「小林繁」の版間の差分
m Bot作業依頼: 「SSGランダース」関連カテゴリ・テンプレートの貼り替え依頼 (Category:SSGランダース) - log |
|||
448行目: | 448行目: | ||
[[Category:日本の野球指導者]] |
[[Category:日本の野球指導者]] |
||
[[Category:大阪近鉄バファローズ関連人物]] |
[[Category:大阪近鉄バファローズ関連人物]] |
||
[[Category: |
[[Category:SSGランダース]] |
||
[[Category:北海道日本ハムファイターズ関連人物]] |
[[Category:北海道日本ハムファイターズ関連人物]] |
||
[[Category:韓国の野球に関する人物]] |
[[Category:韓国の野球に関する人物]] |
2021年11月7日 (日) 08:10時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 鳥取県東伯郡赤碕町(のちの琴浦町) |
生年月日 | 1952年11月14日 |
没年月日 | 2010年1月17日(57歳没) |
身長 体重 |
178 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1971年 ドラフト6位 |
初出場 | 1973年9月26日 |
最終出場 | 1983年10月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、鳥取県東伯郡赤碕町(のちの琴浦町)出身[注 1]のプロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ、野球解説者、スポーツキャスター、タレント、俳優。
プロ野球選手時代は、読売ジャイアンツ(巨人)と阪神タイガースで活躍。巨人時代には2年連続18勝を挙げる活躍をしたが、「江川事件」の渦中に巻き込まれてしまい、阪神へトレード移籍。「悲劇のヒーロー」として注目を浴び、人気を得た。
経歴
少年時代
1952年11月14日、鳥取県東伯郡赤碕町に生まれる。8歳の時、父親から野球用のグラブを渡され、キャッチボールを日課とするようになった[7]。小学校時代にソフトボールをプレーし[8]、中学時代は野球部に所属[9]。
由良育英高校時代
1968年、由良育英高校に入学。野球部に入部した。当時監督を務めていた牧野紀史は当時の小林について、「特にボールが速かったわけではない。コントロールは悪くなかったが、抜群に良いというほどでもなかった」、「投げるボール自体は大したことはない」、「『どうしても欲しい』と思うようなピッチャーではありませんでした」と語る一方、「印象的だったのは、マウンドで常に小林は冷静だった」、「タテに割れるカーブ[注 2]を織り交ぜて、相手バッターのタイミングを上手く外す。投球技術は中学生離れしていました」と評している[11]。身体面では並外れたバネが印象に残っているという[11]。2年までは1学年上の竹中昭(後に広島東洋カープに入団)がエース投手を務め、小林は投手としての練習を続けながら外野手として試合に出場した。牧野は三塁手としての起用も打診したが、小林はこれを断っている[12]。小林は自分より球威も球速もあるボールを投げる竹中に対抗するため、2年生の時にオーバースローからサイドスローへの転向を図った。転向後球威・球速ともに向上し、シュートを習得[13]。3年生の時にはエース投手となり、チームを牽引[注 3]。1970年春季中国大会県予選決勝に進むが米子東高に敗退。同年夏の甲子園県予選は準決勝で米子工に敗れ、東中国大会には進めなかった[15]。
全大丸時代
夏の県大会に敗れ進路が定まらない中、関西大学野球部キャプテンの木嶋一黄の誘いを受け、同部のセレクションを受ける。ここで小林は高評価を得、スポーツ推薦による入学を確実なものにした。しかし関西大学が突如スポーツ推薦枠を廃止し、入学は立ち消えとなった[注 4]。ここで大学卒業後の大丸(現・大丸松坂屋百貨店)入社が決まっていた木嶋に再び声をかけられ、同社に入社。神戸店に勤務した[18]。その傍ら、同社の社会人野球チーム「全大丸」でプレーすることとなった。小林は当初「ギリギリで入れてもらえた」と感じていたが、実際には小林の実力は高く評価されていた。配属先の神戸店では練習後の業務が免除されていたのがその証拠である[19]。この時期に小林は球種を増やすために腕の位置を下げ、アンダースローに近いフォームで投げるようになった。これにより、カーブの曲がりもそれまでより良くなった[20][注 5]。
入社1年目の1971年5月、読売ジャイアンツスカウトの伊藤菊雄は、日本石油との練習試合に登板した小林に目を留めた。体格に恵まれないためプロ野球選手になるのは無理だと考えていた小林は、都市対抗野球大会の京都予選に向けた練習中に伊藤に引き合わされ、大いに驚いた[23]。小林は幼いころからのジャイアンツファンだった[24]。チームは京都予選を勝ち上がることはできなかったが、大会後近鉄バファローズや南海ホークスも小林に注目するようになった[25]。しかし小林には体力面でプロ野球でシーズンを通じて活躍できるかどうか不安があり、都市対抗野球大会の京都予選を突破して全大丸に恩返しがしたいという思いもあったことから、プロ入りする意思のないことを宣言した[26]。小林の宣言を受けて近鉄と南海は1971年のドラフト会議での指名を回避[27]。これに対し読売ジャイアンツは6位で指名した。小林は事前の宣言通り入団を辞退したが、巨人側には指名により1年間の交渉権を確保し、都市対抗野球大会終了後に入団させる狙いがあった[28]。
翌1972年3月、京都社会人野球春季大会で同大会史上2人目のノーヒットノーランを記録。5月の京都市長杯争奪社会人野球大会でも準決勝・決勝で完封するなど順調な仕上がりで6月の都市対抗野球大会京都予選に臨んだ。チームは3戦全勝の成績で都市対抗野球大会出場を決め、小林は決勝リーグで前年に敗れた日本新薬を1失点に抑えて完投勝ちを収めた[29]。7月の第43回都市対抗野球大会1回戦(対電電東北)でチームが敗れた後、小林は伊藤に巨人入団の意思を伝えた。11月17日[注 6]正式に入団が発表された。小林にはもう1年全大丸でプレーし、次回のドラフト会議でより上位での指名を狙う選択肢もあったが、巨人から指名を受けられるという保証はなかったため、巨人ファンの父親に喜んでもらいたいという思いを優先させた[30]。入団に際し小林は、当時の制限最高額である1000万円の契約金を要求。900万の契約金と、1年目に1勝すれば100万円を加えるという条件を勝ち取った[31]。
プロ野球選手時代
読売ジャイアンツ時代
入団前はプロの練習にもついていけるのではないかという自信を持っていたが、巨人の練習は想像以上に厳しく、筋肉痛に耐えながらついていくのが精一杯であった。それでも春季キャンプのうち5日間は一軍で過ごした。初めて一軍で練習を行った日、小林は長嶋茂雄や王貞治ら一軍選手が持つ雰囲気に圧倒され、「どんな練習をしたかも覚えていない」ほどの緊張を味わいながら、「ここがプロなんだ、ここが野球で金を稼げる場所なんだ」と感じたという[32]。後に阪神タイガースでチームメイトとなる江本孟紀は小林の肉体を「3本ずつのハリガネを1本の束にしてより上げ、ハガネにし、さらにそのハガネを束にしたような筋肉でつくられていた」と評しているが、小林によるとそれは入団した年の練習で培われたものであった[33]。
