「幡ヶ谷」の版間の差分
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1082年(永保2年)に源義家が後三年の役から帰る途中、小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる |
1082年(永保2年)に源義家が後三年の役から帰る途中、小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる<ref>幡ヶ谷郷土史</ref>。跡地は現在高知新聞社社宅「洗旗荘」となっており、由来を書いた区の立て札と東郷平八郎揮毫による「洗旗池」の石碑がある。 |
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=== 行政区画 === |
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2021年6月4日 (金) 05:35時点における版
幡ヶ谷 | |
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幡ヶ谷駅 南口地上出入口(2009年4月12日) | |
北緯35度40分38.3秒 東経139度40分34.38秒 / 北緯35.677306度 東経139.6762167度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 渋谷区 |
人口 | |
• 合計 | 16,645人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
151-0072[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
幡ヶ谷(はたがや)は、東京都渋谷区北部にある地名である。地名「幡ヶ谷」[4]の指し示す範囲には以下の2通りがあり、本稿では両者とも扱う。
- 汎称地名としての「幡ヶ谷」(幡ヶ谷地域)。これは旧幡ヶ谷村の全域に相当し、現行行政地名では本町一〜六丁目、幡ヶ谷一〜三丁目、笹塚一〜三丁目が含まれる。
- 渋谷区の現行行政地名としての「幡ヶ谷」。1960年(昭和35年)の町名地番変更により使用され始めた地名で、幡ヶ谷一丁目から幡ヶ谷三丁目まである。郵便番号は151-0072[2]。
概要
地名の由来
1082年(永保2年)に源義家が後三年の役から帰る途中、小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる[5]。跡地は現在高知新聞社社宅「洗旗荘」となっており、由来を書いた区の立て札と東郷平八郎揮毫による「洗旗池」の石碑がある。
行政区画
汎称地名としての幡ヶ谷(幡ヶ谷地域)は渋谷区の北部に位置し、現行行政地名では本町・幡ヶ谷・笹塚が該当する。地域の北部は中野区南台および弥生町に、東部は新宿区西新宿に、南部は渋谷区初台、西原、およびその西の世田谷区北沢、大原に接し、西部は杉並区方南に接する。
地形
地形は武蔵野台地上の平坦な部分が大半を占めるが、地域北部の笹塚三丁目から幡ヶ谷三丁目、本町五丁目・四丁目・三丁目にかけては神田川幡ヶ谷支流(暗渠)に沿って浅い谷になっており、明治期までは中幡ヶ谷田圃と呼ばれる水田地帯となっていた。また笹塚交差点付近には牛窪と呼ばれる窪地が存在するため、地域の南縁にほぼ沿って流れていた玉川上水はこの場所を迂回するように大きく南側に逸れている。
なお、玉川上水は現在笹塚駅の近辺の一部を除いて暗渠化され、緑道(公園)として整備されている。
産業・文化
地域内は住宅街としての利用が中心であるが、甲州街道沿いや山手通り沿い、中野通り沿いには企業のビルなどが目立つ。地域内には不動通り商店街、六号通り商店街や十号通り商店街などの商店街も形成されており商業地としての利用も活発である。東部の本町は新宿副都心に接し、その地にはオペラシティに隣接して新国立劇場がある。
