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== 経歴 ==
== 経歴 ==
{{by|1961年}}4月25日に[[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]と[[捕手]]として契約を結び<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号">
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{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/450073-right-name-wrong-genes-less-athletic-superstar-family-members#/articles/450073-right-name-wrong-genes-less-athletic-superstar-family-members/page/26|title=伊藤茂樹 「アメリカ野球雑学概論」 『[[週刊ベースボール]]』2009年3月30日号|work=[[ベースボール・マガジン社]]|language=英語|accessdate=2012年4月10日}}</ref>、器用な選手であったため、[[内野手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]された<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />。[[マイナーリーグ]]時代の{{by|1962年}}[[8月]]に[[フロリダ・ステートリーグ|フロリダステートリーグ]]で[[投手]]として登板した時には左右投げを披露した[[スイッチピッチャー]]であるが、[[スイッチヒッター]]では無い<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />。{{by|1964年}}7月23日の[[ミネソタ・ツインズ]]戦でMLB初出場を果たし、[[ジム・カート]]から[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を放ち、第4打席でもカートから本塁打を放った。この'''MLBデビュー戦2本塁打'''は{{仮リンク|チャーリー・ライリー|en|Charlie Reilly}}({{by|1889年}})、[[ボブ・ニーマン]]({{by|1951年}})、{{仮リンク|マーク・クイン (野球選手)|en|Mark Quinn|label=マーク・クイン}}({{by|1999年}})、[[ウィルソン・ラモス]]({{by|2010年}})が他に達成している<ref>{{Cite web|url=http://espn.go.com/blog/statsinfo/post/_/id/4772/rapid-reaction-blue-jays-bomb-rays|title=Rapid Reaction: Blue Jays bomb Rays|work=[[ESPN|ESPN.com]]|language=英語|accessdate=2013年4月16日}}</ref>。MLBでは主に[[遊撃手]]として出場したが、{{by|1965年}}9月8日の[[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|ロサンゼルス・エンゼルス]]戦で史上初の'''1試合全ポジション守備'''を記録し、「1番・遊撃手」で先発して回ごとに[[二塁手]]→[[三塁手]]→[[左翼手]]→[[中堅手]]→[[右翼手]]→[[一塁手]]→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回にはMLB昇格後で自身初の投手を務め、2与四球・1被安打で1失点という内容であった。9回に走者の{{仮リンク|エド・カークパトリック|en|Ed Kirkpatrick}}と衝突して負傷退場したが<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />、試合は延長戦に入って13回に5-3でエンゼルスが勝利した。なお、この時のアスレチックスは首位から30ゲーム離されていたため、キャンパネリスの全ポジション出場はプロモーションであった<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />。この記録はのちに[[シーザー・トーバー]]({{by|1968年}})、[[スコット・シェルドン]]({{by|2000年}})、[[シェーン・ホルター]](2000年)が達成している。1965年は51盗塁で[[最多盗塁 (MLB)|盗塁王]]のタイトルを獲得したが、前年までは[[ルイス・アパリシオ]]が1年目から9年連続で盗塁王を獲得していた。{{by|1966年}}は52盗塁、{{by|1967年}}は55盗塁、1968年はリーグ最多の177安打に加えて自己最多の62盗塁を記録し、1965年から4年連続となる50盗塁以上で盗塁王を獲得。