入団1年目(1973年)、二軍(イースタン・リーグ)で7勝5敗10セーブ、防御率2.43の成績を挙げ優勝投手にもなった[34]小林は、9月26日、一軍の試合に初登板。チームが負けている場面で3回リリーフ登板し好結果を残した[35]後、10月11日の阪神タイガース戦(10-10で引き分け)に6番手で出場、1イニングを無失点に抑えた。この試合は巨人のセントラル・リーグ優勝を左右する試合といわれ、日本テレビ系列で放送予定枠を超えて放送されるなど野球ファンの注目を集めており、小林の存在が知られるきっかけとなった[36]。シーズン終了後、小林は牧野紀史に「どうやらプロでやっていけそうです」と報告している[37]。
翌1974年1月、小林は交際していた大丸時代の元同僚の女性と結婚した[37](後に離婚[38])。小林は入団と同時に結婚するつもりでいたが、監督の川上哲治から一年間結婚を遅らせて野球に打ち込むよう諭され、結婚を延期していた[39]。この年から背番号40を19に変え、一軍に定着するようになる[40]。
1975年、川上に代わって長嶋茂雄が監督に就任した巨人は球団創設以来初めてセ・リーグ最下位となった。シーズン終了後、小林は投手コーチ杉下茂に反発して引退を決意し、プロゴルファー転向を考えたことがある。多摩川グラウンドで行われた秋季練習において気を抜いた素振りを見せた小林は杉下の怒りを買い、雨中を3時間にわたりランニングさせられた。「もう許してもらえるだろう」と思った小林がランニングを終えた時には練習は終了しており、小林を除く選手や杉下はグラウンドから引き上げていた。これに反発した小林は二軍コーチの宮田征典に電話をかけて引退する旨を伝え、ゴルフクラブを購入するなど練習を休んでプロゴルファー転向の準備を進めた。しかしチームメイトの高橋良昌から「一度でも死ぬ気になって野球に取り組んだことがあるか?野球を辞めるなんて言葉を吐くのは死ぬ気になってやった後にしろ」と諭され、翻意。高橋の勧めに従って杉下に謝罪し、練習に復帰した[41]。
翌1976年、張本勲、加藤初らをトレードで獲得するなど戦力補強を行った巨人は、2年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。小林は18勝、防御率2.99(いずれもリーグ2位)の成績を挙げ、10月16日の広島東洋カープ戦に救援登板して胴上げ投手となるなど活躍した[42]。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全7試合中6試合に登板、2勝1敗1セーブを記録する。1977年も巨人はリーグ優勝を果たし、小林は前年と同じく18勝(防御率2.92)を挙げた。最多勝、最優秀防御率のタイトルは獲得できなかったものの沢村賞を受賞し、ベストナインに選出された[43]。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは全5試合中4試合に登板。第1戦で日本シリーズ初先発を果たし山田久志と投げ合うが、早々に打込まれ2回で降板、敗戦投手となる。
江川事件
1978年11月20日、巨人は「入団交渉期間はドラフト会議当日から翌年のドラフト会議前々日(2日前)まで」とする野球協約の盲点を突く形で、前年のドラフト会議でクラウンライター・ライオンズから1位指名を受けた江川卓とドラフト会議前日にあたるこの日に入団契約を取り交わした(江川事件)[44]。
しかし、江川と巨人との入団契約をセ・リーグ会長の鈴木龍二は認めず、これに反発した巨人はドラフト会議をボイコットする。ドラフト会議では阪神タイガースが江川との交渉権を獲得したが、巨人は「全球団が出席しないドラフト会議は無効」と主張し、江川の地位保全を求める仮処分申請を東京地方裁判所に対し行うと同時に日本野球機構を脱退し新リーグ設立を画策した[45]。
12月21日、日本野球機構コミッショナーの金子鋭は「ドラフト会議は有効」とする見解を示し、「タイガースが江川に対する交渉権を有する」とする裁定を下したが、翌日になって「江川には一度阪神と入団契約を交わし、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という「強い要望」を表明した。一連の経緯に世間は反発すると同時に、江川のトレードの相手がどの選手になるかに関心が集まった[46]。トレード期限は1979年1月31日に設定され、新浦寿夫、高田繁、淡口憲治らと共に小林の名も取り上げられた[47]。なお、当初は江川と巨人の間では金銭トレードで話を進める取り決めになっていた[48]。
巨人のキャンプは2月1日に始まる予定であった。その前日である1月31日午前、小林はキャンプ地である宮崎へ飛行機で移動するため、都内のホテルから羽田空港に到着してチームメイトに合流しようとしたが、そこへ球団事務所庶務部長と球団職員によって呼び止められ、そのまま社旗を付けたハイヤーに乗せられて[49]ホテルニューオータニへと連行された[50]。ハイヤーを目にした時、小林は「え?オレか?これが現実なのか?」[49]と動揺し、「そうか、トレードは本当にあったんだ。俺だったのか」と気付いたという[51]。それまで小林には「まさかジャイアンツがそんなことはしないだろう。それをやっちゃあジャイアンツも終わりだよ」という思いがあった[52]。ホテルの一室には球団社長の長谷川実雄がおり、「君が了承してくれないとジャイアンツはセ・リーグを出ていかなくちゃいけないんだ」[49]「何とか事情を汲み取ってもらいたい」と述べた[53]。小林によると長谷川の口調は事務的で、決定事項の伝達のように感じられたという[53][54]。球団は30日に小林をトレード要員とすることを決め、小林の自宅へ電話をかけて連絡をとろうとしたが小林はホテルへ、家族も神戸へ移動していたため連絡がつかず、空港で小林を待ち受けることになった[50]。
小林は数時間かけて考えた末、トレードに同意し、2月1日午前0時に都内の球団事務所で記者会見を開いた[55]。スポーツライターの近藤隆夫は、なし崩し的に阪神に入団させられることを警戒していた[56]江川が午後4時20分に阪神との間で入団契約を結んでいることから、この時間帯には小林が移籍に同意していたのだろうと推測している[57]。記者会見で小林は、阪神への移籍に同意した旨を発表して「犠牲になったという気持ちはありません。僕自身、今でも巨人が好きです。江川君は話がうまくいったんだから、これから大変だと思うけれど、巨人の一員として頑張ってもらいたい」と語るなど毅然と振る舞った[58]。しかしそれは「冷静にふるまっている自分を見せようとしていた」に過ぎず[59]、内心では「もう早く解放してくれ」と思っていたという[60]。トレードに伴い、第三者の働きかけで
- 功労金3000万円支払い
- 引退時に日本テレビと巨人軍が就職斡旋
などの「覚書」が結ばれたが[49]、文書は球団が作成・保管して小林は一度も見たことはなかったとしている[49]。また、実際に履行されたのは功労金の支払いだけで、中畑清の引退時に日本テレビ解説者就任を小林が要望した際に、球団オーナーの正力亨から「あの件はもういいね?」と言われ、小林は承諾した[49]。これについて小林は「僕は将来の身分保証を平気で返しちゃうような人間だから、お金で動いたわけではないんです」と述べている[49]。
会見後、小林はチームメイトに挨拶して荷物を取りに行くために宮崎へ行こうとしたが、「君が行けばまた騒ぎになるし、選手たちも精神的動揺をきたすかもしれない」と球団から止められた[61]。
なお、2月8日に開かれたプロ野球実行委員会で巨人の行動は他球団から強く非難され、前年12月22日の金子による「強い要望」と小林 - 江川のトレードは白紙撤回され、
