「国鉄キハ80系気動車」の版間の差分
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2021年1月17日 (日) 01:19時点における版
国鉄キハ80系気動車 | |
---|---|
特急「おおとり」(1986年) | |
基本情報 | |
運用者 |
日本国有鉄道 北海道旅客鉄道 東海旅客鉄道 |
製造所 | 日本車輌製造・新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業・東急車輛製造・近畿車輛[1]・日立製作所[1]・汽車製造[1]・川崎車輌[1] |
製造年 |
1960年(キハ81系) 1961年 - 1967年(キハ82系) |
製造数 | 384両 |
運用開始 | 1960年12月10日 |
運用終了 | 2002年10月14日 |
廃車 | 2009年3月31日 |
主要諸元 | |
軌間 | 1,067 |
最高速度 | 100 km/h |
車両定員 |
40人(キハ81) / 52人(キハ82) 72人(キハ80) / 48人(キロ80) 40人(キサシ80) 36人(キシ80) |
自重 |
42.2 t(キハ81) 42.0 - 44.3 t(キハ82) 40.2 - 41.2 t(キハ80) 41.1 - 42.3 t(キロ80) 38.2 t(キサシ80) 43.0 t(キシ80) |
全長 |
21,300 mm (キハ81) 21,100 mm (キハ82、キハ80、キロ80、キサシ80、キシ80) |
全幅 | 2,903 mm |
全高 | 3,910 mm |
台車 |
DT27/TR67 → DT31B/TR68A(キハ81系) DT31A/TR68(キハ82系前期) DT31B/TR68A(キハ82系後期) |
動力伝達方式 | 液体式 |
機関 | DMH17H |
機関出力 |
180 PS / 1,500 rpm × 1基(キハ81、キハ82) 180 PS / 1,500 rpm × 2基(キハ80、キロ80、キシ80) |
変速機 | TC-2A/DF115A |
変速段 | 変速1段・直結1段 |
制動装置 | 電磁自動空気ブレーキ (DARS) |
保安装置 | 非常時交互点滅灯・ATS |
国鉄キハ80系気動車(こくてつキハ80けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道が開発した特急形気動車。系統としては、1960年(昭和35年)に量産先行車的要素で特急「はつかり」用として製造されたキハ81系グループ26両と1961年(昭和36年)以降に製造されたキハ82系グループ358両の総称で、基本構造の多くを共通とするため本項において一括して解説する。
概要
日本における初の特急形気動車であり、1967年(昭和42年)までに384両が製造され、日本全国で広く特急列車に用いられた。
1987年の分割民営化時には、北海道旅客鉄道(JR北海道)と東海旅客鉄道(JR東海)に継承され、一部はジョイフルトレインに改造された。
JR東海所属車両が1992年(平成4年)まで特急列車として定期運用された後、約2年半の間は臨時列車で運用され、1995年(平成7年)1月が最後の運転となった。同年2月以降は美濃太田車両区で長らく4両が保存車として在籍していたが、2009年(平成21年)に在籍する全車が廃車となり形式消滅となった。
四国を除く日本各地に配備され、その地方を代表する特急列車として長く運用されたことから、各地に静態保存車が十数両存在する。早期に廃形式となったキサシ80形以外のすべての形式が保存されており、営業当時の基本編成に近い状態で保存の例もある。
登場までの経緯
1950年代の国鉄特急列車網
1912年(明治45年)に日本最初の特急列車が新橋 - 下関間に運転開始されて以来、国鉄の特急列車は東海道・山陽本線に限定される形で運行されてきた[注 1]。
太平洋戦争終了後もその傾向は変わらず、1958年(昭和33年)までは東海道・山陽本線と鹿児島本線の一部に限って特急が運行されていた。
1950年代までの「特急」の存在は、文字通りの「特別急行」であり、当時の意識では地方路線に運行すること自体が論外であった。戦後間もない時期は、旅客の速達需要そのものが21世紀初頭の現代に比べて遙かに低く、戦前から沿線に大都市を擁していた東海道本線を除けば、急行以上に速い特急列車を設定する必然性が低かった。
また電化についても、1956年(昭和31年)に東海道本線が全線電化完成したほかは、幹線の長距離電化区間は1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)にかけて完成した高崎・上越線上野 - 長岡間に限られていた。したがって当時、多くの路線は蒸気機関車によって運行される非効率な状態であり、従前の急行列車に比して大きく速度向上する手段は、編成両数を極端に減ずるか、停車駅を減らす以外に方法はなかった。
しかし需要が限られる以上、特急列車の運行の余地は少なく、少ない本数の急行列車で中距離客・長距離客いずれにも対応しなければならなかった。
また1958年までは、特急用車両と急行用車両の明確な区別もされておらず[注 2]、明確に特急専用と評し得たのは、1等展望車と、一方向き固定の2人がけシートを備えた3等車(現・普通車)のスハ44系に限られていた。
だがそれらも専ら東海道線昼行特急と山陽線特急「かもめ」[注 3]の限られた運用しか存在せず、1956年(昭和31年)から東京 - 博多間に運転を開始した戦後最初の夜行特急「あさかぜ」の3等車座席は急行列車並みの4人がけボックスシートであるオハニ36形・10系客車であり、その他寝台車・特別2等車(現・グリーン車)・食堂車についても急行列車との差異は見られなかった。
特急専用車両の出現
鉄道全体の近代化を推進してきた国鉄は、1958年秋に昼行特急用に20系(→151系 後の181系)電車と寝台特急用に20系客車の2種類の特急形車両を登場させた。この両系列は用途も外観も全く異なっていたが、いずれも全車両に冷房装置と空気ばね台車を備えた優秀な車両で、それ以前の国鉄車両とは隔絶した高水準の居住性と走行性能を実現していた。151系は新設の東京 - 大阪・神戸間特急「こだま」に、20系客車は「あさかぜ」置換え用に投入され、未曾有の成功を収めた。
特急専用車である両系列の出現により、1等展望車をはじめとする在来型客車で運行されていた「つばめ」「はと」は陳腐化した存在となった。
特急「はつかり」と「日光型」準急用気動車
一方、 1958年10月のダイヤ改正で、それまで特急列車が存在しなかった上野 - 青森間に、昼行の特急列車が1往復新設されることになった。戦後復興と高度経済成長に伴う東北本線自体の輸送需要の伸びもさることながら、当時は航空機による首都圏 - 北海道間の旅客輸送が確立されておらず、青森以北についても青函連絡船との連携により鉄道による高い輸送需要があったことから、特急を新設する素地があった。これが「はつかり」で、同年10月10日から常磐線経由で運転を開始した。「はつかり」は同区間で1949年から運行していた昼行急行「みちのく」を特急に格上げした列車で、この時点では前身の「みちのく」同様、蒸気機関車牽引の客車列車であった。
並行して国鉄は1953年(昭和28年)から総括制御可能な液体式気動車のキハ45000系(→キハ10系)気動車を量産し、地方路線で無煙化・増発・速度向上・運行経費抑制などの成果をあげていたが、1956年(昭和31年)にはその技術の延長上にキハ44800形(→キハ55系)準急形気動車を開発した。
キハ55系の最高速度は旅客用蒸気機関車同様95 km/hであったが、1両あたり2基エンジン搭載の強力仕様とされたことで、加速力と登坂力で蒸気機関車列車を完全に凌駕した[1][注 4][注 5]。煤煙を出さない事に加え、それ以前の気動車の弱点であった客室の居住性も車体の大型化と設備改善である程度の水準に達しており[注 6]、高速と相まって利用者から好評を博すことになった。これによって、規格の良くない地方の非電化路線でも気動車の投入で高速の優等列車を運転可能なことが立証されたのである。
アジア鉄道首脳者会議・特急形気動車開発へ
アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference) 第1回会議は、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で1958年に東京で開かれた。電車特急「こだま」が運転を開始した時期でもあり、国鉄部内に特急「はつかり」を客車から気動車へ置換えて接客設備ならびに速度の向上を図るというプランが浮上し、1959年秋より開発がスタートした。
1960年初頭には、同年10月にARC第2回会議を再び東京で開催することが決定。そこで新型気動車をお披露目し、アジア諸国に日本の技術力[注 7] をアピールすることが鉄道車両の輸出促進につながると期待された。そして特急「はつかり」への営業運転投入は同年12月に決定し、それまでに完成させるべく急ピッチで開発が進められることとなった。
キハ81系(1960年)
1960年に9両編成2本と予備8両の合計26両が製造されたキハ81系[注 8] は、日本初の特急形気動車である。最初に投入された列車名にちなみ「はつかり形」とも呼ばれる。1961年第4回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
車体外観
全体のスタイルは、クリーム4号の地に窓周りが赤2号のツートンカラーの「国鉄特急色」に、銀色の屋根に並ぶキノコ形キセに収められたAU12形分散式冷房装置・遮音防振のための浮床構造車体[注 9]・複層ガラスによる固定窓・車端部1か所のデッキなど基本的に151系電車を踏襲している。ただし、非電化区間や交流電化区間の駅はホーム高さが低いため客用ドアにはステップを1段設置した。
運転台を持つキハ81形は他に例のない独特のボンネット形デザインを採用したが、膨れて寸詰まりな形態は鉄道ファンの間から「犬顔」や「ブルドッグ」などの俗称でも呼ばれた(詳細は後述)。
その他の特徴として、各車連結面間に車体断面に沿った「外幌」を設けた。同時期の151系電車が導入していた外幌と同じもので車両相互間でファスナーで連結された。空気抵抗低減の狙いがあったとされるが、在来線の速度では効果を発揮せず使い勝手が悪いことから、固定金具も含めて早期に撤去され、外幌と同じ素材の貫通路の幌も従来型に交換された。そのためキハ82形を含む1961年度以降の増備車も外幌は省かれ、貫通路の幌も従来型とした。
設備