幡ヶ谷地域は旧幡ヶ谷村の村社である氷川神社(本町5丁目に所在)を共通の氏神とし、秋の大祭には全域から山車が集まる。
現在、幡ヶ谷地域を東西に貫く緑道(玉川上水旧水路)及び水道道路の再開発が計画されており[6]、近い将来街の様子が変わる可能性がある。
現行行政地名としての幡ヶ谷
現行行政地名としての幡ヶ谷は一丁目〜三丁目まで存在し、幡ヶ谷地域の中央に位置する。1960年(昭和35年)の町名地番変更により使用され始めた地名であり、おおむね六号通りが本町、中野通りが笹塚との境界となっている。京王新線幡ヶ谷駅は甲州街道の地下にあり、南口が幡ヶ谷一丁目に、北口が幡ヶ谷二丁目に存在する。
幡ヶ谷一丁目は甲州街道を隔てて南側に位置するため、代々木上原(西原)との結びつきも強い。
歴史
始まり
幡ヶ谷の起源は定かではないが、村の氏神である氷川神社と、そこから伸びる国分寺道・中幡ヶ谷道周辺に集落が形成されたのが村の始まりであると考えられる[7]。「幡ヶ谷」の名前が古文書に初めて現れたのは戦国時代、後北条氏が関東一円を掌握した時期の小田原分限帳であるという。その後、後北条氏が滅びて関東八カ国が徳川家康の領国となり、つづいて江戸幕府が開かれるに当たり幡ヶ谷はその大部分が幕府の直轄地となった。
江戸時代
江戸時代には地域内を東西に貫くように甲州街道が整備された。旧版地図等によると甲州街道沿いにも古くから集落が形成されていた。幡ヶ谷は内藤新宿と下高井戸宿の中間地点にあたり、宿場町は置かれなかったが、旅人の休憩施設や茶店等が街道沿いに設置され、地域内は街道を通る旅人等で賑わっていたようである。
1653年に整備された玉川上水によって幡ヶ谷村内の一部が南北に分断されるようになり、住民が不便を被ることになった。とはいえ、村の北側全域が分断された南隣の代々木村と比較して、幡ヶ谷村は笹塚の一部が分断されたにすぎず、影響は少なかったものと思われる。
江戸時代から幡ヶ谷村は豊島郡に属しており、村内には本村・中幡ヶ谷・下町・原・笹塚の5つの字があった。村の祭りは本村・中幡ヶ谷の連合、下町・原の連合で行い、笹塚は単独で行うことが多かったという。これは、本村と中幡ヶ谷が共に村の創立に関わってたため、下町・原は共に甲州街道沿道にあるため関係が深く連合で祭りを行っていたのに対して、笹塚は裕福な住民が多く単独でも祭りを行えたためだという[8]。
明治時代から昭和初期まで
江戸時代から甲州街道を通じて代々木・角筈・柏木等の新宿方面の地域と関係が深かった幡ヶ谷村は1875年、それらの村々と共同で公立学校である豊水小学校を設立する。1878年(明治11年)に豊島郡の一部をもって南豊島郡が設立され、幡ヶ谷村は南豊島郡の所属となる。その頃から幡ヶ谷村は南隣の代々木村と連合して役場や学校を設けるなど関係を深めていたが、1888年(明治21年)に市制・町村制が公布、施行されるに及んで、翌1889年(明治22年)に正式に合併して代々幡村となった。このとき、各村の旧村名であった「幡ヶ谷」及び「代々木」は代々幡村の大字として残ることになる。1898年、村内の大字幡ヶ谷を東西に貫くように玉川上水新水路が完成し、幡ヶ谷は水路の土手で南北に分断されることになる。当時、玉川上水新水路は水質確保のため架橋が禁止されていたため、住民は本村と笹塚にあった隧道を使って行き来しなくてはならなくなり、多大な不便を被ることになった[9]。また、甲武鉄道等の鉄道の主要ルートから外れたこともあり、明治時代を通じて代々幡村は江戸時代さながらの農村の様相を呈しており、市街化が進んだのは山手線に近い大字代々木の東部のみであった[10]。しかし、1913年の京王線開通を契機に人口が急増し、1915年(大正4年)に町制を施行して代々幡町となった(代々幡町とともに渋谷区を構成した渋谷町・千駄ケ谷町と比べると6~8年ほど町制施行が遅い)。1923年(大正12年)の関東大震災では、玉川上水新水路の土手が崩れ町内が浸水するなどの被害はあったが、街が地盤の固い武蔵野台地上に位置していることが幸いし東京の下町地域よりも被害は圧倒的に少なかった。震災後、東京の下町地域の住人が次々と町内に移住し、町の宅地化が進んだ。当時、東京市深川区木場から木材を扱う商人が多く流入したため、現在でも幡ヶ谷周辺には材木屋が多く点在する[11]。