- 小林は改めて阪神へトレードする
- 江川の巨人への移籍は開幕日まで認めない
- 巨人は6月まで江川の選手登録を自粛する
といったことが決定された。また、金子はコミッショナーを辞任した[62]。
これをもって江川事件は一応の終結を迎えたとされるが[63]、小林の中で終結したのは、1987年に江川が現役引退を発表した日にオーナーの正力亨から電話で「江川が今日で辞めたよ。君にだけは報告しておく。キミには苦労をかけてしまった」と謝罪を受けた時だったという。小林はこの事実をテレビ番組の中で公表した[64][49]。
阪神タイガース時代
2月10日、小林は大阪市内で記者会見を開き、阪神タイガースへの入団を発表[65]。背番号は小林の強い要望により、巨人時代と同じ「19」に決まった[注 7]。会見を終えた小林はすぐさま阪神のキャンプ地である高知県安芸市へ向かった[65]。地元のラジオ局は小林の到着を臨時ニュースとして報道し[65]、翌2月11日には「悲劇のヒーロー」を見るために当時の安芸市の人口の半分にあたる1万2000人がキャンプ地の球場に詰めかけた[67]。当時阪神の主力選手だった掛布雅之によると、キャンプでの最初のミーティングの際、小林は挨拶で「巨人には伝統があるけれど阪神には伝統がない」と発言したという[68]。掛布はそれに対して「悔しかった」「なに言ってんだ」という印象を抱いたが、後年になって小林の真意は「勝利への執着心の差」を指摘したものではないかと述べている[68]。
小林は巨人への未練に苛まれながらも「ジャイアンツだけには負けたくない」と思うようになり、巨人戦に合わせて自分のローテーションを組むよう、監督のドン・ブレイザーに直訴。開幕2戦目となる4月10日の甲子園球場での試合を皮切りに、巨人戦8連勝を飾り「巨人のエースの怖さ」をまざまざと見せ付けた[69]。トレード前、小林には「自分はジャイアンツに必要なピッチャーなんだ」という自負があったが[70]、江川との交換要員となったことで「小林を出してでも江川を獲りたい」、「小林よりも江川のほうが戦力になる」と球団側が判断したのだと考え、プライドを大きく傷つけられていた[71]。巨人戦に登板した時の小林は普段見せるクールな態度を捨ててベンチ裏で声を出して気合を入れるなど、闘志をむき出しにした。また、巨人戦に登板する日はピリピリした雰囲気を漂わせ、新聞記者は球場入りした姿を見ただけで小林がその日の試合に先発することがわかったという[72]。この年、小林は22勝、防御率2.89という成績を挙げ、2年ぶりに沢村賞(史上2人目の複数球団での沢村賞達成)及びベストナインを獲得した[73]。掛布雅之は、小林が移籍初年にこの成績を残したことについて「巨人への意地のようなものを示した」と述べ、「生え抜き」で4番打者の自分に対して「こういう人に負けられない」というプレッシャーになったと述懐している[68][注 8]しかし小林自身は後に、この年のシーズンを以下のように否定的に振り返っている。
あの年に俺がやったことは野球選手として褒められたことじゃないんだよ。自分のためだけの野球をやっていたから。あんな事件があって、トレードで阪神に移って、悔しくてね。だから、『俺は生きるぞ、負けてなんかいないぞ』って主張したかった…それだけの野球。そんな野球は全然、駄目でしょ。チームより自分が先に立っていた…そんなのは、あざといだけの野球だよ。なのにファンもマスコミも俺が巨人に勝つたびに大騒ぎをする。世の中が、そんな風に動くのが嫌だった。『あんたら馬鹿か』と思いながら、それでも、俺は巨人に負けたくないと思って必死に投げていたんだ。結局、世間に踊らされていたんだよ、あの年の俺は。 — 近藤2010、162-163頁。
移籍2年目の1980年8月16日、後楽園球場で行われた巨人戦で初めて江川と投げ合った。3失点で完投した江川に対し小林は5回4失点で降板、試合は巨人が勝利し江川が勝利投手となった[74][75]。試合後、江川が興奮した様子を見せた[74]のに対し、小林は以下のようにコメントした。
こういうことはね、早く終わったほうがいいんだよ。大体、ふたりの投手が投げ合っただけじゃない。それなのにカメラにずっと追いかけられて、無駄な写真もいっぱい撮られて晒し者にされたような気分だったからね。……まぁ、僕の野球人生における煩わしいことが、これで終わった。あの子(江川)が勝ってよかったのかもしれない。負けていれば、何を言われるかわからないしね。 — 近藤2010、166-167頁。
小林は「去年ぶつかっていたら、こっちが勝っていたね。でも何か、巨人に対する意識が自分の中で変わりすぎちゃったよ」とも語った。近藤隆夫によると実際に小林はこの頃から、巨人戦の前であっても以前のようにピリピリした雰囲気を漂わせなくなった[76]。近藤は「小林が心底から燃えてマウンドに立つことができたのは実際のところ、移籍1年目の79年だけだったのかもしれない」と述べている[77]。1980年以降も小林は毎年2桁の勝利数を挙げたが、巨人戦では5勝15敗と負け越している[76]。小林によると、1980年以降巨人で若手選手が台頭して「同じジャイアンツのユニフォームを着ている別のチーム」になったことも、当初の「みなぎるような気持ち」が薄れることにつながったという[78]。
1982年離婚。最初の妻とは江川事件の前夜に大喧嘩し、喧騒の中で関係修復の機会もないままであった。
1982年シーズン終了後、小林は「来シーズン、15勝できなかったらユニフォームを脱ぎます」と宣言した[79]。この発言は次のシーズンへ向けた意気込みの表れと受け取られたが、小林は本当に引退を意識していた。原因の一つは右肘にあった。小林の右肘は1978年頃からまっすぐに伸ばすことができなくなり、82年には内側に強く曲げることができなくなった。さらに81年頃から下半身の踏ん張りが利かなくなり、肩の力に頼って全力投球を続けたことで右肘の状態はさらに悪化した[80]。また、年俸が上がらず巨人時代に経験した「チームとして勝つための野球」も経験できない中[注 9]、江川事件以来ついて回る「悲劇のヒーロー」というイメージにも嫌気がさし、「好きな野球をやっているんだ」という感覚、野球に対する情熱を失いつつあった[82]。また、この頃になると田淵幸一の放出に象徴される阪神の選手に対する扱いの冷たさや昇給に消極的な姿勢にも嫌気が差すようになりかつてのチームメイトに「巨人に帰りたい」と漏らすようになっていたことがスポーツニッポンにて報道されている[83]。
1983年シーズン開幕後、小林は15勝できるかどうかが判明する前に引退を決意することになった。6月25日の中日ドラゴンズ戦で、それまで「カモ」にしていた中日の大島康徳に「自信を持って投げた」インコースのシュートをホームランされる。この時小林はプロ野球選手になってから初めて、「ガクッと膝が抜け落ちるような虚脱感」に襲われたという。その後も小林は大島に打ち込まれ、8月に引退を決意した。引退時の心境について、小林は以下のように語っている[84]。
肩も肘もきつかったけど、騙し騙しやれば、次のシーズンも10勝はできたかもしれない。それに技巧派にスタイルを変えるという手もあったはずだと思う。でも自分が思い描いたボールが投げられなくなっているのに、投げ続けることにこだわろうとは思えなかったよ、あの時は。 こんなことを言っても仕方がないけれど、もし、あのトレードがなくて、ジャイアンツに残っていたとしたら、もっと長く現役を続けていただろうね。ジャイアンツにいたら35歳ぐらいまで、いや投げれる間はユニフォームを着ていたんじゃないかな。結局、あのトレードから、人の評価に振り回される僕の人生が始まった。自分のやりたいように生きていなかったね。周りの評価ばかり気にして、そんな自分が嫌で、つかれて、もう野球から離れたかったんだと思う。だから引退を決めた時、自分の野球人生を振り返ろうともしなかったし、感傷に浸ることもなかった。 — 近藤2010、175頁。