{{by|1969年}}は盗塁王こそ逃したが、MLB記録となる'''12試合連続盗塁'''を達成<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010300000646.html|title=ソフトバンク周東ついに「世界一」13試合連続盗塁|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-10-30|accessdate=2020-10-30}}</ref>。{{by|1970年}}は22本塁打を放ち、唯一の2桁本塁打を記録したシーズンとなった。42盗塁で5度目の盗塁王も獲得し、{{by|1972年}}は52盗塁で6度目の盗塁王を獲得。延長戦に突入した9月13日の試合では6度の併殺プレーを演じ、[[アメリカンリーグ]]記録を樹立。[[デトロイト・タイガース]]との[[1972年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシリーズ]]第2戦では、{{仮リンク|レリン・ラグロー|en|Lerrin LaGrow}}から3安打・2盗塁を記録したが、7回に足に当たる死球を受け、バットをラグローへ向けて投げたことからラグローとともに退場処分となった。チャンピオンシリーズの残りの試合と次のシーズンの最初の7試合に出場することは禁止されたが、[[1972年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]の出場は許可された。[[シンシナティ・レッズ]]とのワールドシリーズでキャンパネリスは打率.179と不振を極めたものの、チームは4勝3敗でレッズを破り、初のワールドチャンピオンを経験した。{{by|1973年}}の[[ボルチモア・オリオールズ]]との[[1973年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]第5戦の延長11回裏に最初の打者として[[サヨナラゲーム|サヨナラ本塁打]]を放ち、チームは[[1973年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]への進出を決めた。[[ニューヨーク・メッツ]]とのワールドシリーズでは第7戦の3回に2点本塁打を放ち、[[レジー・ジャクソン]]も2点本塁打で後に続き、チームはワールドシリーズ連覇を果たした。{{by|1974年}}の[[1974年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]でも[[ロサンゼルス・ドジャース]]を4勝1敗で破り、チームは3年連続でワールドチャンピオンに輝いている。[[ワールドシリーズ]]3連覇時はレジー・ジャクソンとともに打線の中心として活躍した。アスレチックス球団記録の通算1795試合出場7180打数1882安打を保持し、{{by|1976年}}11月1日に[[テキサス・レンジャーズ]]、{{by|1979年}}5月4日にカリフォルニア・エンゼルスへ移籍。{{by|1982年}}は[[メキシカンリーグ]]の[[ベラクルス・イーグルス|ベラクルス・レッドイーグルス]]と[[ミナティトラン・オイラーズ|ポサリカ・オイラーズ]]でプレーし、{{by|1983年}}1月24日に[[ニューヨーク・ヤンキース]]でMLBに復帰したが、41歳となった同年限りで現役を引退。
{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/450073-right-name-wrong-genes-less-athletic-superstar-family-members#/articles/450073-right-name-wrong-genes-less-athletic-superstar-family-members/page/26|title=伊藤茂樹 「アメリカ野球雑学概論」 『[[週刊ベースボール]]』2009年3月30日号|work=[[ベースボール・マガジン社]]|language=英語|accessdate=2012年4月10日}}</ref>、器用な選手であったため、[[内野手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]された<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />。[[マイナーリーグ]]時代の{{by|1962年}}[[8月]]に[[フロリダ・ステートリーグ|フロリダステートリーグ]]で[[投手]]として登板した時には左右投げを披露した[[スイッチピッチャー]]であるが、[[スイッチヒッター]]では無い<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />。{{by|1964年}}7月23日の[[ミネソタ・ツインズ]]戦でMLB初出場を果たし、[[ジム・カート]]から[[初打席本塁打|初打席初本塁打]]を放ち、第4打席でもカートから本塁打を放った。この'''MLBデビュー戦2本塁打'''は{{仮リンク|チャーリー・ライリー|en|Charlie Reilly}}({{by|1889年}})、[[ボブ・ニーマン]]({{by|1951年}})、{{仮リンク|マーク・クイン (野球選手)|en|Mark Quinn|label=マーク・クイン}}({{by|1999年}})、[[ウィルソン・ラモス]]({{by|2010年}})が他に達成している<ref>{{Cite web|url=http://espn.go.com/blog/statsinfo/post/_/id/4772/rapid-reaction-blue-jays-bomb-rays|title=Rapid Reaction: Blue Jays bomb Rays|work=[[ESPN|ESPN.com]]|language=英語|accessdate=2013年4月16日}}</ref>。