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三国の[[魏 (三国)|魏]]により[[南陽郡]]から分割されて、義陽郡が立てられた。[[237年]]([[景初]]元年)、[[襄州|襄陽郡]]鄀県・葉県を義陽郡に転属させた<ref>『[[三国志]]』魏書明帝紀</ref>。義陽郡は[[荊州]]に属した。魏の襄陽郡はほどなく廃止された。 |
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[[469年]]([[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[泰始 (南朝宋)|泰始]]5年)、[[郢州]]に転属した。[[476年]]([[元徽 (南朝宋)|元徽]]4年)、[[司州]]に転属した。南朝宋の義陽郡は平陽・鄳・鍾武・宝城・義陽・平春・環水の7県を管轄した<ref>『[[宋書]]』州郡志二</ref>。 |
2021年3月1日 (月) 05:28時点における版
義陽郡(ぎよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の河南省南部と湖北省北部にまたがる地域に設置された。
概要
三国の魏により南陽郡から分割されて、義陽郡が立てられた。237年(景初元年)、襄陽郡鄀県・葉県を義陽郡に転属させた[1]。義陽郡は荊州に属した。魏の襄陽郡はほどなく廃止された。
西晋の太康年間、ふたたび南陽郡を分割して、義陽郡が立てられた。晋の義陽郡は新野・穣・鄧・蔡陽・随・安昌・棘陽・厥西・平氏・義陽・平林・朝陽の12県を管轄した[2]。
469年(南朝宋の泰始5年)、郢州に転属した。476年(元徽4年)、司州に転属した。南朝宋の義陽郡は平陽・鄳・鍾武・宝城・義陽・平春・環水の7県を管轄した[3]。
南朝斉のとき、北義陽郡と改称された。北義陽郡は平陽・義陽・保城・鄳・鍾武・環水の6県を管轄した[4]。
504年(正始元年)、北魏の元英が義陽を奪った[5]。北魏の義陽郡は郢州に転属した[6]。
528年(大通2年)、北魏の郢州刺史の元願達が南朝梁に降伏し、義陽郡は梁の統治下にうつった[7]。梁の義陽郡は司州に転属した。
549年(武定7年)、東魏が義陽郡を奪った。東魏の義陽郡は南司州に属し、平陽・義陽の2県を管轄した[6]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、義陽郡は廃止されて、申州に編入された。606年(大業2年)、申州は義州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、義州が義陽郡と改称された。義陽郡は義陽・鍾山・羅山・礼山・淮源の5県を管轄した[8]。
621年(武徳4年)、唐により義陽郡は申州と改められた。742年(天宝元年)、申州は義陽郡と改称された。758年(乾元元年)、義陽郡は申州と改称され、義陽郡の呼称は姿を消した[9]。
南義陽郡
東晋末年に義陽郡の流民を集めて南義陽郡が僑置された。
南朝宋のとき、南義陽郡は平氏・厥西の2県を管轄した[10]。
南朝斉のとき、南義陽郡は平氏・厥西の2県を管轄した[4]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、南義陽郡は澧州と改められた[9]。