利根 (防護巡洋艦)
利根 | |
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基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
防護巡洋艦 (類別:二等巡洋艦[2]) |
母港 | 1920年時:佐世保[1] |
艦歴 | |
計画 | 明治37年臨時軍事費[3] |
発注 | 1905年6月20日訓令[4] |
起工 | 1905年11月27日[5][6] |
進水 | 1907年10月24日[5] |
竣工 | 1910年5月15日[5] |
除籍 | 1931年4月1日 |
その後 | 1933年4月30日 撃沈処分 |
要目(計画) | |
排水量 |
計画:4,100ロングトン (4,166 t)[7] 1931年時:3,760ロングトン (3,820 t)[8] |
垂線間長 | 360 ft 0 in (109.73 m)[7] |
最大幅 | 47 ft 2 in (14.38 m)[7] |
深さ | 27 ft 2 in (8.28 m)[7] |
吃水 | 16 ft 9+1⁄8 in (5.11 m)[7] |
ボイラー | 竣工時:宮原式混焼缶 単面大型8基、単面小型8基[9] |
主機 | 直立4気筒3段レシプロ[9][注釈 1] 2基[1] |
推進 | 2軸[1] x 100 rpm[9] |
出力 | 15,000 hp (11,185 kW)[7] |
速力 | 23ノット (43 km/h)[7] |
燃料 |
石炭庫 : 903ロングトン (917 t)[1] 重油 : 124ロングトン (126 t)[1] |
乗員 | 370名[1] |
兵装 |
6インチ速射砲 2門[7] 4.7インチ速射砲 12門[7] 12ポンド速射砲 2門[7] 18 in (45.7 cm)魚雷発射管 3門[7] 探照灯 4基[7] |
装甲 |
甲板傾斜部:3 in (76 mm)[7] 甲板水平部:2 in (51 mm)[7] |
搭載艇 | 9隻[1] |
その他 |
船材:鋼[1] 煙突3本[1] |
利根(とね)は、日本海軍の二等巡洋艦(防護巡洋艦)[10][2]。 艦名は関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた[11]。 「利根」は、佐世保で建造された初の巡洋艦である[12][13]。
艦型
[編集]日露戦争直後の臨時軍事費により計画された二等巡洋艦[13]。設計は当時艦政本部第3部に在籍の近藤基樹造艦大監で、エルジック・クルーザーの1艦である「吉野」が参考にされた[13][14]。そのため船体の基本寸法は両者良く似た数値となった。ただ、日露戦争で巡洋艦「吉野」が「春日」に追突された際に艦首の衝角により被害が拡大されて沈没したことから、衝角構造を廃止してクリッパー型艦首を採用した。先端のとがった艦首形状のために通常は艦首部に御紋章は1個のところ、左右に1個ずつの計2個取り付けられた。
兵装
[編集]搭載砲は「吉野」と同じ15cm砲と12cm砲を混載した。砲の配置も同一であるが、重量削減のため15cm砲2門を12cm砲に変更している[15]。
「利根」は、新高型防護巡洋艦や音羽型で廃止していた魚雷兵装を再び装備した[13]。水上固定発射管3門で、1門は艦尾に配置された[13]。
機関
[編集]機関も船体と同じく佐世保海軍工廠で製造された[9]。 主機は直立4気筒3段レシプロ機関[9][注釈 1]を装備し、日本海軍の巡洋艦でレシプロ機関を搭載した最後の艦となった[13]。 気筒の直径は高圧33 in (838 mm)、中圧52 in (1,321 mm)、低圧59 in (1,499 mm)を2筒、行程33 in (838 mm)[9]。 回転数100 rpmで出力15,000馬力を計画した[9]。
ボイラーは宮原式混焼缶で単面大型8基、同小型8基[9]。 当初計画は石炭専焼だったが、1907年 (明治40年) 12月15日付で重油混焼装置の取付と重油タンク装備が訓令された[16]。 蒸気圧力は235 psi (16.5 kg/cm2)[9]。
公試成績
[編集]『帝国海軍機関史』(1975) で回転数106.7 rpm、出力15,402馬力とある[9]。 また『公文備考』に公試での速力23.368ノットの記録が残る[17]。
艦型の変遷
[編集]兵装の変遷
[編集]艦歴
[編集]1905年(明治38年) 6月20日、佐世保鎮守府にあてて甲号二等巡洋艦を佐世保海軍工廠で製造するよう訓令が出された[4]。 この時の予算は臨時軍事費艦艇補足費造船費 中の甲号二等巡洋艦製造費で明治38年度から明治41年度までの4年間で船体費987,750円、機関費1,425,735円、備品費52,000円、附属費135,602円、進水式費2,000円の計2,603,087円、他に予備費5,913円だった[18] (兵装費は含まない)。 9月30日、日本海軍は建造予定の甲号二等巡洋艦の艦名を「利根」とすることを内定した[19]。 同年11月27日、佐世保海軍工廠は甲号二等巡洋艦を起工した[11][6]。
