「厳島 (防護巡洋艦)」の版間の差分
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2021年9月18日 (土) 07:13時点における版
厳島 | |
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基本情報 | |
建造所 | 地中海造船鉄工所[1](Forges et Chantiers de la Mediterrane[2]、フランス、ラ・セーヌ[1]) |
艦種 | 海防艦[3]、防護巡洋艦[4] |
母港 | 呉[5] |
艦歴 | |
計画 | 明治18年(1885年)度[1] |
起工 | 1888年1月7日[4][6] |
進水 | 1889年7月18日[4][6] |
竣工 | 1891年9月3日[4][6] |
除籍 | 1919年4月1日[6][7] |
その後 | 1925年廃船認許[8]、その後売却[1] |
要目 | |
排水量 |
4,210英トン[6] 1894年6月時:4,278英トン[3][9] |
全長 | 325 ft 6 in (99.21 m)[10] |
水線長 | 301 ft 0 in (91.74 m)[10] |
垂線間長 | 295 ft 0 in (89.92 m)[10] |
水線幅 | 51 ft 3 in (15.62 m)[10] |
深さ | 35 ft 0 in (10.67 m)[10] |
吃水 | 平均:20 ft 0 in (6.10 m)[10] |
ボイラー | 低円缶 6基[11] |
主機 | 横置3気筒3段レシプロ 2基[12] |
推進 | 2軸 x 108rpm(内回り)[12] |
出力 |
5,830馬力[12] 公試:5,123馬力[9] |
速力 | 16ノット公試:17.0ノット[9] |
燃料 |
石炭:680トン[11] 1904年:石炭683トン[13][9] |
乗員 | 1890年10月定員:360名[14] |
兵装 |
32cm砲1門 12cm砲11門 47mm砲5門 35.6cm魚雷発射管4門 |
装甲 |
甲板:2in(50.8mm)[15] 砲塔:12in(305mm)[15] 砲盾:4in(102mm)[15] |
その他 | 船材:鋼[6] |
厳島(いつくしま)は日本海軍の海防艦[3]、または防護巡洋艦[4]。 艦名は名所の名で日本三景の一つ、安芸国厳島から採られた[6]。 松島、橋立は姉妹艦[6]。
概要
日清戦争に参加。 日露戦争では第三艦隊旗艦として活躍し、日本海海戦においてバルチック艦隊発見を受電して急行、その後バルチック艦隊と並走して東郷平八郎司令長官に向け、正確な位置、隊形、針路などを詳細に通報し、海戦の前座を見事に務めた。
なお、松島型二番艦とするのが普通であるが、松島より先に起工、竣工しているため、厳島型と呼ばれることもある。
艦型
建造にいたる経緯については、松島を参照。主砲であるカネー社製32cm(38口径)単装砲は、松島と違い前部甲板に据え付けられたため、艦形としては収まりがよい。また、副砲以下の装備についても若干相違がある。
艦歴
建造
1888年(明治21年)1月7日、地中海鉄工造船所(フランス)で起工。 1889年(明治22年)7月18日進水。 1891年(明治24年)9月3日竣工。 第一種に編入された[1]。
1892年
1892年(明治25年) 5月21日、横須賀港に到着[1]、 5月30日、厳島は警備艦に指定された[16]。
1893年 - 1894年
1893年(明治26年)6月27日、常備艦隊に編入された[17]。
1894年(明治27年)3月21日、修理のために常備艦隊の役務を解かれ[18]、 7月8日再度常備艦隊に編入された[19]。
日清戦争
1894年(明治27年) 8月1日 日清戦争開戦、連合艦隊本隊所属 。 9月17日 黄海海戦 。 1895年(明治28年) 2月 威海衛攻撃終了、清国降伏。
1895年
1895年(明治28年)7月29日、常備艦隊の役務を解かれた[20]。 9月28日、厳島は警備艦に定められた[21]。
1898年
1898年(明治31年) 3月21日、二等巡洋艦に類別された[1]。
1900年
1900年(明治33年) 北清事変により8月から11月迄、上海の警備を行った[1]。
修理
1901年(明治34年)、 呉造船廠でボイラーを円缶からベルビール缶に換装した[1]。
遠洋航海
1901年(明治34年) 2月から8月、少尉候補生の東南アジア、清方面の遠洋航海に従事した[1]。
