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2021年5月13日 (木) 21:48時点における版

永平寺
永平寺の勅使門(唐門)
所在地 福井県吉田郡永平寺町志比5-15
位置 北緯36度3分11秒 東経136度21分20秒 / 北緯36.05306度 東経136.35556度 / 36.05306; 136.35556座標: 北緯36度3分11秒 東経136度21分20秒 / 北緯36.05306度 東経136.35556度 / 36.05306; 136.35556
山号 吉祥山
宗派 曹洞宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来弥勒仏阿弥陀如来
創建年 寛元2年(1244年
開山 道元
開基 波多野義重
文化財 普勧坐禅儀(国宝
梵鐘、道元禅師嗣書、山門、中雀門ほか(重要文化財
公式サイト 【公式サイト】大本山永平寺ホームページ
法人番号 1210005001129 ウィキデータを編集
永平寺の位置(福井県内)
永平寺
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永平寺の位置(日本内)
永平寺
永平寺
仏殿

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗仏教寺院總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、開山道元本尊釈迦如来弥勒仏阿弥陀如来の三世仏である。寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)。

歴史

道元の求法

曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。

幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺天台宗総本山)に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)・仏性(ぶっしょう、仏としての性質)を持っているはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。

比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)に建仁寺へ入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。

道元は天童山景徳寺如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ死去した。

日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(現在は京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。

越前下向

旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。

当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここで一冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。

寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号永平」からであり、意味は「永久の和平」である。

道元以降

その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介の下で整備が進められた。義介が三代相論で下山し、4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興して現在に至る基礎を固めた。義雲から19世祚玖まで[1]と、22世の常智祚天は寂円派の住持であった。

暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。

伽藍

境内配置図 1.山門、2.仏殿、3.法堂、4.僧堂、5.大庫院、6.浴室、7.東司、8.承陽殿、9.鐘楼堂、10.勅使門、11.祠堂殿、12.中雀門、13.傘松閣、14.吉祥閣
文化財については後述
  • 勅使門 - 天保10年(1839年)の建築。
  • 山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
  • 中雀門
  • 通用門
  • 円通門
  • 仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。本尊の久遠実成の釈迦・方便の釈迦・無量寿の釈迦(阿弥陀如来)の三世仏(過去・現在・未来を表す)の他、禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
  • 法堂(はっとう) - 天保14年(1843年)の建築。聖観音(しょうかんのん)像を安置する。
  • 大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベーターが現存しており、これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
  • 承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
  • 僧堂 - 明治35年(1902年)の建築。僧堂は坐禅修行のための建物である。
  • 傘松閣(さんしょうかく) - 昭和5年(1930年)の二祖国師・孤雲懐奘650回忌を記念して建築。道元禅師と永平寺の名は、永平寺最初の山号「傘松峰」に由来。222畳敷きの大広間があり、天井画は小室翠雲らの尽力により、荒木十畝伊東深水鴨下晁湖川合玉堂島田墨仙野田九浦益田玉城水上泰生山田敬中山本昇雲など計144名の画家によって描かれた[2]
  • 吉祥閣 - 昭和46年(1971年)の建築。地上5階地下1階の宿泊研修施設で、曹洞宗に限らず参禅研修を希望する人を広く受け入れている。
  • 浴室 - 昭和55年(1980年)の改築
  • 東司
  • 真陽閣
  • 光明蔵
  • 不老閣
  • 宝蔵
  • 一華蔵
  • 孤雲閣
  • 瑠璃聖宝閣
  • 五葉関
  • 祠堂殿

歴代貫首

文化財

普勧坐禅儀(巻頭部分)

国宝

  • 普勧坐禅儀(附 普勧坐禅儀撰述記)

重要文化財

  • 高祖嗣書 1幅 紙本墨書 南宋時代
  • 明全戒牒 1巻 金銀絵料紙墨書 鎌倉時代
  • 正法眼蔵仏性第三 1冊 紙本墨書 孤雲懐弉筆 鎌倉時代
  • 後円融院宸翰 1幅 南北朝時代
  • 梵鐘 鎌倉時代 嘉暦2年(1327年)
  • 永平寺(建造物)19棟[3][4]
    • 仏殿
    • 法堂
    • 山門
    • 中雀門
    • 僧堂
    • 大庫院
    • 大光明蔵
    • 監院寮
    • 廻廊 5棟(山門東方、山門西方、中雀門東方、中雀門西方、仏殿東方)
    • 承陽殿本殿及び拝殿
    • 承陽門
    • 経蔵
    • 松平家廟所門
    • 舎利殿及び祠堂殿
    • 勅使門

典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000年)による。

福井県指定有形文化財

  • 絹本著色三帝釈天
  • 絹本著色永平寺歴代祖師像 9幅

交通

門前再構築事業と宿泊施設

永平寺は「準聖域」と位置付ける門前の再構築を福井県や永平寺町と進めている。運営を藤田観光に委託する宿泊施設「永平寺 親禅の宿 柏樹関」(はくじゅかん)が2019年に開業した[5][6]

参考文献

辞典類

関連項目

脚注

  1. ^ 「第一章第七節 二 道元と永平寺 義雲の中興と寂円派」『福井県史 通史編2 中世』1994年。 
  2. ^ 馬来田愛岳監修 永平寺祖山傘松会編集『傘松閣天井絵』大本山永平寺 宮崎奕保、1983年12月。
  3. ^ 令和元年9月30日文部科学省告示第71号
  4. ^ 「国宝・重要文化財(建造物)の指定について」文化庁サイト、2019年5月17日発表)
  5. ^ 曹洞宗大本山永平寺が整備する宿泊施設の運営者に決定 2019年秋 福井県永平寺門前に宿泊施設を開業”. 藤田観光プレスリリース. 2017年5月28日閲覧。
  6. ^ 永平寺 親禅の宿 柏樹関(はくじゅかん)(2020年2月24日閲覧)
  7. ^ シンポジウム:「原発は仏の教えに背く」 永平寺「ふげん」など命名懺悔--来月2日: 毎日新聞 2011年10月14日 大阪朝刊

外部リンク