1907年(明治40年)10月23日、明治天皇皇太子(のち大正天皇)と有栖川宮威仁親王は御召艦「香取」に乗艦して佐世保に到着する[20][21]。その日は爆沈事故から復旧中の戦艦三笠[22]や佐世保鎮守府各所[23]を見学した。 10月24日午前9時5分[24] (予定は午前9時[25])、 皇太子臨席のもとで「利根」は進水した[26][27]。同日附で甲号二等巡洋艦は制式に利根と命名される[10][28]。命名書は海軍大臣斎藤實男爵が読み上げ[26]、二等巡洋艦に類別された[2][29]。
1910年(明治43年)5月15日、「利根」は竣工した[11][30]。水雷艇程度の建造経験しか無かった同工廠で初めて建造された大型艦艇であり、また起工が日露戦争終結後となったため、予算の問題もあり建造に5年5ヶ月を要した[14]。
1911年(明治44年)、ジョージ5世の戴冠記念観艦式に参加するため[30]、日本海軍は装甲巡洋艦鞍馬と防護巡洋艦利根をもって遣英艦隊(司令長官:島村速雄中将)を編成した[11][31]。 同年3月下旬、島村中将及び鞍馬・利根乗組員は明治天皇に拝謁する[32][33]。 4月1日、鞍馬と利根は横須賀を出港する[34]。4月2日夜、遣欧艦隊(鞍馬、利根)は皇太子御召艦「鹿島」および供奉艦と土佐沖にて会合し、約20分間同行した[35]。6月24日、スピットヘッドでの観艦式に参加した[11][31]。さらにヨーロッパ各国を歴訪し、11月22日に横須賀に帰投した[36]。
1914年(大正3年)1月12日に鹿児島県の桜島で発生した大正大噴火の際には利根は旗艦として第八駆逐艦隊などを率いて当日の23時に佐世保港を出航、翌13日の午後3時に鹿児島港に到着し、鹿児島湾において13日から18日にかけて救助活動を実施した[37]。第一次世界大戦では、第二水雷戦隊旗艦(司令官岡田啓介少将)として青島攻略戦に参加した[11]。さらに南シナ海、インド洋での作戦に従事した[11]。
1922年(大正11年)1月から5月までオランダ領東インド諸島方面の警備、次に1929年(昭和4年)までおもに中国水域の警備活動に従事した。
1931年(昭和6年)4月1日、除籍[11]。艦艇類別等級表より削除[38]。旧式化した軍艦3隻(利根、筑摩、阿蘇)は、それぞれ廃艦第2号(利根)[39][40]、廃艦3号(筑摩)[40]、廃艦4号(阿蘇)と仮称[40]。 廃艦2号(利根)は1933年(昭和8年)4月30日、奄美大島近海で射撃・爆撃標的として撃沈処分された[11][41]。 戦艦「陸奥」から見学していた高松宮宣仁親王(当時、重巡洋艦「高雄」分隊長)[42]は「水柱マストより高く立のほり かくるゝ姿見ゆる淋しさ」「かたふきて沈みゆくかな雲たれて/低き 海面よどむ沖縄の沖」「楽の音も終わらぬうちに海の底 深く沈みぬ白波をたて」「乗る人もなしとおもへど浮きのこる 木片阿みつよつ波にただよふ」等の和歌を詠んでいる[43][44]。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 臼井幹蔵 大佐:1909年9月15日 - 1910年6月25日 *兼佐世保海軍工廠艤装員(- 1910年6月3日)
- 森義臣 大佐:1910年6月25日 - 12月1日
- 片岡栄太郎 大佐:1910年12月1日 - 1911年1月16日
- 山口九十郎 大佐:1911年1月16日 - 11月20日
- 竹内次郎 大佐:1911年11月20日 - 1912年12月1日
- 西尾雄治郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年4月1日
- 佐藤皐蔵 大佐:1913年4月1日 - 5月24日
- 原篤慶 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
- 武部岸郎 大佐:1913年12月1日 -
- 吉川安平 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 古川弘 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 石川秀三郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 福田一郎 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日[45]
- (心得)関干城 中佐:1918年11月10日 - 12月1日
- 関干城 大佐:1918年12月1日 - 1919年12月1日
- 常松憲三 大佐:1919年12月1日[46] - 1920年12月1日[47]
- 園田繁喜 大佐:1920年12月1日[47] - 1921年11月1日[48]
- 八角三郎 大佐:1921年11月1日 - 1922年5月30日
- 森田登 大佐:1922年5月30日[49] - 12月1日[50]
- 巨勢泰八 大佐:1922年12月1日 - 1923年11月10日
- (心得)小林省三郎 中佐:1923年11月10日 - 12月1日
- 小林省三郎 大佐:1923年12月1日 - 1925年4月15日
- 高木平次 大佐:1925年4月15日[51] - 10月20日[52]