MLBでは主に[[遊撃手]]として出場したが、{{by|1965年}}9月8日の[[ロサンゼルス・エンゼルス]]戦で史上初の'''1試合全ポジション守備'''を記録し、「1番・遊撃手」で先発して回ごとに[[二塁手]]→[[三塁手]]→[[左翼手]]→[[中堅手]]→[[右翼手]]→[[一塁手]]→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回にはMLB昇格後で自身初の投手を務め、2与四球・1被安打で1失点という内容であった。9回に走者の{{仮リンク|エド・カークパトリック|en|Ed Kirkpatrick}}と衝突して負傷退場したが<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />、試合は延長戦に入って13回に5-3でエンゼルスが勝利した。なお、この時のアスレチックスは首位から30ゲーム離されていたため、キャンパネリスの全ポジション出場はプロモーションであった<ref name="週刊ベースボール2009年3月30日号" />。この記録はのちに[[シーザー・トーバー]]({{by|1968年}})、[[スコット・シェルドン]]({{by|2000年}})、[[シェーン・ホルター]](2000年)が達成している。1965年は51盗塁で[[最多盗塁 (MLB)|盗塁王]]のタイトルを獲得したが、前年までは[[ルイス・アパリシオ]]が1年目から9年連続で盗塁王を獲得していた。{{by|1966年}}は52盗塁、{{by|1967年}}は55盗塁、1968年はリーグ最多の177安打に加えて自己最多の62盗塁を記録し、1965年から4年連続となる50盗塁以上で盗塁王を獲得。{{by|1969年}}は盗塁王こそ逃したが、MLB記録となる'''12試合連続盗塁'''を達成<ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010300000646.html|title=ソフトバンク周東ついに「世界一」13試合連続盗塁|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-10-30|accessdate=2020-10-30}}</ref>。{{by|1970年}}は22本塁打を放ち、唯一の2桁本塁打を記録したシーズンとなった。42盗塁で5度目の盗塁王も獲得し、{{by|1972年}}は52盗塁で6度目の盗塁王を獲得。延長戦に突入した9月13日の試合では6度の併殺プレーを演じ、[[アメリカンリーグ]]記録を樹立。[[デトロイト・タイガース]]との[[1972年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシリーズ]]第2戦では、{{仮リンク|レリン・ラグロー|en|Lerrin LaGrow}}から3安打・2盗塁を記録したが、7回に足に当たる死球を受け、バットをラグローへ向けて投げたことからラグローとともに退場処分となった。チャンピオンシリーズの残りの試合と次のシーズンの最初の7試合に出場することは禁止されたが、[[1972年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]の出場は許可された。[[シンシナティ・レッズ]]とのワールドシリーズでキャンパネリスは打率.179と不振を極めたものの、チームは4勝3敗でレッズを破り、初のワールドチャンピオンを経験した。{{by|1973年}}の[[ボルチモア・オリオールズ]]との[[1973年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]第5戦の延長11回裏に最初の打者として[[サヨナラゲーム|サヨナラ本塁打]]を放ち、チームは[[1973年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]への進出を決めた。[[ニューヨーク・メッツ]]とのワールドシリーズでは第7戦の3回に2点本塁打を放ち、[[レジー・ジャクソン]]も2点本塁打で後に続き、チームはワールドシリーズ連覇を果たした。{{by|1974年}}の[[1974年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]でも[[ロサンゼルス・ドジャース]]を4勝1敗で破り、チームは3年連続でワールドチャンピオンに輝いている。[[ワールドシリーズ]]3連覇時はレジー・ジャクソンとともに打線の中心として活躍した。アスレチックス球団記録の通算1795試合出場7180打数1882安打を保持し、{{by|1976年}}11月1日に[[テキサス・レンジャーズ]]、{{by|1979年}}5月4日にカリフォルニア・エンゼルスへ移籍。{{by|1982年}}は[[メキシカンリーグ]]の[[ベラクルス・イーグルス|ベラクルス・レッドイーグルス]]と[[ミナティトラン・オイラーズ|ポサリカ・オイラーズ]]でプレーし、{{by|1983年}}1月24日に[[ニューヨーク・ヤンキース]]でMLBに復帰したが、41歳となった同年限りで現役を引退。


