと考えていた。父方から受け継いだ深い信仰心と、母方からの国際的、芸術的な側面である[4]。評論家のクロード・ロスタンは後年、プーランクを「修道士半分、腕白小僧半分[注 2]」と評している。
プーランクは音楽豊かな家庭に育った。母はピアノの確かな腕前を持ち、クラシック音楽からあまり高尚でない音楽まで幅広いレパートリーを有していた。これにより、プーランクは自身が言うところの「愛すべき劣等音楽」に対する、生涯にわたる趣味を得ることになった[14][注 3]。ピアノのレッスンは5歳から開始しており、8歳になって初めて耳にしたドビュッシーの音楽が持つ独自の音色に魅せられた。彼の成長に影響を与えた楽曲にはシューベルトとストラヴィンスキーのものがある。前者の『冬の旅』と後者の『春の祭典』は彼の中に深い印象を残した[16]。父の言いつけによりプーランクは一般的な学校教育課程を歩み、音楽学校ではなくパリのリセ・コンドルセで学ぶことになった[17]。
1916年、女友達レイモンド・リノシエ[注 4](1897年-1930年)に導かれてアドリエンヌ・モニエが経営するオデオン通り7番地の書店「本の友の家(La Maison des Amis des Livres)」に出入りするようになり[注 5][20]、アンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、マックス・ジャコブ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンといった「アヴァンギャルド」の詩人たちに出会う。彼らの詩がプーランクの音楽の抒情的表現への鍵となり[21]、後年、彼は彼らの詩の多くに作曲を行うことになる[22]。同年、ピアニストのリカルド・ビニェスに弟子入りする。伝記作家のアンリ・エルが述べるところでは、ビニェスは弟子のプーランクのピアノの技量、並びに彼の鍵盤楽器作品の様式に深い影響を与えたという。プーランクは後にビニェスについて次のように述べている。
彼は大変に愉快な男だった。奇怪なヒダルゴ(スペイン紳士のこと)だった彼は、立派な奇怪なひげを蓄え、平らなつばを持つ純然たるスペイン風ソンブレロを被り、私がペダリングを十分に変えなかった時には履いていたボタンブーツで私のむこうずねを小突いた[23](中略)私は彼を熱狂的に賛美した。というのも、当時、1914年時点では、我がドビュッシーとラヴェルを演奏した唯一のヴィルトゥオーソだったからだ。そうしてビニェスと出会ったことは私の生涯で最も重要なことだった: 何もかもが彼のおかげである(中略)事実、私の音楽での駆け出しの努力と私がピアノについて知ること全ては、ビニェスのおかげで得られたものなのだ[24]。
プーランクが17歳の時に母が他界、2年後に父も後を追った。これによりビニェスは教師を超えた存在となる。『ニューグローヴ世界音楽大事典』のミリアム・シメヌ(Myriam Chimènes)の言によると、ビニェスは若きプーランクにとって「精神的指導者」であったという[4]。ビニェスは弟子に作曲をするよう激励し、後にプーランク初期の3つのピアノ作品の初演も手掛けたのである[注 6]。さらに、彼を通じて面識を得た2人の作曲家、ジョルジュ・オーリックとエリック・サティの助けにより、プーランクは初期の成長を遂げていくことになる[26]。
プーランクと同い年であったオーリックは音楽面でプーランクよりも早熟だった。両名が出会った時点で既に、オーリックの音楽はパリの重要な演奏会場で演奏されていたのである。この2人の若い作曲家は音楽的な外形と情熱を共有しており、オーリックはプーランクの生涯を通じた最も信頼できる友人であり導き手となった[27]。プーランクは彼を「わが精神の真の兄弟」と呼んだ[25]。変わり者であったサティはフランスの楽壇の主流派からは孤立していたが、オーリック、ルイ・デュレ、アルテュール・オネゲルらの台頭しつつある若い作曲家たちに指導を施していた。いったんはブルジョワの素人と見てプーランクを追い払ったが、考え直して「新しい若者のためのグループ(Les Nouveaux Jeunes)」と呼んでいた自分が世話する者たちのサークルに迎え入れた[28]。プーランクはサティから受けた影響について「精神と音楽の両面において直接的かつ広範」なものだったと記述している[29]。ピアニストのアルフレッド・コルトーはプーランクの『3つの無窮動』が「サティの皮肉めいた外見を投影し、現代の神経質な知的サークルの水準に適合させたもの」だと評している[27]。
初期作品群と「6人組」
[編集]プーランクは1917年12月に『黒人の狂詩曲』で作曲家としてのデビューを飾った[注 7]。これは全5楽章からなるバリトンと小編制のアンサンブルのための10分ほどの楽曲である[注 8]。この作品はサティに献呈され、メゾソプラノのジャーヌ・バトリが手がけていた新作によるコンサート・シリーズの中で初演された。当時のパリではアフリカの芸術が流行しており、プーランクはリベリアのものであるということになっていた韻文が出版されているのを喜んでいたが、パリでそぞろ歩きを好む人々のスラングで溢れていた。ある詩は曲中の2つの部分に使用されている。初演に抜擢されたバリトンは怖気づいてしまい、歌手ではない作曲者自身が飛び入りで参加した。こうした「jeu d'esprit(機転による演奏)」はこの後も数多く行われることになり、英語話者の評論家は「leg-Poulenc」と呼ぶようになった[33][注 9]。ラヴェルはこの作品を面白がり、プーランクの自ら民話を生み出す能力に言及している[35]。強く感銘を受けたストラヴィンスキーは自らの影響力を行使してプーランクとある出版社の契約を確保してやり、プーランクはこの親切を生涯忘れることはなかった[36]。一方、1917年9月26日にはパリ音楽院の教授でオペラ・コミック座の指揮者としても活躍していたポール・ヴィダルのもとを訪れ、作品の提示を求められたため『黒人の狂詩曲』を見せたが、徹底的に罵倒されたという[37]。
1917年にラヴェルと知り合い、音楽について真剣な議論を交わすほどの関係になった。自分が高く称賛する作曲家よりもなんとも思わない作曲家を評価するというラヴェルの判断を聞き、プーランクは落胆することになる[39][注 10]。彼はこの不幸な出会いをサティに打ち明けた。サティは見下げるかのようなラヴェルの通り名で応じている。曰く、ラヴェルは「多量のがらくた」を語ったのだという[39][注 11]。長年にわたり、プーランクはラヴェルの音楽についてどっちつかずの態度を取ったが、人間としては敬意を払ってきた。ラヴェルが自作の音楽について謙虚な態度を取っていることが特にプーランクには魅力的に映り、彼は生涯を通じてラヴェルの示した模範を追求したのである[42][注 12]。
実業家であった父の反対によりパリ音楽院には進学せず[44]、第一次世界大戦末期から直後の戦後期にあたる1918年1月から1921年1月まで、プーランクは徴兵されフランス陸軍に従軍していた。1918年7月から10月の西部戦線への派兵を経て、以降は補助的な任務を歴任し、最後は空軍のタイピストとして兵役を終えた[45]。任務中にも作曲のための時間を取ることが可能だったため[4]、ピアノのための『3つの無窮動』や『4手のためのピアノソナタ』がサン=マルタン=シュル=ル=プレの地元の小学校のピアノを用いて書かれた。またアポリネールの詩のよる初となる歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』が完成している。ソナタは世間に大した印象を残すことはなかったが、歌曲集で彼の名がフランスで知られるようになり、『3つの無窮動』はたちまち国境を超える成功を収めた[45]。戦時中に音楽制作の急場を経たことで、プーランクは使用可能ないかなる楽器に対しても作曲を進めるということについて、多くを学んだのであった。そしてその後、彼の一部の作品は一般的でない演奏者の組み合わせを想定したものとなっていく[46]。
キャリアのこの段階に至り、プーランクは自身が通り一遍の音楽教育を受けていないことを意識するようになった。評論家で伝記作家のジェレミー・サムズは、世の中の潮流がロマン派の豊潤さに背を向け、技術的には洗練されていないにもかかわらず、「新鮮で無頓着な魅力」に賛意を示してくれたのは、彼にとって幸運なことだったと記している[47]。モンパルナス地区に所在するサル・ホイヘンスでプーランク初期の4作品が初演されることになるが、ここでは1917年から1920年にかけてチェリストのフェリクス・ドラグランジュが若い作曲家たちの音楽による演奏会を催していた。そうした作曲家にはオーリック、デュレ、オネゲル、ダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェールがおり、彼らにプーランクを加えて一緒に「6人組」として知られるようになる[48]。評論家のアンリ・コレは彼らのあるコンサートが終わった後で『ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ』と題した論文を『コメディア』誌上に発表している。ミヨーによると
コレは全くもって恣意的なやり方で、オーリック、デュレ、オネゲル、プーランク、タイユフェール、そして私の6人の作曲家の名前を選んだ。それは単に我々が互いに知り合いかつ友人であり、同じプログラムに掲載されていたという理由に過ぎず、我々の考え方や気質が異なることは微塵も考慮されていない。オーリックとプーランクはコクトーの思想を追っており、オネゲルはドイツ・ロマン派の申し子、私が傾倒しているのは地中海の抒情的芸術なのだ(中略)コレの論文が与えた広い影響は6人組を誕生せしめてしまうことになった[49][注 13]。
コクトーは年代こそ「6人組」と近かったものの、この一団にとっては父親的な存在であった[50]。彼の文芸スタイルはエルの表現によれば「逆説的かつ精巧」で、反ロマン主義、簡潔にして不遜なものだった[52]。これがプーランクには非常に魅力的にうつり、彼がコクトーの言葉に曲を付けたのは1919年が最初で1961年が最後となる[53]。「6人組」のメンバーが共同制作を行う際には、各人は各々の担当部分を仕上げて、それらを繋げて作品とする形式を取った。彼らによる1920年のピアノ組曲『6人組のアルバム』は6つの独立した無関係な楽曲で構成されている[54]。また1921年のバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』にはミヨーが3曲、オーリック、プーランク、タイユフェールが2曲ずつ、オネゲルが1曲を提供した。既に6人組から距離を置いていたデュレは曲を書いてない[55]。
1920年代になってもプーランクは正式に音楽を学んでないことを気に病み続けていた。サティは音楽学校というものに懐疑的だったが、ラヴェルは作曲の講義を受けてみてはどうかと助言した。ミヨーからは作曲家で教育者のシャルル・ケクランを勧められた[56][注 14]。プーランクは1921年から1925年にかけて断続的に彼の下で学ぶことになる[58]。
1920年代:高まる名声
[編集]1920年代初頭から、プーランクは国外、特にイギリスにおいて演奏家及び作曲家として高く評価されるようになった。アーネスト・ニューマンは1921年に『マンチェスター・ガーディアン』紙に次のように書いている。「私はまだ20代になったばかりの若者、フランシス・プーランクに注目している。彼は第1級の道化人へと成長するはずである。」プーランクの連作歌曲『リボンの結び目』はコルネット、トロンボーン、ヴァイオリン、打楽器という普通でない組み合わせの楽器群が伴奏となっており、そこでニューマンはそれまでほとんど聞いたことのないような楽しいおふざけを聞いたのだと語っている[59]。1922年にミヨーと共にウィーンへ赴いたプーランクは、アルバン・ベルク、アントン・ヴェーベルン、アルノルト・シェーンベルクと出会っている。フランスから来た2人はいずれも、これらオーストリアの同業者による革命的な十二音技法からは影響を受けなかったが、それを牽引する提案者としてこの3人を賞賛した[60]。翌年、プーランクはセルゲイ・ディアギレフから完全長のバレエ音楽の委嘱を受けた。プーランクは題材をフランスの古典である『雅なる宴』を現代に移し替えたものにしようと心を決めた。この作品『牝鹿』は最初は1924年1月にモンテカルロで、その後5月にパリでアンドレ・メサジェの指揮により上演され、たちまち成功を収めた。同作品はプーランク有数の知名度を誇る作品であり続けている[61]。バレエの成功に続いてプーランクを有名にしたのは、思いがけずサティと疎遠になった理由であった。プーランクが新たに交友を持った人物の中に作家のルイ・ラロワがいたが、サティは彼を執念深く敵視していたのである[62]。やはりディアギレフと組んだバレエ『うるさがた』で同じように成功を手にしたばかりであったオーリックも、ラロワと交際したためサティから拒絶されてしまっていた[62]。
10年の時が経ち、プーランクは歌曲から室内楽曲、新たなバレエ、そして協奏曲『オーバード』と多種多様な作品を生み出していた。エルはケクランの影響によりプーランクの自然で簡素な様式が時おり抑制されており、またプーランクが本当の色彩により自分を表現するにあたってオーリックが有用な助言を提供したと唱えている。これら2人の友人の音楽で1926年に開かれたコンサートにおいて、プーランクの歌曲を初めてバリトンのピエール・ベルナックが歌うことになった。エルの言によれば、「プーランクは間もなくその名前とは分かち難くなった」のであった[63]。プーランクと近しい関係となったもうひとりの演奏家がクラヴサン奏者のワンダ・ランドフスカである。彼はファリャの『ペドロ親方の人形芝居』(1923年)でランドフスカが独奏をするのを聞いていた。同作品はこの当時の作品にクラヴサンを用いた先駆け的楽曲であり、彼はたちまちその音色に魅了された。ランドフスカの依頼によりプーランクは『田園のコンセール』を作曲、1929年にランドフスカの独奏、ピエール・モントゥー指揮パリ交響楽団によって初演された[64]。
