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エリック・サティ

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エリック・サティ
Erik Satie
1920年(53-54歳時)のポートレート
基本情報
生誕 1866年5月17日
フランスの旗 フランス帝国 オンフルール
出身地 フランスの旗 フランス共和国 オンフルールとパリ
死没 (1925-07-01) 1925年7月1日(59歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ、アルクイユ共同墓地[1]
学歴 パリ音楽院中退
スコラ・カントルム卒業
ジャンル クラシック音楽
新古典主義音楽
ロマン派音楽
職業 作曲家

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ: Éric Alfred Leslie Satie1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランス作曲家オンフルール生まれ、オンフルールおよびパリ育ち。

「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られる。ドビュッシーラヴェルに影響を与えた。

生涯

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サティの生家。(オンフルール

1866年5月17日、海運業を営むアルフレッド・サティ (Alfred Satie)、とその妻のジェーンJane Satie、英語発音音写ではジェイン)との子(長男)としてフランス第二帝政時のオンフルールに生まれる。

1870年、父は海運業を辞め、一家はパリに移住する。幼少期からエリックの家族はオンフルールとパリとの間を往き来していた。1872年、母が亡くなり、エリックはオンフルールにある生家で暮らす父方の祖父母に預けられた。それまでイギリス国教会の信者として育てられてきたエリックは、この時カトリック改宗している。

パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に処女作のピアノ小品『アレグロフランス語版』を作曲した。そのほか、『オジーヴ英語版』、『ジムノペディ』、『グノシエンヌ』などを発表。

1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り (Rue Cortot) 6番地に居住。モンマルトルのカフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、プーランクドビュッシー、さらにコクトーピカソらと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の作品。薔薇十字団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。

なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品英語版』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。

1893年以降、画家シュザンヌ・ヴァラドンと近しくなる。

1898年からパリの3キロメートルほど南部近郊アルクイユに居住。フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。

1919年になるとダダイズムトリスタン・ツァラ等と知り合い、フランシス・ピカビアアンドレ・ドランマルセル・デュシャンマン・レイなどを紹介された。最初の出会い時にツァラからレディ・メイドを贈られた。ツァラとアンドレ・ブルトンとの紛争にもツァラ側に立って仲を取り持った。

アルコール乱用のために肝硬変を患っていたサティは、1925年7月1日パリ14区聖ジョゼフ病院フランス語版で亡くなった。59歳没。

年表

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生涯

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今ではサティの家フランス語版[注 1]と呼ばれている生家/オンフルールに所在し、一部が博物館になっている。
1924年3月(57歳)に発表された自画像

没後

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作風

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それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。

後にドビュッシーラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。

生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『グロテスクなセレナード』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。

また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることになった。拍子についても自由に書き、拍子記号小節線縦線終止線も後に廃止された。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も多く生み出されている。これらは、どんな場合にも完全に放棄されたわけでなく、最晩年の『ノクターン』や『家具の音楽』のように、読譜上の便宜面からの配慮によって、拍子記号・調性記号・小節線を採用した作品がまれにある。

拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流になっている。

調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。

また、音楽美学的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『家具の音楽』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、ブライアン・イーノジョン・ケージたちによる環境音楽に影響を与えた[2]。また、『ヴェクサシオン』における840回の繰り返し・『古い金貨と古い鎧』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『スポーツと気晴らし』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている[3]

サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。

最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、最晩年の姿を見ることができる。

作品

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舞台作品

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  • あやつり人形劇『ブラバンのジュヴィエーヴ』- 1899年
  • 喜歌劇『思春期』(別名「愛の芽生え」「いとしい奴」とも)
  • 劇付随音楽『星たちの息子』(フルート・ハープによる原曲は消失)- 1891年
  • バレエ音楽『ユスピュ』- 1892年
  • 喜歌劇『メドゥーサの罠』- 1913年(脚本・作曲)
  • バレエ音楽『パラード』- 1917年
  • 交響劇『ソクラテス』- 1920年
  • グノーの歌劇『にわか医師』のためのレチタティーヴォ - 1923年
  • パントマイム『びっくり箱』- 1929年(編曲)
  • バレエ音楽『メルキュール』- 1924年
  • バレエ音楽『本日休演(ルラーシュ)』- 1924年
    • バレエ幕間に上映された「映画『幕間』のための音楽」を含む
  • 「救いの旗」のための頌歌
  • ナザレ人
  • 天国の英雄的な門への前奏曲
  • 夢見る魚
  • サーカス劇『5つのしかめっ面』- 1914年