引退の真の理由が右手の血行障害であったことを、小林はチームメイトの川藤幸三にだけ打ち明けていた[85]。10月29日現役引退を表明した。
引退後
引退後、1984年から1991年まで、TBS[注 10]で野球解説者を務め[注 11]、テレビの『JNNスポーツチャンネル』、『筑紫哲也 NEWS23』各番組でスポーツキャスターを務めた。小林曰く、野球解説で用いる「見せ球」、「差し込まれる」といった表現は小林が考案したものだと言われている[88][注 12]。タレント・俳優としても活動し、プロ野球選手だった頃を上回る年収を手にするようになった[90]。1985年に阪神が日本シリーズを制した際には祝勝会を取材中、チームメイトでロッカーが隣だった川藤幸三に「お前はタイガースの一員じゃ」と言われ、ビールをかけられた[91]。
1992年、料理研究家の小林久美子と再婚[注 13]。久美子は翌年から2年間フランスで料理の修業をするなどし、別居生活が続いた。
1995年から1996年までは、朝日放送(ABC)[注 14]・サンテレビで野球解説者を務めた[注 15]。
その間の1995年7月、川上哲治からさわやか新党の候補者として第17回参院選に立候補するよう依頼され、妻からの資金的援助も得て同党代表として比例区第1位で立候補するも落選。党の得票率は1%に満たなかったため、供託金は没収、広告費用は自己負担となった。立候補のためにテレビ・ラジオの番組やCMは全て降板しており、小林は大きな経済的ダメージを被った[94]。さらにバブル景気崩壊により、現役時代から行っていた飲食や不動産事業などの経営状況が悪化、借金を抱えることになった[95]。
1997年、近鉄バファローズ(1999年より大阪近鉄バファローズ)の一軍投手コーチへ就任。同年シーズンは3位入りに貢献するも、翌1998年5位に沈むとその責任を取らされて二軍投手コーチに降格となった。2000年に梨田昌孝[注 16]が一軍監督に就任して以降は一軍投手コーチに復帰した。2001年に近鉄はパシフィック・リーグ優勝を果たしたが、小林はこの年を限りに退団。理由はチーム防御率が4.98と悪かったことに加え、前述の借金問題にあった[97]。
その後は前述の川藤幸三の紹介で福井県あわら市内のゴルフ場の支配人を務めた[98](その間、J SKY SPORTSの野球解説者を務めることもあった[注 17])。2003年9月、東京地方裁判所に自己破産を申請、ゴルフ場の支配人を辞した[100]。小林は当時の負債額について「1台数億円する外車2台分」と語っている[100]。その後、小林は福井県に身を置きつつ、2006年に東京スポーツの専属評論家[注 18]、2007年に韓国プロ野球・SKワイバーンズの二軍投手インストラクターに就任した[101][注 19]。[注 20]
2008年、かねてから特別コーチとして指導をしていた少年野球チーム「オールスター福井」の総監督に就任[103][104]。2009年、北海道日本ハムファイターズの二軍投手コーチに就任[86]。江尻慎太郎、糸数敬作をオーバースローからサイドスローに転向させた[105]。2009年のシーズン終了後、小林は福井へ戻り、オールスター福井の指導を行い、第87回選抜高等学校野球大会で優勝した敦賀気比高校の平沼翔太投手や山本晧大選手などを育成した[106]。
江川との和解
小林は1999年発行の『元・巨人 ジャイアンツを去るということ』の中で、江川について、「江川個人に対する恨みつらみはない。ただ、他人の人生を変えてしまったことは、まぎれもない事実です」[107]「一人の人間のとった行動が、別の誰かの人生を全く違う方向に押しやってしまったわけですよ。そういうわだかまりみたいなものはやっぱりあります」[107]と述べた上で、次のように語っていた。
結局、価値観の違う人間なんだと思っています。自分がこうしたいという望みがあるときに、それは自分の手でつかむものであって、何かを踏み台にしたり、誰かを犠牲にしたりして得るものではない、というのが本質的に僕の考え方だから。だから、僕には彼がまったく異質な人間としか思えない。 よく、あのときのバッシングによって、彼も苦しみを味わったんだと言う人がいる。でも、それは自分が前向きに選んだことでしょう。誰かに「そうしなさい」と言われてしたことじゃなくて。……だから本人は、そういう覚悟の上で、やらざるを得ないでしょう。そこでバッシングを受けたから可哀想なんじゃなくて、彼の立場からすれば、それは甘んじて受けるという覚悟で入らなければいけない。初めから、そうなるのはわかっていたことでしょう。 — 矢崎1999、34-35頁。
2007年の秋、博報堂が黄桜のCMを手掛け、江川と小林が日本酒を飲みながら対談する企画が持ち上がった。当初小林は「いまさらコマーシャルに出るつもりはない」「俺がやると言っても、江川君はどうなの?断ると思うよ」としたが、江川の「小林さんさえよければやりたい」という意向を聞いて承諾した[108]。CMのテーマは両者の和解であった[109]。
事前打合せ無しのまま対談収録がスタート。小林と江川はそれまで殆ど直接会話をしたこともないことから、江川は「謝罪」をテーマに収録に臨み、「本当に長い間、申し訳ございませんでした」と乾杯前に謝罪した。それに対し小林は「謝ることないじゃん!」と返答し、「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな。二人ともしんどかった」と江川に語り掛けた。また、小林は本編で盃を傾けながら「(今回のCM出演で)ホッとする時間を作って頂けた。残りの人生が少し違ったものになるんじゃないかな」と話している。
小林は対談後、江川について以下のように語っている。
若い頃って、自分がしんどいことばかり考えているんですよ。だけど、たぶん江川も、すごくしんどかったんですよね。もしかしたら俺よりも苦しい人生を送ってきたのかもしれない…。だから結末をつけてやらなきゃいけないかなって思ったね。彼のしんどさに結末をつけないと、俺も結末がつかないからね。 あと江川と話して、もうひとつ解ったことがあるんだ。それは、あいつにも趣味がない。俺にも趣味がないように。事故が恐いからって、週末に家族をドライブに連れていこうともしなかったんだ。俺たちには、野球がすべてだった。家族を犠牲にしてまで、俺たちは野球をやっていた。あいつも夢中で野球をやっていたんだなぁって実感した。 — 近藤2010、197頁。
突然の死
2010年より一軍投手コーチに昇格し[注 21]、新シーズンへ向けて準備を進めていたが、キャンプインを2週間後に控えた1月17日、福井市内の自宅で「背中が痛い」と体調不良を訴え、福井県立病院に救急搬送された。病院搬送時には心肺停止状態であり、蘇生措置が施されたが午前11時頃に心筋梗塞による心不全で死去した[110][111]。57歳没。前日には日本ハム本社のイベントに出席。いつもと変わらぬ元気な姿を見せており、突然の訃報は各界に大きな衝撃を与えた。19日に通夜、翌20日に告別式が福井市内でそれぞれ営まれ、巨人時代の盟友だった新浦壽夫を始めとする関係者や友人など約500人が参列。喪主は内縁関係にあった女性(小林にとっては事実上3番目の妻)が務めた。法名は「球愛院釋静繁」[112]。