伝記作家のリチャード・D・E・バートンが述べたところでは、プーランクは1920年代終盤には羨まれるような立場に居たように思われるという。プロとして成功を収め、独立して裕福で、父からは相当な額の遺産を受け継いでいたのである[65]。パリから南西へ230キロメートルに位置するアンドル=エ=ロワール県、ノワゼに、ル・グラン・コトーと呼ばれる大きな邸宅を購入したプーランクは、安らかな環境で作曲するためにこの地へ逃れてきていた[65]。しかし、彼は主として同性愛であった自らの性的嗜好と折り合いをつけることにもがき、悩まされていた。初めてとなる真剣な恋愛関係を持ったのは画家のリシャール・シャンレールであった[66]。彼はシャンレールに『田園のコンセール』の写譜を送り、そこへ次のように記した。「貴方によって私の人生は変わりました、貴方は幾年もの私の渇きの陽光であり、生きて働く理由なのです[67]。」にもかかわらず、プーランクはこの恋愛の継続中に友人のレイモンド・リノシエに求婚していた。彼女はプーランクの同性愛傾向をよく知っていただけでなく[68]、他に心惹かれる人物がいたためプロポーズを断ったのだが、これによって両者の関係はぎこちないものとなってしまった[69][70]。プーランクには幾度も抑鬱期が訪れることになるが、その最初のものが降りかかって作曲する能力にも影響が出ていた。さらに1930年1月にリノシエが32歳で急逝、彼は打ちのめされた。リノシエの死にあたってこう記している。「私の青年時代の全てが彼女と別れようとしている、人生のあの頃の何もかもが彼女だけのものだった。すすり泣いている(略)今、20歳の私がいる[69]。」シャンレールとの恋愛関係は1931年には先細りとなっていくが、2人は生涯友人であり続けた[71]。
1930年代:新たな真剣さ
[編集]1930年代のはじめに、それまで2年間歌曲を書いていなかったプーランクは再び歌を書くようになった。フランソワ・ド・マレルブの詩に基づいて書かれた『墓碑銘』はリノシエの想い出に作曲されており、ピアニストのグレアム・ジョンソンはこの作品を「あらゆる意味において深遠な歌曲」であると評している[72][注 15]。翌年にはアポリネールやマックス・ジャコブらの詩によって3つの歌曲集を書いており、中には真剣味のある音色の曲もあるかと思えば、かつての名残のように気楽さを見せる楽曲もある。これは1930年代初頭の他の作品にも通ずるところである[74]。1932年には他の作曲家らとともに作品が初めてテレビ放映されることになり、BBCの放送でレジナルド・ケルとギルバート・ヴィンターが『クラリネットとファゴットのためのソナタ』を演奏した[75]。この頃からお抱え運転手のレイモン・デトゥーシュの関係が始まっている[76]。以前のシャンレールの場合と同様に、情熱的であった恋愛関係は深く永続的な友人関係へと変化していった。デトゥーシュは1950年代に結婚しているが、プーランクとは生涯にわたり親しい間柄であった[77]。
1936年に起こった出来事により宗教的信仰心が再び呼び覚まされたプーランクの音楽は、新たな厳粛さの深みへと進んでいく。1936年8月17日に同僚でライバルでもあった作曲家のピエール=オクターヴ・フェルーが自動車事故で死去との報が入る。首が切断されたという痛ましい死の報せに衝撃を受け、彼はしばらく無頓着になっていた信仰心を取り戻した。プーランクはその直後の休暇中にロカマドゥールの聖所を訪ねた。彼は後にこう説明している。
数日前に仕事仲間の悲劇的な死の報を受けたばかりだった(中略)私たち人間を形作るものの脆さに思いを巡らすほどに、今一度私は精神的な人生へと引き込まれていったのだ。ロカマドゥールには幼少期の信仰を私に取り戻させる効果があった。この聖所がフランス最古であることは疑いなく(中略)私を魅了する全てを兼ね備えていた。(中略)このロカマドゥール訪問当夜、私は女声とオルガンのための『黒い聖母像への連禱』に取り掛かった。当作品においては、その気高き教会で私に強い感銘を与えた「農夫の献身」の空気を伝えんとしてある[78]。
ロカマドゥール礼拝堂の黒衣の聖母から受けた心への一撃によって作曲された『黒い聖母像への連禱』は以後晩年までプーランクが書き続けた一連の曲の宗教的合唱の先駆け的な存在となった[79]。続く作品群も新たに見出された厳粛さを引き継いでおり、エリュアールの超現実的、人文主義的な詩に作曲した多くの歌曲などがそれにあたる。1937年には初となる大規模な礼拝用作品である無伴奏ソプラノと混声合唱のための『ミサ曲 ト長調』を作曲した。この作品は彼の全宗教作品の中で最も頻繁に演奏されている[80]。新作の全てがこうした深刻な方向性であったわけではない。イヴォンヌ・プランタンを主役に据えた劇付随音楽『マルゴ王妃』では16世紀の舞踏音楽の模倣を行っており、『フランス組曲』の名前で人気を博した[81]。依然として音楽評論家は概して軽妙な作品によってプーランクを特徴づけており、1950年代に入るまで彼の厳粛な側面は広く認知されるに至らなかった[82]。
プーランクは1936年に頻繁にベルナックとのリサイタルを開くようになった。2人はパリのエコール・ノルマルで『ポール・エリュアールの5つの詩』を初演した。以降ベルナックが表舞台を退く1959年までの20年以上にわたり、彼らはパリ及び国外でともに演奏活動を継続することになる。プーランクはこの同志のために90以上の歌曲を書いており[83]、彼との出会いを自身の専門家としてのキャリアを通じた「3つの大きな出会い」のひとつに数えている。他の2人はエリュアールとランドフスカである[84][注 16]。ジョンソンの言葉を借りると「25歳のベルナックはプーランクの相談役であり良心であったがゆえ」、プーランクは彼に歌曲のみならず、オペラや合唱音楽の作曲においても助言を求めて彼に頼ったのであった[86]。
1930年代を通じてプーランクはイギリスの聴衆から人気を得ていた。ロンドンのBBCとは実り多き関係を築き上げ、彼の作品の多くが放送された[87]。1938年にはベルナックを伴って初のイギリスツアーを行っている[88]。アメリカ合衆国でも同様に人気を博しており、多くの人がその音楽を「フランスの機知、優雅さ、高潔な精神の神髄」であると考えていた[89]。1930年代の終盤にも、プーランクの作品は深刻さと軽快さの間を揺れ動いていた。『悔悟節のための4つのモテット』(1938年-1939年)と歌曲『矢車菊』(1939年)は死への悲痛な瞑想であるが、歌曲集『偽りの婚約』は『牝鹿』の精神を取り戻したような作品だ、というのがエルの見解である[90]。
1940年代:大戦と戦後
[編集]プーランクは第二次世界大戦中もしばしの期間を従軍して過ごしている。1940年6月2日に召集を受け、ボルドーの防空部隊に所属した[91]。ドイツへの降伏後の1940年7月18日にプーランクは動員を解かれることになった。同年の夏は家族や友人たちと、フランス中南部のブリーヴ=ラ=ガイヤルドで過ごしている[92]。大戦勃発初期には新作にはあまり手を付けず、『牝鹿』のオーケストレーションの手直しや、1932年に書かれたピアノと木管楽器のための六重奏曲の改訂に取り組んでいた。ブリーヴ=ラ=ガイヤルドでは新しく3つの楽曲を書きはじめ、10月にノワゼの自宅に戻ると4作目に着手した。これらはピアノと語り手のための『小象ババールの物語』、『チェロソナタ』、バレエ『典型的動物』、そして歌曲集『平凡な話』である[90]。
戦争中の大半をパリで過ごしたプーランクはベルナックと共にリサイタルを開き、フランス語の歌ばかりを取り上げた[注 17]。公知の同性愛者であったプーランクはナチスの規則に照らすと危険な立場に置かれていたにもかかわらず(デトゥーシュは辛うじて逮捕、国外追放を免れていた)、彼は音楽の中でドイツをものともしない数多くの振る舞いをした[93]。アラゴンやエリュアールといったフランスのレジスタンス運動で有名な詩人たちの詩に作曲した。また、1942年にパリのオペラ座で初演された『典型的動物』には、反ドイツの歌である「Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine」などを盛り込んで複数回繰り返させた[95][96][注 18]。彼が創立メンバーに名を連ねた国民戦線は、ミヨーやパウル・ヒンデミットなどの演奏禁止された音楽家との関係性によりナチスから疑いの目を向けられていた[97]。1943年には8編のエリュアールの詞を基に、ベルギーに向けた2群の無伴奏合唱のためのカンタータ『人間の顔』を作曲する。終曲「自由」で終わるこの作品はドイツ支配下のフランスでは演奏することが出来なかった。初演は1945年にロンドンのBBCスタジオで行われて放送され[98]、パリでの演奏ようやく1947年になってから行われた[99]。『タイムズ』紙の音楽評論家は、後にこの作品が「当代屈指の合唱曲であり、それ自体が無視に甘んじたことでプーランクが追いやられてきた『二流』(petit maître)というカテゴリーから、彼を脱出させる」と記している[100]。他にも対独抵抗の意志を込めてガルシア・ロルカの想い出に捧げた『ヴァイオリン・ソナタ』(1942年-1943年)やルイ・アラゴンの詩に曲を付けた『セー』(C)を作曲した。
1945年1月にフランス政府の委嘱を受けたプーランクとベルナックは、パリから空路向かったロンドンで熱狂的な歓迎を受けた。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団はこの作曲家の栄誉を称えてレセプションを開催[101]、ロイヤル・アルバート・ホールでプーランクとベンジャミン・ブリテンの独奏で『2台のピアノのための協奏曲』を演奏[102]、ベルナックとはウィグモア・ホールとナショナル・ギャラリーでリサイタルを開催して歌曲(mélodie)やピアノ作品を演奏、BBCへの録音も行った[103]。ベルナックは人々の反応に圧倒されていた。彼とプーランクがウィグモア・ホールの舞台へ歩み出ると「聴衆は起立し、歌う前にもかかわらず私は感動のあまり泣き出してしまった[104]。」2週間の滞在を終えた2人は、1940年5月に運行を開始していた初となるボート・トレインに乗ってロンドンを後にパリへ旅立った[105]。
プーランクはパリで『小象ババールの物語』と、上演時間約1時間の短いオペラ・ブッフの形式を取ったオペラ処女作『ティレジアスの乳房』の総譜を完成させた[106]。この作品は1917年上演のアポリネールの同名の戯曲により書かれている。サムズはこのオペラが「高潔な精神を持つ混沌」であり、「さらに深く悲しい主題 - 産み育て、戦禍で破壊されたフランスを再発見する必要性」が隠されている、と述べている[106]。1947年6月3日にオペラ=コミック座で初演されたこの作品は[107]、評論家からは好評を得るも大衆人気の獲得には至らなかった[注 19]。女声の主要な役を演じたドゥニーズ・デュヴァルは作曲者お気に入りのソプラノとなり、頻繁にリサイタルで共演したほか、作品もいくつか献呈されている[109]。彼はデュヴァルを私を涙させるナイチンゲール(Mon rossignol à larmes)と呼んだ[110]。
大戦後すぐ、プーランクは女性と恋愛関係になった。その女性、フレデリーク(フレディ)・レベデフとの間には1946年に娘のマリー=アンジュを授かった。子どもは誰が父親であるかを知らさせずに育てられたが(プーランクは名親ということになっていたと思われる)、プーランクは彼女への支援を惜しまず、また彼女がプーランクの遺産の第1の相続人となっている[85]。
戦後になって、プーランクはストラヴィンスキーの最新作を否定して、新ウィーン楽派の教えのみが確かであると主張する、若い世代の作曲家たちと意見を戦わせた。プーランクはストラヴィンスキーを擁護し、「1945年もになって我々は十二音技法の美学のみが現代音楽への唯一の救済であるかのように語るのか」と、信じ難いという思いを表明した[82]。彼の見解では、ベルクは音列主義を行きつくところまで用い、シェーンベルクの音楽は今や「砂漠、石のスープ、模造音楽、もしくは詩的ビタミン」であり、彼にピエール・ブーレーズなどの敵対作曲家をもたらしていた[注 20]。プーランクとそりの合わない人々は、彼に時代遅れで軽薄な戦前の遺物であえるとのレッテルを貼ろうとした。これが原因となってプーランクはさらに真剣な作品に焦点を定め、フランスの大衆にそうした作品を聴かせようと試みることになる。アメリカやイギリスには強固な合唱の伝統があったために彼の宗教音楽もたびたび演奏されたが、フランスでの演奏機会はずっと少なく、そのために大衆や評論家が彼の真剣な楽曲を認知しないままとなることが少なくなかった[82][112][注 21]。
1948年にベルナックを伴った演奏旅行で、プーランクは初めてアメリカを訪れて大きな成功を収めた[112][113]。その後1961年までの間に頻繁に同国に赴くと、ベルナックやデュヴァルとリサイタルを開催したほか、ソリストとしてボストン交響楽団の委嘱により作曲された『ピアノ協奏曲』(1949年)を初演するなどした[4]。
1950年–1963年: 『カルメル会修道女』と晩年
[編集]プーランクの1950年代は、私生活での新しいパートナーの登場で幕を開けた。その人物、リュシアン・マリウス・ウジェーヌ・ルベールは旅のセールスマンだった[114][115]。本業は実り多く、エリュアールの詩による7曲から成る歌曲集『冷気と火』(1950年)、そして1950年に画家のクリスチャン・ベラールの想い出へ書かれて翌年初演されたスターバト・マーテルが生み出されている[116]。
1953年、プーランクはスカラ座とミラノの出版社リコルディからバレエの委嘱を受けた。はじめはコルトナの聖マルガリタの話を構想したが、彼女の生涯は舞踏では表現不可能であると思い至る。宗教的主題でオペラを書くことを希望した彼に対し、リコルディはジョルジュ・ベルナノスによる映像化されていない映画台本であった『カルメル会修道女の対話』を提案した。テクストはゲルトルート・フォン・ル・フォールが描いたコンピエーニュの殉教者、フランス革命時に信仰のためにギロチンにかけられた修道女たちを扱った小説に基づいている。プーランクはこれを「いたく感動的かつ崇高な作品」であり[43]、自作のリブレットとして理想的であると考えると、1953年8月に作曲に着手した[117]。
このオペラの作曲中、プーランクは2つのショックに苦しめられた。作家のエメット・レイヴァリーがル・フォールの小説を舞台化する権利を有しており、ベルナノスの遺作と権利衝突を起こしていることを知る。これによってオペラの仕事を中断することになった[118]。同時期にルベールが重篤な病に冒されてしまった[注 22]。極端な不安の結果プーランクは神経に変調をきたし、1954年11月にパリ郊外のライ=レ=ローズにある医院に入院、安静となった[120]。回復した頃にはレイヴァリーとの間の文学的権利、ロイヤルティーの支払いに関する紛争には片が付いており、ベルナックと手広く行っている演奏旅行の合間に『カルメル会修道女の対話』の仕事を再開した。1920年代以降彼の個人資産は減少を続けており、リサイタルを開いて相当額の収入を得る必要があったのである[121]。
オペラの仕事を続ける間、他の仕事にはほとんど手を付けなかった。例外は2つのフランス歌曲と「6人組」時代からの旧友であるオーリック、ミヨーも加わった合作『マルグリット・ロンの名による変奏曲』(1954年)から「牧歌」である[122]。プーランクがオペラの最後のページを書いていた1955年10月、ルベールが47歳でこの世を去った。プーランクは友人に次のように書き送っている。「リュシアンは10日前に苦役から救い出されました。『カルメル会修道女』の最終稿が完成したのは愛しい人が最期に息をした、まさにその瞬間だったのです[82]。」