基本構造は、既に大きな成功を収めていた151系電車を全面的に踏襲することになった。全車両に冷暖房を搭載する空調完備の状態を前提に客室窓は複層ガラスによる固定式とし、冷暖房や食堂車調理室は全て電気式となった。食堂車の調理用熱源は石炭レンジに代わり、強力な電熱コンロを採用する。また、乗り心地の改善のため車体間ロールダンパも採用した。
屋根上に電気式冷房装置を搭載し、座席下配置の電気暖房方式[注 10] を採用。いずれもディーゼル発電機を電源とするもので、客室内に限っては電車と区別が付かない仕上がりとなった。ただしコストダウン目的から、食堂車を除きカーテンは151系電車で採用された横引き式ではなく巻き上げ式とし、1等車通路の絨毯も省略されるなど若干グレードは落とされた。151系電車同様、天井内張りに吸音効果を期待した多孔板を採用した。
座席は2等車(現・普通車)が回転クロスシート、1等車(現・グリーン車)がリクライニングシートであるが、2等車用は背面にメッキの縁取りと小型テーブルを装備する。表皮は特急型電車同様のロイヤルブルーであるものの、全面モケット張りの電車用とは異なりコストカットの見地から背面はクリーム色のデコラ仕上げとした。
なお、設計開始当初は3等車と2等車で計画されていたが、落成直前に3等級制から2等級制へと移行したため、2等車と1等車に変更して落成した。よって、本系列は新2等級制になって初めて落成した新形式の国鉄車両となった。
エンジンのエキゾーストマニホールドは一部車両を除き車端部に移され、客室からは隠された。
主要機器
当初キハ60系を試験車として開発を進めていた400 PS級となるDMF31HSエンジン[注 11] の搭載を想定していたが、DW1形変速1段・直結2段液体式変速機共々試験結果は思わしくなく、不具合の問題解決を行う時間的余裕がなかったこともあり搭載を断念した。
代替案としてキハ55系などで実績のある定格出力180 PS級のDMH17系エンジンを2基搭載して必要な出力を確保する従来からの手法を採用した。客室内の防音・防振を重視して浮床構造を採用したことから、客室床面の点検蓋を廃止せざるを得ず、DMH17Cまで採用されていた垂直シリンダー式をやめ、床下側面から整備できるように水平シリンダー形へ設計変更したDMH17H[注 12] を搭載した。過給機の取り付けについては見送られた[注 13]。また機関ブレーキは未装備[注 14] である。
走行用エンジンを2基搭載するのは中間車のキロ80形・キハ80形のみである。先頭車のキハ81形はボンネット内に電源用エンジンを搭載するため走行用エンジンは1基、食堂車のキサシ80形は厨房用水タンクと電源用エンジンを搭載するため無動力の付随車となった。
変速機も従来からの標準型である液体式のTC2AもしくはDF115Aを搭載するが、最高速度を向上させる目的から逆転機内の最終減速歯車比を一般形の2.976から2.613に変更し、最高速度は100 km/hとなった。
台車は新規開発されたDT27(動力台車)・TR67(付随台車)が搭載された。これらはキハ55系3次車以降で採用されたDT22の枕ばねをベローズ式空気ばねに変更してボルスタアンカーを付加したもので、151系電車に採用されたDT23系台車の気動車用に相当する。ブレーキは従来通りのDA1系自動空気ブレーキが採用された。しかし、片押し式の踏面ブレーキであったため高速域からの制動力が不足気味であり、制動時に鋳鉄製制輪子の火花から引火する車両火災事故も発生した。「はつかり」運用終了後は、改造車も含め全車ディスクブレーキ仕様のDT31B・TR68Aに新製交換された(詳細は後述)。
電源エンジンはDMH17H形と基本構造を同じくするDMH17H-G形[注 15]三相交流発電機を駆動し、1基で食堂車1両と座席車2両分、または座席車4両分の電源供給が可能である。「はつかり」では9両編成中3両に計3基の発電セットが搭載された。
当時の国鉄気動車は運用上の制約を避けるために制御回路はKE53形ジャンパ連結器2基による両渡り構造を採用していたが、本系列では一般車では片渡り構造とし、食堂車のみ両渡り構造で制御回路をクロスさせる方式を採用したほか、制御回路用にKE62形2基、冷房制御用にKE61形1基[注 16]、冷房用三相交流440 V引き通し用にKE4形を新開発し搭載した。
初期故障
鉄道界と沿線の注目のうちに運転を開始したが、故障が続出した。
- 開発されたばかりの水平シリンダー式DMH17Hは、従来の垂直シリンダーに比べ潤滑不均一など多くの弱点を持ち車重増加にも関わらず歯車比を下げたこともあり、750 kmもの長距離の高負荷運転を課せられる中でエンジントラブルを続出させた。
- 発電用エンジンも不調が多く冷暖房ダウンがしばしば生じた[注 18]。また取扱の不慣れにより、配線溶断による逆転機故障・制御装置不調もたびたび発生した。
あまりのトラブル続出により利用者からは不評を買い、マスコミからも揶揄された[2][3]。問題が続出した要因として、製造メーカーが9社に及んだために性能が安定しないこと[2] に加え、開発を急ぎ過ぎたために新規採用された水平シリンダーエンジンや長距離高速運転などの問題点を洗い出す十分な熟成作業が行われなかったこと[注 19] が挙げられた。
新造車
本系列の製造は車両工業界全体のPRの意味も込め、気動車を手掛けることの少ない電車・客車メーカーも参集して、前述したアジア鉄道首脳者会議開催に伴う技術デモンストレーションの意味合いから日本車輌製造・新潟鐵工所・帝國車輛工業・富士重工業(現・SUBARU)・東急車輛製造・近畿車輛・日立製作所・汽車製造・川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)と当時国鉄に旅客用車両を納入していた9社全てが参加した。9社が担当したのはキハ81系のみで、国鉄気動車製造の実績がなく電車(川崎・汽車・近畿)や客車(日立)を担当していたメーカー各社はそれぞれの得意とする分野を考慮の上で担当形式の製造を施工した。
- 改良型のキハ82系からは一般形・急行形気動車製造を担当した日車・新潟・帝車・富士・東急の5社が製造した。
先行製造車落成後に一部設計変更が実施されたため以下のような差異がある。
- キハ81形
- 先行製造車の1は運転台の機器配置が異なり記録装置付速度計を運転席側に搭載。
- 先行製造車ではメーカー(近車・帝車)で差異があった連結器カバーの形状を統一。
- タイフォン[注 20] は、先行車が151系電車同様スカート裏に、他車はボンネット下部に設置したほか、雪の侵入を防ぐため吹鳴時に跳ねあがるナス形の特殊な形状を採用したカバーも先行車では準備工事とされたが、他車は装着した状態で落成した。
- 各形式共通(キサシ80形を除く)
- 客室内クーラーの吹出口カバーは一部の先行車が初期型、他車は改良型を採用した。ただしキサシ80形は全車初期型である。
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キハ81形 (1 - 6)
本系列の先頭車となる片運転台付2等車で定員は40名。エンジンは走行用を床下に1基、枕木方向に対して横置きするサービス電源発電セット用をボンネット内に1基搭載する。
ボンネットは大半がエンジンフードとされ、メンテナンスの観点から大きく開く構造を採用した[注 21]。
- デザイン意図としては151系電車の流れを汲んだものではあるが、発電セット搭載とタブレット[注 22] 授受の観点から低く抑えた運転台形状により、裾絞りを小さくし幅を広くしたため151系電車のそれからはほど遠い寸詰まりかつ本形式独自なスタイルとなった。
前照灯は屋根上2基搭載のみで、両脇に緊急停車時用赤色交互点滅回路[注 23] を内蔵した標識灯を、通常の尾灯はボンネット腰下部分に設置する。
車内レイアウトは、運転台後部から常に1.800 rpmという高回転で運転される発電セット用エンジンの騒音対策とボンネット内のスペース問題からラジエーターなどを床上搭載する機器室[注 24]・トイレと洗面所・客室・売店[注 25]と物置・客乗降用出入台の順で設置する特異なものである。
屋根高は、運転台 - 機器室間が後位側に比較すると一段高くされており、ラジエーター保護と換気目的から機器室部位車体側面に設置するルーバーの位置も高くされた。
非貫通かつ総括制御ならびに冷房電源引き通し用ジャンパ連結器を前面に搭載しないため編成中間に組込不可で定員が40名と少ないことから、先頭車がキハ82形に製造移行後も「はつかり」で限定運用され続け、1968年の「はつかり」電車化後は奥羽本線特急「つばさ」2往復中1往復(下り・上り2号)に充当された。
- 「つばさ」転用では、板谷峠区間で補機となるEF71形を連結する制約から先頭部連結器カバーを取り外し、連結時の作業性改善を目的にスカートへ切り欠き加工が施工されたが、切除部寸法を統一しなかったために形状が多様化した。連結器カバーは、後述する転用後も廃車まで再装着はされていない。なお6は運転席部分窓枠上部に棒状の手摺溶接を同時施工した。
1969年10月には秋田機関区(現・秋田車両センター)に転出し、羽越本線経由の「いなほ」と間合い運用の常磐線特急「ひたち」に転用。
1972年10月には「いなほ」「ひたち」の電車化により和歌山機関区(現・吹田総合車両所日根野支所新在家派出所[注 26])に再転出し紀勢本線特急「くろしお」名古屋 - 天王寺間運転の下り5号・上り2号の名古屋方基本編成(7両・天王寺方先頭車はキハ82形)ならびに天王寺方付属編成(3両)の先頭車で限定運用。翌1973年10月からは基本編成のみが紀伊勝浦発着の臨時「くろしお」にも投入された。
しかし、老朽化に加えて前面非貫通で座席数もキハ82形と異なるなど運用面でも使いづらいことから、1976年10月1日のダイヤ改正で1・2・4・6の4両が休車となり天理駅に留置ののち1977年12月23日付で廃車。3・5は引き続き付属編成に組込まれていたが、1978年10月の紀勢本線新宮電化によって余剰となりさよなら運転の後休車。翌1979年7月に5が、10月に3が廃車され形式消滅した。
キハ80形 (1 - 12)
本系列の基幹形式となる走行用エンジンを2基搭載する中間2等車で定員72人。
キハ81とキハ82で形状をまったく異にした先頭車と異なり、以後の増備車でも形状にほとんど変化がなく、取り扱いもその後の改修でほぼ同一とされた。このため「はつかり」用として製造されたグループでは長く営業運転で運用され、10は1983年に廃車されるまで1960年の新造以降23年間車籍を有していた。
キロ80形 (1 - 5)
走行用エンジンを2基搭載する中間1等車で定員48人。