1903年(明治36年)、 同じく少尉候補生の遠洋航海に従事した[1]。
日露戦争
1904年(明治37年)、第三艦隊旗艦として日露戦争に参加。対馬警備の後に旅順封鎖に参加。一度他に旗艦を譲り、黄海海戦の前日には損傷を受け、修理中だったため海戦には参加できなかった。1905年(明治38年)には第三艦隊旗艦に復帰して日本海海戦に参加。樺太作戦には第四艦隊旗艦として参加した。
1906年 - 1908年
明治39年度、明治40年度、明治41年度の少尉候補生の遠洋航海に従事した[1]。
1912年
1912年(明治45年) 6月に浪速が遭難、室蘭に碇泊していた厳島は6月27日に同地を出港し救助に向かった[22]。 1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に類別が変更された[1]。
除籍
1919年(大正8年)4月1日除籍[7]、 雑役船に編入され、潜水艇母船に指定、厳島丸と改称した[1]。
1920年(大正9年) 1月15日、厳島丸は潜水艦4隻の繋留母船に改造されることになり[23]、 7月1日厳島と改称し、潜水艇母船から潜水艦母艇に変更になった[24]。 9月15日厳島は海軍潜水学校付属となり[25]、 9月24日、呉防備隊から引渡し[26]、 校舎として使用された[25]。
1924年(大正13年) 3月22日に海軍潜水学校は新築移転、以後厳島は倉庫として使用された[25]。 9月8日に韓崎が海軍潜水学校附属となり、海軍潜水学校は厳島を必要としなくなった[25]。 12月13日、船体老朽のため海軍潜水学校から呉海軍港務部へ引渡された[27]。
1925年(大正14年)3月30日廃船認許[8]。 5月20日呉海軍工廠に引き渡された[28]。 同年10月14日 舞鶴飯野商事会社呉支店に売却、11月29日から大正15年(1926年)7月に呉吉浦で解体された[1]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 磯辺包義 大佐:1890年9月24日 - 1892年6月6日
- 艦長
- 磯辺包義 大佐:1891年4月13日 - 1892年7月12日
- 伊地知弘一 大佐:1892年9月5日 - 1894年2月26日
- 尾形惟善 大佐:1894年2月26日 - 3月21日
- 横尾道昱 大佐:1894年6月28日 - 12月17日
- 有馬新一 大佐:1894年12月17日 - 1895年6月5日
- 松永雄樹 大佐:1895年9月28日 - 1896年8月13日
- 平尾福三郎 大佐:1896年8月13日 - 1898年10月1日
- 斎藤実 大佐:1898年10月1日 - 11月10日
- 舟木錬太郎 大佐:1898年11月10日 - 1899年3月22日
- 細谷資氏 大佐:1899年3月22日 - 1899年10月13日
- 新島一郎 大佐:1900年6月19日 - 1901年8月30日
- 松本和 大佐:1902年10月23日 - 1903年9月26日
- 成田勝郎 大佐:1903年10月15日 - 1904年6月19日
- 丹羽教忠 大佐:1904年6月19日[29] - 1905年1月12日
- 土屋保 大佐:1905年1月21日 - 1906年10月12日
- 名和又八郎 大佐:1906年10月12日 - 1907年8月5日
- 小花三吾 大佐:1907年8月5日 - 1908年9月1日
- 田中盛秀 大佐:1908年9月1日 - 12月10日
- 笠間直 大佐:1908年12月10日 - 1909年12月1日
- (兼)小黒秀夫 大佐:1910年6月3日 - 6月22日
- 田所広海 大佐:1910年6月22日 - 9月28日
- 秀島成忠 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- 南里団一 大佐:1911年12月1日 - 1913年11月5日
- 久保来復 大佐:1913年11月5日 - 1914年8月23日
- 増田高頼 大佐:1914年12月1日 - 1915年5月1日
- (兼)岡田三善 大佐:1915年5月1日 - 1916年3月15日
- (兼)本田親民 大佐:1916年3月15日 - 12月1日
- (兼)糸川成太郎 大佐:1916年12月1日 - 1918年12月1日[30]
- (兼)福田貞助 大佐:1918年12月1日 -
脚注
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中川努「主要艦艇艦歴表」#全艦艇史(1994)資料篇p.3、厳島