とはいえ、昭和初年まで幡ヶ谷地域では農業が行われており、通行人が狸に化かされた怪談話[12]が伝わるほど人気の少ない淋しい地域も残存していた。
なお、町制施行以前に南豊島郡はすでに東多摩郡と合併して豊多摩郡となっていたので、幡ヶ谷地域は東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷と呼ばれていた。字の新設も行われ、地域内には本村・本村北・本村西・下町(現在の本町が該当)、中幡ヶ谷・北原・南原(現在の幡ヶ谷が該当)、北笹塚・南笹塚(現在の笹塚が該当)の9つの小字を有した。
東京市編入とその後
1932年に東京市が近隣の5郡82町村を編入することになり、豊多摩郡に属する代々幡町も東京市に編入されることとなった。新宿を生活の拠り所とする代々幡町は当初、同じく新宿と関係が深い淀橋町や大久保町などと共に一つの区を形成することを希望していたが、同じ郡の2~3の町村が合わさって一つの区を作るとのルールがあったため、仕方なく渋谷町・千駄ヶ谷町と組んで一つの区となることを受け入れた。新区名についても、当時は渋谷よりも明治神宮のある代々木の方が知名度が高かったことなどから「代々木区」とすることを希望しており、これに渋谷町が反対すると妥協案として「宮区」(幡ヶ谷・千駄ヶ谷・渋谷の3つの谷、すなわち「三谷(みや)」と明治神宮の「宮」をかけたもの)とする案も提示していたが、東京府議会と関係の深い渋谷町議会議員により新区名が半ば強引に「渋谷区」とされ、幡ヶ谷地域は渋谷区の一部となった[7]。
以上のような経緯により代々幡町は東京市に編入されて旧渋谷町、旧千駄ヶ谷町と共に渋谷区を形成することになり、幡ヶ谷地域は渋谷区の北端に位置する離れ小島のような存在となってしまう。渋谷方面へのアクセスが良好な代々木地域や千駄ケ谷地域に比べ幡ヶ谷地域は新宿へのアクセスの方が抜群に優れており、街の雰囲気や川の水系が新宿に近い特徴を持つこともあり、区内でも異質な存在であると言える。
幡ヶ谷地域ではその後工場の立地が進んで「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれるに至り[13]、同時に宅地化も進んだ。現在では新宿に近い利便性からかつての農村風景は遠く失われ、住宅地・商業地となってマンションや店舗が立ち並ぶ賑やかな街となっている。
編入からの町名の変遷
1932年の東京市編入の際、幡ヶ谷の小字も整理され下記の4町名に再編された。
- 幡ヶ谷本町一丁目~三丁目(←幡ヶ谷本村・本村北・本村西・下町)
- 幡ヶ谷中町(←中幡ヶ谷)
- 幡ヶ谷原町(←北原・南原)
- 幡ヶ谷笹塚町(←北笹塚・南笹塚)
1960年(昭和35年)に町界町名地番の整理改正が行われた際、下記の3つの町に統合整理され、現在に至っている。ただし、新しい町域の設定に際し、中野通りなどの比較的新しい道路を境界としたので、旧町のと新町の町域には多少の相違がある。
1968年(昭和43年)1月1日に、住居表示を実施[14]。幡ヶ谷一丁目・三丁目の全部と幡ヶ谷二丁目の一部をもって現行の幡ヶ谷一丁目~三丁目が成立した。
実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ各町名ともその一部) |
---|---|---|