引退後はMLBでコーチになることを希望するも叶わず<ref name=graveyardbaseball>[http://graveyardbaseball.blogspot.com/2016/02/oakland-asseibu-lions-series-bert.html Oakland A's/Seibu Lions Series: Bert Campaneris]. ''Graveyard Baseball''. Retrieved on February 29, 2016.</ref>、マイナーリーグの指導者を経て<ref name=graveyardbaseball />、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の一軍守備・走塁コーチ({{by|1987年}})→二軍守備・走塁コーチ({{by|1988年}})を務めた。就任当初は三塁コーチを務めたが、うまく機能しなかったため、[[4月]]末から[[伊原春樹]]に交代<ref>[https://www.column.sp.baseball.findfriends.jp/%3fpid=column_detail_amp&id=001-20161031-07 週刊ベースボールONLINE|野球コラム「三塁コーチはオーケストラの指揮者」 伊原春樹が語る1987年日本シリーズ、“伝説の好走塁”]</ref>。1988年4月28日に[[金沢市|金沢]]へ遠征し、[[イースタン・リーグ]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦を終えた後、大金と[[クレジットカード]]、ワールドシリーズの指輪2個を入れた[[財布]]がないことに気づく<ref name="Marty's" >[http://www.ismac.co.jp/archives/kiji/2002/msn020327.html Welcome to Marty's Ballpark! | 記事の紹介]</ref>。その後、グラウンドコートのポケットに入れてダグアウトにかけておいたことを思い出したが、そこにはなく、チームメイトに盗難されたと主張。球団側はキャンパネリスの主張を鵜呑みにするわけにもいかず、警察に正式な捜査を依頼しなかった。見捨てられたと感じたキャンパネリスは、頭に血が昇ったまま、シーズン途中の6月1日に日本を去った<ref name="Marty's" />。
引退後はMLBでコーチになることを希望するも叶わず<ref name=graveyardbaseball>[http://graveyardbaseball.blogspot.com/2016/02/oakland-asseibu-lions-series-bert.html Oakland A's/Seibu Lions Series: Bert Campaneris]. ''Graveyard Baseball''. Retrieved on February 29, 2016.</ref>、マイナーリーグの指導者を経て<ref name=graveyardbaseball />、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の一軍守備・走塁コーチ({{by|1987年}})→二軍守備・走塁コーチ({{by|1988年}})を務めた。就任当初は三塁コーチを務めたが、うまく機能しなかったため、[[4月]]末から[[伊原春樹]]に交代<ref>[https://www.column.sp.baseball.findfriends.jp/%3fpid=column_detail_amp&id=001-20161031-07 週刊ベースボールONLINE|野球コラム「三塁コーチはオーケストラの指揮者」 伊原春樹が語る1987年日本シリーズ、“伝説の好走塁”]</ref>。1988年4月28日に[[金沢市|金沢]]へ遠征し、[[イースタン・リーグ]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦を終えた後、大金と[[クレジットカード]]、ワールドシリーズの指輪2個を入れた[[財布]]がないことに気づく<ref name="Marty's" >[http://www.ismac.co.jp/archives/kiji/2002/msn020327.html Welcome to Marty's Ballpark! | 記事の紹介]</ref>。その後、グラウンドコートのポケットに入れてダグアウトにかけておいたことを思い出したが、そこにはなく、チームメイトに盗難されたと主張。球団側はキャンパネリスの主張を鵜呑みにするわけにもいかず、警察に正式な捜査を依頼しなかった。見捨てられたと感じたキャンパネリスは、頭に血が昇ったまま、シーズン途中の6月1日に日本を去った<ref name="Marty's" />。