トイレと洗面所を客室前後位の2箇所に設置するが、6以降の増備車と異なり屋根上の水タンクはない。「はつかり」では屋根上に水タンクのある1961年以降製造のキロ80形を1両連結している写真が多く見られた。
座席は2人掛けの回転式リクライニングシートで以下に示す特徴を持つ。
- 表皮はえんじ色でクッションは左右独立とした。
- 長時間乗車の疲労軽減を目的として、可動式のフットレストとヘッドレストを備えることが特徴である(増備車にも踏襲)。ヘッドレストは上下にスライドできた。
- テーブルは取り外し式[注 27]。
- 増備車ではテーブルが小型の肘掛格納式となり座席背面の小物入れは網製となった。
- 屋根上にはラジオ受信用アンテナが設置された。
後に3両が後述の普通車化改造を施工されたが、キロのまま残存した2両はキハ81形とともに秋田→和歌山と転属。1977年12月に廃車となった。
キサシ80形 (1 - 3)
気動車としては日本初の食堂車。付随車で食堂定員は40人。
構造と間取りは同時期に開発されたサシ151形に準拠しており外観も非常に似通っている。完全電化の厨房と空調を装備する。
食堂側車端の扉上には151系電車でも装備された列車位置表示器が、本形式でも設置された[注 28]。
床下には、大型水タンク3個のほかに発電用に燃料噴射特性を変更したDMH17H-GエンジンとDM63形発電機を組み合わせた発電セットを搭載している。それらの搭載スペースのために走行用エンジンは搭載されておらず、車重は38.2トンと全形式中で最も軽い。ただし動力分散方式の付随車としては重い部類となる。後に走行用エンジンを搭載しキシ80形900番台へ改造された(詳細は後述)。
改造
本項では「はつかり」運用開始後に施工された機能性向上や改良を目的とした改造、「はつかり」電車化による余剰と車種間の需給調整からキロ80形3両の普通車化ならびに付随車のため不足する編成出力問題解決と転配時自由度を確保する観点からキサシ80形3両の動力車化の形式間改造にわけて解説を行う。
機能性向上や改良を目的とした改造
- キハ81形
- 先行製造車(1・4)のタイフォンを他車同様ボンネット下部に移設しタイフォンシャッターを設置。
- 1961年頃に単線区間での通過駅におけるタブレット交換時の窓ガラス破損対策として乗務員室扉の窓下部に保護棒を追設。
- 1964年頃から運転室用AU14形冷房装置を順次増設。
- 三河島事故を契機に常磐線でVHF150MHz帯を使用する列車無線を導入したため対応する無線機の搭載と屋根上に円筒状のアンテナを設置。後の「くろしお」転用で和歌山区転出時に無線機とアンテナは撤去されたがアンテナ台座は残存。
- 各形式共通
- メンテナンスの難しいファスナー付ラバー製二重幌および外幌用固定金具の撤去と一般型貫通幌への交換。施工後のキハ80形・キロ80形はキハ82系と共通運用となった。
- 動力系異常時に点灯する白色灯を追設。未施工車両もあり。
- キハ82系と同様に妻面に尾灯設置用のステーを追設。
「はつかり」運用終了後は一部車両を除き以下の改造工事を施工。
- キハ81形
- 黒磯駅通過用列車選別装置の搭載。和歌山区転出の際に撤去。
- キロ80形
- 料金のモノクラス制移行により一等車ステンレスロゴの撤去とグリーン車マークを貼付。
- 各形式共通(キサシ80形を除く)
- デッキ側天井にダクトを追設。
- 台車を踏面ブレーキのDT27・TR67からディスクブレーキのDT31B・TR68Aに新製交換。捻出されたDT27・TR67はキハ58系に転用。捻出されたDT22・TR51は改修工事後DT19・TR49を装着していたキハ10系に転用。改造車も台車交換を実施。
- 客用ドアにステンレス製ガイドレールを1本追設。
- 行先表示・号車番号・座席種別のサボ受け移設。
形式間改造
車両形式 | 車両番号 | 種車 | 改造 | 落成 配置 |
落成日 | 除籍日 | 最終 配置 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
キハ82 | 901 | キロ80 1 | 大宮 | 向日町 | 1968/12/9 | 1981/12/25 | 札幌 | |
902 | キロ80 5 | 鹿児島 | 1970/2/28/ | 1982/7/6 | 事故廃車 | |||
キハ80 | 901 | キロ80 2 | 土崎 | 向日町 | 1968/10/8 | 1979/12/8 | 鹿児島 | |
キシ80 | 901 | キサシ80 2 | 高砂 | 尾久 | 1968/12/9 | 1976/2/20 | 向日町 | |
902 | キサシ80 3 | 1975/4/30 | ||||||
903 | キサシ80 1 | 五稜郭 | 函館 | 1969/12/27 | 1975/3/13 | 函館 |
キハ82形900番台
大宮工場(現・大宮総合車両センター)で施工された普通先頭車化改造である。客室窓は1等車時代の狭窓のままでシートピッチと合っていないものの定員はオリジナルのキハ82形と同一であるが、片側のトイレ・洗面所・一部の客席部分を運転室・機械室に改装し車掌室・荷物保管室を撤去するほか、走行用エンジンを1基とし発電セットを搭載するなど大掛かりな工事である。
901は「はつかり」運用終了後の1968年12月に改造され向日町運転所に配置。1972年3月15日ダイヤ改正で「いなほ」「ひたち」が9両化[注 29] されるために902と共に秋田区へ転出。7か月後の10月には羽越本線電化により「いなほ」「ひたち」が485系電車化され余剰となったために札幌運転区(現・札幌運転所)へ再転出。「北斗」「オホーツク」「北海」で運用された。1981年(昭和56年)10月のダイヤ改正で余剰となり同年12月25日付で廃車。サボ受けの移設は行われていない。
902は「はつかり」運用終了後もキロ80 5のまま1969年10月に秋田へ転出。翌1970年2月に改造され鹿児島運転所に配置。同年9月に和歌山機関区に転出。1972年3月の秋田再転出後は901と同様な経歴を持つが、1982年6月11日に石北本線で脱線事故のため同年7月6日付で廃車。
キハ80形900番台
1968年に土崎工場(現・秋田総合車両センター)で施工。前位の車掌室・荷物保管室と後位のトイレ・洗面所を撤去して、座席を回転リクライニングシートから回転クロスシートに交換。キハ82形900番台同様に客室窓は1等車時代の狭窓のままでシートピッチと合っていないが、定員はオリジナルのキハ80形と同一とされた。
向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)へ配置後に秋田機関区を経て鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)に転出し、日豊本線特急「にちりん」・肥薩吉都線特急「おおよど」などで運用された。
キシ80形900番台
キサシ80形から床下の発電セット・水タンクを撤去し、走行用エンジンを2基搭載するキシ80形化改造であるが、冷蔵ケースの位置が新製車では調理室側車端なのに対し、本番台区分では食堂側車端となったほかに乗務員室もないなどの差異がある。また本改造工事では以下の変更も施工された[6]。
- 台車をディスクブレーキ付のDT31Bに交換
- 食堂側車端のテーブルを1列2卓撤去して定員を32名に減じ捻出したスペースに水タンクを床上搭載
- 列車位置表示装置の撤去
- 食堂の縮小に合わせ屋根上のクーラー位置を移動
- 調理室側車端部小トイレ丸窓右横に縦長窓を設置
- 車両重量が約5トン増加
また改造に至るまでの経緯が901・902と903では異なり、901・902は「はつかり」運用終了後も尾久所属のままとなったキサシ80 2・3を1968年12月9日に高砂工場で改造。1969年10月1日に秋田機関区へ転出となり「いなほ」「ひたち」運用に投入されたが、1972年10月1日に向日町運転所へ再転出。
903は耐寒工事が施工され1968年9月9日に函館運転所(現・函館運輸所)に転出したキサシ80 1が種車で、約1年間「北斗」で運用後の翌1969年12月27日に五稜郭工場(現・五稜郭車両所)で改造され、施工後も函館所属のまま運用された。
キハ82系(1961年 - 1967年)
1961年から製造されたキハ82系[注 30] は、キハ81系の改良型で当初投入された列車の一つである特急「白鳥」にちなみ「白鳥形」とも呼ばれる。82系の登場から従来の81系と合わせ「キハ80系」または「80系気動車」という統一形式[注 31] で呼ばれるようになった。
「はつかり形」キハ81系は、登場早々のトラブル続きで不評を買い将来性を危ぶまれた。しかし、その間にも旅客需要の増大で日本全国の国鉄線における輸送力改善は急務となっていたため、国鉄は1961年10月の白紙ダイヤ大改正を計画する。
この改正では全国に特急列車を大増発することが計画された。特急新設路線の多くは地方の亜幹線であり、当然ながら非電化で、気動車を充当せねばならなかった。このため国鉄は1960年末から改良型となるキハ82系の開発に着手した。
主要機器
- 貫通型先頭車・食堂車の動力車化
キハ81系には走行機器のトラブル多発のほか、いくつかの欠点があった。特に代表的なのは次の2点である。
- DMH17系エンジンの低出力。編成内に付随車のキサシを含むことに伴う編成全体の出力不足。
- 先頭車と食堂車のみに電源を搭載し、先頭車は非貫通構造でもあるため編成を組成する際のフレキシビリティに欠ける。
- 過去に特急運転の実績がない地方の亜幹線では、特急9両編成は輸送力過剰が危惧されたが、1961年当時の特急列車には1等車と食堂車の連結は必須であり、このような状況で走行用エンジンを搭載しないキサシ入りの6両ないしは7両編成を組むと9両編成時以上に著しいアンダーパワーとなり、特急列車に求められる走行性能は確保できなかった。また既存のキハ55系による準急・急行は、特急型気動車のような電源エンジン制約がなく、2基エンジン車増結可能で性能余裕を得られる状況で、出力でこれに劣る81系では特急列車に相応する速達ダイヤを引けないと想定された。
これらの問題に対するキハ82系での大きな改良点は、全体に信頼性向上を図ったうえ、先頭車を貫通式運転台と電源セットを備えるキハ82形に、食堂車を走行用エンジン2基搭載の動力車キシ80形に車種変更したことである。つまり、中間車については全車走行用エンジン2基搭載とし、サービス電源容量が必要な場合はキハ82形の増結で対処することで一応の編成出力を確保すると同時に、分割併合自在に長短の編成を組めるようになった。
- ディスクブレーキ台車