- ^ #日本の戦艦(上)2001pp.20-21
- ^ a b c #海軍軍備沿革p.48
- ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.27
- ^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
- ^ a b c d e f g h #艦船名考(1928)p.64-65、厳島
- ^ a b #T8達/3月画像58、大正8年4月1日達第43号
- ^ a b #T14公文備考25/処分画像5
- ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)下巻p.279、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ a b c d e f #日本の戦艦(上)2001p.106
- ^ a b #日本の戦艦(下)2001p.42
- ^ a b c #日本の戦艦(下)2001p.48
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.190-192、明治23年10月18日(勅令235)軍艦団隊定員
- ^ a b c #日本の戦艦(上)2001p.216
- ^ #M25達/5月画像10、明治25年5月30日達第38号
- ^ #M26達(上)/6月画像47、明治26年6月27日達第75号
- ^ #M27達(上)/3月画像32、明治27年3月21日達第35号
- ^ #M27達(下)/7月画像32、明治27年7月8日達第113号
- ^ #M28達/7月画像8、明治28年7月29日達第61号
- ^ #M28達/9月画像8、明治28年9月28日達第97号
- ^ #M45(T1)公文備考41/遭難諸報告(2)画像28
- ^ #T9公文備考22/改造(2)画像11-12、大正9年1月15日官房機密第51号
- ^ #T9達/7月画像13-17、大正9年7月1日達第115号の2
- ^ a b c d #T13公文備考24/配属(5)画像1-3、大正13年10月29日呉鎮第121号の3「雑役船厳島に関する件」
- ^ #T9公文備考23/引渡授受画像29、大正9年9月24日潜学第83号の2
- ^ #T13公文備考24/保管転換画像29
- ^ #T14公文備考24/引渡授受(2)画像33-34
- ^ 「明治三十七年辞令通報 6月」 アジア歴史資料センター Ref.C13071937900
- ^ 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 下』グランプリ出版、2001年5月。ISBN 4-87687-222-8。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 『官報』
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治45年大正元年 公文備考 艦船15 浪速遭難一件 2止 巻41/遭難諸報告(2)』。Ref.C08020058400。
- 『大正9年 公文備考 艦船2 巻22/改造(2)』。Ref.C08021559000。
- 『大正9年 公文備考 艦船3 巻23/引渡授受』。Ref.C08021560500。
- 『大正13年 公文備考 艦船4 巻24/保管転換』。Ref.C08051098000。
- 『大正13年 公文備考 艦船4 巻24/配属(5)』。Ref.C08051098500。
- 『大正14年 公文備考 艦船4 巻24/引渡授受(2)』。Ref.C08051370700。
- 『大正14年 公文備考 艦船5 巻25/処分』。Ref.C08051372600。
- 『明治25年 達 完/5月』。Ref.C12070029600。
- 『明治26年 達 上巻/6月』。Ref.C12070031100。
- 『明治27年 達 上巻/3月』。Ref.C12070033100。
- 『明治27年 達 下巻/7月』。Ref.C12070033900。
- 『明治28年 達 完/7月』。Ref.C12070035300。
- 『明治28年 達 完/9月』。Ref.C12070035500。
- 『大正8年 達 完/3月』。Ref.C12070075200。
- 『大正9年 達 完/7月』。Ref.C12070077300。
- 『第72号 7版 内令提要 完/第3類 艦船(1)』。Ref.C13072068600。