2021年9月11日 (土) 23:31時点における版

バート・キャンパネリス
Bert Campaneris
2012年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[1]
出身地  キューバ
マタンサス州プエブロ・ヌエボ
生年月日 (1942-03-09) 1942年3月9日(82歳)
身長
体重
5' 10" =約177.8 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1961年 アマチュアFA
初出場 1964年7月23日
最終出場 1983年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

デゴバート・キャンパネリス・ブランコDagoberto "Bert" Campaneris Blanco , 1942年3月9日 - )は、キューバマタンサス州プエブロ・ヌエボ出身の元プロ野球選手遊撃手)・コーチ

愛称"Campy"キャピー)。

従兄弟のホセ・カーデナルも元MLB選手。

経歴

1961年4月25日にカンザスシティ・アスレチックス捕手として契約を結び[2]、器用な選手であったため、内野手コンバートされた[2]マイナーリーグ時代の1962年8月フロリダステートリーグ投手として登板した時には左右投げを披露したスイッチピッチャーであるが、スイッチヒッターでは無い[2]1964年7月23日のミネソタ・ツインズ戦でMLB初出場を果たし、ジム・カートから初打席初本塁打を放ち、第4打席でもカートから本塁打を放った。このMLBデビュー戦2本塁打チャーリー・ライリー英語版1889年)、ボブ・ニーマン1951年)、マーク・クイン英語版1999年)、ウィルソン・ラモス2010年)が他に達成している[3]。MLBでは主に遊撃手として出場したが、1965年9月8日のロサンゼルス・エンゼルス戦で史上初の1試合全ポジション守備を記録し、「1番・遊撃手」で先発して回ごとに二塁手三塁手左翼手中堅手右翼手一塁手→投手→捕手とポジションを変え、珍記録を達成した。8回にはMLB昇格後で自身初の投手を務め、2与四球・1被安打で1失点という内容であった。9回に走者のエド・カークパトリック英語版と衝突して負傷退場したが[2]、試合は延長戦に入って13回に5-3でエンゼルスが勝利した。なお、この時のアスレチックスは首位から30ゲーム離されていたため、キャンパネリスの全ポジション出場はプロモーションであった[2]。この記録はのちにシーザー・トーバー1968年)、スコット・シェルドン2000年)、シェーン・ホルター(2000年)が達成している。1965年は51盗塁で盗塁王のタイトルを獲得したが、前年まではルイス・アパリシオが1年目から9年連続で盗塁王を獲得していた。1966年は52盗塁、1967年は55盗塁、1968年はリーグ最多の177安打に加えて自己最多の62盗塁を記録し、1965年から4年連続となる50盗塁以上で盗塁王を獲得。1969年は盗塁王こそ逃したが、MLB記録となる12試合連続盗塁を達成[4]1970年は22本塁打を放ち、唯一の2桁本塁打を記録したシーズンとなった。42盗塁で5度目の盗塁王も獲得し、1972年は52盗塁で6度目の盗塁王を獲得。延長戦に突入した9月13日の試合では6度の併殺プレーを演じ、アメリカンリーグ記録を樹立。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシリーズ第2戦では、レリン・ラグロー英語版から3安打・2盗塁を記録したが、7回に足に当たる死球を受け、バットをラグローへ向けて投げたことからラグローとともに退場処分となった。チャンピオンシリーズの残りの試合と次のシーズンの最初の7試合に出場することは禁止されたが、ワールドシリーズの出場は許可された。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでキャンパネリスは打率.179と不振を極めたものの、チームは4勝3敗でレッズを破り、初のワールドチャンピオンを経験した。1973年ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦の延長11回裏に最初の打者としてサヨナラ本塁打を放ち、チームはワールドシリーズへの進出を決めた。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは第7戦の3回に2点本塁打を放ち、レジー・ジャクソンも2点本塁打で後に続き、チームはワールドシリーズ連覇を果たした。1974年ワールドシリーズでもロサンゼルス・ドジャースを4勝1敗で破り、チームは3年連続でワールドチャンピオンに輝いている。ワールドシリーズ3連覇時はレジー・ジャクソンとともに打線の中心として活躍した。アスレチックス球団記録の通算1795試合出場7180打数1882安打を保持し、1976年11月1日にテキサス・レンジャーズ1979年5月4日にカリフォルニア・エンゼルスへ移籍。1982年メキシカンリーグベラクルス・レッドイーグルスポサリカ・オイラーズでプレーし、1983年1月24日にニューヨーク・ヤンキースでMLBに復帰したが、41歳となった同年限りで現役を引退。