ピアノ曲

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作曲年代順に記載する。

  1. 童話音楽の献立表
  2. 絵に描いたような子供らしさ
  3. はた迷惑な微罪
  • メドゥーサの罠
  • 踊る操り人形
  • ラグ・タイム・パラード
  • パラード
  • 組み立てられた3つの小品(4手連弾と小管弦楽団)
  • ハンガリーの歌 - 1889年パリ万博で聞いたハンガリー音楽を採譜したもの。サティの作品ではない。
  • 「ヒザンティン帝国の王子」前奏曲(消失)
  • クリスマス(消失)
  • 詩篇(消失)
  • バレエのための物語(消失)
  • アリーヌ・ポルカ
  • 2つの物
  • バスクのメヌエット
  • 不思議なコント作家
  • ピエロの夕食
  • シャツ
  • 野蛮な歌
  • 皿の上の夢
  • 薔薇の指への夜明け
  • 若い令嬢のためにノルマンディの騎士によって催された祝宴

その他の器楽曲

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  • 右や左に見えるもの〜眼鏡無しで(全3曲、ヴァイオリンとピアノ)- 1914年から1915年
  • 家具の音楽 - 1920年
  • いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ(2トランペット)- 1921年
  • 2つの弦楽四重奏曲 - 作曲年不詳
  • 再発見された像の娯楽(オルガンとトランペット)
  • シテール島への船出(ヴァイオリンとピアノ)

宗教曲

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  • 貧者のミサ
  • 信仰のミサ(オルガン曲)(消失)

歌曲

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  • 3つの歌曲
  • シャンソン
  • やさしく
  • こんにちは、ビキ
  • エリゼ宮の晩餐会
  • 男寡
  • 魔女
  • ピカドールは死んだ
  • 子供の殉教
  • 空気の幽霊
  • オックスフォード帝国(歌詞散逸)
  • 歌詞のない3つの歌曲
  • いいともショショット
  • 中世の歌
  • 3つの恋愛詩
  • 4つのささやかなメロディ
  • 潜水人形
  • 十代の合唱
  • 神の赤い信条
  • ベストを着た肖像
  • おーい! おーい!
  • 医者の家で
  • 戦いの前日
  • ポールとヴィルジニー
  • 大きな島の王様
  • ロクサーヌ(消失)
  • 乗り合いバス
  • カリフォルニアの伝説
  • ジュ・トゥ・ヴー

語録

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  • 「肝心なのはレジオン・ドヌール勲章を拒絶することではないんだよ。なんとしても勲章など受けるような仕事をしないでいることが必要なんだ」(ジャン・コクトーに対して)
  • 「皆自分たちのしたいことをちょっとやりすぎると、君は思わないかい」

著書

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翻訳書を含む。現状は翻訳書のみ。

  • エリック・サティ 著、藤富保男 編訳 編『エリック・サティ詩集』思潮社、1989年12月1日。 ISBN 4-7837-2411-3ISBN 978-4-7837-2411-7OCLC 672790706
  • エリック・サティ 著、秋山邦晴岩佐鉄男編訳 編『卵のように軽やかに─サティによるサティ』筑摩書房〈筑摩叢書〉、1992年。 
  • エリック・サティ 著、岩崎力 訳、オルネラ・ヴォルタ英語版 編『エリック・サティ文集』白水社、1997年2月1日。 ISBN 4-560-03727-2ISBN 978-4-560-03727-0OCLC 675397997

ギャラリー

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派生作品

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ここでは、サティの創作活動に何らかの意味で強い影響を受けている作品について記載する。1つ目は、オリジナルからいくらか改変されてはいても、制作するに当たっての作家性の発露に留まっているもので、これを「カバー曲」および「リメイク作品」とした。2つ目は、オリジナルが持つ特徴をモチーフとして利用しているもので、これは「モチーフにした作品」とした。パロディ作品もここに分類する。3つ目は、オリジナルにインスパイアされた作品、つまり、サティの創作活動から受け取ったインスピレーションを全く異なる創作に活かした作品であり、「インスパイア作品」とした。

なお、現状では日本に偏向した内容になっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ メゾン・サティ、フランス語:Maisons Satie、英語:Satie House and Museum
  2. ^ 現物のファイル名の日付は間違っており、このフレームは1884年から1885年までの間に撮影されたものである。

出典

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  1. ^ a b Erik Satie” (英語). Find a Grave. Jim Tipton. 2022年9月27日閲覧。
  2. ^ サティ, 秋山 & 岩佐 (2014), pp. 302, 304, 訳者あとがき.
  3. ^ サティ, 秋山 & 岩佐 (2014), pp. 303–304, 訳者あとがき.

参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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