コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「済陰郡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:


== 概要 ==
== 概要 ==
[[前漢]]の初め、[[梁郡|梁国]]の一部であった。[[紀元前144年]]([[景帝 (漢)|景帝]]中6年)、[[劉不識]]が済陰王に封じられ、'''済陰国'''が置かれた。翌年に済陰王劉不識が死去し、済陰国は廃止されて、済陰郡が置かれた<ref>『[[史記]]』梁孝王世家</ref>。[[紀元前52年]]([[甘露]]2年)、皇子劉囂が定陶王に封じられ、済陰郡は定陶国と改められた<ref>『漢書』宣帝紀</ref>。[[紀元前5年]]([[建平 (漢)|建平]]2年)、定陶国は済陰郡にもどされた。済陰郡は[[エン州|兗州]]に属し、[[定陶県|定陶]]・[[牡丹区|冤句]]・[[牡丹区|呂都]]・[[牡丹区|葭密]]・[[牡丹区|成陽]]・[[鄄城県|鄄城]]・[[牡丹区|句陽]]・[[成武県|秺]]・[[巨野県|乗氏]]の9県を管轄した。前漢末に29万25戸、138万6278人があった<ref>[[班固]]『[[漢書]]』地理志第八上。[[小竹武夫]]訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、310-311頁。</ref>。
[[前漢]]の初め、[[梁郡|梁国]]の一部であった。[[紀元前144年]]([[景帝 (漢)|景帝]]中6年)、[[劉不識]]が済陰王に封じられ、'''済陰国'''が置かれた。翌年に済陰王劉不識が死去し、済陰国は廃止されて、済陰郡が置かれた<ref>『[[史記]]』梁孝王世家</ref>。[[紀元前52年]]([[甘露]]2年)、皇子劉囂が定陶王に封じられ、済陰郡は定陶国と改められた<ref>『漢書』宣帝紀</ref>。[[紀元前5年]]([[建平 (漢)|建平]]2年)、定陶国は済陰郡にもどされた。済陰郡は[[兗州]]に属し、[[定陶県|定陶]]・[[牡丹区|冤句]]・[[牡丹区|呂都]]・[[牡丹区|葭密]]・[[牡丹区|成陽]]・[[鄄城県|鄄城]]・[[牡丹区|句陽]]・[[成武県|秺]]・[[巨野県|乗氏]]の9県を管轄した。前漢末に29万25戸、138万6278人があった<ref>[[班固]]『[[漢書]]』地理志第八上。[[小竹武夫]]訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、310-311頁。</ref>。


[[後漢]]の[[72年]]([[永平 (漢)|永平]]15年)、劉長が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた<ref>『[[後漢書]]』顕宗紀</ref>。[[84年]]([[元和 (漢)|元和]]元年)、済陰王劉長が死去すると、済陰国は済陰郡に戻された<ref>『後漢書』粛宗紀</ref>。[[124年]]([[延光]]3年)、[[皇太子]][[順帝 (漢)|劉保]]が廃位されて、済陰王に封じられると、済陰郡は済陰国と改められた<ref>『後漢書』孝安帝紀</ref>。[[125年]](延光4年)、済陰王劉保(順帝)が帝位につくと、済陰国は済陰郡に戻された<ref>『後漢書』順帝紀</ref>。済陰郡は定陶・冤句・成陽・乗氏・句陽・鄄城・離狐・廩丘・単父・成武・己氏の11県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志三</ref>。[[212年]]([[建安 (漢)|建安]]17年)、皇子劉熙が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた<ref>『後漢書』孝献帝紀</ref>。
[[後漢]]の[[72年]]([[永平 (漢)|永平]]15年)、劉長が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた<ref>『[[後漢書]]』顕宗紀</ref>。[[84年]]([[元和 (漢)|元和]]元年)、済陰王劉長が死去すると、済陰国は済陰郡に戻された<ref>『後漢書』粛宗紀</ref>。[[124年]]([[延光]]3年)、[[皇太子]][[順帝 (漢)|劉保]]が廃位されて、済陰王に封じられると、済陰郡は済陰国と改められた<ref>『後漢書』孝安帝紀</ref>。[[125年]](延光4年)、済陰王劉保(順帝)が帝位につくと、済陰国は済陰郡に戻された<ref>『後漢書』順帝紀</ref>。済陰郡は定陶・冤句・成陽・乗氏・句陽・鄄城・離狐・廩丘・単父・成武・己氏の11県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志三</ref>。[[212年]]([[建安 (漢)|建安]]17年)、皇子劉熙が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた<ref>『後漢書』孝献帝紀</ref>。