3月3日、札幌ドームで行われた日本ハムと阪神の試合が「小林繁追悼試合」として行われた[113]。同じく3月、鳥取県倉吉市のショッピングモール「パープルタウン」で追悼展『ありがとう 小林繁投手』が開催された[注 22]。
遺骨の一部は福井県吉田郡永平寺町東古市の本覚寺に納められており、2016年1月の7回忌にあたり、総監督を勤めたオールスター福井によって、菩提寺である本覚寺に記念碑が建立された[115]。
選手としての特徴
阪神に移籍した頃に日本のプロ野球界にスピードガンが導入されたが、小林の投げる球の速さは最速で時速130キロ台後半であった[116]。小林は自身について、「野球選手としての、もともとの能力は、そんなに高くない」と評している。その上で、「カラダのあるピッチャーは80%の力を出しただけで俺よりも10キロ以上も速いボールを投げることができるが、俺はあのスピードしか出ないけれど一球一球を常に120%の力を出して投げていた」と述べている[116]。
小林のピッチングフォームは王貞治の一本足打法を参考に構築されたもので、「カラダを沈みこませるようにして一本足の状態で一度深くタメをつくり、そこからタメの時間を調整して相手打者のタイミングを外すようにして」投げるというものであった[117]。小林曰く「世界一のバッターである王さんを抑えるにはどうすればいいか」と考えた結果編み出したフォームであったため、王は「一番投げやすい相手」だった[118]。ジャイアンツ時代、小林は阪神のアンダースロー投手上田次朗を想定した打撃練習で投手役を務めていた[119]が、王は小林の投げる球にタイミングが合わず、打撃練習の後で調子を崩すこともあった[117]。阪神移籍後も小林は王に対して相性がよく、王は小林を攻略するために一本足打法を封印し、二本足で打席に立ったこともある[120]。
阪神時代に小林とバッテリーを組んでいた若菜嘉晴は小林について「牽制球が上手く投げられなかった」と語っている。スナップスロー(手首を使って投げること)を苦手とし、1982年4月3日の横浜大洋ホエールズ戦では打者高木嘉一を敬遠しようとして投げたボールが三塁側に逸れて暴投となり、サヨナラ負けを喫している。「敬遠暴投によるサヨナラ負け」は、1952年に金田正一が記録して以来、2例目であり[121][122]、開幕戦では史上初であった。
掛布雅之によると、ピンチになってもマウンドに内野手が集まることを拒み、「それがオレの美学だ」と言っていたという[68]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1973 | 巨人 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 40 | 11.1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.62 |
1974 | 44 | 9 | 2 | 1 | 0 | 8 | 5 | 2 | -- | .615 | 538 | 130.1 | 125 | 10 | 29 | 5 | 4 | 72 | 2 | 0 | 48 | 35 | 2.42 | 1.18 | |
1975 | 28 | 12 | 3 | 1 | 1 | 5 | 6 | 0 | -- | .455 | 456 | 106.1 | 103 | 8 | 32 | 5 | 14 | 42 | 0 | 0 | 50 | 39 | 3.31 | 1.27 | |
1976 | 43 | 29 | 7 | 1 | 1 | 18 | 8 | 2 | -- | .692 | 868 | 217.1 | 192 | 30 | 47 | 5 | 9 | 129 | 0 | 0 | 77 | 72 | 2.99 | 1.10 | |
1977 | 42 | 30 | 11 | 3 | 0 | 18 | 8 | 7 | -- | .692 | 897 | 216.1 | 197 | 25 | 65 | 9 | 4 | 155 | 0 | 2 | 89 | 70 | 2.92 | 1.21 | |
1978 | 43 | 31 | 5 | 0 | 2 | 13 | 12 | 2 | -- | .520 | 805 | 191.1 | 176 | 23 | 73 | 11 | 12 | 130 | 3 | 1 | 97 | 87 | 4.10 | 1.30 | |
1979 | 阪神 | 37 | 36 | 17 | 5 | 2 | 22 | 9 | 1 | -- | .710 | 1129 | 273.2 | 227 | 23 | 75 | 7 | 15 | 200 | 4 | 0 | 101 | 88 | 2.89 | 1.10 |
1980 | 37 | 34 | 21 | 1 | 0 | 15 | 14 | 0 | -- | .517 | 1127 | 280.1 | 241 | 36 | 57 | 3 | 20 | 179 | 1 | 0 | 104 | 94 | 3.02 | 1.06 | |
1981 | 32 | 30 | 17 | 2 | 2 | 16 | 10 | 2 | -- | .615 | 937 | 230.0 | 202 | 15 | 53 | 7 | 14 | 156 | 0 | 1 | 82 | 77 | 3.01 | 1.11 | |
1982 | 27 | 25 | 4 | 2 | 1 | 11 | 9 | 0 | -- | .550 | 688 | 163.1 | 154 | 17 | 47 | 3 | 8 | 95 | 1 | 0 | 72 | 62 | 3.42 | 1.23 | |
1983 | 35 | 32 | 9 | 3 | 2 | 13 | 14 | 1 | -- | .481 | 890 | 209.0 | 202 | 31 | 60 | 3 | 11 | 109 | 0 | 0 | 116 | 94 | 4.05 | 1.25 | |
通算:11年 | 374 | 268 | 96 | 19 | 11 | 139 | 95 | 17 | -- | .594 | 8375 | 2029.1 | 1824 | 218 | 540 | 58 | 111 | 1273 | 12 | 4 | 836 | 718 | 3.18 | 1.16 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最多勝利:1回 (1979年)
表彰
記録
初記録
- 初登板:1973年9月26日、対中日ドラゴンズ24回戦(後楽園球場)、7回表に3番手で救援登板・完了、3回無失点
- 初奪三振:同上、7回表に江藤省三から
- 初勝利:1974年4月20日、対中日ドラゴンズ1回戦(後楽園球場)、4回表に2番手で救援登板・完了、6回無失点
- 初先発・初完投勝利・初完封勝利:1974年5月26日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)
- 初セーブ:1974年6月2日、対ヤクルトスワローズ9回戦(後楽園球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
節目の記録
- 1000投球回:1979年7月3日、対ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表2死目に達成
- 100勝:1981年4月28日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(横浜スタジアム)、10回2失点完投勝利 ※史上79人目