気動車用のディスクブレーキは、1960年(昭和35年)に試作されたキハ60系気動車用のDT25系で試用された実績がある。本系列では、当時ラックレールのあった信越線への乗り入れ、車輪踏面のフラット対策と高速域でのブレーキ特性改善を目的として、DT27系を基本とする空圧油圧変換式キャリバー車輪ディスクブレーキ方式のDT31A(付随台車はTR68)の台車を採用した。アプト式区間はラックレールが線路中央に敷かれているため、一般的な踏面ブレーキの気動車では台車のブレーキ部品がラックレールに接触して通過不可能であったが、ディスクブレーキ装着車では可能だった。なお、この台車は1961年5月に就役した信越本線用のキハ57系急行形気動車に導入したDT31の改良形である。1965年(昭和40年)度以降の生産車は改良型のDT31B・TR68Aに移行しているが、大きな差異はない。
DT31系は揺れ枕吊りにベローズ式空気ばねを搭載する第1世代の空気ばね台車であり、DT27系との相違はブレーキ関連機器のみである。そのディスクブレーキは、酷寒地域の厳しい気象条件の中でも高速域から有効にブレーキ力を発揮し、また長い下り勾配での酷使にも耐えた。乗務する運転士達からも「キハ82のブレーキは良く効く」と信頼を得た。
しかし、逆転機とディスクブレーキユニットを車輪間の狭いスペースに並べて押し込めたその設計は、整備性という点では劣悪であり、整備担当の現場作業員は、窒息しそうなほどの窮屈な空間でブレーキダストで全身真っ黒になりながらブレーキパッド交換などの困難な作業を強いられたという。しかも車輪踏面にブレーキシューが接触しない構造のため[注 32]、北海道地区では、後年に冬期を中心に踏面剥離現象[注 33] が多発した。
設備
キハ82系では、車体側面部において赤帯からはみ出ていたドア戸袋の点検蓋を小型化し、81系では車体裾の赤帯部にあった冷却水の給水口の位置を赤帯上部に移し形状を変更するなど仕様変更が見られる。入口ドアの引戸に付くステンレス製の帯が従来1本だったのが2本に増え、床下の機器類ではキハ81系ではあったエンジンカバーがなく(キハ81系は後に撤去)、レイアウトも一部異なっている。くずもの入れの大型化で妻板部分には張り出しを設け、仕切り扉の客室側の金属製のハンドルが縦長の黒い長方形の樹脂製プレートに変更された。
原設計では酷寒地域対策が特段に行われていなかったものの北海道地区にも配属され、後述のように現地での小改造を行うなど事後的な対策が取られた。
仕様変更・改造工事
- 北海道地区に配置されたキハ82形では乗務員室扉の窓をタブレットによる破損防止の観点から窓全体を覆う開閉可能な保護網が装着された。
- キハ82形のタイフォンは中折れ形シャッター付き仕様・スリット仕様・多孔板仕様が設定された[注 34]。
- 運転室前面ガラスは熱線入り窓ガラス仕様やデフロスタ仕様など数種類が存在する。また前面ガラス上部の雨樋の形状は製造年度により異なる。
- キシ80形[注 35] を組み込まない編成を組成する対策として、1963年度増備車からはキロ80形デッキ側のジャンパ連結器を両渡り構造に変更し、初期製造車にも追加改造が施工された。また普通車のみの編成を組成可能とするため一部のキハ82形はデッキ側の両渡り化工事も施工された。
- 1963年度増備車よりキハ82形はクーラーを増設し、キハ82・キハ80・キロ80の各形式ではデッキ側天井にダクトが追加された。従来車も追設工事を施工した。また行先表示・号車番号・座席種別のサボ受けの取り付け位置が変更され、従来車は一部を除き移設工事を施工した[6]。
- 1965年度増備車より台車がDT31B・TR68Aに変更され、キハ81系も同台車に交換された。
- 1966年度増備車ではキハ82・キハ80・キロ80のデッキ側妻面に貫通扉が追加された。これに伴いくずもの入れを排気口側車端部に移設した[6]。
新造車
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- 名古:名古屋機関区(現・名古屋車両区)
- 向日:向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)
- 和歌:和歌山機関区(現・吹田総合車両所日根野支所)
- 鹿児:鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)
- 改造:他形式に改造
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- 名古:名古屋機関区(現・名古屋車両区)
- 向日:向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)
- 和歌:和歌山機関区(現・和歌山電車区)
- 鹿児:鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)
- 改造:他形式に改造
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- 名古:名古屋機関区(現・名古屋車両区)
- 向日:向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)
- 和歌:和歌山機関区(現・和歌山電車区)
- 鹿児:鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター)
- 改造:他形式に改造
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- 向日:向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)
- 和歌:和歌山機関区(現・和歌山電車区)
- 改造:他形式に改造
製造年度 | 落成時期 | キハ82 | キハ80 | キロ80 | キシ80 | 落成配置 | 両数 | 備考 | |||||
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和歌山 | 向日町 | 尾久 | 山形 | 盛岡 | 函館 | ||||||||
1961年度 | 1961年 - 9月 |
7月 1 - 43 | 13 - 53 | 6 - 27 | 1 - 21 | - | 78 | 34 | - | - | 15 | 127 | 1960年度債務 1961年度本予算 |
1962年度 | 1962年 - 1963年 3月 |
4月 44・45 | 54 - 64 | 28 | 22 | - | 3 | 10 | - | - | 2 | 15 | 「はつかり」「つばさ」「白鳥」増強他 |
1963年度 | 1963年 - 1964年 2月 |
7月 46 - 55 | 65 - 85 | 29 - 32 | 23 - 26 | - | 21 | 16 | - | - | 2 | 39 | キハ82形クーラー増設 一部車両にダクト追加 |
1964年度 | 1964年 - 1965年 1月 |
7月 56 - 77 | 86 - 118 | 33 - 47 | 27 - 34 | 20 | 16 | 11 | - | 2 | 29 | 78 | 「みどり」「やまばと」「おおとり」用増備他 |
1965年度 | 1965年 - 8月 |
6月 78 - 107 | 119 - 163 | 48 - 60 | 35・36 | 2 | 48 | - | 17 | - | 23 | 90 | 台車変更 |
1966年度 | 1967年 | 1月108 - 110 | 164 - 166 | 61・62 | 37 | - | - | - | - | - | 9 | 9 | 「北海」用増備 |
キハ82形 (1 - 110)
1961年から1967年までに110両が製造された。キハ81形に代わって開発された本系列の貫通型先頭車である。発電セットを床下搭載としてボンネットを廃止し、当時の一般形・準急形気動車や急行形電車同様の貫通式運転台を採用した。客室のレイアウトもキハ81形と比較して、トイレ・洗面所の位置をデッキ寄りに変更。売店も廃止されたことから客室が拡大されている。このため座席定員は、キハ81形より座席3列分12人多い52人となった。
一時は気動車特急の代名詞的存在となり、そのスタイリングはキハ181形やキハ391形はもとより、キハ189形や373系にも受け継がれた。造形面での優美さと機能性を兼ね備えた完成度の高い前頭形状は、今なお工業デザイナーや鉄道愛好家から高く評価されている[注 36]正面貫通式で両側に若干の後退角を伴ったパノラミックウインドウ(曲面ガラス)付き高運転台は、星晃[注 37] らの手で同年に設計されたクハ153形500番台にも採用された当時最新のデザインであるが、灯具の位置や塗色の違いから両者の印象は相当に異なる。
153系電車などのような列車種別表示幕は設けず、屋根上両側に前照灯と標識灯をセットとした横長のライトケースを設置した[注 38]。パノラミックウインドウは、前面の平面部分から曲面部分までがシームレスの大きな一体型ガラスで、コスト高を押して採用された。窓下には鳥の翼を思わせる広幅の赤帯を塗装してアクセントとしており、このイメージは後のキハ181形にも多少の改良を伴いながら継承された。
貫通扉には、ドアサイズに合わせた小型の列車愛称表示板と逆三角形の特急シンボルマークが装備されている。貫通幌は、収納時には車体側の凹みに面一で格納され、通常の貫通幌のように飛び出ることのないスマートな外観となった。同様の貫通幌は14系・24系客車の初期車にも採用された。
1963年(昭和38年)製の46- は冷房装置の位置を変更し5基となる。さらに洗面所寄りにはダクトが追加された。従来の車両も順次追設工事[注 39] が施工された。また1965年製の76- は台車をDT31B/TR68A形に変更した。
キハ80形 (13 - 166)
1961年 - 1967年に154両が製造された。番号はキハ81系からの続番で基本構造もほぼ同じであり、台車のDT31A形への変更と排気管をはじめとするエンジン周辺の熱害対策が施された程度の違いのみである。119- は台車をDT31B形に変更。
キロ80形 (6 - 62)
1961年 - 1967年に57両が製造された。キハ80形同様に1960年製造車からの続番で熱害対策やDT31A形台車への変更のほか、地方線区での受信環境やイヤホン消毒のメンテナンス難を考慮したシートラジオの廃止や水タンクの屋根上増設が実施され、よく目立つために遠方から編成の向きを判断する手掛かりにもなった。また48- は台車がDT31B形に変更された。
キシ80形 (1 - 37)
1961年 - 1967年に37両が製造された。キサシ80形から以下の設計変更を実施した。
- アンダーパワーを解消する目的から床下搭載エンジンを発電用1基から走行用2基へ変更。
