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2021年3月1日 (月) 05:07時点における版
済陰郡(濟陰郡、さいいん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省南西部に設置された。
概要
前漢の初め、梁国の一部であった。紀元前144年(景帝中6年)、劉不識が済陰王に封じられ、済陰国が置かれた。翌年に済陰王劉不識が死去し、済陰国は廃止されて、済陰郡が置かれた[1]。紀元前52年(甘露2年)、皇子劉囂が定陶王に封じられ、済陰郡は定陶国と改められた[2]。紀元前5年(建平2年)、定陶国は済陰郡にもどされた。済陰郡は兗州に属し、定陶・冤句・呂都・葭密・成陽・鄄城・句陽・秺・乗氏の9県を管轄した。前漢末に29万25戸、138万6278人があった[3]。
後漢の72年(永平15年)、劉長が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた[4]。84年(元和元年)、済陰王劉長が死去すると、済陰国は済陰郡に戻された[5]。124年(延光3年)、皇太子劉保が廃位されて、済陰王に封じられると、済陰郡は済陰国と改められた[6]。125年(延光4年)、済陰王劉保(順帝)が帝位につくと、済陰国は済陰郡に戻された[7]。済陰郡は定陶・冤句・成陽・乗氏・句陽・鄄城・離狐・廩丘・単父・成武・己氏の11県を管轄した[8]。212年(建安17年)、皇子劉熙が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた[9]。
曹魏が建国されると、済陰国は済陰郡にもどされた。太和年間、彭城王曹據が済陰王に改封されると、済陰郡は済陰国と改められた。231年(太和5年)、済陰王曹據が定陶王に減封されたため、済陰国は済陰郡に戻された[10]。
西晋のとき、済陰郡は定陶・乗氏・句陽・離狐・冤句・己氏・成武・単父・城陽の9県を管轄した[11]。
北魏のとき、済陰郡は西兗州に属し、定陶・離狐・冤句・乗氏の4県を管轄した[12]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、済陰郡は廃止されて、曹州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、曹州は済陰郡と改称された。済陰郡は済陰・外黄・済陽・成武・冤句・乗氏・定陶・単父・金郷の9県を管轄した[13]。
621年(武徳4年)、唐により済陰郡は曹州と改められた。742年(天宝元年)、曹州は済陰郡と改称された。758年(乾元元年)、済陰郡は曹州と改称され、済陰郡の呼称は姿を消した[14]。
僑置済陰郡
南朝宋のとき、済陰郡が北魏に奪われると、徐州に済陰郡を僑置した。睢陵・定陶・頓丘の3県を管轄した[15]。