- 1500投球回:1981年5月29日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(横浜スタジアム)、9回裏1死目に達成
- 1000奪三振:1981年8月4日、対横浜大洋ホエールズ16回戦(横浜スタジアム)、4回裏に屋鋪要から ※史上62人目
- 2000投球回:1983年9月4日、対ヤクルトスワローズ20回戦(札幌市円山球場)、4回裏2死目に達成
その他の記録
- オールスターゲーム出場:7回 (1976年 - 1981年、1983年)
- 日本シリーズ登板試合:6(1976年) ※シリーズタイ記録
- 日本シリーズ連続無走者:23(1976年第3戦途中~第7戦) ※当時シリーズ記録(2007年第5戦山井大介が24に更新)
背番号
- 40 (1973年)
- 19 (1974年 - 1983年)
- 70 (1997年 - 2001年)
- 79 (2009年)
関連情報
著書
- 『男はいつも淋しいヒーロー』プロメテウス出版社、1983年。ISBN 4938499010。
- 『小林繁の楽しい野球:投手編』(小峰書店、1989年9月、ISBN 4338085053)
関連書籍
- 矢崎良一『元・巨人:ジャイアンツを去るということ』 ザ・マサダ、1999年。ISBN 4-915977-79-X。
- 近藤隆夫『情熱のサイドスロー:小林繁物語』 竹書房、2010年。ISBN 4-8124-4187-0。
連載
ディスコグラフィー
- 「亜紀子」(1979年)オリコン最高41位、キャニオンレコードによると発売1か月で10万枚突破[125]。B面は「夢に揺られて」。
- 「昨日の女」(1980年)
- 「まわり道」(1980年)
- 「しのび逢い」(1982年)
- 「ゆれて赤坂ナイトパブ」(小林繁&よしえ、1984年)B面は「可愛いあいつ」。
出演番組
※ゲスト出演含む
ラジオorテレビ
- プロ野球中継(各放送局) - 解説
テレビ
- JNNスポーツチャンネル(TBSテレビ。メインキャスター)[注 25]
- 筑紫哲也 NEWS23(TBSテレビ。スポーツコーナーキャスター)[注 26]
- 料理天国(TBSテレビ。司会)
- 地球発19時(毎日放送テレビ。ナビゲーター)[注 27]
- どんまい!! VARIETYSHOW&SPORTS(日本テレビ。1994年4月 - 9月)
テレビドラマ
- 悪党狩り(東京12チャンネル。第13話「腕くらべ盗賊合戦」) ※阪神投手時代の1980年から1981年に放送。
- ビートたけしの学問ノススメ(1984年、TBSテレビ) - 芥川圭 役[注 28]
- パパはニュースキャスター(1987年、TBSテレビ。本人役・ドラマ内で田村正和がメインキャスターを務めた、架空のニュース番組のスポーツキャスターとして出演)[注 29]
- 赤い秘密(1985年、TBSテレビ)[131]
- 木曜ゴールデンドラマ「あなたは妻を救えるか」(1985年8月8にてょうそう。読売テレビ)[132]
- 新春ドラマスペシャル「翔んでる警視II」(1987年1月3日放送。TBSテレビ)
ラジオ
- ゴールデンワイド(TBSラジオ)[注 30]
- 小林繁のトワイライトタイム(1990年10月13日 - 1991年3月30日、土曜18:30 - 19:00、TBSラジオ)[134]
- マンデーナイトベースボール(1986年 - 1993年、TBSラジオ) ※ナイター中継枠のうち、試合予定のない月曜に放送[137]
- 吉田照美のやる気MANMAN!(文化放送。コーナー出演)
出演映画
出演CM
- エフワン(1979年)
- キリンビバレッジ「キリントマトジュース」(小林亜星と共演)
- 朝日オートセンター(1984-1985年)
- メガネトップ(1985年。高島忠夫と共演)
- 黄桜(テレビCM) ※江川卓と共演したものが2007年10月11日より放映[138][注 34]
脚注
注釈
- ^ 参考(出身地):
- ^ 小林は小学生の時に軟式野球用のボールでドロップカーブを投げられるようになっていた[10]。
- ^ 1970年5月2日付「日本海新聞」は、由良育英高校を「小林投手のワンマンの感じが強い」と評している[14]。
- ^ 推薦枠の廃止は当時の大学紛争の影響であったという[16]。小林は関西大学の練習にも参加していた[16]。同様に練習に参加しながら推薦枠廃止で進学しなかった選手に田尾安志(同志社大学に進学)がいる[16]。当時関西大学に在学していた山口高志とは後年まで親交があった[17]。
- ^ 近藤隆夫によると、「タメを深くつくる投球モーションは明らかにアンダースローのそれである。しかし、ボールを離すまでの腕の軌道はサイドスロー」であった[21]。小林のフォームは一般にはサイドスローと表現されることが多いが、小林の物真似をしていた明石家さんま(お笑いタレント)が「Mr.アンダースロー」というタイトルのレコードを出したように一部ではアンダースローと表現されていた[22]。
- ^ 当時は前年のドラフト会議指名後、3月からのシーズンで社会人チームに所属していた場合、秋の日本産業対抗野球大会が終了するまではプロへの入団はできなかった。
- ^ 阪神ではそれまで工藤一彦が背番号19で、小林の移籍に伴い26に変更した[66]。
- ^ 掛布はそのシーズン、自己ベストの48本で本塁打王を獲得した。
- ^ 近藤隆夫によると、タイガースはジャイアンツとは異なり、皆で力を合わせて勝つんだという意識が薄いチームであった[81]。
- ^ a b 1951年5月にラジオ東京として会社設立。同年12月25日にラジオ放送局として開局。1953年12月よりKRTの略称を採用。1955年4月にテレビ本放送開始・ラテ兼営局となる。1960年11月29日に社名を東京放送・略称をTBSへ変更。以降、ラジオ局部門について「東京ラジオ」(1961年以降は「TBSラジオ」)、テレビ局部門については「東京テレビ」(1961年以降は「TBSテレビ」)と呼ばれるようになる。2001年10月にラジオ局部門がTBSラジオ&コミュニケーションズ(略称:TBS R&C)、2009年4月にテレビ局部門がTBSテレビへそれぞれ分離し、放送持株会社化(社名を東京放送ホールディングス・略称をTBSHDにそれぞれ変更)。TBSの略称はTBSテレビへ移行した。2016年4月にTBS R&CはTBSラジオへ社名変更。2020年10月にTBS HDはTBSホールディングスへ社名変更。
- ^ a b 参考:
- ^ 参考:
- 「差し込まれる」という表現を考案したことについては、次の記事でも本人発言として紹介されている[89]。
- ^ 妻・久美子はフジテレビ系で当時放送されていた料理バラエティ番組「料理の鉄人」への出演歴があり(1998年6月5日放送回、相手はフレンチの鉄人坂井宏行)、シーズン中のOAながら小林本人も同番組に出演している。
- ^ a b c 1951年3月15日に朝日放送(ABC)として会社設立。同11月11日にラジオ単営局として開局。1959年6月に大阪テレビ放送(OTV)を合併しラジオ・テレビ兼営局となる。2018年4月に朝日放送グループホールディングスへと社名変更・放送持株会社化し、ラジオ放送業務は朝日放送ラジオ(ABCラジオ)、テレビ放送業務は朝日放送テレビ(ABCテレビ)としてそれぞれ子会社の運営に移行。
- ^ a b 参考:
- ^ 梨田は小林の一学年下で、当時隣県の島根県内にある浜田高校野球部に所属していた[96]。
- ^ a b 参考:
- ^ 参考:
- 東京スポーツ専属評論家だったことについては次の情報を参照。
- 2006年当時…[89]