- 調理用電源給電はキハ82 (81) 形からの供給のみとする。
- 水タンクは厨房側車端床上搭載としたため食堂定員が左右1卓ずつ減り8卓32人に減少。
当初はキサシ80形同様に走行位置表示板を搭載したが、他線への転用の際に撤去された。クーラーパネルはキサシ80と同タイプが初期車に採用され、後の増備車では82系1・2等車と同じ改良型に変更された。
35・36は台車をDT31B形へ変更し走行位置表示器を廃止。1967年製造の最終増備車37は、さらに食堂部窓を大窓化しベネシャンブラインドを装備しており、後続の583系電車やキサシ180形の試作的要素を持った異端車である。
1986年10月の「おおとり」「オホーツク」を最後に一般定期運用を終了。1987年の分割民営化時には29・36・37の3両が保留車のままJR北海道に承継。36・37はそのまま廃車となったが、29は1988年3月にジョイフルトレイン「トマムサホロエクスプレス」用の501へ改造。同車は2007年6月6日付で廃車され形式消滅となった。
ジョイフルトレインへの改造車
本系列に属するジョイフルトレインは以下の3種である。詳細は各項目参照のこと。
- JR北海道
- フラノエクスプレス - 1986年苗穂工場改造。2004年廃車。キハ80系としては2度目となる第30回ブルーリボン賞を受賞。1987年夏シーズンのみANAビッグスニーカートレインとして運転。
- トマムサホロエクスプレス→マウントレイク大沼 - 1987年苗穂工場改造。2007年廃車。
- JR東海
-
フラノエクスプレス
-
ANAビッグスニーカートレイン
-
トマムサホロエクスプレス
-
マウントレイク大沼
-
リゾートライナー
運用
「はつかり」への就役
1960年9月15日付けでキハ81系先行製造車9両(1編成)が落成し尾久客車区(現・尾久車両センター)に配置された。同日には川越線で18日から23日にかけて営業運転と同様に常磐線・東北本線でPR映画の撮影が行われた。この映画は映像ソフト化されており、現在でも視聴が可能である。翌10月には、アジア鉄道首脳者会議でお披露目され、国鉄の意図通り会議参加者の注目を集めた。特別に1等車を連ねた編成が組まれ東京 - 日光間を往復した。
12月10日から上野 - 青森間特急「はつかり」に就役した。運転開始時は客車列車時代と同一の所要時間となるダイヤ設定であったが、前述した故障のため客車列車による運行もあった。翌1961年3月ダイヤ改正で初の気動車ダイヤが組まれ、同年10月の改正では10時間半を切り客車時代と比べて約1時間短縮する大幅なスピードアップが図られたほか、82系グループのキハ80形・キロ80形も「はつかり」編成に組み込まれた。
編成は以下の9両である。
← 上野 青森 →
| ||||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
キハ 81 |
キロ 80 |
キロ 80 |
キサシ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 81 |
「はつかり」は1963年(昭和38年)4月20日のダイヤ改正から、キハ80が1両増車され10両編成となった [10]。
東北本線経由となる1968年10月1日のダイヤ改正を前に、9月9日から上野発下り9001M、翌10日から青森発上り9002M(10月1日から下り1M、上り2M)[11]で583系電車に置き換えられることになり[注 40]、「はつかり」運転最終日の9月8日の上野発下り1D、翌9日青森発上り2Dの編成は前後ヘッドマークに紅白の花による縁取りが施され、8日の尾久客車区から上野駅までの回送と9日の上野駅から尾久客車区までの回送では先頭車両に「ディーゼル特急ご苦労さんでした」のプレートが取り付けられ[12]、到着後同所で記念式典が行われた[13]。
1961年10月ダイヤ改正
この改正では、日本全国に9往復しかなかった国鉄特急列車を一気に26往復まで増発させることになり改良形のキハ82系127両が増備されたが、一部列車はダイヤ設定されたものの運転が見合された。
これは、就役した本系列の信頼性が未知数[注 41] であり、万一トラブルが起きた場合でも代替用の予備車両を即座に用意できる態勢を作っておくためである。故障率の低さを確認した上で運休していた列車の運行に初めて踏み出したが、それでも完璧にトラブルを排除するまでには至らなかった。当時開設されたばかりで本系列による特急列車運行を多数担当した向日町運転区[注 42]の初代所長である山之内秀一郎は、トラブル対策での部品不足を補うため運転休止中の「みどり」用予備車を補修部品取りに利用したことを著書[14]で明らかにしたほか、以下の事例がある。
- ダイヤ改正初日の下り「まつかぜ」では、最後尾6号車のキハ82 40が車軸発熱トラブルのため福知山で緊急解結となり40分遅れで発車。5号車キハ80とキシ80のサービス電源が不足したため食堂営業を止め5号車の乗客を収容した上で15分遅延して松江に到着。折り返しの上り列車では1号車に組成されていたキハ82 27を転車台で方向転換させた上で京都方先頭に、最後尾に米子機関区(現・米子運転所)所属のキハ28 7を連結して運転。豊岡で応急修理が完了したキハ82 40と車両交換を行った[15]。
また故障・トラブル回避という観点から「つばさ」では 奥羽本線福島 - 米沢間に介在する急勾配区間の板谷峠で当初はEF16形、1964年以降はEF64形、交流電化へ転換後の1968年以降はEF71形を補助機関車として連結した。板谷峠越えでは本系列のみでも低速での自力登坂走行は可能であったものの、液体変速機作動油(トルコンフルード)のオーバーヒートを防止する安全策を採ったためである[注 43]。
本改正で新設された本系列による特急列車を以下に示す。
- 「おおぞら」 函館 - 旭川間 1往復[10]
- 「白鳥」 大阪 - 青森・上野 各1往復[10]
- 大阪 - 直江津間併結 東海道・北陸・信越・羽越・奥羽本線/信越・高崎・東北本線
- 国鉄内部では、青森編成=「青森白鳥」・上野編成=「信越白鳥」と呼称し、同一愛称ながら別列車という見解を示した[注 45]。また、両編成とも冬期は豪雪地帯を通過するために遅延が発生しやすく、いずれかの編成に大幅な遅延が発生した場合は、直江津以西での併結は行わずにそれぞれ単独運転を行うように運転開始時からマニュアルが設定された。
- 青森編成は、関西地区 - 青森の同日着を初めて可能にした列車で、全区間1052.9 kmは当時の最長距離昼行列車でもある[注 46]。
- 上野編成は、北陸本線では関西 - 北陸間旅客用の増結車、東京からは北陸への最速列車という2つの役割を持っていた。また信越本線横川 - 軽井沢間は碓氷峠の急勾配区間のため自力での単独通過は不可能であり、この区間ではアプト式時代はED42形を、1963年の粘着運転化後はEF63形を補機として連結した上で運転された。
- 大阪 - 直江津間併結 東海道・北陸・信越・羽越・奥羽本線/信越・高崎・東北本線
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- 「つばさ」 上野 - 秋田間 1往復
- 東北・奥羽本線経由
- 上述した「白鳥」と秋田で接続しており、両列車を乗り継ぐ場合特急料金も通し計算となり、上野 - 青森間を奥羽本線経由で乗り継いで行くことができた。なお、「白鳥」「つばさ」の上り列車は秋田が8時10分の同時刻発車で、羽越・奥羽本線が単線で平行する1 kmほどの区間では、2本の本系列が並走する状況を毎朝見ることができた。これは1965年10月のダイヤ改正まで続き、地元では名物的光景となった。
- 東北・奥羽本線経由
- 「ひばり」上野 - 仙台間 1往復
- 東北本線経由
- 季節列車扱い。車両の信頼性確保の確認を待って翌1962年4月27日になってから運転開始。
- 東北本線経由
- 「まつかぜ」 京都 - 松江間 1往復
- 「かもめ」 京都 - 長崎・宮崎間 各1往復
- 「みどり」 大阪 - 博多間 1往復
- 東海道・山陽・鹿児島本線経由
- 12月15日から運転開始。後に大分まで延長運転され、1967年の大分電化により583系電車使用初の昼行特急となる。
- 東海道・山陽・鹿児島本線経由
- 「へいわ」 大阪 - 広島間 1往復
- 東海道・山陽本線経由
- 山陽本線広島電化完成に伴う翌1962年6月のダイヤ改正で、東京-大阪間電車特急「つばめ」1往復を大阪 - 広島間延長に置換る形で発展的廃止。
- 東海道・山陽本線経由
「かもめ」を除いては全て新設列車であり、「つばさ」「ひばり」「白鳥」上野編成以外は、いずれも東京都心に直通しない特急列車であった。本系列が地方路線近代化の旗手となったことを象徴する事実である。
食堂車2両付の特急
「白鳥」と「かもめ」は、貫通型を採用したキハ82形の分割併合機能を活かした2つの目的地を持つ2階建て特急列車で、以下の理由からそれぞれの編成に1両ずつ食堂車が連結された。
- 編成が分割されている区間で、双方の編成の単独走行距離が長大である。
- 食堂車スタッフの乗務面や食材の搭載・仕込みの手間などを考慮すると途中駅から区間営業をするのが困難。
この結果「白鳥」大阪 - 直江津、「かもめ」京都 - 小倉の併結区間では編成内食堂車が2両同時に営業するスタイルを採用した。
- 1編成内供食車2両連結同時営業は、全室食堂車+半室形ビュフェ[注 47] もしくは半室形ビュフェ2両[注 48] のケースでは多数存在するが、全室形食堂車2両を営業列車で定期運行した事例は、日本の鉄道史上、本系列のみでの実績である。
- 「かもめ」食堂車2両組込編成[16]・調理接客担当業者
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編成ごとの担当業者ならびにメニューの相違から、当該列車をよく利用する客は気分や好みで使い分けをしたり、味の比較を行った客もいたというエピソードも残っている。
1963年12月5日からは上野 - 秋田間の「つばさ」に盛岡発着編成の併結運転が開始され[注 49]、上野 - 福島間は食堂車2両連結となった。
これら3列車はいずれも1965年10月1日ダイヤ改正で「つばさ」「白鳥」は運転系統の分割[18][注 50]、「かもめ」は長崎編成からキシ80形を減車したため食堂車2両連結特急の運行は1961年-1965年の4年間で終了した。
特急網形成後の各車両基地と充当列車
前述の改正による大増発は、従来主要幹線のみに限定して運転されていた特急列車を地方路線に拡充する成果を挙げた。その結果として日本全国に特急列車網を成形し、各地の車両基地に配置された。以下で配置された車両基地と充当された列車について解説を行う。