オペラの初演は1957年1月に、スカラ座においてイタリア語翻訳で行われた[106]。プーランクはこれからフランス初演までの間に、後期作品の中でも指折りの人気を誇る『フルートソナタ』を書き上げた。曲は6月のストラスブール音楽祭において、ジャン=ピエール・ランパルと作曲者自身の演奏で披露された[123]。『カルメル会修道女の対話』がパリのオペラ座で初演されたのは、その3日後の6月21日であった。初演は大成功となりプーランクは大いに安堵した[124]。作品に向けられた評は「ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ベルクの『ヴォツェック』に続く作品」という絶賛であった[125]。この頃にプーランクは退役軍人のルイ・ゴーティエとの最後の恋愛関係に落ちていく[126]。両名はプーランクが没するまでパートナーであり続けた[127]。プーランクが恋愛対象として好んだのは、中流以下のインテリではない男性だったのである[76]。
1958年、プーランクは旧知の友人であるコクトーと協力し、コクトーが1930年に著したモノドラマ『人間の声』のオペラ化の仕事に取り掛かった[注 24]。この作品は1959年2月6日にコクトーの演出でオペラ=コミック座で初演され[130]、デュヴァルが電話を通じて別れた恋人に話しかける見捨てられた悲劇の女性を演じた[129]。5月には公の場からの引退を表明したベルナックとの最後のコンサートが行われ、数か月後に迫ったプーランクの60回目の誕生日に花を添えた[124]。
プーランクは1960年と1961年にアメリカを訪問している。1960年の訪米はドゥニーズ・デュヴァルに帯同するもので、再び歓迎を受けた[113]。これらの演奏旅行の間にニューヨークのカーネギー・ホールでデュヴァルにより『人間の声』のアメリカ初演が行われ[129]、ボストンでシャルル・ミュンシュの指揮によりソプラノと4部の混声合唱、管弦楽のための大規模作品『グローリア』が世界初演された[131]。1961年には187ページに及ぶシャブリエに関する著作を出版する。この本は1980年代に評論家によって「彼は旋律が第1に重要であること、そしてユーモアが本質的に真剣であることといった事柄に関する見解を共有する作曲家について、愛と洞察をもって筆を走らせている」と評されている[132]。生涯独身であった彼の孤独な生活は、パリとトゥレーヌの邸宅で理想とする友人の訪問に中断されながら営まれていった[133]。最晩年の12か月間の間には合唱と管弦楽のための『テネブレの7つの応唱』、『クラリネットソナタ』、『オーボエソナタ』などの作品が生み出された[4]。
1963年1月30日、リュクサンブール公園に面した邸宅でプーランクは心臓発作を起こして生涯を終えた。コクトーの原作に基づく彼の4番目のオペラ『地獄の機械』の作曲に取り掛かったところだった。葬儀は近くのサン=シュルピス教会で執り行われた。彼の遺志に従い、本人の作品は演奏されなかった。代わりにマルセル・デュプレが教会の大オルガンでバッハの楽曲を演奏した[80]。亡骸は彼の家族とともにペール・ラシェーズ墓地で眠りについている[124][134]。
音楽観
[編集]1953年に行われたスイス・ロマンド・ラジオ放送のインタビューで、プーランクは自己の来歴や音楽観について語っている。その中で、若い頃に影響を受けた作曲家として、シャブリエ、サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーの4人を、音楽家のベスト5(無人島に持っていきたい音楽)として、モーツァルト、シューベルト、ショパン、ドビュッシー、ストラヴィンスキーを、生理的に受け付けない作曲家としてフォーレ、ルーセルの名を挙げている[135]。
プーランクはインタビューの中で「音楽でモーツァルトに勝るものはない[136]」と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。また、ストラヴィンスキーについては『春の祭典』ではなく、『プルチネルラ』、『妖精の接吻』、『カルタ遊び』などの「ヨーロッパ的」な作品に影響を受けたと語っている[137]。
プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃にシューベルトの歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった[125]。1910年の冬、楽譜屋で『冬の旅』の楽譜を見つけ「突然自分の人生の中で非常に深い何かが変化したことを発見した。」彼は繰り返し「菩提樹」、「烏」、「辻音楽師」を弾いたが「中でも『幻の太陽』には特に惹かれた」という[138]。
ピアノ以外の楽器については弦楽器よりも管楽器の音色を好んだため[139]、管弦楽曲では管楽器が重要な役割を演じることが多く、室内楽曲においても管楽器のための作品が多い。なお、プーランクはさまざまな楽器の組み合わせで室内楽曲を作曲しているが、その中に同一の組み合わせのものはない。
プーランクは生粋のパリっ子であり都会人であった。彼が作る曲は軽快、軽妙で趣味がよく[125]、ユーモアとアイロニーと知性があり「エスプリの作曲家」と言われるが[139]、敬虔なカトリック教徒であった両親の影響を受け、宗教曲や合唱曲も手掛けている。自身はこの分野について、「わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものをそこに注ぎ込んだつもりです。(略)わたしが何か新しいものをもたらしたとするならば、それはまさにこの分野の仕事ではないかと思います」と述べている[140]。
無調音楽が主流となった戦後も単純明快な作風の調性音楽を書き続けたプーランクであったが、一方でピエール・ブーレーズの主催する現代音楽アンサンブル「ドメーヌ・ミュジカル」の演奏会には常連として足繁く通うなど、前衛的な現代音楽にも理解を見せた。また、概ね1920年から1935年頃にフランスに滞在したロシアの作曲家プロコフィエフとは、ピアノやブリッジでの交流により親交が篤かった[141]。
楽曲
[編集]プーランクは旋律に対する生来の感覚、そのプロポーションやフレージングにおける全体性やしなやかさの感覚を持っていた[142]。
プーランクは調・旋法体系の優位を決して疑わなかった。ヴェルディ以降の主な作曲家の誰よりも多く減七和音をつかったとは言え、半音階性は彼の音楽にあっては束の間の現象に過ぎなかった。書法、和声、リズムの面でも、彼は特に創意に溢れていたわけではなかった。プーランクの音楽は本質的に全音階である。これはプーランクの音楽芸術の主たる特徴が彼のメロディの才能にあるからだ、というのがアンリ・エルの見解である[143]。『グローヴ事典』のロジャー・ニコルズの言によれば「プーランクには何にもまして重要な要素はメロディであって、彼は最新の音楽地図に基づいて調査、発掘、枯渇してしまったと思われた領域から、未発見の膨大な旋律の宝庫へたどり着く手段を見出したのだ[4]。」コメンテーターのジョージ・ケックは次のように書いている。「彼のメロディは簡素で、心地よく、容易に記憶でき、さらに実に多くの場合感情豊かである[144]。」
プーランクは自身の和声言語は独創的なものではないと述べていた。 1942年の手紙の中で「自分がストラヴィンスキーやドビュッシー、ラヴェルのような和声の革新をやった作曲家でないことは自分が誰よりもよく知っている。しかし、他人の和声を使うことを気にしない新しい音楽の余地はあると思う。モーツァルトやシューベルトもそうだったのではないか」と書いている[133]。作曲家のレノックス・バークリーは次のように記している。「生涯を通じ、彼は伝統的な和声を使うことで満足してしていた。しかしその使用法が非常に個性的かつ、またただちに彼のものであると了解し得るものとなっており、これによって彼の音楽には新鮮さと妥当性が生まれている[145]。」ケックはプーランクの和声言語をこう考えていた。「彼の書く旋律同様に美しく、興味深く、彼らしい(中略)明晰で簡素な和声がはっきりと確立された調性の中で半音階的に動くわけであるが、それは経過に過ぎないことがほとんどである[144]。」プーランクは音楽理論を学ぶ機会に恵まれなかった。数多くあるラジオでのインタビューのある一幕で、彼は「理論、教義、規則に従う作曲を終わりにしよう!」と呼び掛けている[146]。彼はルネ・レイボヴィッツが先導した、彼が思うところの当時の十二音技法信奉者の独断的態度に否定的であり[147]、かつては高い期待をかけていたオリヴィエ・メシアンの音楽が理論的アプローチの導入に影響を受けてしまったことを大いに嘆いていた[注 25]。エルにとっては、プーランクの音楽の大多数が「人間の声の純粋に旋律的な連想から直接的または間接的に霊感を受けている」という[150]。プーランクは骨を惜しまぬ職人であったが、彼にとって音楽は容易く生み出せるものであるという「容易さ伝説」(la légende de facilité)が生まれていた。本人はこのことについて以下のように述べている。「その作り話は許してもよい、なぜなら私は努力を見せないためにあらゆることをしているのだから[151]。」
小沼純一によればプーランクの楽曲には次のような特徴「4小節や8小節よりさらに短い2小節がしばしば使われる旋律の単位、通常の長さより一拍か二拍ほど旋律線を短く刈り込んでしまう展開、七や九の和音への偏愛。故意に二度や七度をそのまま使って、不協和音を目立たせるスタイル。分裂症と呼べそうな急激な気分の転換。クライマックスのままエンディングに至らないカタルシスの回避。安定しているのに、しばし宙吊りの緊張が作られるコーダ。作品の短さと簡潔さなど」が見られるという[152]。
ピアニストのパスカル・ロジェは1999年に、プーランクのどちらの面の音楽的本質も等しく重要だとコメントしている。「彼の全部を受け止めねばならない。もし真面目な面かそうでない面、いずれかを取り去ってしまえば彼を損なってしまうことになる。片方の面を消して得られるものは、彼の真の姿を薄く映した複製写真に過ぎない[153]。」プーランクもこの二項対立を認識していたが[153]、彼は自分の全作品で「健康、明晰、剛健 - ストラヴィンスキーがスラブ風であるのと同じく、端的にフランス風な音楽」にしたいと望んでいたのであった[154][注 26]。
管弦楽曲、協奏曲
[編集]プーランクが大オーケストラを駆使した主要作品は2つのバレエ、『シンフォニエッタ』、4つの鍵盤楽器のための協奏曲である。バレエの1作目である『牝鹿』は1924年に初演され、彼の作品中でも有数の知名度を保っている。『グローヴ事典』のニコルズは、澄みわたり旋律豊かな音楽は深い象徴性も、また浅い象徴性さえも持たず、「ワーグナー風味にした金管の小さなパッセージで強調され、感情に訴えるような短9度で終わっている」という事実だけである、と書いている[4]。4曲ある協奏曲のうち最初の2作品は気楽な作品の流れに位置している。クラヴサンと管弦楽のための『田園のコンセール』はパリに住む人間から見た田舎の風景を想起させる。終楽章にあるファンファーレによってパリ郊外のヴァンセンヌの兵舎で吹かれるビューグルが心に浮かんでくる、とニコルズは評している[4]。『2台のピアノのための協奏曲』は同様に、純粋に娯楽として書かれた作品である。ここでは様々な様式が用いられている。第1楽章はバリのガムランを彷彿をさせるような形で終了しており、緩徐楽章はモーツァルト風に開始させ、それをプーランクは徐々に彼独自の風合いで満たしていく[155]。『オルガン協奏曲』でははるかに真剣味が高まっている。プーランクはこの作品が自身の宗教音楽の「周辺地区にある」と述べている。一部のパッセージはバッハの教会音楽から引用されており、一方では陽気なポピュラー音楽風の間奏曲も入っている。2つ目のバレエ音楽である『典型的動物』はいまだ『牝鹿』の人気に並べていないが、オーリックとオネゲルの両名はいずれも和声の趣味の良さと工夫に飛んだ管弦楽法を賞賛している[156]。オネゲルは次のように書いている。「彼に影響を与えたシャブリエ、サティ、ストラヴィンスキーはもはや完全に同化されている。彼の音楽を聴けば思うだろう - これはプーランクだと[157]。」『シンフォニエッタ』は戦前期の軽薄さへの逆戻りである。彼はこう思うようになったという。「私は年甲斐もなく若作りをしすぎてしまった(中略)(本作は])『牝鹿』の新版であるが、若い娘たち(牝鹿のこと)は48歳である - これはひどい[82]!」『ピアノ協奏曲』は当初失望を与えることもあった。多くの人はこの曲がプーランクが広めるようになっていた、戦前期の音楽からの進歩とは言えないと感じたのである。この作品は時代が下って再評価を受けるようになってきており、1996年に作家のクレア・ドゥラマルシェ(Claire Delamarche)はプーランクの最良の協奏的作品に位置付けている[158]。
ピアノ曲
[編集]非常に腕の立つピアニストだったプーランクは日頃ピアノに向かって作曲し、キャリアを通じて多くのピアノのための作品を書いた。ビニェスからはサステイン・ペダルの精妙な使用による明快で、しかも色彩的なピアノ奏法を学び、自身のピアノ音楽にあってもペダルの頻繁な使用に固執した。このような様式は彼の初期の作品において『4手のためのピアノソナタ』(1918年)での和らげられたオスティナートの多用や『3つの無窮動』(1919年)でのアルベルティ・バス風の音型のようにしばしば法外なまでの通俗音楽性を具現化することにもなる。
アンリ・エルの見立てによれば、プーランクのピアノ書法は打楽器的なものと、より穏やかなクラヴサンを思わせるものに大別できるという。エルはプーランク自身の思い通り、プーランク最高のピアノ音楽は歌曲の伴奏の中にあると考えている[4][159]。作家のキース・W.・ダニエルの考えるところでは、ピアノ作品の大多数は「『小品』と呼ばれるようなもの」である[160]。作曲者自身は1950年代に自身のピアノ作品を批判的に振り返り、次のように述べている。「『無窮動』と『ハ長調の組曲』、『3つの小品』は許容可能である。2集の即興曲、変イ長調の間奏曲、一部の夜想曲のことは非常に好んでいる。『ナポリ』と『ナゼルの夜会』は猶予なく非難する[161]。」