2021年3月1日 (月) 05:07時点における版

済陰郡(濟陰郡、さいいん-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の山東省南西部に設置された。

概要

前漢の初め、梁国の一部であった。紀元前144年景帝中6年)、劉不識が済陰王に封じられ、済陰国が置かれた。翌年に済陰王劉不識が死去し、済陰国は廃止されて、済陰郡が置かれた[1]紀元前52年甘露2年)、皇子劉囂が定陶王に封じられ、済陰郡は定陶国と改められた[2]紀元前5年建平2年)、定陶国は済陰郡にもどされた。済陰郡は兗州に属し、定陶冤句呂都葭密成陽鄄城句陽乗氏の9県を管轄した。前漢末に29万25戸、138万6278人があった[3]

後漢72年永平15年)、劉長が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた[4]84年元和元年)、済陰王劉長が死去すると、済陰国は済陰郡に戻された[5]124年延光3年)、皇太子劉保が廃位されて、済陰王に封じられると、済陰郡は済陰国と改められた[6]125年(延光4年)、済陰王劉保(順帝)が帝位につくと、済陰国は済陰郡に戻された[7]。済陰郡は定陶・冤句・成陽・乗氏・句陽・鄄城・離狐・廩丘・単父・成武・己氏の11県を管轄した[8]212年建安17年)、皇子劉熙が済陰王に封じられ、済陰郡は済陰国と改められた[9]

曹魏が建国されると、済陰国は済陰郡にもどされた。太和年間、彭城王曹據が済陰王に改封されると、済陰郡は済陰国と改められた。231年(太和5年)、済陰王曹據が定陶王に減封されたため、済陰国は済陰郡に戻された[10]

西晋のとき、済陰郡は定陶・乗氏・句陽・離狐・冤句・己氏・成武・単父・城陽の9県を管轄した[11]

北魏のとき、済陰郡は西兗州に属し、定陶・離狐・冤句・乗氏の4県を管轄した[12]

北周の末年、西兗州は曹州と改められ、済陰郡は曹州に属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、済陰郡は廃止されて、曹州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、曹州は済陰郡と改称された。済陰郡は済陰・外黄・済陽・成武・冤句・乗氏・定陶・単父・金郷の9県を管轄した[13]

621年武徳4年)、唐により済陰郡は曹州と改められた。742年天宝元年)、曹州は済陰郡と改称された。758年乾元元年)、済陰郡は曹州と改称され、済陰郡の呼称は姿を消した[14]

僑置済陰郡

南朝宋のとき、済陰郡が北魏に奪われると、徐州に済陰郡を僑置した。睢陵・定陶・頓丘の3県を管轄した[15]

脚注

  1. ^ 史記』梁孝王世家
  2. ^ 『漢書』宣帝紀
  3. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、310-311頁。
  4. ^ 後漢書』顕宗紀
  5. ^ 『後漢書』粛宗紀
  6. ^ 『後漢書』孝安帝紀
  7. ^ 『後漢書』順帝紀
  8. ^ 『後漢書』郡国志三
  9. ^ 『後漢書』孝献帝紀
  10. ^ 『三国志』魏書武文世王公伝
  11. ^ 晋書』地理志上
  12. ^ 魏書』地形志二中
  13. ^ 隋書』地理志中
  14. ^ 旧唐書』地理志一
  15. ^ 宋書』州郡志一