- 札幌運転所(1972年3月 - 1983年6月)
1972年3月15日のダイヤ改正で函館運転所から「北斗」運用の基本編成を移管される形で函館・向日町からの転属車が配置された。同年10月のダイヤ改正で「オホーツク」の運用も担当した。しかし、1981年に「北海」がキハ183系に置き換えられ「オホーツク」2往復の運用になるも、こちらも翌1982年10月でキハ183系化。余剰車は函館再転出もしくは廃車となり、翌1983年6月に配置が消滅した。
- 函館運転所(現・函館運輸区 1961年10月 - 1987年3月)
キハ82系登場時からの配置車両基地である。担当列車は次に示す。
- 「おおぞら」(1961年10月 - 1982年11月 1985年3月 - 1986年10月)
- 「おおとり」(1964年10月 - 1986年10月)
- 「オホーツク」(1985年3月 - 1986年10月)
- 「北斗」(1967年10月 - 1986年10月[注 51])
- 「北海」(1967年10月 - 1986年10月)
- 「エルム」(1969年10月 - 1971年6月)
- 「オリンピア2号[注 52]」(1972年札幌オリンピック開催時の臨時列車)
1986年10月いっぱいで定期運用を終了。残存車両のうちキハ82形6両とキハ80形6両は座席をキハ183系500番台同様のリクライニングシートに交換するなどの保全工事を施工。1986年に改造された「フラノエクスプレス」も落成直後は当所に所属していた。分割民営化時に同所所属車両は苗穂運転所へ転属となり、本系列配置基地としては幕を閉じた。
- 秋田機関区(現・秋田車両センター 1969年10月 - 1972年10月)
「いなほ」と共通運用の「ひたち」を担当[注 53]。配置当初の20両は、キシ80 2を除きすべて尾久から転入の1960年製造車でキハ82形の配置がないのが特徴。1972年3月に編成が7両→9両となったためにサービス電源確保のためキハ82 24・901・902が配置されたほか、キハ80 901も転入したためキロ80形改造の普通車全車が集結。同年10月に充当列車の485系電車化で全車転出。
- 盛岡客車区(現・盛岡車両センター 1964年10月 - 1965年9月)
前年の1963年から運転されていた「つばさ」盛岡編成を尾久から移管する形で20両が配置される。しかし、1年後に電化完成による485系電車化で「やまびこ」に発展的解消となり他区所に転出。
- 山形機関区(現・山形新幹線車両センター 1965年10月 - 1968年9月)
「やまばと」の尾久からの移管と上野 - 山形・会津若松間併結運転開始による配置。6両編成3本(使用2本・予備1本)計18両全車が新製車であるが、山形編成と会津若松編成が交互に行き来する運用[注 54] のため本系列では初の食堂車不連結[注 55] となりキシ80形の配置はされていない。奥羽本線山形電化ならびに磐越西線喜多方電化完成で485系電車化による分離運転となったために全車転出した[注 56]。
- 「やまばと」編成[16]
← 上野(会津若松発) 山形 →
|
← 上野(山形発) 会津若松 →
| ||||||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
キハ 82 |
キロ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 82 |
キハ 82 |
キロ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 80 |
キハ 82 |
- 尾久客車区(現・尾久車両センター 1960年9月 - 1970年2月)
本系列最初の配置基地でキハ81形・キサシ80形は「はつかり」で限定運用。キハ81形は「はつかり」電車化後も「つばさ2号(上下とも)」のみの限定運用とされ1969年10月に秋田機関区に転出した。
1961年にはキハ82系も新製配置され東日本地区の本系列使用列車の多くを担当していたが、ダイヤ改正に際し「つばさ」を除き他基地へ移管されているのが特徴である[注 57]。
- 「はつかり」(1960年12月 - 1968年9月→583系電車化で青森運転所(→青森車両センター→現・盛岡車両センター青森派出所)へ移管)[19]
- 「白鳥」上野編成(1961年10月 - 1963年4月→向日町運転所へ移管)
- 「つばさ」(1961年10月 - 1970年2月[注 58]→キハ181系化)
- 「ひばり」(1962年3月 - 1965年9月→485系電車化で仙台運転所(現・仙台車両センター)へ移管)
- 「つばさ」盛岡編成(1963年12月 - 1964年9月→盛岡客車区へ移管)
- 「やまばと」(1964年10月 - 1965年9月→山形運転所へ移管)
1968年10月改正で「つばさ」運用では黒磯駅通過列車が設定されたためキハ81・82形には黒磯駅通過用列車選別装置が搭載された[注 59]。
1970年2月に「つばさ」のキハ181系置換えにより全車転出。
- 名古屋機関区(現・名古屋車両区 1975年3月 - 2009年3月)
1975年3月ダイヤ改正で「ひだ」を金沢運転所から移管されて配置基地となった。当初は、使用6両編成1本と予備車4両の計10両という少数配置であったが、1976年10月のダイヤ改正で向日町の余剰車を転入させ「ひだ」2往復を名古屋 - 高山間に増発。
さらに1978年10月2日のダイヤ改正では、「くろしお」の電車化による余剰車を投入して「ひだ」1往復増発の4往復とともに紀勢本線の特急「南紀」にも投入された。民営化直前の1986年から一部車両には特別保全工事を施工。普通車の座席を117系電車や185系電車と同様の転換クロスシートに交換し[注 60]、民営化後も引き続き「ひだ」「南紀」で運用された。
- 金沢運転所(現・金沢総合車両所 1965年10月 - 1975年3月)
「白鳥」上野編成を大阪 - 金沢間と金沢 - 上野間に分離運転とし前者を481系電車による「雷鳥」、後者を本系列による「はくたか」とするために7両編成2本と予備車6両の計20両が向日町から転入により配置。1967年3月からは間合い運用で臨時「雷鳥」にも投入されることになり、この場合夜間滞留は尾久・向日町となり所属基地となる金沢で夜を越せない珍しい運用スタイルとなった。このスタイルは485系電車化後の「雷鳥」との共通運用に引き継がれた[注 61]。
1968年10月からは高山本線特急「ひだ」の運用も担当するが、こちらは食堂車不連結の編成が組成されている。1969年10月の北陸本線糸魚川電化による「はくたか」485系電車化により「ひだ」のみの運用となり、1975年3月改正で名古屋機関区に移管・全車転出。
- 向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所 1961年10月 - 1986年3月)
1961年の配置開始時には「白鳥」青森編成・「かもめ」・「みどり」・「へいわ」・「まつかぜ」を担当。北は青森から南は九州地区まで広域運用が特徴で最盛期の1973年には126両と本系列の約1/3が当所に配置された。電化の進展により1972年には「白鳥」が485系電車化。1975年の山陽新幹線博多開業による山陽本線経由九州特急の運用を終了。以後は山陰本線・福知山線系統特急「まつかぜ」・「はまかぜ」・「あさしお」・「おき」を中心に運用された。しかし「おき」は1976年に「つばさ」のキハ181系捻出車により小郡機関区(現・下関総合車両所運用検修センター新山口支所)に移管。1982年からは余剰となったキハ181系が転入して当初の本系列を置換え始め1985年3月のダイヤ改正で定期運用を終了。一部車両は転出し波動輸送用として残存した車両も翌1986年3月までに廃車となった。
- 和歌山機関区(現・和歌山電車区 1965年3月 - 1979年10月)
紀勢本線特急「くろしお」と間合い運用の関西本線・阪和線経由で東和歌山(現・和歌山)発着となる「あすか」に投入されたが、「あすか」は当初から利用者が少ないことがネックになり1967年10月改正で廃止された。以後は「くろしお」専従の車両基地[注 62] となり、当初の1往復から定期6往復+臨時1往復まで増発されている。しかし、1978年10月の新宮電化により運転系統が同駅で分断された。これにより「くろしお」は381系電車化され、同区の本系列は全車運用離脱。転出車を除き翌1979年10月までに廃車となった。
- 鹿児島運転所(現・鹿児島車両センター 1967年10月 - 1981年11月)
1967年10月の改正で門司港 - 西鹿児島(現・鹿児島中央)間に鹿児島本線経由の特急「有明」を設定したために向日町からの転入車により運転を開始した。翌1968年10月改正では日豊本線経由で博多発着となる「にちりん」にも投入された。1970年10月には鹿児島本線全線電化により「にちりん」専従となり、1974年4月からは博多 - 宮崎間肥薩線・吉都線経由の「おおよど」と共通運用になった。この際に編成の組成変更が行われ食堂車が外されたためにキシ80形は向日町に転出している。1979年の日豊本線全線電化後も「にちりん」1往復は共通運用のため本系列で残されたが、翌1980年10月1日のダイヤ改正で「にちりん」は485系電車化、「おおよど」は廃止され鹿児島配置車は名古屋転出車と残存車に分類され1981年11月までに残存車は廃車された。
分割民営化後
JR北海道が18両、JR東海が50両継承した。
JR北海道
「フラノエクスプレス」3両と一般車15両(キハ82形6両・キハ80形6両・キシ80形3両)が函館運転所から転入で苗穂運転所に配置。また1987年から1988年にかけて苗穂工場で1「トマムサホロエクスプレス」に5両が、「フラノエクスプレス」に1両が改造された。
一般車は普通車シートをリクライニングシートに交換するなどのアコモ改良工事を施工され波動輸送用で臨時「北斗」などで運用され、1992年9月25日に札幌→函館(函館本線経由)、26日に函館→札幌(室蘭本線・千歳線経由)、27 - 28日に札幌 - 釧路 - 網走 - 札幌のさよなら団体列車で運用終了し廃車。ジョイフルトレイン改造車も老朽化により「フラノエクスプレス」が2004年に、「トマムサホロエクスプレス」は2007年に全車廃車となった。
JR東海
引き続き名古屋配置車により「ひだ」「南紀」で運用された。1988年には、キロ80 57を復籍させた上で他の2両と合わせて名古屋工場で「リゾートライナー」への改造も施工された[9]。
キハ80及びキロ80の一部の車両は、非常口窓を廃止し隣接する普通小窓と一体化のうえ大窓にする改造が施された。