プーランク自身がお墨付きを与えた『15の即興曲』は、1932年から1959年の間で折々に書かれていった[注 27]。全曲が簡素にできており、最長の作品も3分をわずかに超えるのみである。形式は多様で、素早くバレエ風なものから、繊細な抒情性をもつもの、古風な行進曲、無窮動、ワルツ、そして強く心に迫る歌手のエディット・ピアフの音楽による肖像に及ぶ[162]。曲の被献呈者はマルグリット・ロンからエディット・ピアフまで幅広い。プーランクのお気に入りの間奏曲は3曲あるうちの最後の作品である。1番と2番は1934年8月に作曲され、変イ長調が1943年3月に続いた。コメンテーターのマリーナとヴィクトル・ルダン(Marina, Victor Ledin)はこの作品についてこう表現している。「『魅力的』という言葉の具現化である。音楽は単純にページを進むかのように見えて、続いて現れる音は非常に誠実で自然な方法に則り、雄弁さと紛れもないフランスらしさを備えている[163]。」8曲の『夜想曲』はおよそ10年間にわたって書かれていった(1929年-1938年)。プーランクがそれらを当初からひとまとまりの組として構想していたかどうかにかかわらず、彼は第8番を「曲集のコーダとなるもの」(Pour servir de Coda au Cycle)と題した。分類名こそフィールド、ショパン、フォーレと共通の名前を付されているが、プーランクの楽曲は先立つ作曲家の作品には似ておらず、空想的な音詩というよりも「人前や私的な出来事の夜の情景であり音像」となっている[163]。
プーランクが許容しにくいと評したのは全て初期の作品である。『3つの無窮動』は1919年、ハ長調の組曲は1920年、3つの小品は1928年の楽曲である。これら全部が短い曲から構成されており、1番長い3つの小品の第2曲「賛歌」でも演奏時間は約4分である[162]。作曲者自身によって非難の槍玉に挙げられた2作品のうち、『ナポリ』(1925年)は3楽章から成るイタリアの素描である。もう片方の『ナゼルの夜会』について作曲家のジェフリー・ブッシュは「フランスでエルガーの『エニグマ変奏曲』の相当するもの」、すなわち友人たちの性格のミニチュアスケッチであると評した。プーランクは嘲ってみせたが、ブッシュはこの作品が独創的かつ機知に富んでいると判じた[164]。プーランク自身には褒められも貶されもしなかったピアノ曲としては、よく知られる楽曲として2つの『ノヴェレッテ』(1927年-1928年)、子供のための6つの小曲集『村人たち』(1933年)、7曲から成るピアノ版の『フランス組曲』(1935年)、2台のピアノのための『シテール島への船出』(1953年)などがある[165]。
アルトゥール・ルービンシュタインのために書かれた『散歩』(1921年)では四度や七度に基づく硬い響きの和声語法が現れ、書法は他のどのピアノ曲よりも分厚くなっている。彼のピアノ曲の大部分は自己の芸術の素材を再検討した1930年代の初め以降に書かれている[133]。
室内楽曲
[編集]ニコルズは『グローヴ事典』で室内楽曲を明瞭に分けられる3つの時期に分類している。最初の4つのソナタは初期にあたり、全てがプーランクが22歳になるまでの間に書かれている。『2つのクラリネット』(1918年)、『4手ピアノ』(1918年)、『クラリネットとファゴット』(1922年)、そして『ホルン、トランペットとトロンボーン』(1922年)である[166]。ここにはプーランクの受けた多種多様な影響が早くから示されており、ロココの「ディヴェルティスマン」(ディヴェルティメント)の模倣や型破りな和声、幾ばくかジャズの影響もみられる。4曲とも簡潔さ - 各々10分未満である - いたずら好きな性格、ウィットが特徴となっており、ニコルズはこれらを酸味であると表現した。この時期の室内楽作品には他に1917年の『黒人の狂詩曲』(器楽が主で、一部に声楽が入る)、『ピアノ、オーボエとファゴットのための三重奏曲』(1926年)などがある[4]。
中期室内楽曲は1930年代、1940年代に作曲された。最も有名なピアノと木管楽器のための六重奏曲(1932年)は気楽路線の作品であり、活発な両端楽章とその間の「ディヴェルティスマン」から構成される。プーランクはこの作品を含む室内楽曲数曲に不満を覚え、初演から数年経って大幅な改訂を施している(この楽曲の場合は1939年-1940年)[167][注 28]。他の改訂作品は『ヴァイオリンソナタ』(1942年-1943年)と『チェロソナタ』(1948年)である。弦楽器へ曲を書くことはプーランクにとって容易ではなく、これらのソナタの完成までには2度の失敗があり[注 29]、1947年には弦楽四重奏曲の草稿が破棄されている[注 30]。両ソナタは性格的に重々しさが優位であり、ヴァイオリンソナタの方はフェデリコ・ガルシーア・ロルカの想い出へと捧げられている[4]。エル、シュミット、そしてプーランク自身も含めた評論家たちは、この作品が管楽器のソナタよりも効果の面で劣る、そして同じことがチェロソナタにも一定程度あてはまると看做していた[170]。ピアノと18の楽器のための『オーバード、舞踊協奏曲』(1930年)はほとんど管弦楽のような効果を実現するものの、奏者の数はさほど多くない[注 31]。この時期のその他の室内楽曲には、プーランクの作品中でも最も肩の凝らない2作品『フランス組曲』(1935年)、『3つの無窮動』(1946年)の小アンサンブルへの編曲がある[172]。
最後の3つのソナタは木管楽器とピアノのための楽曲、『フルート』(1956年-1957年)、『クラリネット』(1962年)、『オーボエ』(1962年)のためのソナタである。『グローヴ事典』によれば、これらの楽曲は「その技術的専門性と深い美しさ」によりレパートリーとして定着しているという。ホルンとピアノのためのエレジー(1957年)はホルン奏者のデニス・ブレインの想い出に書かれている[4]。この作品はプーランクが十二音技法を試した数少ない用例で、12の音から成る音列が簡潔に用いられている[173]。
歌曲
[編集]プーランクはキャリアを通じて歌曲を作曲し、このジャンルの作品数は膨大なものである[注 32]。ジョンソンの見立てでは、ほとんどの傑作は1930年代、1940年代に書かれているという[175]。性格的には様でありながらも、歌曲にはプーランクの詩人の好みが色濃く出ている。彼はキャリア開始当初からギヨーム・アポリネールの韻文を好んでおり、1930年代中盤からはポール・エリュアールの作品に曲を付けることが最も多くなった。他に頻繁に作品を選択した詩人にはジャン・コクトー、マックス・ジャコブ、ルイーズ・ド・ヴィルモランがいた[176]。音楽評論家のアンドリュー・クレメンツは、エリュアールの詩による歌曲にプーランクの最高級の傑作が数多く含まれると考えている[177]。
アポリネールの『動物詩集』からの6つの詩に作曲した『動物詩集』(1918-1919年)は二十歳の若者にしては極めて個性的で力量ある成果であり、短くて捉えどころのない詩の雰囲気が、しばしば言葉の変則的な配置という単純だが、驚くべき手段で捉えられている。1935年にはベルナックと『ポール・エリュアールの5つの詩』を作曲した。プーランクは思春期からエリュアールの詩に魅せられてきた。彼は「そこには私の理解できない静けさ」があったと言う。『5つの詩』で鍵が錠前の中できしみ、1936年の『ある日ある夜』で扉が開いたのである。これはフォーレの『優しい歌』に比肩し得る作品である。ここにはプーランクの他の歌曲の幾つかに見られる筆致、即ち『ホテル』での感傷性や『村人の歌』に見られる世俗性はないが、他の点では非常に個性的である。ひとつの歌の中で速度が変わる場合、プーランクはサティの先例に倣って、それを〈発展的〉というよりも〈連続的〉な設定にしている[133]。
ピアノと声はしばしば互いに異なった強弱法で進むが、これは彼以前にはあまり探求されることのなかった歌曲の作曲法の局面である。伴奏の書法は決して複雑ではないが、単に〈ペダルの頻繁な使用〉が必要とされる。これ以降、プーランクの歌曲作曲技法はほとんど変化を見せず、むしろ方法の絶えざる精錬へと向かう。いかにより少ない手段で多くを語るかという試みであり、彼が賛嘆して止まなかった画家アンリ・マティスの純粋な描線の追求でもある。この傾向は彼の歌曲の中でも最も〈入念に書かれた〉『冷気と火(FP147)』(1950年)で頂点に達する。エリュアールの詩への最後の作品は『画家の仕事』(1956年)である。『モンテカルロの女』はプーランクの声楽作品の最後の重要なもので、コクトーの詩につけたこの曲は『人間の声』と同様に憂鬱な心の状態の激しい恐怖をプーランクが完全に理解していたことを示している[133]。
プーランクの歌曲は概して短い部分からなり、多くは2小節か4小節の楽節構成になっている。彼の技法は彼が採り上げたシュルレアリスム派の詩人と共通するところが多く、個々の要素を各々が共鳴し合うように置くことを重視した。-中略-プーランクの歌曲においては、その一息ごとに歌が溢れ出てくる。音楽の豪奢な享楽家というプーランクにまつわる伝説はこの周到を極めた職人への最高度の賛辞である[133]。
『ラルース世界音楽事典』では「ポール・エリュアール、ギヨーム・アポリネール、ルイーズ・ド・ヴィルモランの詩による歌曲は彼の全創作期間を通じてほぼ規則的に書かれており、識者からは集中力と韻律法の質の高さ、ゆえに評価を受けているのであるが、玄人受けにとどまっている感がある。オーケストラ作品、劇場作品は良く演奏されるが、ピアノ曲、歌曲は評判が良いのにもかかわらず、埋もれているのは事実である」と評価している[142]。
デニス・スティーヴンスは「プーランクの歌曲は40年以上に亘り、彼が選んだ歌詞のごとく、スタイルにおいても質においても変化に富んでいる。-中略-彼が伝統的な美しい音楽を書く能力があるということは偉大なフランスの詩人エリュアールの超現実主義の詩につけた『ある日ある夜』(1937年)によって良く証明されている。恐らくこれは彼の最も優れた歌曲集であろう。また、プーランクが20歳の時の歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』において、見事な洗練された精巧さで書いていたことでも分かる」と評している[178]。
難解であるアポリネール以降の現代詩を扱うプーランクの手腕は「こうした詩はしばしばかなり難解だが、プーランクによる音楽への移し替えは常に詩をくっきりと明確にする」のである。実際、文字として、言葉として与えられた詩を実際どのように読むか、解釈するかはしばしば易しいことではない。そうしたものをプーランクは明瞭に意味の方向性を示す[179]。例えば、エリュアールの詩において、テクストだけでは実は分かりにくいストーリー的なもの、感触と言うものをプーランクの音楽は忠実に詩の一つの読み方として提示する。一種の翻訳になっている。同時に、たとえ詩の意味が分からなくても、音楽の調子によって、伝わってしまうこともある。エリュアールの詩においては平易さがあり、一つ一つは分かり易いのに、逆に分かり易いがために、様々なイメージが喚起されるのだが、それを一つの流れとして、分節化して意味を音楽的に立ち昇らせる。これがプーランクのアプローチなのである[180]。ベルナックは「歌曲作曲家としてのプーランクの奇跡は、まさに彼が誤読をしなかったことだ」と断言している[179]。
末吉保雄は「プーランクにとって文学や美術の世界は音楽の外にあるものではなく、エリュアールの詩もローランサンも、言わばそれらは生きた〈風土〉そのものであった。25年に亘るベルナックとの演奏活動が歌曲を容易に日常的な場にさせたことは否めない。-中略-彼がこの場で選んだ詩と詩人[注 33]を見れば、その言葉は彼が共に生きた、この風土を語っていて、その言葉を共有していた。プーランクは自分の音楽がこの人々と共に彼らの日々の感情や夢、あるいは憂鬱や不安を歌い、祈る、それ以外の意味を持つとは思ってもみなかった。プーランクがその最良の資質を声楽曲に開花させた背景は以上の通りである。歌曲が日々の場であれば、内心の祈りは合唱曲に、そして、その総合は歌劇に形を成した。他の分野、室内楽やピアノ曲も、それは人声と詩を省かれた声楽、あるいは声楽の器楽への移入と見ることもできる」と述べている[181]。
音楽学者のイヴォンヌ・グーヴェルネは1973年の歌曲総説の中でこう述べている。「プーランクを得て、旋律線はテクストに上手く符合してある面ではテクストを補完するかのように思われる。これは与えられた詩句の音楽がまさに神髄を射抜くという音楽の持つ能力によるものである。プーランクは言葉の色彩を際立たせ、誰よりも巧みにフレーズを生み出した[182]。」軽い作品のうちでよく知られている作品のひとつが、ジャン・アヌイが1940年にパリ風のワルツとして書いた戯曲を用いて作曲した『愛の小径』である[183]。対照的にモノローグ『モンテ・カルロの女』(1961年)は賭博中毒の年配の女性を描いており、鬱の恐怖に対する作曲者のつらい理解をうつし出している[184]。
クレメンツはエリュアール歌曲に「プーランクの以前の管弦楽曲、器楽曲にあった不安定さ、軽薄な外面性からは離れた地平にある」深遠さを見出している[177]。『ルイ・アラゴンの2つの詩』(1943年)の第1曲は単に「C」という題名となっており、ジョンソンはこれを次のように評している。「世界的に知られた傑作である。かつて戦禍を歌った曲として最も類稀であり、そしておそらく最も感動的である[185]。」
合唱曲
[編集]プーランクは4曲のオーケストラを伴った合唱曲と13曲の無伴奏の合唱曲を書いており、ピアノ伴奏の合唱曲はない[186]。彼の合唱曲は宗教曲が中心で、世俗的なものは『酒飲み歌 』(1922年)、『7つの歌』(1936年)、『小さな声』(1936年)、『枯渇 』(1937年)、『人間の顔 』(1943年)、『ある雪の夕暮れ』(1944年)、『8つのフランスの歌』(1945年)となっている[179]。初期に書かれた無伴奏合唱のための『酒飲み歌』を除くと、プーランクが合唱音楽を書き始めたのは1936年だった。この年に書かれたのは3つの合唱作品、『7つの歌』(エリュアールほかの詩による)、『小さな声』(児童合唱のための)、そして女声または児童合唱とオルガンのための宗教作品『黒い聖母像への連禱』である[187]。
無伴奏合唱のための『ミサ曲 ト長調』(1937年)についてグーヴェルネは、バロックの様式によるものを有しており、その「活気と喜ばしく騒ぎ立てる様には彼の信仰心がはっきりと示されている」と評している[182]。プーランクが見出した新たな宗教的テーマは『悔悟節のための4つのモテット』(1938年-1939年)へ引き継がれるが、合唱作品でも重要性の高いのが世俗カンタータ『人間の顔』(1943年)である。この作品はミサ曲同様に無伴奏であり、エリュアールの詩に複雑な作曲が施されている。プーランクは祈りの雰囲気を醸し出すために合唱の純粋な響きを求めており、演奏を成功させるためには高い技量を有する歌い手が必要である[4]。他のア・カペラの作品としては『クリスマスの4つのモテット』(1952年)があり、この作品では厳しいリズムと音調の正確性が合唱に要求される[188]。