- 鈴木秀次 大佐:1925年10月20日[52] - 1926年8月20日[53]
- 植松練磨 大佐:1926年8月20日 - 1927年4月5日
- 中村亀三郎 大佐:1927年4月5日 - 11月15日
- 藤沢宅雄 大佐:1927年11月15日[54] - 1928年12月10日[55]
- 波多野二郎 大佐:1928年12月10日[55] - 1929年11月30日[56]
- 佐藤康逸 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」によると直立3気筒3段としている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」による。大正12年要目一覧表によると6門となっているが間違いと思われる。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b c #達明治40年10月p.23〔達第百二十一號 艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄二等ノ下「宗谷」ノ次ニ「利根」ヲ加フ 明治四十年十月二十四日 海軍大臣男爵 齋藤實 〕
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
- ^ a b #M43公文備考20/利根製造コマ2-3、明治38年官房機密第725号。
- ^ a b c #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1057-1087、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲。
- ^ a b #M43公文備考20/利根製造コマ6、電報『軍艦利根十一月二十七日起工「キール据置」』。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #日本近世造船史明治(1973)pp.355-358、艦艇表(計画要領)。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b c d e f g h i j #帝国海軍機関史(1975)下巻p.400。
- ^ a b #達明治40年10月p.23「達第百二十號 佐世保海軍工廠ニ於テ製造ノ甲號二等巡洋艦ヲ利根ト命名セラル 明治四十年十月二十四日 海軍大臣男爵 齋藤實」
- ^ a b c d e f g h i 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ86(原本135頁)「利根(とね)
艦種二等巡洋艦 二檣(信號用)
艦名考川名に採る、關東第一の大河なり。
艦歴明治38年11月27日佐世保工廠に於て起工、同40年10月24日進水、同43年5月5日竣工、佐世保海軍工廠にて建造せられたる最初の軍艦なり。同44年4月1日横須賀發、英國皇帝戴冠式に際し6月24日「スピットヘッド」に於て擧行せらるべき觀艦式参列の爲め鞍馬と共に英國に回航(第二艦隊司令長官中将島村速雄引率、艦長大佐山口九十郎)。大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年8月青島戰に参加(第二水雷戰隊司令官少将岡田啓介旗艦、艦長大佐武部岸郎)、同4年12月第二艦隊第六戰隊に属し、南支那海・印度洋方面警備(艦長大佐古川弘)。昭和6年4月1日除籍。同8年4月實艦的として爆撃戰技に依つて撃沈さる。
(備考)明治6年横須賀造船所にて建造せらる運送船に第一、第二利根川丸(後に「利根」と改稱)のものあり。
―要目― 長403呎/幅47呎/吃水16.75呎/排水量4,100噸/機關 三聯成汽機2基、宮原式16臺/馬力15,000/速力23/乗組人員392/船材 鋼/兵装 15拇砲2/12拇砲10/8拇砲2/機砲2/發射管3/起工 明治38-11-27/進水 同40-10-24/竣工 同43-5-15/建造所 佐世保工廠」 - ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)「一、佐世保にて初めて巡洋艦を起工す―明治三十八年(一九〇五)巡洋艦「利根」起工」
- ^ a b c d e f 写真日本の軍艦5巻251-252頁〔阿部安雄「日露戦争後の巡洋艦」〕
- ^ a b "Japanese cruisers of the Pacific War" 4頁
- ^ "Japanese cruisers of the Pacific War" 7頁
- ^ #M43公文備考20/利根製造コマ26-28、明治43年官房機密第1731号。
- ^ #M43公文備考20/利根製造コマ35、電報。
- ^ #M43公文備考20/利根製造コマ4、予算書。
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199「◎二等巡洋艦利根及通砲艦淀命名ノ件 明治三十八年九月三十日(内令五六〇)新造軍艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|佐世保海軍工廠ニ於テ製造 甲號二等巡洋艦 利根|神戸川崎造船所ニ於テ建造 第一號通報艦 淀」
- ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 347a佐世保軍港に御著
- ^ 明治40年10月24日官報第7297号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4「○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十二日朝鎮海灣御寄港午前十時同所御發午後二時十五分竹敷港御箸艦御上陸同六時同港御發艦昨二十三日午前七時四十五分佐世保軍港ヘ御箸艦アラセラレタリ」
- ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 347b軍艦三笠御覧
- ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 347c佐世保鎮守府に行啓
- ^ #M43公文備考20/利根製造コマ23-24、明治40年官房第4353号。
- ^ #M43公文備考20/利根製造コマ20、明治40年佐鎮第672号の2。
- ^ a b 大正天皇実録第二 2017, p. 348a軍艦利根進水式場に御臨場
- ^ 明治40年10月25日官報第7298号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5「○東宮臨御 皇太子殿下ハ昨二十四日佐世保軍港ニ於ケル軍艦利根進水式ニ臨マセラレタリ」
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ200「◎二等巡洋艦利根命名ノ件 明治四十四年十月二十四日(達一二〇)佐世保海軍工廠ニ於テ製造ノ甲號二等巡洋艦ヲ利根ト命名セラル」
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ55〔明治四十四年十月二十四日(達一二一)艦艇類別等級別表中巡洋艦ノ欄二等ノ下「宗谷」ノ次ニ「利根」ヲ加フ 〕
- ^ a b 写真日本の軍艦5巻251頁(利根写真解説)
- ^ a b 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ87(原本136頁)〔 鞍馬(くらま)
艦種一等巡洋艦 二檣(信號用)
艦名考山名に採る、鞍馬山は山城國に在り、京都の北3里なり、古名暗部山、後世山谷の形状に附會し鞍馬の字を選ぶと云ふ、半腹に鞍馬寺あり。
艦歴明治44年2月下旬竣工し、同年4月1日横須賀發、英國皇帝戴冠式に際し、6月24日同國「スピットヘッド」に於て擧行の観艦式参列の爲め利根と共に英國に回航(第二艦隊司令長官中将島村速雄引率、艦長大佐石井義太郎)。大正元年8月巡洋戰艦に列す(昭和8年類別標準の改正により戰艦となる)。同3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年9月第一南遣支隊に属し「マーシャル」・東「カロリン」群島方面の警戒竝に占領に任ず(艦長大佐志津田定一郎)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍々備制限條約に由る)。(要目略)〕 - ^ 明治44年3月28日官報第8326号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ9「○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨二十七日午前十時十分葉山御用邸御出門同十時四十五分逗子停車場御發車同十一時横須賀停車場御箸車軍艦鹿島ヘ御乗艦正午十二時横須賀軍港御發艦アラセラレタリ|○拝謁竝賢所参拝 在京都華族總代トシテ天機伺ノタメ出京ノ從五位唐橋在知ハ昨二十七日午前十時三十分拝謁仰付ケラレ又今般英國ヘ派遣ノ第二艦隊軍艦鞍馬、利根乗員島村海軍中将、海軍大佐石井義太郎(中略)ハ同時拝謁竝ニ 賢所参拝仰付ケラレ海軍上等筆記楠田徳太郎以下百三十六名ハ 賢所参拝仰付ケラレタリ」
- ^ 明治44年3月29日官報第8327号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ8「○拝謁竝賢所参拝 今般英國ヘ派遣ノ第二艦隊軍艦鞍馬、利根乗員海軍中佐吉田清風(中略)昨二十八日午前十時三十分拝謁竝ニ 賢所参拝仰付ケラレ海軍上等兵曹森山藤四郎以下百四十四名ハ同時 賢所参拝仰付ケラレタリ」
- ^ 明治44年4月5日官報第8332号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ8「○軍艦發箸 各港灣ニ於ケル軍艦發箸左ノ如シ(海軍省)」
- ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 245佐世保御解く纜/神戸港御著
- ^ 「思い出の日本軍艦 訪欧時の「鞍馬」と「利根」」 『世界の艦船』第607集(2003年2月号) 海人社
- ^ 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2012, p. 93-94.