- 東京スポーツ専属評論家だったことについては次の情報を参照。
- ^ 参考:
- ^ その間、2005年から2008年までの『12球団全選手カラー百科名鑑』では、CS系の解説者として紹介されていた[3][4] [5][6]。
- ^ 参考:
- 2010年に一軍投手コーチとなったことは、次の資料を参照(平成22年表記[86])。
- ^ この追悼展では、小林が高校時代に出場した全試合(練習試合を含む)のスコアブックや、父親が作ったスクラップブック、大丸時代に呉服売り場で行われた研修の様子を収めた写真などが展示された[114]。
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 1987年…4月11日西武対日本ハム戦[126]
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- 次の資料より、出演者として明記[127]。
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ TBSラジオがナイターオフ番組として月曜から金曜に編成された番組[133]。1972年10月9日から1973年4月13日まで19:00 - 21:00に放送ののち、1973年10月8日から改めて20:00からの枠で放送開始。1986年4月3日まで放送[133]。
- ^ 1950年12月15日に中部日本放送として会社設立(略称:CBC)。1951年9月1日にラジオ単営局として開局。1956年12月にテレビ本放送も開始しラジオ・テレビ兼営局となる。2013年4月にラジオ放送業務はCBCラジオ、2014年4月にテレビ放送業務はCBCテレビとしてそれぞれ子会社の運営に移行。テレビ放送の移管に伴い放送持株会社化した。
- ^ 参考:
- ^ 参考:
- ^ 参考:
出典
- ^ a b c 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』(『ホームラン』2003年3月号増刊。同29日、日本スポーツ出版社発行)P237掲載のプロフィール
- ^ a b c 『12球団全選手カラー百科名鑑2004』(『ホームラン』2004年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P237掲載のプロフィール。
- ^ a b c 『12球団全選手カラー百科名鑑2005』(『ホームラン』2005年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P237掲載のプロフィール。
- ^ a b c 『12球団全選手カラー百科名鑑2006』(『ホームラン』2006年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P237掲載のプロフィール。
- ^ a b c 『12球団全選手カラー百科名鑑2007』(『ホームラン』2007年3月号増刊。同26日、日本スポーツ出版社発行)P236掲載のプロフィール。
- ^ a b c 『12球団全選手カラー百科名鑑2008』(『ネットマネー』2008年3月号増刊。同31日、廣済堂出版発行)P280掲載のプロフィール。
- ^ 近藤2010、16-19頁。
- ^ 「プロ野球人国記中国編完全版」(ベースボール・マガジン社編)
- ^ 近藤2010、20頁。
- ^ 近藤2010、18-19頁。
- ^ a b 近藤2010、24頁。
- ^ 近藤2010、25-27頁。
- ^ 近藤2010、29-30・32頁。
- ^ 近藤2010、31頁。
- ^ 近藤2010、30-37頁。
- ^ a b c 鎮2014、62頁
- ^ 鎮2014、185頁
- ^ 近藤2010、38-42・45頁。
- ^ 近藤2010、45-47頁。
- ^ 近藤2010、47-48頁。
- ^ 近藤2010、47頁。
- ^ 近藤2010、48頁。
- ^ 近藤2010、48-51頁。
- ^ 近藤2010、19頁。
- ^ 近藤2010、55頁。
- ^ 近藤2010、55-59・62頁。
- ^ 近藤2010、62頁。
- ^ 近藤2010、59-63頁。
- ^ 近藤2010、64-65頁。
- ^ 近藤2010、66-67頁。
- ^ 近藤2010、67-68頁。
- ^ 近藤2010、70-73・78頁。
- ^ 近藤2010、180頁。
- ^ 近藤2010、76-77頁。
- ^ 近藤2010、77-79頁。
- ^ 近藤2010、79-84頁。
- ^ a b 近藤2010、85頁。
- ^ 近藤2010、123-124頁。
- ^ 近藤2010、76頁。
- ^ 近藤2010、88頁。
- ^ 近藤2010、94-100頁。
- ^ 近藤2010、100-103頁。
- ^ 近藤2010、105頁。
- ^ 近藤2010、108・111-112頁。
- ^ 近藤2010、112-113頁。
- ^ 近藤2010、113-122頁。
- ^ 近藤2010、122頁。
- ^ 江川氏「申し訳ない。一生消えない」
- ^ a b c d e f g h 文春2000、29-30頁。
- ^ a b 近藤2010、123-125頁。
- ^ 近藤2010、124頁。
- ^ 矢崎1999、19・23・25頁。
- ^ a b 近藤2010、125頁。
- ^ 矢崎1999、25頁。
- ^ 近藤2010、129頁。
- ^ 近藤2010121-122頁。
- ^ 近藤2010、130頁。
- ^ 近藤2010、130-131頁。
- ^ 矢崎1999、31頁。
- ^ 近藤2010、131頁。
- ^ 近藤2010、133頁。
- ^ 近藤2010、138-139頁。
- ^ 近藤2010、139頁。
- ^ 矢崎1999、52-53頁。
- ^ a b c 近藤2010、142頁。
- ^ 近藤2010、144頁。
- ^ 近藤2010、147頁。
- ^ a b c d 江川・掛布2010、82 - 84頁。
- ^ 近藤2010、149-155頁。
- ^ 矢崎1999、20頁。
- ^ 近藤2010、127-128頁。
- ^ 近藤2010、155頁。
- ^ 近藤2010、162頁。
- ^ a b 近藤2010、166頁。
- ^ 1980年8月16日 電撃トレードから564日、江川卓VS小林繁 雨中の決着 日めくりプロ野球8月 スポーツニッポン
- ^ a b 近藤2010、167-168頁。
- ^ 近藤2010、168頁。
- ^ 矢崎1999、47-48頁。
- ^ 近藤2010、171頁。
- ^ 近藤2010、171-172頁。
- ^ 近藤2010、164頁。
- ^ 近藤2010、172-173頁。
- ^ 山田隆道『粘着!プロ野球むしかえしニュース』宝島社、2013年、11頁。
- ^ 近藤2010、173-174頁。
- ^ 川藤ひとりだけに打ち明けていた引退の真相。(5/5) - 『Number Web』2010年4月9日配信。※『Sports Graphic Number』751号「創刊30周年特別編集 プロ野球 人間交差点 2010」(2010年4月1日発売)掲載『江川卓×小林繁 「“悲劇のヒーロー”流転の31年間」』(文:阿部珠樹)からの再録(有料会員限定記事)。
- ^ a b c d e f g h トゥルーマサ公式サイト内プロフィール(インターネットアーカイブ2010年1月20日付保存キャッシュ)
- ^ 『TBS50年史』資料編P234掲載「主なスポーツ番組解説者」より、プロ野球解説者一覧を参照。