管弦楽伴奏つきの合唱作品として重要なものには『スターバト・マーテル』(1950年)、『グローリア』(1959年-1960年)、『テネブレの7つの応唱』(1961年-1962年)がある。これらの楽曲は全て教式文を基にしており、元来グレゴリオ聖歌に作曲されたものである[80]。『グローリア』において、プーランクの信仰心は祈りの静けさと神秘的な心情を間に挟みつつ、溢れんばかりに喜ばしく表出されており、最後は穏やかな静寂で締めくくられる[80]。そこでは「栄光、神にあれ」というアクセントの置き方に見られるように、故意に信仰のなさそうな合唱の書法を採りながら、その一方で、オスティナート、舞い上がるようなソプラノ、比類ない旋律がティペットの言葉通り「豊かなるものに参加する契約で結ばれた」信心深い人であることを示している[133]。プーランクは1962年にベルナックへこう書き送っている。「テネブレを書き終えたところです。美しいと思っています。グロリアとスターバト・マーテルを加え、3つの上出来な宗教作品に恵まれました。もし私が辛くも地獄行きを免れるのなら、これらが私の煉獄での時間を数日でも減らしてくれんことを[80]。」プーランク自身が実演を聴くことのできなかった『テネブレの7つの応唱』は大編成の管弦楽を用いているが、ニコルズはこの作品が新たな思考の集中を示していると考えている[4]。評論家のラルフ・シボドーにとってはこの作品は作曲者のレクイエムかもしれないと思われ、「彼の宗教作品の中では最も前衛的で、最も感情的に求められるものが高く、音楽的には最も興味深く、彼の宗教的最高傑作(magnum opus sacrum)である『カルメル会修道女の対話』に唯一比肩し得る作品である[80]。」アンリ・エルによれば「プーランクが書いた合唱音楽は非常に模範的で、豊かで、味わい深いものだった」のである[189]。
オペラ
[編集]プーランクはキャリアの折り返しを迎えてからオペラと向きうことになった。20代前半から名声を獲得してきた彼が、最初のオペラへの挑戦した時には40代になっていた。彼自身はこのことを、自ら選択した題材に取り組むまでに成熟する必要があったからだと説明している。1958年にはインタビューで次のように答えている。「24歳時点で『牝鹿』は書くことが出来たが、モーツァルトの天才性やシューベルトの早熟さを持たない限り30歳の作曲家は『カルメル会修道女』を書くことはできなかった - 問題はあまりに深いものだったのだ[43]。」プーランクの3作あるオペラは、いずれも「1920年代の冷笑的意匠家」からは遠く離れた心理的深みを示している、というのがサムズの見解である。『ティレジアスの乳房』(1947年)は奔放な筋書きにもかかわらず、懐旧の念と喪失の感覚に満ちている。他の2作『カルメル会修道女の対話』(1957年)と『人間の声』(1959年)では真剣さが明らかで、プーランクは深い人間の苦しみを描写する。サムズはそこに、作曲者自身の抑鬱によるもがきが反映されていると考えている[4]。
オペラからは、プーランクが音楽的技術の面で純朴で不確かな駆け出しの頃からいかに歩みを進めてきたのかが示される。後に撤回されたコメディ・ブッフ『理解されない憲兵』からほとんど四半世紀後に、機知とシュルレアリスム風の風刺が効いた『ティレジアスの乳房』が書かれた。ニコルズは『グローヴの事典』で『ティレジアスの乳房』が「抒情的な独唱、早口な二重唱、コラール、テノールやベースの赤子によるファルセットの旋律線」を配備しており、「可笑しさと美しさの両面での成功を収めている」としている[4]。
『カルメル会修道女の対話』は全く異なった種類の作品であり、単純な抒情的スタイルで書かれた宗教作品である[190]。このオペラはジョルジュ・ベルナノスによる稀に見る優れたリブレットにとりわけ効果的に作曲したものである[191]。プーランクは3作のオペラの全てで過去の作曲家を参考にしているが、その影響は疑いのない彼自身の音楽に融合されている。『カルメル会修道女の対話』の出版譜において、彼はムソルグスキー、モンテヴェルディ、ドビュッシー、ヴェルディに負うものがあると謝意を表明している[192]。評論家のルノー・マシャールは『カルメル会修道女』がブリテンの『ピーター・グライムズ』と並び、世界中で上演されている第二次大戦後に書かれたものとしては実に稀有なオペラであると記している[193]。なお、このオペラの原作『断頭台下の最後の女』にはアメリカの劇作家エメット・ラヴェリーによる英語による舞台劇脚本が存在し、この小説を基にしたすべての上演権を握っていた。最終的に問題は決着したが[注 34]、この権利を巡る交渉がプーランクには大きな精神的負担となった[126]。
たとえ大編成の管弦楽のために作曲を行っていようとも、プーランクはオペラでは威力を最大から絞って用いており、木管のみ、金管のみ、弦楽のみで書かれた部分がしばしば登場する。ベルナックの貴重な助言により、彼は人の声の利用に高い技術を発揮し、音楽を各登場人物のテッシトゥーラに一致させている[192]。最後のオペラである『人間の声』の頃には、プーランクはオーケストラの伴奏が全くなくてもソプラノにフレーズを割り振れると感じるようになっていた。一方、オーケストラが演奏するときには、音楽が「官能性に浸る」ようになることを求めたのであった[194]。この作品はソプラノのドゥニーズ・デュヴァルのために書かれた45分のモノローグである。皮肉にも抒情悲劇と題されたこの作品は、劇的には十分成功しているとは言い難いが、声のための偉業である[190]。
これらの3作品は三者三様ではあるが、女性に関わる問題を扱っているという共通点がある。『カルメル派修道女の対話』では女性と宗教、制度の問題、『ティレジアスの乳房』では出産について問い掛けられており、『人間の声』では恋とその破綻、電話と言う新しいメディアが女性を通して浮き彫りにされている[195]。
録音
[編集]プーランクは1920年代に音楽の普及に蓄音機が果たす役割の重要性を認識していた作曲家のひとりであった[4]。彼の作品の最初の録音は1928年にメゾソプラノのクレール・クロワザが作曲者自身のピアノ伴奏によりフランスのコロムビアへ行ったもので、曲は歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』全曲であった[196]。彼はEMIのフランス支社を中心に夥しい数の録音を遺した。ベルナック、デュヴァルとは自作に加えてシャブリエ、ドビュッシー、グノー、ラヴェルの歌曲を録音している[197]。『小象ババールの物語』の録音では自らピアノを担当し、俳優のピエール・フレネーとノエル・カワードが語りを担当した[198]。EMIは2005年に『Francis Poulenc & Friends』と題したDVDを発売しており、そこにはプーランクがデュヴァル、ジャン=ピエール・ランパル、ジャック・フェヴリエ、ジョルジュ・プレートルと共に自作自演を行う姿を記録した映像が収められている[199]。
1984年に集計されたプーランク作品の録音一覧には1300人以上の指揮者、同奏者、アンサンブルが名を連ねている。指揮者としてはレナード・バーンスタイン、シャルル・デュトワ、ダリウス・ミヨー、シャルル・ミュンシュ、ユージン・オーマンディ、プレートル、アンドレ・プレヴィン、レオポルト・ストコフスキーらが挙げられている。歌手としてはベルナック、デュヴァルに加え、レジーヌ・クレスパン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ニコライ・ゲッダ、ピーター・ピアーズ、イヴォンヌ・プランタン、ジェラール・スゼーらがいる。器楽奏者として紹介されているのはブリテン、フェヴリエ、エミール・ギレリス、ユーディ・メニューイン、アルトゥール・ルービンシュタインなどである[200]。
プーランクのピアノ作品の全曲録音は、彼の唯一のピアノの弟子だったガブリエル・タッキーノ(EMI)をはじめ、パスカル・ロジェ(デッカ)、ポール・クロスリー(CBS)、エリック・パーキン(シャンドス)、エリック・ル・サージュ(RCA)、オリヴィエ・カザール(Naxos)によるものがある[201][202]。室内楽作品の全集録音はナッシュ・アンサンブル(Hyperion)、エリック・ル・サージュとフランスの独奏者たち(RCA)、様々なフランスの若手音楽家(Naxos)によって行われている[153][203]。
『カルメル会修道女の対話』の世界初演は録音されており、CDで刊行された。フランス初演のすぐ後に最初のスタジオ録音が行われ、以降少なくとも10種類のライブ、スタジオ録音がCDまたはDVDで行われている。大半はフランス語だが、ドイツ語のものが1種、英語のものも1種存在する[204]。
プーランクの歌曲の歌手には女性ではマリア・フロイント、ジャーヌ・バトリ、クレール・クロワザ、シュザンヌ・ペイニョ、ドゥニーズ・デュヴァル、男性ではピエール・ベルナック、ドダ・コンラッドを挙げることができる[205]。録音実績などからフェリシティ・ロットの貢献は見逃せない[注 35]。また、日本では村田健司が録音、歌唱、指導などに幅広く活躍している[206]。
レーベル | 歌手 | ピアノ伴奏者ほか | 録音年(発売年) 備考 EAN番号 |
---|---|---|---|
Decca | フェリシティ・ロット カトリーヌ・デュボスク フランソワ・ル・ルー ジル・カシュマイユ ウルスラ・クリーガーほか |
パスカル・ロジェ | 1992年-1998年 EAN:0028947590859 |
EMI | エリー・アメリンク マディ・メスプレ ジョゼ・ヴァン・ダム ニコライ・ゲッダ ジェラール・スゼー フランソワ・ル・ルーほか |
ジャン=フィリップ・コラール ダルトン・ボールドウィン ガブリエル・タッキーノ ジャック・フェヴリエほか |
1999年発売 プーランク誕生100周年 管弦楽及び室内楽伴奏含む EAN:4988006761438 |
マイスターミュージック | 村田健司 | 上原ひろ子 | 1999年度文化庁芸術祭参加作品 プーランク生誕100年記念 101曲収録 EAN:4944099105856 |
Hyperion | フェリシティ・ロット アイリッシュ・タイナン サラ=ジェーン・ブランドン イヴァン・ラドロウ アニエシュカ・アダムチャク スーザン・ビックリー ロビン・トリッチュラー ニール・デイヴィス ジェラルディン・マクグリーヴィ ピエール・ベルナック(ナレーション)ほか |
グレアム・ジョンソン | 2008年-2012年 EAN:0034571280219 |
ATMA Classique | パスカル・ボーダン ジュリー・フックス エレーヌ・ギルメット マルク・ブーシェ フランソワ・ル・ルー ジュリー・ブリアンヌほか |
オリヴィエ・ゴダン | 2012年-2013年 プーランク没後50年記念 未発表曲を含む170曲を収録 EAN:0722056268820 |
評価
[編集]『音楽大事典』によれば「プーランクは単純さや明確さを重んじたサティやストラヴィンスキーらの影響の下にドイツ・ロマン派の重圧やクロマティズムから開放された真のフランス的伝統に立脚した音楽の創造を目指した。彼の音楽には洗練された感性と軽妙なユーモアに溢れ、瑞々しい詩的情緒がみなぎる作品に結実している。さらに、1936年以降の作品には宗教的感情や崇高さが加わり、深い独自の境地が窺える。母方の演劇愛好家の伯父の影響で、早くから舞台芸術に親しんだ」のだという[207]。
プーランクの音楽が持つ気質の2つの側面は、彼の生前、そして現在も誤解を生み続けている。作曲家のネッド・ローレムが述べるように「彼は深い敬虔さを持ち、制御不能なほど官能的だった」のであり[208]、これが故に一部の評論家による彼の真面目さを過小評価に繋がっている[153]。しかし、第二次世界大戦以降、語法上の複雑さが欠けているのは、決して感受性や技術の欠如を示すものではないと言うことが次第に理解されるようになってきた。また、フランスの宗教音楽の分野ではメシアンと最高位を争う一方、フランス歌曲に関してはフォーレの死後、最も傑出した人物であるということも、明らかになってきた[209]。
ロジャー・ニコルズは「プーランクはシューベルトそのものではないにしても20世紀における後継者として最も相応しい人物であろう」と評している[133]。『西洋音楽史』のグラウトも「プーランクは歌曲の作曲家として高く評価されている」との見解を示し[191]、プーランク本人も「『アポリネールとエリュアールの詩に音楽をつけた』そう墓碑銘に記されたなら、それが最大の名誉だ」と語っている[210]。
音楽の新たな進歩に大きな影響こそ受けはしなかったものの、彼は常に若い世代の作曲家の作品に鋭い関心を向けていたのである。レノックス・バークリーは次のように回想している。「一部の芸術家とは異なり、彼は他人の作品に純粋な興味を持っており、自身のものからは遠く隔たった音楽にも驚くほど高い見識を有していた。彼はブーレーズの『ル・マルトー・サン・メートル』が今日よりも遥かに無名であった頃から既にこの作品に親しんでおり、私に録音を再生して聴かせてくれたことを思い出す[145]。」ブーレーズの側は同じような見方をしておらず、2010年にこう述べていた。「知性の面で安易な道を選択する人々は必ずいるものだ。プーランクは『祭典』(春の祭典)の後から出てきた。それは前進ではなかった[211]。」彼の作品に長所を多く見出す作曲家もいた。ストラヴィンスキーが1931年にプーランクへしたためたのは次のような言葉である。「貴方は本当に素晴らしい、そしてそれを貴方の音楽に何度も気づかされます[212]。」
プーランクは晩年にこう述べた。「もし人々が50年後にも私の音楽にいまだ関心を寄せてくれているのであれば、それは『3つの無窮動』にではなく『スターバト・マーテル』に対してだろう。」『タイムズ』紙のジェラルド・ラーナーはプーランク生誕100周年に寄せて、彼の予言は誤りだった、1999年現在もその音楽的気質の両面により彼が広く称賛されているとコメントしている。「熱心なカトリック教徒と腕白小僧の両方、グローリアと牝鹿の両方、カルメル会修道女の対話とティレジアスの乳房の両方である[153]。」同時期に作家のジェシカ・ダッチェンはプーランクを次のように表現した。「音を立て泡を吹きだすガリア人の力の塊が、あっという間に笑いと涙へといざなってくれる。彼の言語はどの世代にも明瞭に、直接的に、情け深く語られる[213]。」
『ラルース世界音楽事典』は「プーランクは20世紀前半における最も偉大なフランスの作曲家の一人と今日考えられている」と評している[142]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1950年7月26日の『パリ=プレス紙』において評論家のクロード・ロスタンが『ピアノ協奏曲 嬰ハ短調』を論評した際に使った表現[1]。
- ^ "...y a en lui du moine et du voyou."[5]"Voyou"には英語の定訳がなく、"naughty boy"[6]をはじめとして(本項ではこの訳語に従い「腕白小僧」とした)、"ragamuffin or street-urchin"[7]、"guttersnipe"[8]、"bad boy"[9]、 "bounder"[10]、 "hooligan"[11]、そして"rascal"[12]など、様々な語が当てられている。なお、プチ・ロワイヤル仏和辞典第3版では「非行少年、不良」などと訳されている[13]。