定期特急運用は「ひだ」が1990年3月9日、「南紀」が1992年3月13日に終了しキハ85系に置換え。
その後は鈴鹿サーキット観戦臨時列車や1994年(平成6年)まで名古屋 - ナゴヤ球場正門前間のナイター観客輸送列車に投入された[20]。また同年10月25日には高山本線全通60周年記念のイベント列車「メモリアルひだ号」として[21]、11月には御殿場線60周年記念号として[21]、12月には高山本線全通60周年記念と美濃加茂市制40年記念の「メモリアル6040ひだ号」として、1995年(平成7年)1月21日には紀勢本線にて「メモリアル南紀」としてさよなら運転されたのが最後となった。同年中には「リゾートライナー」も含めて保存を目的としたキハ82 73・105・キロ80 60・キハ80 99を残して全車廃車となった。
保存目的車は、車籍上は名古屋配置のまま美濃太田車両区にて保管されていたが、キハ80 99は2008年(平成20年)3月31日付で、残りの車両も翌2009年3月31日付で廃車となった。これにより本系列は廃系列となったが、キハ82 73のみが2011年(平成23年)3月にオープンしたリニア・鉄道館で静態保存された。
事故廃車
- キハ82 59・902
- キハ80 9・76
- キロ80 35
- キシ80 4
- 1982年6月11日「オホーツク」で運用中に石北本線留辺蘂 - 相内間で枕木交換作業中の現場に進入し脱線事故を起こし編成ごと現場で解体。同年7月6日付で廃車となっているが、これは本系列唯一の事故廃車である。この編成にはキハ81系グループとして特急「はつかり」用に導入した1960年(昭和35年)製の車両・改造車両(キロ80 5→キハ82 902・キハ80 9)2両が含まれていた。
エピソード
- 耐寒強化車両とは言い難い本系列の酷寒の北海道での冬期運用は厳しいものがあり、車体腐食・凍結・着雪による故障も続発した。しかし検修担当者により、水タンクを鋼鉄製に変更するなど多数の改善策が施され、長期間運用された。
- 「ひだ」運用は1975年3月改正で金沢運転所から名古屋機関区に車両を転属させ移管しているが、当初は同改正により381系電車化で余剰となった同区配置のキハ181系「しなの」充当車を転用させる計画があった。これは高山本線が勾配線区であることから出力に余裕のあるキハ181系が妥当という判断のほか、当時は1980年(昭和55年)に高山本線が電化予定されていたためである[注 63] 。しかし、名古屋機関区はキハ181系「しなの」で故障やトラブルが相次いでいたために検修員が転用に難色を示したことで、「しなの」捻出車は四国地区の増発に充当された。また同年11月に電車化された「つばさ」捻出車の一部も「ひだ」への転用が予定されていたが、こちらは「おき」充当へ変更して捻出された本系列を名古屋区に転入させ増発に充てた。
保存車両
- 三笠鉄道記念館クロフォード公園(北海道三笠市)[注 64]
- 屋外展示
- キハ82 100
- キハ80 150
- キシ80 27
- キロ80 52
- キハ80 145
- キハ82 87
- 三笠鉄道記念館本館
- キシ80 31
- 屋外展示
- 京都鉄道博物館(京都市下京区)
- キハ81 3 - 1980年から2014年4月までは交通科学博物館(大阪市港区)で保存展示されていた。当初は屋外展示で、2002年からは屋根付屋外展示場での展示であった。スカートは開口部が加工された5のものが装着、正面列車愛称表示板(ヘッドマーク)は従前通り装着されておらず、表示板に直接「くろしお」の文字が描かれる(固定金具、照明器具は撤去)。また新製時に装着されていた連結器カバーはない。1986年準鉄道記念物指定。京都鉄道博物館への移設時にボンネットが開閉可能となり、少し開けて内部が見えるように展示されている[22]。
- 北海道鉄道技術館(札幌市東区)
- キハ82 86 - 前頭部のみ。車両自体はトマムサホロエクスプレスの中間車・キハ83 101へ改造されており、余剰となった車体が展示されている。
- 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸(青森県青森市)
- キハ82 101[23]
脚注
注釈
- ^ 戦前の例外としては、1942年の関門トンネル開通に伴い、特急「富士」が下関から長崎まで延長運転され、九州島内の鹿児島・長崎本線を経由した例が存在するのみであるが、戦況の悪化に伴い1944年に廃止された。
- ^ 当時は特別2等車でさえ特急と急行の双方に混用されていた。
- ^ ただし、 「かもめ」については、3等車のスハ44系のみが連結されたが、いわゆる三角線回しを回避する目的で「あさかぜ」登場後に3等車をオハニ36形・10系客車に変更されている。
- ^ 試験では、25 ‰上り勾配での均衡速度が、160 PSエンジン1基搭載の気動車で23 km/hであったのに対し、2基エンジン気動車のみの編成では41 km/hに向上した。
- ^ それまで非電化の路線では、線路規格の低さに加えて蒸気機関車の性能の限界が重なり、高速運転は困難だった。急勾配路線であれば、たとえ急行列車であっても、平均速度は40 km/hに満たない鈍足にならざるを得なかった。
- ^ 同じく準急用の80系電車や、急行用軽量客車であるナハ10形と比較しても遜色が無い程度まで改良されていた。
- ^ 当時日本の鉄道技術は、世界的には開発途上であったもののアジアにおいては比較的高水準にあった。またアジア諸国に対する車両輸出も盛んに行われており、将来的にも有望な分野であった。
- ^ 本系列の登場時の呼称で「はつかり」用として製造された車両のグループを指す場合にも用いる。国鉄としては初の特急形気動車である。キハ80系の事実上の試作車両としての役割を担い、その運用データは以後の国鉄特急形気動車の設計に大きな影響を与えた。
- ^ 浮床構造は効果が少ないため、1964年度以降の増備車では省略された。
- ^ 温気式あるいは温水式暖房方式を用いた従来の気動車では暖房カバーが窓側足下にスペースを取っていたが、キハ80系気動車ではこれを廃した電熱式となり、電熱線は座席下に収めた。
- ^ 直列6気筒の過給器付き予燃焼室式ディーゼルエンジン。元来はDMF31Sとして国鉄DD13形ディーゼル機関車用として開発が進められた機関の設計を基本に、シリンダーを水平配置に変更し、シリンダーブロック・クランクケース・燃料噴射系など、多くの設計変更を実施して燃料系・冷却系・潤滑系をこれに対応させたもの。
- ^ HはHorizontal:水平の意。連続定格出力180 PS / 1,500 rpmのスペックは以前から変化はない。また改良型ではあるが、燃料噴射ポンプとシリンダーの潤滑など機構の大部分は新設計に等しい部分があり、短い開発期間と相まってトラブル頻発につながった。
- ^ 水平シリンダーエンジンについては「横置き」という表現が使われることが多いが、これは単に縦型のエンジンを90度倒して置いただけのものではなく、これに対応してエンジンブロックの設計を一新し、燃料と潤滑油の供給系統も設計変更されている。なお、水平シリンダーエンジンも、クランクシャフト自体は在来型エンジン同様車体の前後方向に縦置きされており、枕木方向に搭載する「横置き」の意味ではない。
- ^ 変速機が直結段にある場合にノッチオフするとエンジンブレーキの状態となるが、機関や動力伝達系の保護のためそのような取り扱いは認められておらず、もし使用しても重量が大きく走行抵抗も少ないことから自動車のような抑速効果や減速度は望めない。
- ^ GはGenerator:発電機の意味。定格出力160 PS / 1,200 rpm。
- ^ KE61・62形共に19芯であるため誤差込防止キーの位置が異なる。
- ^ 高負荷時の燃焼室からの火炎によるマニホールド過熱のほか、潤滑油量や油隙間(クリアランス)の管理が悪いと排気に含まれた多くの潤滑油がマニホールドや排気管内に溜まり、温度が上がった時点で発火する場合があった。これはキハ58系でもたびたび見られた。
- ^ サービス電源系統のダウンは本系列全体の慢性的トラブルの一つであり、後年に至っても原因不明で、一例として冷暖房電源のブレーカーが遮断されてしまうため車掌が割り箸をブレーカーにくくりつけ、引き外しばねが作用しないようにする強引な手段で電源確保するような事例もあったという。
- ^ 国鉄設計陣と現場技術者は、問題解決に数か月の時間をかけて改善を図り、一定の信頼性を確保した。以後もDMH17Hは1960年代の国鉄気動車の主力エンジンとして大量に製造されることになるが、「5ノッチ5分」(フルノッチでの運転は5分以内とする)の厳守など高負荷時の取り扱いは後年まで徹底されている。
- ^ なお6両とも151系電車に付いていた空気笛は装着されず、国鉄時代の気動車車両の警笛はタイフォンのみである
- ^ 京都鉄道博物館所蔵のキハ81 3ではエンジンフードが半開きにされ、内部を見ることができる。
- ^ 当時の非電化路線ではタブレットによる非自動閉塞路線が多数であった。
- ^ キハ82形・キハ181形にも踏襲されたが、後のATS搭載により実際に使われることは殆どなかった。
- ^ このレイアウトは、後のキハ82形・キハ181形・キヤ190・191形・キハ183形初期型にも踏襲された。
- ^ 「はつかり」1号車の2等客が1等車の2・3号車を通って食堂車の4号車へ行かなくても手軽に食事を済ませるように設置されたが、「くろしお」転用後は殆ど使用されない状況であった[5]。
- ^ 和歌山機関区→和歌山電車区→和歌山列車区新在家派出所→新和歌山車両センター→日根野電車区新在家派出所→吹田総合車両所日根野支所新在家派出所と変遷。
- ^ テーブルを使うときにシートに差し込み、使わないときは取り外して折り畳み座席背面の布製の小物入れに収納した。後に肘掛格納式に改造された。
- ^ 列車の速度が上がり所要時間が短くなってもできるだけ落ち着いて食事ができるようにサービスの一環として食堂利用中の乗客に停車駅(自身の降車駅)と列車の位置関係をアナログ表示するもので、停車時間に応じた間隔で駅名が書かれた横長の板の上を指針が移動し列車の位置と停車駅の関係が相対的且つ直感的に判断できる構造であった。構造は逆転可能な時計仕掛けを採用したが、大幅な遅延や長時間停車などの番狂わせが起きた場合では、車掌が止めない限り勝手に進んでしまう代物でもあった。キシ80形にも引き続き採用されたが、その後は複数の列車と路線で運用されるようになる頃から撤去が始まり、本形式もキシ80形化改造の際に撤去された。DT31B形台車を装着するキシ80 35以降は装備されない。