本町六丁目 | 1968年1月1日 | 本町六丁目(全域)、本町一丁目、幡ヶ谷二丁目 |
幡ヶ谷一丁目 | 幡ヶ谷一丁目(全域) | |
幡ヶ谷二丁目 | 幡ヶ谷二丁目 | |
幡ヶ谷三丁目 | 幡ヶ谷三丁目(全域)、幡ヶ谷二丁目 |
その他の主な事象
- 1882年(明治15年) - 幡代小学校の創設
- 1879年に制定された新教育令に従い、1882年に幡ヶ谷村と代々木村は従来からあった私塾を移して連合村立小学校「白木分校」を設けた。そして、1889年に両村合併して代々幡村となるや、白木分校を改称して「代々幡村立幡代小学校」とした。その後、幡ヶ谷地域は人口増加に伴って、笹塚小学校(1920年(大正9年))、本村小学校(1923年(大正12年)、のちに「本町小学校」と改称)、西原小学校(1928年(昭和3年)、幡ヶ谷原町の大部分を通学区域に含めて創設)、中幡小学校(1932年(昭和7年))と小学校を創設、整備していった。
- 玉川上水は、和泉から新宿への流れは従来は幡ヶ谷地域と代々木地域の境の辺を通っていたが、東京市の新水道事業で淀橋浄水場の完成を機会に、和泉から角筈の浄水場までほぼ一直線に土手を築いて新水路を通した。工事は1892年に着手し、1898年に完成した。新水道は東京市民に多大の恩恵を与えたが、幡ヶ谷地域は中央を高い土手が縦貫して地域が南北に分断され、長年にわたって土地の発展が妨げられ、住民が多大の不便を囲った。
- 京王線は1912年に笹塚 - 調布の区間を開通・開業していたが、引き続いて東への延長工事を進め、1914年11月には「新町」(現在の文化女子短期大学の西の地点)まで延長した。なおこの後、新宿終点までの延長が完成するのは翌1915年5月のことであった。 開業当初の幡ヶ谷地域とその周縁にあった京王線の駅は、西から「笹塚」、「幡ヶ谷」、「代々幡」(のちに「幡ヶ谷本町」、「幡代」と順次改称し、1945年に廃止された)「幡代小学校前」、「改正橋」(間もなく「初台」と改称)の4駅であった。
- 1932年(昭和7年) - 玉川上水新水路の廃止
- 1932年に玉川上水が甲州街道の地下に埋設された水道管を経由することに伴い、新水路は廃止された。そして、土手も撤去されることになり、上流側から工事が始まった。しかし、その後の戦争の進展により、土手の撤去工事は上流側から七号橋まで進んだ段階で中断された。戦後になって工事は再開されたが、七号橋から下流側は土手が撤去されることなく整地されただけに終わった。そして、水路全延長の跡地に水道道路が作られた。
世帯数と人口
2019年(令和元年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
幡ヶ谷一丁目 | 2,378世帯 | 3,573人 |
幡ヶ谷二丁目 | 4,090世帯 | 6,396人 |
幡ヶ谷三丁目 | 3,893世帯 | 6,676人 |
計 | 10,361世帯 | 16,645人 |
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 | 調整区域による変更可能校 |
---|---|---|---|---|
幡ヶ谷一丁目 | 10~12番 | 渋谷区立笹塚小学校 | 渋谷区立笹塚中学校 | |
その他 | 渋谷区立西原小学校 | 渋谷区立代々木中学校 | ||
幡ヶ谷二丁目 | 1~19番 39〜42番 44番 46〜48番 50番 | |||
20~34番 36〜37番 |
渋谷区立笹塚小学校 | 渋谷区立笹塚中学校 | ||
35番 | 渋谷区立中幡小学校 | 渋谷区立笹塚小学校 | ||
その他 | ||||
幡ヶ谷三丁目 | 1~36番 38~81番 | |||
その他 | 渋谷区立笹塚小学校 | 渋谷区立中幡小学校 |
交通
幹線道路