- ^ ジェニー・プーランクの好みはモーツァルト、シューマン、ショパンから、アントン・ルビンシテインのような作曲家が書いた感傷的なポピュラー作品にまで及んでいた[14]。プーランクはオペラ『カルメル会修道女の対話』(1956年)を「私へ音楽を明らかにしてみせてくれた、我が母の想い出に」捧げている[15]。
- ^ 大変な読書家でプーランクを文学的な面で大きく感化した[18]。
- ^ 蔵書の貸し出しも行っており、文学サロンとしても機能していた[19]。
- ^ 3つの作品とは『3つの無窮動』、『3つのパストラル』、ピアノのための組曲である[25]。
- ^ この時の演奏会の曲目にはタイユフェール、オーリック、デュレ、オネゲル、ミヨーの作品が並んでおり、プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている[30]。
- ^ プーランク研究者のカール・B・シュミットは『黒人の狂詩曲』に先立つ作品として2つの楽曲を挙げている。いずれも演奏されないまま作曲者自身によって破棄されたピアノ独奏曲の『Processional pour la crémation d'un mandarin』(訳例:中国官吏の火葬の達人)(1914年)と前奏曲集(1916年)である[31]。その後の1917年から1919年にかけて作曲された作品にも破棄されたか、もしくは散逸してしまったものがある[32]。
- ^ 英口語にみられる表現「leg-pulling」 - ユーモアのある楽しい欺き - をもじった表現である[34]。
- ^ プーランクの記憶では、ラヴェルはサン=サーンスは天才、シューマンは平凡でメンデルスゾーンに大きく劣る、ドビュッシーの後期(『遊戯』など)は貧弱、シャブリエの管弦楽法は能力に欠けると述べたという[39]。シャブリエの音楽はプーランクがとりわけ熱中していたもののひとつだった。1950年代には次のように述べている。「ああ!シャブリエ、人が父を愛するかの如く私は彼を愛している!子に甘い父、いつも朗らかで、ポケットは美味しいものでいっぱいになっている。シャブリエの音楽は尽くせぬ宝物庫、私には欠かせないものなのだ。どんなに暗い日々にもシャブリエの音楽が私を癒してくれる、わかるだろ(中略)私は悲しい人間なのだ - 悲しい人間が皆そうであるように、笑うことが好きなのだ[40]。」
- ^ プーランクがサティの言葉を引用した原文表現は次の通り。"Ce c... de Ravel, c'est stupide tout ce qu'il dit!"[41]
- ^ プーランクは1958年に、自分がいかにラヴェルを賛美しているか、そして言葉のみでなく、ピアニストとしてラヴェルの作品を解釈することを通じてそのことを表現できることに喜びを感じてきた、と語っている[43]。
- ^ ミヨーの見方は後の著作家から疑問視されている。学術誌『Music & Letters』では、1957年にVera Rašínはコレの選択が恣意的であったという証言に疑義を呈し、「6人組」という標語はこの一団を自ら庇護したジャン・コクトーが慎重に準備したのではないかと推測した[50]。音楽学者のロバート・オーリッジも2003年に同様の見解を提唱している[51]。
- ^ ケクランはラヴェル同様ガブリエル・フォーレ門下であったが、プーランクはフォーレの音楽への愛情面で彼らとは相容れなかった。フォーレの研究者であるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、プーランクの反感は奇妙に思える、なぜなら「6人組」の中でプーランク「が透明な明朗性、自作における歌唱の質の高さ、そして魅力の面でフォーレに最も近い」からであるとコメントしている[57]。
- ^ 『墓碑銘』に加え、プーランクは他の作品もリノシエの想い出に捧げている。『ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ』(1922年)、歌曲『彼女の優しい小さな顔』(1939年)、バレエ『典型的動物』(1941年)、歌曲集『カリグラム』から第7曲「旅」である[73]。
- ^ ベルナックの声質と感性豊かな音楽家としての気質が、プーランクが「歌曲」(Mélodie)を作曲するスタイルに大きな影響を与えた。これはプーランクの友人であったテノールのピーター・ピアーズと作曲家のベンジャミン・ブリテンの音楽的関係性に匹敵する程度のものであったが、イギリスの2人の場合とは異なりプーランクとベルナックはあくまでも仕事上のパートナーであった[83][85]。
- ^ プーランクは後年、自分たちがフランス語の歌曲のみを演奏したと回想しているが、これは正確ではない。一部のプログラムにはドイツ語の歌曲、特にシューマンの作品が含まれていた[93][94]。
- ^ 曲の題名は直訳すると「あなたたちはアルザスとロレーヌを所有すべきでない」となる。普仏戦争でドイツがフランスに勝利してアルザス=ロレーヌの大部分を割譲させた時代に遡る、フランスで人気の高い愛国歌である。第一次世界大戦後にフランスは同地域を奪還していたが、『典型的動物』が書かれた時期には再びドイツの支配下に置かれていた[96]。
- ^ この作品はアメリカには1953年、イギリスにはブリテンとピアーズがオールドバラ音楽祭で上演した1958年まで届けられなかった[106]。プーランクの全3作品のオペラの中で、大差をつけられて人気最下位に甘んじている。残り2作品の『カルメル会修道女の対話』と『人間の声』は、いずれも2012年から2014年の間に世界中で4倍以上の上演回数に恵まれている[108]。
- ^ 音楽的には異なっていながらも、プーランクとブーレーズは私的に友好的関係を保っていた。出版されたプーランクの書簡集に、気の置けない手紙でのやり取りが記録されている[111]。
- ^ 1949年に ロバート・ショウがアメリカで行った、1936年作曲のミサ曲の新録音を聴いて興奮したプーランクはこう叫んだ。「ようやく私が真面目な作曲家だということを世界が知ることになる[82]。」
- ^ 彼の病名は胸膜炎や肺癌など、様々に言われている[82][119]。
- ^ プーランクのフランス語原文は「grrrrrand」であり、これは彼の造語である[128]。
- ^ 当時の音楽サークルではプーランクが、スポットライトは自分ひとりを浴びたいと願っていることで知られていたマリア・カラスのために独唱オペラを書いているという冗談が囁かれた。しかしデュヴァルを別にすると、カラス以外に主役を演じるべき人物が思い当たらなかったのは事実である[129]。
- ^ 以前はメシアンをフランス有数の有望な若き作曲家に選んでいたプーランクは[148]、1950年にミヨーに宛てた手紙の中で密かにメシアンの近作を「ビデから出る聖水」になぞらえている[149]。
- ^ "Je souhaite une musique saine, claire et robuste, une musique aussi franchement française que celle de Strawinsky est slave."[154]
- ^ プーランクが上記コメントを行った時点ではまだ12曲しか生まれていなかった。第1集となった1番から10番が1920年代、11番と12番の第2集が1930年代、13番から15番は1958年と1959年に作曲された[4]。
- ^ プーランクの楽曲一覧には主要な改訂年もまとめられている。
- ^ 初期のヴァイオリンソナタが1919年にホイヘンス・コンサートで演奏されているが、出版されることはなく現在は散逸している[168]。
- ^ ここでの主題には1947年の『シンフォニエッタ』に転用されたものがあると、エルは言及している[169]。
- ^ エルは「室内オーケストラのための作品」という別個の分類を儲け、そこにこの作品と2つの行進曲と間奏曲(1937年)を配している[171]。
- ^ 2013年に発売された歌曲全集はCD4枚組で、演奏時間は全部で5時間を超える[174]。
- ^ 同時代のシュルレアリストの詩人が中心で、ロンサールのような古典は少数。
- ^ 「エメット・ラヴェリー氏の承諾により」とクレジットを入れることになった。
- ^ 『人間の声』や『モンテカルロの女』も録音している(EAN:0794881655823)。
出典
[編集]- ^ 久野(2013)、257頁
- ^ Schmidt (2001), p. 3
- ^ Cayez, p. 18
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Chimènes, Myriam and Roger Nichols. "Poulenc, Francis", Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 24 August 2014 (要購読契約)
- ^ Roy, p. 60
- ^ Poulenc (2014), p. 247
- ^ Burton, p. 15
- ^ Buckland and Chimènes, p. 85
- ^ Ivry, p. 8
- ^ Schmidt (2001), p. 105
- ^ Walker, Lynne. "The alchemical brother", The Independent, 27 January 1999
- ^ Hewett, Ivan. "Part monk, part rascal", The Daily Telegraph, 23 March 2013
- ^ 『プチ・ロワイヤル仏和辞典第3版』旺文社、2003年、1613頁。
- ^ a b Hell, p. 2
- ^ Quoted in Schmidt (2001), p. 6
- ^ Hell, pp. 2–3
- ^ Schmidt (2001), pp. 6 and 23
- ^ アンリ・エル、11頁
- ^ 久野麗、24頁
- ^ Poulenc (1978), p. 98
- ^ アンリ・エル、12頁
- ^ Schmidt (2001), pp. 26–27
- ^ Poulenc (1978), p. 37
- ^ Quoted in Schmidt (2001), p. 20
- ^ a b Schmidt (2001), p. 21
- ^ Hell, pp. 3–4
- ^ a b Hell, p. 4
- ^ Schmidt (2001), pp. 38–39
- ^ Romain, p. 48
- ^ プーランク(1994)、42-43頁
- ^ Schmidt (1995), pp. 11–12
- ^ Schmidt (1995), p. 525
- ^ Harding, p. 13
- ^ "leg-pull", Oxford English Dictionary, retrieved 20 September 2014 (要購読契約)
- ^ Machart, p. 18
- ^ Poulenc (1978), p. 138
- ^ 久野麗、36頁
- ^ Bialek, Mireille (December 2012). “Jacques-Émile Blanche et le Groupe des Six”. La Gazette des Amis des Musées de Rouen et du Havre (15): 7 2021年10月31日閲覧。.
- ^ a b c Nichols, p. 117
- ^ Poulenc (1978), p. 54
- ^ Poulenc (1963), p. 75
- ^ Nichols, pp. 117–118
- ^ a b c "Les Dialogues de Poulenc: The Composer on his Opera", The Times, 26 February 1958, p. 3
- ^ アンリ・エル、35頁
- ^ a b Hell, pp. 9–10
- ^ "Francis Poulenc", The Guardian, 31 January 1963, p. 7
- ^ Sams, Jeremy. " Poulenc, Francis", The New Grove Dictionary of Opera, Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 24 August 2014 (要購読契約)
- ^ Hell, pp. 13–14
- ^ Quoted in Hell, pp. 14–15
- ^ a b Rašín, Vera. "'Les Six' and Jean Cocteau", Music & Letters, April 1957, pp. 164–169 (要購読契約)
- ^ Orledge, pp. 234–235
- ^ Hell, p. 13
- ^ Hell, pp. 13 and 93; and Schmidt (2001), p. 451
- ^ Hinson, p. 882
- ^ Desgraupes, p. 5; and Hell, p. 19
- ^ Hell, p. 21
- ^ Nectoux, p. 434
- ^ Schmidt (2001), p. 144
- ^ Newman, Ernest. "The week in music", The Manchester Guardian, 28 April 1921, p. 5
- ^ Hell, p. 23
- ^ Hell, pp. 24–28
- ^ a b Schmidt (2001), p. 136
- ^ Hell, pp. 31–32
- ^ Canarina, p. 341
- ^ a b Burton, p. 37
- ^ 久野(2013)、90-91頁
- ^ Ivry, p. 68
- ^ 久野(2013)、90頁
- ^ a b Ivry, p. 74
- ^ Schmidt (2001), p. 154
- ^ Ivry, p. 86; and Schmidt (2001), p. 461
- ^ Johnson, p. 140
- ^ Schmidt (2001), p. 480
- ^ Hell, pp. 38–43
- ^ "A Television Transmission by the Baird Process will take place during this programme", Genome – Radio Times, 1923–2009, BBC, retrieved 17 October 2014