引退後はMLBでコーチになることを希望するも叶わず[5]、マイナーリーグの指導者を経て[5]西武ライオンズの一軍守備・走塁コーチ(1987年)→二軍守備・走塁コーチ(1988年)を務めた。就任当初は三塁コーチを務めたが、うまく機能しなかったため、4月末から伊原春樹に交代[6]。1988年4月28日に金沢へ遠征し、イースタン・リーグ巨人戦を終えた後、大金とクレジットカード、ワールドシリーズの指輪2個を入れた財布がないことに気づく[7]。その後、グラウンドコートのポケットに入れてダグアウトにかけておいたことを思い出したが、そこにはなく、チームメイトに盗難されたと主張。球団側はキャンパネリスの主張を鵜呑みにするわけにもいかず、警察に正式な捜査を依頼しなかった。見捨てられたと感じたキャンパネリスは、頭に血が昇ったまま、シーズン途中の6月1日に日本を去った[7]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1964 KCA
OAK
67 290 269 27 69 14 3 4 101 22 10 2 2 0 15 0 4 41 3 .257 .306 .375 .681
1965 144 634 578 67 156 23 12 6 221 42 51 19 3 3 41 0 9 71 5 .270 .326 .382 .709
1966 142 606 573 82 153 29 10 5 217 42 52 10 1 2 25 1 5 72 6 .267 .302 .379 .681
1967 147 649 601 85 149 29 6 3 199 32 55 16 3 2 36 2 7 82 3 .248 .297 .331 .628
1968 159 707 642 87 177 25 9 4 232 38 62 22 8 3 50 2 4 69 5 .276 .330 .361 .692
1969 135 592 547 71 142 15 2 2 167 25 62 8 10 1 30 2 4 62 5 .260 .302 .305 .608
1970 147 650 603 97 168 28 4 22 270 64 42 10 3 4 36 1 4 73 5 .279 .321 .448 .769
1971 134 609 569 80 143 18 4 5 184 47 34 7 3 6 29 1 2 64 7 .251 .287 .323 .611
1972 149 681 625 85 150 25 2 8 203 32 52 14 20 2 32 0 2 88 9 .240 .278 .325 .603
1973 151 671 601 89 150 17 6 4 191 46 34 10 9 7 50 1 4 79 10 .250 .308 .318 .626
1974 134 587 527 77 153 18 8 2 193 41 34 15 11 2 47 2 0 81 6 .290 .347 .366 .713
1975 137 588 509 69 135 15 3 4 168 46 24 12 19 3 50 2 7 71 9 .265 .337 .330 .667
1976 149 631 536 67 137 14 1 1 156 52 54 12 18 11 63 0 3 80 4 .256 .331 .291 .622
1977 TEX 150 648 552 77 140 19 7 5 188 46 27 20 40 5 47 1 4 86 7 .254 .314 .341 .655
1978 98 319 269 30 50 5 3 1 64 17 22 4 25 3 20 0 2 36 6 .186 .245 .238 .483
1979 8 10 9 2 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 1 0 0 3 0 .111 .200 .111 .311
CAL 85 273 239 27 56 4 4 0 68 15 12 4 11 2 19 0 2 32 8 .234 .294 .285 .578
'79計 93 283 248 29 57 4 4 0 69 15 13 4 11 2 20 0 2 35 8 .230 .290 .278 .569
1980 77 234 210 32 53 8 1 2 69 18 10 5 7 2 14 0 1 33 4 .252 .300 .329 .628
1981 55 91 82 11 21 2 1 1 28 10 5 2 3 1 5 0 0 10 0 .256 .295 .341 .637
1983 NYY 60 155 143 19 46 5 0 0 51 11 6 7 3 1 8 0 0 9 4 .322 .355 .357 .712
MLB:19年 2328 9625 8684 1181 2249 313 86 79 2971 646 649 199 199 60 618 15 64 1142 106 .259 .311 .342 .653
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • KCA(カンザスシティ・アスレチックス)は、1968年にOAK(オークランド・アスレチックス)に球団名を変更

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1965 KCA 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 1 0 2 0 0 1 0 0 1 1 9.00 3.00
MLB:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 1 0 2 0 0 1 0 0 1 1 9.00 3.00

タイトル

  • 盗塁王:6回 (1965年 - 1968年、1970年、1972年)

表彰 

背番号

  • 19 (1964年 - 1981年)
  • 56 (1983年)
  • 83 (1987年 - 1988年)

脚注

関連項目

外部リンク