幡ヶ谷地域内では東西方向に甲州街道(国道20号)および水道道路が走り、本町の北部では方南通りが通っている。また、南北方向には地域中央部で中野通りが、東端地域を山手通りが、西端のすぐ外側では環七通りが通っている。
鉄道
- 地内に甲州街道に沿って京王線が走っており、地域西部に京王線笹塚駅があり、地域中央部の甲州街道地下に京王新線幡ヶ谷駅がある。また、地域東部南縁の甲州街道地下には京王新線初台駅があって、本町の住民の多くが最寄り駅として利用している。
路線バス
路線バスは中野通りや水道道路、甲州街道沿いに多数のバス便があり、渋谷駅⇔中野駅、渋谷駅⇔阿佐ヶ谷駅、新宿駅西口⇔方南町⇔永福町、といった路線が利用できる。
主な施設
神社仏閣
学校
公立小中学校
- 渋谷区立西原小学校(西原2丁目)
- 渋谷区立中幡小学校(幡ヶ谷3丁目)
- 渋谷区立笹塚小学校(笹塚2丁目)
- 渋谷区立本町学園小学校(本町4丁目)
- 渋谷区立本町東小学校跡(本町3丁目)
- 渋谷区立代々木中学校(西原1丁目)
- 渋谷区立笹塚中学校(笹塚3丁目)
- 渋谷区立本町学園中学校(本町4丁目)
私立学校
- 関東国際高等学校(本町3丁目)
- 帝京短期大学(本町6丁目)
- 富士見丘中学校・高等学校(笹塚3丁目)
官公施設
- 東京消防庁消防科学研究所(幡ヶ谷1丁目)
- 幡ヶ谷高齢者センター(幡ヶ谷2丁目)
- 幡ヶ谷社会教育館(幡ヶ谷2丁目)
企業
- カシオ計算機本社(本町1丁目)
- 伊藤園本社(本町3丁目)
- 帝国石油本社(幡ヶ谷1丁目)
- テルモ本社(幡ヶ谷2丁目)
- ヤマダレオハウス本社(幡ヶ谷2丁目)
- オリンパス幡ヶ谷事業場(幡ヶ谷2丁目)
- 三工社本社(幡ヶ谷2丁目)
- 新宿中村屋本社・東京事業所(笹塚1丁目)
その他
- 新国立劇場(本町1丁目)
出身人物
参考文献
- 『幡ヶ谷郷土誌』氷川神社社務所内「幡ヶ谷を語る会」、昭和53年(1978年)
脚注
- ^ a b “住民基本台帳・外国人登録による人口”. 渋谷区 (2019年8月1日). 2019年8月1日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年8月1日閲覧。
- ^ 郵便番号簿や新聞などの印刷物では、便宜上「幡ケ谷」とされる場合もある
- ^ 幡ヶ谷郷土史
- ^ https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kankyo/machi/sasahata/index.html
- ^ a b 幡ヶ谷郷土史
- ^ 幡ヶ谷郷土史
- ^ なお、その後架橋が許されることになり、16の橋が架けられた。橋は新宿方から一号橋・二号橋・三号橋・…・十六号橋のように名付けられた。現在商店街として賑わう六号通りや十号通りは、かつて六号橋や十号橋があった道が商店街になったものである。
- ^ 幡ヶ谷郷土史
- ^ 幡ヶ谷郷土史
- ^ 「幡ヶ谷の古狸」深夜、近辺の男が玉川上水の土手道を通っていると、向こうから提灯を持った老婆がやってきた。狭い道ですれ違う際に老婆はよろけて男につきあたって転倒し、そのまま土手下の大根畑に転落してしまった。男が畑に降りて老婆を助けおこそうと両手を引っ張ったところ、腕がすっぽり肩から抜けてしまい、腕のない老婆が男に向けて高笑いの声をたてた。男は驚いて逃げ出したが、翌日現場をあらためたところ老婆の姿はなく、ただ畑の大根が二本引き抜かれていたという。
- ^ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。「kushi
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 同年3月30日、自治省告示第54号「住居表示が実施された件」
- ^ “通学区域”. 渋谷区. 2017年12月22日閲覧。