- ^ 発電セット搭載車が両端のキハ81形のみのため電源容量的に編成中間にキハ82形を組み込む必要が発生した。また運用期間が485系電車化までの7か月と短期だったことや編成内中間車としての運用のため黒磯駅通過用列車選別装置の搭載は見送られた。
- ^ キハ82形と同時期に設計・製造されたグループの呼称である。
- ^ 485系電車、583系電車も統一形式である。
- ^ 踏面清掃装置は装備されていた。
- ^ 「と蝕」と呼ばれ10年程度の経年で出現するとされる。現在までその根本的原因は究明されていない。
- ^ スリット仕様はメンテナンスが簡便で積雪の少ない西日本・九州地区配置車に多く見られたほか、ステー形状にもいくつかのバリエーションが存在した。
- ^ 本系列では、当初はキハ82形運転台側とキシ80形が制御回路を両渡り構造としていた。
- ^ キハ81形からキハ82形へのデザインの変化の過程の中で検討された「高運転台+前面貫通型」の組み合わせは後にクハネ581形のデザインのベースとなった[8]。
- ^ 臨時車両設計事務所在籍(当時)。1953年から1年間スイスへの留学経験があり、10系客車でのヨーロッパ調デザインの導入など、この時代に設計された国鉄車両のエクステリア・インテリアデザインに大きな影響を与えた。なお、この曲面ガラスを使用する貫通型の前面デザインも当時のスイスで見られたものを巧みに換骨奪胎して構成されたものであった。
- ^ これは同時代のアメリカ製乗用車の影響と見られる。
- ^ 既存の4基はそのままの位置だったため、増設されたクーラーは狭いスペースに押し込まれることになり、カバーも2連用を半分に切った形状になっている。
- ^ ダイヤ改正は10月1日であったが、本系列の改造予定車のスケジュールならびに転配の点から前倒しされた。
- ^ ダイヤ改正を前に1961年夏から秋にかけて、性能確認のために試運転も繰り返され、運転士をはじめ検修技術者らへの講習も念入りに実施された。
- ^ 1964年7月20日に向日町運転所へ改称→1996年に向日町操車場と統合し京都総合運転所へ改称→2012年に組織統合により吹田総合車両所京都支所へ改称。
- ^ キハ58系等の急行形気動車では、補機なしの板谷峠越え自走運行も1980年代初頭まで行われていたが、その登坂速度は著しく低い。
- ^ いわゆる「1便」接続と呼ばれる、本州側 1D/2001D - 青函航路 1便 - 北海道側 1Dと、列車番号と便名がすべて「1」(上りは「2」)で統一された当時の最速乗り継ぎである。
- ^ 大阪発列車では、青森編成が下り列車で上野編成が上り列車になる。そのため上野編成は直江津で分割後に列車番号が2001D→2004D(上野発は2003D→2002D)となる。
- ^ 485系電車化後の1975年3月10日のダイヤ改正で湖西線経由に変更されたことにより1040.0 kmに短縮。同時に山陽新幹線全線開業により東京 - 博多間直通列車が1069.1 km(実キロ)と29.1 km長いために国内最長距離昼行列車の座は明け渡したが、在来線最長距離昼行列車としては2001年の列車廃止まで記録を保持し続けた。
- ^ サシ151形+モハシ150形による東海道・山陽特急。36形食堂車導入後の東海道山陽新幹線「ひかり」編成。
- ^ デビュー当初のモハシ150形による東海道本線特急「こだま」、サハシ153形による東海道本線急行、サハシ451形による初期東北本線常磐線急行・北陸本線急行、サハシ165形による初期上越線急行、36形食堂車落成以前の35形ビュフェ車2両組込の東海道山陽新幹線0系など。
- ^ 当初は10月1日のダイヤ改正から運転開始予定だったが、車両の落成都合から運行は12月5日からとなった。
- ^ 「つばさ」盛岡編成は483系電車化で「やまびこ」に分離。信越白鳥は上野 - 金沢「はくたか」と大阪 - 金沢「雷鳥」に分離。
- ^ ただし1972年10月 - 1981年1月は臨時ならび付属編成のみ担当。
- ^ 函館 - 札幌間。青函連絡船を挟んだ本州区間(上野 - 青森)は583系電車による「オリンピア1号」として運転。
- ^ 車両故障や「いなほ」が冬期は豪雪地帯で名高い上越線を経由するためによる遅延もさることながら、上野での折り返し間合いが30分程度であったために「ひたち」は運休を避けるためにしばしば勝田電車区(現・勝田車両センター)所属の451・453系電車での代走が記録されている。この教訓から両列車485系電車化の際には「いなほ」は青森運転所に「ひたち」は仙台運転所に分離移管すると共に青森所の運用に首都圏側でほぼ丸1日停泊する運用が設定された。詳細は国鉄485系電車#東日本地区も参照のこと。
- ^ 上り・下り列車共に先頭側が会津若松発着となる。運用的には山形→上野→会津若松→上野→山形という、今日の「サンライズ瀬戸・出雲」(285系電車)の運用と同様のパターンである。
- ^ 当時、山形地区に日本食堂の支店・営業所がなかったこと。また運営できる民間業者もなかったことも一因と言われている。
- ^ 会津若松編成は1968年9月17日から「あいづ」として、山形編成は10日間単独運転の後9月27日から485系電車化。
- ^ 「つばさ」もキハ181系→485系電車化の際に秋田運転所に移管された。
- ^ 下り2号→上り1号運用が10日 - 11日まで、下り1号→上り2号が17日 - 18日まで。
- ^ 本来は交直流切換が地上方式の黒磯駅構内にデッドセクションを設け車上切換方式も可能にしたために設置された。気動車である本系列では電源切換の必要性はないが、デッドセクションと地上信号が連動するため搭載された。
- ^ このため、車内アコモの意匠が北海道車とは異なる。
- ^ ただし車両は向日町運転所配置車に移管。1978年には食堂車連結中止に伴い「はくたか」は「雷鳥」との運用を分離。金沢運転所に再移管され「白山」と489系による共通運用へ変更された。
- ^ 「あすか」廃止後の1967年12月には名古屋滞泊の間合いを利用して臨時急行「ひだ」に投入された実績がある。
- ^ 同線は1985年頃までに電化工事を中止し、駅構内などの線路改良と高性能気動車の製造に転換した。
- ^ クロフォード公園に保存されている先頭車の前面貫通扉は1999年に盗難にあったが、同年碓氷峠鉄道文化むらの窃盗事件で逮捕された犯人グループの自宅から発見され(上毛新聞9月16日朝刊)、現状に復元されている。
出典
- ^ 『交通技術』鉄道技術研究所
- ^ a b 朝日ニュース ワイドの眼「事故ばっかりの特急『はつかり』」
- ^ 『鉄道ファン』1991年12月号「キハ80系・キハ181系特集」、読売新聞1961年7月18日付記事「特急『がっかり』」[要ページ番号]
- ^ a b c d e f g h 『形式キハ80・181系』p64-73 キハ80/181系 全車両の履歴
- ^ 『形式キハ80・181系』p82-83 時代がつくったキハ81の売店
- ^ a b c 『形式キハ80・181系』p16-45 キハ80・181系詳細ガイド
- ^ 『レイル』No.3 1981 Spring エリエイ出版部 p23-26
- ^ 『レイル』No.3 1981 Spring エリエイ出版部 p52-55「はつかりからかもめへ ディーゼル特急前頭の変身 黒岩保美」
- ^ a b 『東海旅客鉄道20年史』p253
- ^ a b c 本州~北海道間接続列車 青函連絡船後半生のあゆみ/寺本光照(文)、pp.8,10。
- ^ 本州~北海道間接続列車 青函連絡船後半生のあゆみ/寺本光照(文)・1968(昭和43)年10月1日改正、pp.12-17。
- ^ “気動車「はつかり」最終日”. 鉄道ホビダス. わが国鉄時代 (ネコ・パブリッシング). (2010年3月30日) 2017年8月22日閲覧。
- ^ ディーゼル特急「はつかり」引退式 - ZAKZAK 2012年1月5日(インターネットアーカイブ)
- ^ 『新幹線がなかったら』
- ^ 『鉄道ピクトリアル』1961年12月号 No.125
- ^ a b c 『80系気動車物語』草原社
- ^ ・東京/大阪~青森~北海道間連絡列車編成図 1964(昭和39)年10月1日、p.10。
- ^ 本州~北海道間接続列車 青函連絡船後半生のあゆみ/寺本光照(文)・1965(昭和40)年10月1日改正、pp.11-12。
- ^ ・東京/大阪~青森~北海道間連絡列車編成図 1968(昭和43)年10月1日、p.15。
- ^ 『東海旅客鉄道20年史』p84
- ^ a b 『東海旅客鉄道20年史』p258
- ^ “ひと足お先に 京都鉄道博物館へ。(中)”. 鉄道ホビダス. 編集長敬白 (ネコ・パブリッシング). (2016年4月4日) 2017年9月7日閲覧。
- ^ 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 非公開ゾーンを巡る、p.57。
参考文献
- 電気車研究会
- 「鉄道ピクトリアル」
- 1983年10月号 No.423 特集 キハ82系特急形気動車
- 2003年8月号 No.735 特集 キハ80系
- 交友社
- 「鉄道ファン」
- 1961年9月号 No3 特集 新ディーゼル特急キハ82登場
- 1965年1月号 No.43 特集 特急のすべて
- JTBパブリッシング
-
- 石井幸孝「キハ82物語」
鉄道ピクトリアル
- 野村董「特急列車試乗記『まつかぜ』号」第12号(通巻125号)、鉄道図書刊行会、1961年12月1日。
鉄道ファン
- 編集部「特集 キハ80系・キハ181系」『鉄道ファン』第31巻第12号(通巻368号)、交友社、1991年12月1日。
j-train
- 「〔特集〕青函・宇高 鉄道連絡船廃止30年」、『j-train』Vol.71(2018年10月1日号)、イカロス出版 p. 6-57
その他
- 吉田正一『過給機付ディーゼル動車試験の概要』鉄道技術研究所〈交通技術〉、1955年8月、13-16頁。
- 『形式キハ80・181系』イカロス出版〈イカロスMOOK 国鉄型車両の系譜シリーズ03〉、2006年8月。ISBN 4-87149-833-6。
- 『特集 国鉄のディーゼル特急』エリエイ出版部〈レイル No.3 1981 Spring〉、1981年4月。ISBN 4-87112-153-4。
- 東海旅客鉄道『東海旅客鉄道20年史』東海旅客鉄道、2007年9月。
- 山之内秀一郎『新幹線がなかったら』朝日文庫、2004年8月。ISBN 978-4022614513。
- 『80系気動車物語』草原社〈THE LAST RUNNERS vol.5〉、1995年1月、94頁。ISBN 978-4022614513。
関連項目
- ^ “地球環境保全への貢献”. 東海旅客鉄道. 2023年11月29日閲覧。