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ67〔昭和六年四月一日(内令五三)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ部巡洋艦ノ項中「| |利根|」及「筑摩、」ヲ、航空母艦ノ項中「若宮、」ヲ、敷設艦ノ項中「阿蘇、」ヲ削ル 〕
- ^ 「第559号8.2.8廃艦第2号(旧軍艦利根)曳航準備工事の件」 アジア歴史資料センター Ref.C05022840900
- ^ a b c 「昭和6年4月1日(水)海軍公報(部内限)第992号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070330200 「官房第一〇六七號 當分ノ間除籍艦ヲ左ノ通假稱シ部内限之ヲ使用ス 昭和六年四月一日 海軍大臣|舊軍艦利根ヲ廃艦二號トス 舊軍艦筑摩ヲ廃艦三號トス 舊軍艦阿蘇ヲ廢艦第四號トス」
- ^ 高松宮日記2巻72頁「四月三十日 廃艦射撃の日あれば「むつ」へ見学にゆく。天候不良で雲ひくしウネリは少しへつた。四戦隊、五戦隊の三〇キロ爆撃、三戦隊の射撃、予定通り。そのころから雨になり、時〃やむ。中々1sf(第一航空戦隊)の爆撃はじまらず。やつと発艦さしたが低くてうまくゆかず、やつと始めたら最初の一発で浸水しはじめ、了らぬ内に沈む。七時半ごろかへる。」
- ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, p. 286.
- ^ 高松宮宣仁親王伝記 1991, pp. 226–227.
- ^ 高松宮日記2巻72頁「爆撃26-29」
- ^ 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
- ^ 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ 『官報』第2776号、大正10年11月2日。
- ^ 『官報』第2947号、大正11年5月31日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3792号、大正14年4月16日。
- ^ a b 『官報』第3948号、大正14年10月21日。
- ^ 『官報』第4199号、大正15年8月21日。
- ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
- ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
参考文献
[編集]- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第3輯』財団有終會、1928年1月 。
- 川井裕『軍艦「足柄」の英国観艦式派遣及びドイツ訪問について』(防衛省2009-03)国立国会図書館デジタルコレクション
- アジア歴史資料センター(公式)
- 防衛省防衛研究所
- 公文備考
- 「軍艦利用製造一件」『明治43年 公文備考 巻20 艦船3』、JACAR:C06092319300。
- 達
- 『明治40年 達 完/11月』。Ref.C12070056500。
- 『大正1年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。
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- 防衛省防衛研究所
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第二 自明治三十四年至明治四十年』株式会社ゆまに書房、2017年11月。ISBN 978-4-8433-5040-9。
- 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年』株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 『造艦技術の全貌』興洋社、昭和27年。
- 造船協会 編『日本近世造船史 (明治時代)』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 「高松宮宣仁親王」伝記刊行委員会編『高松宮宣仁親王 自明治三十四年至大正二年』朝日新聞社、1991年3月。ISBN 4-02-256278-1。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3。
- 日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 雑誌『丸』編集部 編「巡洋艦の発達」『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』 第5巻、光人社、1989年11月、235-252頁。ISBN 4-7698-0455-5。
- 『官報』
- Eric Lacroix and Linton Wells II, "Japanese cruisers of the Pacific War", Naval Institute Press, Annapolis, Maryland, 1997.
- 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2012、「第3章 救済・復旧・復興の状況」 (pdf)(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火)、内閣府