- ^ a b 久野(2013)、138頁
- ^ Schmidt p. 476
- ^ Poulenc (2014), p. 233
- ^ 『ラルース世界音楽事典』626頁
- ^ a b c d e f Thibodeau, Ralph. "The Sacred Music of Francis Poulenc: A Centennial Tribute", Sacred Music, Volume 126, Number 2, Summer 1999, pp. 5–19 (要購読契約)
- ^ Hell, p. 48
- ^ a b c d e f g Moore, Christopher. "Constructing the Monk: Francis Poulenc and the Post-War Context", Intersections, Volume 32, Number 1, 2012, pp. 203–230 (要購読契約)
- ^ a b Blyth, Alan. "Bernac, Pierre", Grove Music Online, Oxford University Press, retrieved 5 October 2014 (要購読契約)
- ^ Ivry, p. 96
- ^ a b Johnson, p. 15
- ^ Poulenc (1991), p. 11
- ^ Doctor, pp. 69, 74, 78, 147, 226, 248, 343, 353–354, 370–371, 373, 380 and 382
- ^ Poulenc (2014), p. 141
- ^ "N.Y. Musical Tributes to Francis Poulenc", The Times, 17 April 1963, p. 14
- ^ a b Hell, pp. 60–61
- ^ Schmidt (2001), p. 266
- ^ Schmidt (2001), p. 268
- ^ a b Fancourt, Daisy. "Les Six", Music and the Holocaust, retrieved 6 October 2014
- ^ Ivry, p. 119
- ^ Poulenc (2014), pp. 207–208
- ^ a b Simeone Nigel. "Making Music in Occupied Paris", The Musical Times, Spring, 2006, pp. 23–50 (要購読契約)
- ^ Schmidt, p. 284
- ^ "Broadcasting Review", The Manchester Guardian, 24 March 1945, p. 3
- ^ Hell, p. 67
- ^ Mann, William. "Poulenc's Choral Masterpiece", The Times, 8 March 1963, p. 15
- ^ "Court Circular", The Times, 5 January 1945, p. 6
- ^ "Albert Hall", The Times, 8 January 1945, p. 8
- ^ "National Gallery Concert", The Times, 10 January 1945, p. 8; and Schmidt (2001), p. 304
- ^ Schmidt (2001), p. 303
- ^ "The Paris Boat-Train", The Manchester Guardian, 16 January 1945, p. 4
- ^ a b c d Sams, p. 282
- ^ 『ラルース世界音楽事典』、1062頁
- ^ "Francis Poulenc", Operabase, retrieved 6 October 2014
- ^ Schmidt (2001), pp. 291 and 352
- ^ Poulenc (1991), p. 273
- ^ Poulenc (1994), pp. 818, 950 and 1014
- ^ a b Hell, p. 74
- ^ a b 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁
- ^ Ivry, p. 170
- ^ 久野(2013)、266頁
- ^ Hell, pp. 97 and 100
- ^ Hell, pp. 78–79
- ^ Gendre, Claude, "The Literary Destiny of the Sixteen Carmelite Martyrs of Compiègne and the Role of Emmet Lavery", Renascence, Fall 1995, pp. 37–60
- ^ Schmidt (2001), p. 404
- ^ Schmidt (2001), p. 397
- ^ Burton, p. 42
- ^ Hell, pp. 97 and 104
- ^ Mawer, Deborah (2001). Notes to Hyperion CD CDH55386 OCLC 793599921
- ^ a b c "Biography", Francis Poulenc: musicien français 1899–1963, retrieved 22 October 2014
- ^ a b c 『標準音楽辞典』音楽之友社、1966年、プーランクの項
- ^ a b 久野(2013)、314頁
- ^ Ivry p. 194 and Schmidt (2001), p. 477
- ^ a b Poulenc 1994, letter 917, quoted in Moore, Christopher. "Constructing the Monk: Francis Poulenc and the Post-War Context", Intersections, Volume 32, Number 1, 2012, pp. 203–230
- ^ a b c Sams, p. 283
- ^ ジョン・ウォラック、513頁
- ^ Schmidt (2001), p. 446
- ^ Nichols, Roger. "Views of Chabrier", The Musical Times, July 1983, p. 428 (要購読契約)
- ^ a b c d e f g h 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、248頁
- ^ Schmidt (2001), p. 463
- ^ プーランク(1994)、181頁
- ^ プーランク、オーデル編、千葉文夫訳『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』筑摩書房、1994年、26頁
- ^ プーランク(1994)、69-70頁
- ^ 高橋英郎、112頁
- ^ a b 濱田滋郎、CDライナーノート、プーランク:室内楽作品集、ドイツ・グラモフォン、F00G 20460
- ^ プーランク(1994)、66頁
- ^ 久野(2013)、101-102頁
- ^ a b c 『ラルース世界音楽事典』、1417頁
- ^ Hell, p. 87
- ^ a b Keck, p. 18
- ^ a b "Francis Poulenc", The Musical Times, March 1963, p. 205 (要購読契約)
- ^ Schmidt, p. 342
- ^ Poulenc (2014), p. 36
- ^ Langham Smith, Richard. "More Fauré than Ferneyhough", The Musical Times, November 1992, pp. 555–557 (要購読契約)
- ^ Chimènes, p. 171
- ^ Hell, pp. 87–88
- ^ Buckland and Chimènes, p. 6
- ^ 小沼純一、293-294頁
- ^ a b c d e Larner, Gerald. "Maître with the light touch", The Times, 6 January 1999, p. 30
- ^ a b Landormy, Paul. 162
- ^ Delamarche, p. 4
- ^ Hell, p. 64
- ^ Schmidt (2001), p. 275
- ^ Delamarche, p. 6
- ^ Hell, p. 88
- ^ Daniel, p. 165
- ^ Schmidt (2001), p. 182
- ^ a b Ledin, Marina and Victor. "Francis Poulenc (1899–1963) Piano Music, Volume 3", Naxos Music Library, retrieved 22 October 2014
- ^ a b Ledin, Marina and Victor. "Francis Poulenc (1899–1963) Piano Music, Volume 1", Naxos Music Library, retrieved 22 October 2014
- ^ Bush, p. 11
- ^ Hell, pp. 100–102
- ^ Keck, p. 285
- ^ Hell, p. 59
- ^ Schmidt (1995), p. 29
- ^ Hell, p. 73
- ^ Daniel, p. 122; Hell, p. 65; and Schmidt (2001), pp. 282–283 and 455
- ^ Hell, p. 104
- ^ Schmidt (2001) p. 148
- ^ Schmidt (2001), p. 419
- ^ Johnson, pp. 4–10
- ^ Johnson, p. 13
- ^ Hell, pp. 93–97
- ^ a b Clements, Andrew. "Poulenc: The Complete Songs – review", The Guardian, 17 October 2013
- ^ デニス・スティーヴンス、『歌曲の歴史』、240頁
- ^ a b c 小沼純一、253頁
- ^ 小沼純一、278-279頁
- ^ 末吉保雄、288-289頁
- ^ a b Gouverné, Yvonne. "Francis Poulenc", Francis Poulenc: musicien français 1899–1963, retrieved 27 October 2014
- ^ Johnson, p. 64
- ^ Johnson, p. 128
- ^ Johnson, p. 70
- ^ 末吉保雄、286頁
- ^ Hell, pp. 98–99
- ^ Vernier, David. "Resonant, Resplendent Poulenc Motets, Mass, Chansons", Classics Today, retrieved 18 July 2016
- ^ アンリ・エル、77頁
- ^ a b ジョン・ウォラック、556頁
- ^ a b ドナルド・ジェイ・グラウト、848頁
- ^ a b Sams, Jeremy. "Dialogues des Carmélites", The New Grove Dictionary of Opera, Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 22 October 2014 (要購読契約)
- ^ Machart, Renaud. "Francis Poulenc", Francis Poulenc: musicien français 1899–1963, retrieved 27 October 2014
- ^ Sams, Jeremy. "Voix humaine, La", The New Grove Dictionary of Opera, Grove Music Online, Oxford Music Online, Oxford University Press, retrieved 22 October 2014 (要購読契約)
- ^ 小沼純一、206-207頁
- ^ Bloch, p. 34
- ^ "A recital by Pierre Bernac and Francis Poulenc"; and "Francis Poulenc et Denise Duval interprètent", both WorldCat, retrieved 22 October 2014
- ^ Hell, p. 112
- ^ "Francis Poulenc & Friends", WorldCat, retrieved 21 November 2014
- ^ Bloch, pp. 241–253
- ^ "Poulenc Piano Music", WorldCat, retrieved 22 October 2014
- ^ Gill, Dominic and Charles Timbrell. "Tacchino, Gabriel", Grove Music Online, Oxford University Press, retrieved 10 October 2014 (要購読契約)
- ^ "Poulenc Chamber Music", WorldCat, retrieved 22 October 2014
- ^ "Poulenc Carmelites" WorldCat, retrieved 27 October 2014
- ^ 小沼純一、255頁
- ^ “アトリエ・デュ・シャンのホームページ”. 2021年11月6日閲覧。
- ^ 『音楽大事典』、2153頁
- ^ Rorem, Ned. "Poulenc: A Memoir", Tempo, New Series, Number 64, Spring, 1963, pp. 28–29 (要購読契約)
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』、246頁
- ^ 小沼純一、246頁
- ^ Clark, Philip, "The Gramophone Interview – Pierre Boulez", Gramophone, October 2010, p. 49
- ^ Poulenc (1991), p. 94