- ^ 近藤2010、182頁。
- ^ a b c d 小林繁さんの言葉 - 『東スポWEB』(東京スポーツ電子版)内「デスク発ウラ話」 2017年6月12日12時配信(文:山口真司=運動部デスク)
- ^ 近藤2010、186頁。
- ^ 近藤2010、185頁。
- ^ 『'95プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1995年3月号増刊。同15日、日本スポーツ出版社発行)P203掲載のプロフィール。
- ^ 『'96プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1996年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P202掲載のプロフィール。
- ^ 近藤2010、187-188頁。
- ^ 近藤2010、188頁。
- ^ 近藤2010、44頁。
- ^ 近藤2010、188-189頁。
- ^ 近藤2010、189-190頁。
- ^ Jスカイスタジアム2002 ヤクルト vs 中日(05/03) - J SKY SPORTS公式サイトより、2002年5月3日18:00から放送予定のヤクルト対中日戦中継情報(インターネットアーカイブ同4月24日付保存キャッシュ) ※解説者として「小林 繁」のクレジットあり。
- ^ a b 近藤2010、190頁。
- ^ 近藤2010、196頁。
- ^ a b c d トゥルーマサ公式サイト内プロフィール(インターネットアーカイブ2008年8月27日付保存キャッシュ)
- ^ 近藤2010、198-199頁。
- ^ “小林総監督永眠”. オールスター福井. 2010年10月12日閲覧。
- ^ 近藤2010、206-209頁。
- ^ 近藤2010、209頁。
- ^ a b 矢崎1999、34頁。
- ^ 近藤2010、9-10頁。
- ^ 近藤2010、12頁。
- ^ 近藤2010、213-214頁。
- ^ 小林繁さん急死=57歳 巨人、阪神の元投手 毎日新聞 2010年1月17日閲覧
- ^ 近藤2010、215頁。
- ^ 近藤2010、215-216頁。
- ^ 近藤2010、44-45頁。
- ^ “小林繁さん功績たたえ記念碑建立 山田修義や平沼翔太を指導”. 福井新聞. 2016年1月16日閲覧。
- ^ a b 近藤2010、169頁。
- ^ a b 近藤2010、157頁。
- ^ 矢崎1999、45-46頁。
- ^ 近藤2010、78頁。
- ^ 近藤2010、158-161頁。
- ^ 近藤2010、170頁。
- ^ 1982年4月3日 完封のはずが…阪神・小林、敬遠暴投でサヨナラ負け 日めくりプロ野球4月 スポーツニッポン
- ^ 小林繁さんが語った江川事件(2) - 『東スポWEB』内「ハミ出し東スポ」【小林繁の細腕波乱半生記:プレイバック2】2010年1月18日配信 ※『東京スポーツ』2006年5月24日付紙面からの再録。リンク先は、インターネットアーカイブ2011年12月11日付保存キャッシュ
- ^ 『東京スポーツ』2019年3月29日付6面に掲載された近藤昭仁の訃報より、1987年当時の本紙野球評論家による対談企画にて、近藤、千葉茂、大下剛史とともに臨む様子が写真付きで紹介。
- ^ 【12月19日】1979年(昭54) 阪神・小林繁、オフはステージで“ショー利”投手?、スポーツニッポン。(2009/10/14閲覧)
- ^ 『ザ・テレビ欄』P200掲載1987年4月11日付TBSテレビ番組表。午後3:00 - 4:54『プロ野球(西武) [西武]-[日本ハム]』を参照。“スタジオキャスター=小林繁”“[解]田淵幸一”“リポーター=定岡正二”のクレジットあり。 ※放送日時は、原資料に基づく。“[ ]”に球団名…“□”に球団名、“[解]”…“□”に“解”。
- ^ a b c 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』のテレビ番組データベースより、出演者別リスト→「こ」→「小林繁」節の番組一覧を参照。
- ^ a b c allcinemaのプロフィールを参照。
- ^ ビートたけしの学問ノススメ - テレビドラマデータベース
- ^ パパはニュースキャスター - テレビドラマデータベース
- ^ 赤い秘密 - テレビドラマデータベース
- ^ あなたは妻を救えるか - テレビドラマデータベース
- ^ a b c 『TBS50年史』資料編P187に掲載された『ゴールデンワイド』番組情報(1972年10月9日から1973年4月13日までの放送分、1973年10月8日から1986年4月3日放送分がそれぞれ別個に紹介)より、1984年10月8日からの編成分と1985年10月7日からの編成分を参照。
- ^ a b c 『TBS50年史』DVD-ROM『ハイブリッド検索編』のラジオ番組データベースより、出演者別リスト→「こ」→「小林繁」節の番組一覧を参照。
- ^ 1984年10月期のTBSラジオ番組表 - 『ラジオ東京スピリッツ』で配信されたPDFファイル(インターネットアーカイブ2012年3月9日付保存キャッシュ)
- ^ 1985年10月期のTBSラジオ番組表 - 『ラジオ東京スピリッツ』で配信されたPDFファイル(インターネットアーカイブ2012年3月9日付保存キャッシュ)
- ^ 『TBS50年史』資料編P192より、『マンデーナイトベースボール』番組情報を参照。 ※出演者の一人として明記。
- ^ 黄桜CMで、小林繁さん・江川卓さんが初共演!! - 黄桜公式サイト内ニュースリリース2007年10月12日配信分
参考文献
- 近藤隆夫『情熱のサイドスロー 小林繁物語』竹書房、2010年。ISBN 4-8124-4187-0。
- 矢崎良一『元・巨人 ジャイアンツを去るということ』ザ・マサダ、1999年。ISBN 4-915977-79-X。
- 週刊文春2000年1月6・13日新年特大号『小林繁が初めて明かす江川卓「空白の一日」』文藝春秋、2000年。
- 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年。ISBN 4-06-219260-8。
- 江川卓・掛布雅之『巨人 - 阪神論』角川書店、2010年。ISBN 978-4-04-710234-7。
- 『ザ・テレビ欄 1975〜1990』(2009年3月31日、TOブックス発行) ISBN 9784904376072 ※1975年から1990年に発行された『スポーツニッポン』『報知新聞』各紙東京版テレビ欄の一部が収録(奥付に「協力」として「株式会社スポーツニッポン新聞社」「株式会社報知新聞社」のクレジットあり)。
- テレビドラマデータベース
- ラジオ東京スピリッツ(TBSラジオ開局60周年記念特設サイト。インターネットアーカイブ2012年3月1日付保存キャッシュ)より配信された、TBSラジオ番組表
関連項目
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 鳥取県出身の人物一覧
- 明石家さんま - お笑いタレント。若手時代には、小林の物まねを持ちネタとしており、小林を題材にした楽曲『Mr.アンダースロー』を歌唱している。
外部リンク
ウィキニュースに関連記事があります。訃報 小林繁氏
- 個人年度別成績 小林繁 - NPB.jp 日本野球機構
- 小林 繁 - テレビドラマデータベース内「テレビドラマ人名録」
|