- ^ Duchen, Jessica. "Plucky chicken: Sensual, witty and unfairly dismissed as lightweight", The Guardian, 1 January 1999
参考文献
[編集]- 『ニューグローヴ世界音楽大事典』(第13巻) 、講談社 (ISBN 978-4061916333)
- 『ラルース世界音楽事典』福武書店
- アンリ・エル(著)、評伝『フランシス・プーランク』 春秋社、村田健司 (翻訳)、(ISBN 978-4393931349)
- 久野, 麗『プーランクを探して-音楽と人生と』春秋社、2013年11月20日。ISBN 978-4-393-93573-6。
- 高橋英郎 (著)、『エスプリの音楽』、春秋社(ISBN 978-4393934203)
- ジョン・ウォラック、ユアン・ウエスト(編集)、『オックスフォードオペラ大事典』大崎滋生、西原稔(翻訳)、平凡社(ISBN 978-4582125214)
- デニス・スティーヴンス (編集) 、『歌曲の歴史』 (ノートン音楽史シリーズ) 石田徹 (翻訳) 、石田美栄 (翻訳)、音楽之友社(ISBN 978-4276113749)
- 小沼純一 (著)、『パリのプーランク その複数の肖像』、春秋社(ISBN 978-4393931493)
- 末吉保雄 (著)、『最新名曲解説全集24 声楽曲Ⅳ』 門馬直美ほか (著)、音楽之友社 (ISBN 978-4276010246)
- エヴリン=ユラール・ヴィルタール (著)、『フランス六人組―20年代パリ音楽家群像』、飛幡祐規 (翻訳) 、晶文社 (ISBN 978-4794950734)
- D・J・グラウト(著)、『西洋音楽史(下)』服部幸三 (翻訳) 、戸口幸策 (翻訳) 、音楽之友社 (ISBN 978-4276112117)
- 『音楽大事典』 4巻 平凡社 (ASIN : B00HG3V5GW)
- 『標準音楽辞典』音楽之友社、1966年。ISBN 978-4276000018。
- フランシス・プーランク 著、千葉文夫 訳、ステファヌ・オーデル 編『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』筑摩書房、1994年。ISBN 978-4480872449。
- Bloch, Francine (1984) (フランス語). Francis Poulenc, 1928–1982: Phonographie. Paris: Bibliothèque nationale, Département de la phonothèque nationale et de l'audiovisuel. ISBN 978-2-7177-1677-1
- Buckland, Sidney; Myriam Chimènes, eds (1999). Poulenc: Music, Art and Literature. Aldershot: Ashgate. ISBN 978-1-85928-407-0
- Burton, Richard D E (2002). Francis Poulenc. Bath: Absolute Press. ISBN 978-1-899791-09-5
- Bush, Geoffrey (1988). Notes to CD set Poulenc – Works for Piano. Colchester: Chandos. OCLC 705329248
- Canarina, John (2003). Pierre Monteux, Maître. Pompton Plains, US: Amadeus Press. ISBN 978-1-57467-082-0
- Cayez, Pierre (1988) (フランス語). Rhône-Poulenc, 1895–1975. Paris: Armand Colin and Masson. ISBN 978-2-200-37146-3
- Chimènes, Myriam (2001). “Évolution des goûts de Francis Poulenc à travers sa correspondance”. In Arlette Michel; Loïc Chotard (フランス語). L'esthétique dans les correspondances d'écrivains et de musiciens, XIXe–XXe siècles. Paris: Presses de l'Université de Paris-Sorbonne. ISBN 978-2-84050-128-2
- Daniel, Keith W (1982). Francis Poulenc: His Artistic Development and Musical Style. Ann Arbor, US: UMI Research Press. ISBN 978-0-8357-1284-2
- Delamarche, Claire (1996). Notes to CD set Poulenc Concertos. London: Decca. OCLC 40895775
- Desgraupes, Bernard; Keith Anderson (trans) (1996). Notes to CD set Les mariés de la tour Eiffel. Munich: MVD. OCLC 884183553
- Doctor, Jennifer (1999). The BBC and Ultra-modern Music, 1922–1936. Cambridge and New York: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-66117-1
- Harding, James (1994). Notes to CD set Ravel and Poulenc – Complete Chamber Music for Woodwinds, Volume 2. London: Cala Records. OCLC 32519527
- Hell, Henri; Edward Lockspeiser (trans) (1959). Francis Poulenc. New York: Grove Press. OCLC 1268174
- Hinson, Maurice (2000). Guide to the Pianist's Repertoire. Bloomington, US: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-10908-8
- Ivry, Benjamin (1996). Francis Poulenc. London: Phaidon Press. ISBN 978-0-7148-3503-7
- Johnson, Graham (2013). Notes to CD set Francis Poulenc – The Complete Songs. London: Hyperion. OCLC 858636867
- Keck, George Russell (1990). Francis Poulenc – A Bio-bibliography. New York: Greenwood Press. ISBN 978-0-313-25562-5
- Landormy, Paul (1943). La musique française après Debussy. Paris: Gallimard. OCLC 3659976
- Machart, Renaud (1995) (フランス語). Poulenc. Paris: Seuil. ISBN 978-2-02-013695-2
- Nectoux, Jean-Michel; Roger Nichols (trans) (1991). Gabriel Fauré – A Musical Life. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-23524-2
- Nichols, Roger (1987). Ravel Remembered. London: Faber and Faber. ISBN 978-0-571-14986-5
- Orledge, Robert (2003). “Satie and Les Six”. In Richard Langham Smith; Caroline Potter. French Music since Berlioz. Aldershot, UK and Burlington, US: Ashgate. ISBN 978-0-7546-0282-8
- Poulenc, Francis (1963). Stéphane Audel. ed (フランス語). Moi et mes amis. Paris and Geneva: Palatine. OCLC 504681160
- Poulenc, Francis James Harding訳 (1978). Stéphane Audel. ed. My Friends and Myself. London: Dennis Dobson. ISBN 978-0-234-77251-5
- Poulenc, Francis Sidney Buckland訳 (1991). Sidney Buckland. ed. Francis Poulenc: Correspondence 1915–1963. London: Victor Gollancz. ISBN 978-0-575-05093-8
- Poulenc, Francis (1994). Myriam Chimènes. ed (フランス語). Correspondance 1910–1963. Paris: Fayard. ISBN 978-2-213-03020-3
- Poulenc, Francis Roger Nichols訳 (2014). Nicolas Southon. ed. Articles and Interviews – Notes from the Heart. Burlington, US: Ashgate. ISBN 978-1-4094-6622-2
- Romain, Edwin (1978). A Study of Francis Poulenc's Fifteen Improvisations for Piano Solo. Hattiesburg, US: University of Southern Mississippi. OCLC 18081101
- Roy, Jean (1964) (フランス語). Francis Poulenc. Paris: Seghers. OCLC 2044230
- Sams, Jeremy (1997). “Poulenc, Francis”. In Amanda Holden. The Penguin Opera Guide. London: Penguin Books. ISBN 978-0-14-051385-1
- Schmidt, Carl B (1995). The Music of Francis Poulenc (1899–1963) – A Catalogue. Oxford and New York: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-816336-7
- Schmidt, Carl B (2001). Entrancing Muse: A Documented Biography of Francis Poulenc. Hillsdale, US: Pendragon Press. ISBN 978-1-57647-026-8
関連文献
[編集]- Bernac, Pierre (1978) (フランス語). Francis Poulenc et ses mélodies. Paris: Éditions Buchet-Chastel. OCLC 5075759
- Lacombe, Hervé (2013) (フランス語). Francis Poulenc. Paris: Fayard. ISBN 978-2-213-67199-4
- Mellers, Wilfrid (1993). Francis Poulenc. Oxford and New York: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-816337-4
- Poulenc, Francis (1993) (フランス語). Journal de mes mélodies. Paris: Cicero. ISBN 978-2-908369-10-6
- Poulenc, Francis (1999). Lucie Kayas. ed (フランス語). À bâtons rompus (écrits radiophoniques, Journal de vacances, Feuilles américaines). Arles: Actes Sud. ISBN 978-2-7427-2033-0
- Poulenc, Francis (2011). Nicolas Southon. ed (フランス語). J'écris ce qui me chante: écrits et entretiens. Paris: Fayard. ISBN 978-2-213-63670-2
- Ramaut, Alban, ed (2005) (フランス語). Francis Poulenc et la voix. Lyon: Symétrie. ISBN 978-2-914373-02-9
外部リンク
[編集]- Francis Poulenc 1899–1963, the official website (French and English version)
- Poulenc material BBC Radioのアーカイヴ
- フランシス・プーランク作曲の楽譜 - Choral Public Domain Library (ChoralWiki)
- フランシス・プーランクの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- Guide to the Lambiotte Family/Francis Poulenc archive, 1920–1994 (Woodson Research Center, Fondren Library, Rice University, Houston, TX, USA)
- フランシス・プーランク - IMDb