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** [[2月15日]] - ある受験生の合格に便宜を図るように不正工作をした疑いがあるということで、学内の2人の教授から告発をされていると新聞が報じる。学務部長を通じて文部省に事実でないと連絡をし、[[文部大臣]]は記者会見をして、[[文部省]]として直ちに調査に乗り出す考えはないということを発表。筑波大学の学長は調査の結果、推薦入試の選考で不正が行われた事実はないということを公式に表明。 |
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** 3月22日 - 国会で、[[警視庁]]機関誌の『自警』79年11月号、『警泉』同2月号に掲載された「エネルギー問題と原子力」という題の論稿で、外交問題になりかねないようなイスラム諸国に対する侮蔑的表現や、原子力反対運動によって日本は共産主義化して崩壊するというような表現があり、それらを警視庁の機関誌に掲載することは問題だと指摘される<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/091/1380/09103221380013c.html 第091回国会 予算委員会 第13号] 昭和55年(1980年)3月22日</ref>。 |
** 3月22日 - 国会で、[[警視庁]]機関誌の『自警』79年11月号、『警泉』同2月号に掲載された「エネルギー問題と原子力」という題の論稿で、外交問題になりかねないようなイスラム諸国に対する侮蔑的表現や、原子力反対運動によって日本は共産主義化して崩壊するというような表現があり、それらを警視庁の機関誌に掲載することは問題だと指摘される<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/091/1380/09103221380013c.html 第091回国会 予算委員会 第13号] 昭和55年(1980年)3月22日</ref>。 |
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** 筑波大学の学長に就任。 |
** 筑波大学の学長に就任。 |
2020年12月30日 (水) 09:03時点における版
福田 信之(ふくだ のぶゆき、1920年10月3日[1] - 1994年11月27日)は、日本の物理学者。東京教育大学教授、筑波大学副学長・学長を歴任。「世界平和教授アカデミー」元会員、「日韓トンネル研究会」元顧問。香川県高松市出身[1]。
概略
1943年、大学を卒業後、理化学研究所に入所。仁科芳雄博士のもとでニ号研究 (原子爆弾開発研究) に携わった。この研究で福田は六フッ化ウランの熱拡散分離の理論を担当した[2]。
世界的水準の「筑波研究学園都市」を建設し、そこに東京教育大学を移転させて核になる総合大学にしようという計画があった。これに反対する筑波移転反対闘争に対し、理学部教授として、移転推進派の先頭に立って奔走した。この問題は、東京教育大学の単なる移転問題から、東京教育大学を廃学し新構想大学としての「筑波大学」新設に発展した。
その頃、統一教会(世界基督教統一神霊協会)の会長であった久保木修己に出会い、統一教会の教祖・文鮮明の思想に傾倒して行き、 世界平和教授アカデミーを始めとする統一教会関連の団体で精力的に活動し、統一教会シンパの代表的文化人となる。若い頃は反核運動にも取り組んでいたが、統一教会と関係を持ってからは核武装論者で反共主義者となった。1980~84年の学長時代は大学の主要ポストが統一教会系の人脈で占められていたとも言われた。同時期、筑波大学では「原理研究会」など統一教会系のサークルが公認され活発に活動していた。
来歴
- 1920年 - 香川県に生まれる。
- 1939年 - 高松中学校卒業。
- 1943年 - 北海道大学理学部卒業(理論物理学専攻)。
- 1943年 - 理化学研究所 仁科研究室
- 1958年 - 東京教育大教授。
- 1960年代 - 統一教会会長の久保木修己に会い、真の宗教人だと感銘し、統一教会との関係を深めて行く。
- 1974年 - 5月7日 東京の帝国ホテルで、『希望の日』晩餐会と題する文鮮明の講演会に出席。
- 1976年 - 統一教会系の「世界平和教授アカデミー」の「ナショナル・ゴール(国家目標)研究」(NG研究)というプロジェクトの代表として活動。
- 1980年
- 2月15日 - ある受験生の合格に便宜を図るように不正工作をした疑いがあるということで、学内の2人の教授から告発をされていると新聞が報じる。学務部長を通じて文部省に事実でないと連絡をし、文部大臣は記者会見をして、文部省として直ちに調査に乗り出す考えはないということを発表。筑波大学の学長は調査の結果、推薦入試の選考で不正が行われた事実はないということを公式に表明。
- 3月22日 - 国会で、警視庁機関誌の『自警』79年11月号、『警泉』同2月号に掲載された「エネルギー問題と原子力」という題の論稿で、外交問題になりかねないようなイスラム諸国に対する侮蔑的表現や、原子力反対運動によって日本は共産主義化して崩壊するというような表現があり、それらを警視庁の機関誌に掲載することは問題だと指摘される[3]。
- 筑波大学の学長に就任。
- 森本真章・福井工業大学名誉教授、滝原俊彦・帝京大学教授らと結成した「教科書問題研究会」で代表を務める。世界平和教授アカデミー会員仲間の黒田巍・東京教育大学名誉教授、久保田信之・学習院女子短期大学教授、名越二荒之助・高千穂商科大学助教授らと共に活動。
- 1984年
- 1985年
- 1990年1月? - 『わが心の師・文鮮明先生』と銘打ち、統一教会名誉会長となった久保木と対談。(内容は中和新聞2月1日号に掲載されている)[5]
- 1992年
- 1994年11月27日 - 死去。享年74。
著書
- 原爆・水爆とビキニ死の灰まで 図解原子物理学 (ラジオ科学社 1954年)
- 新しい物理学第2版 (安河内昂との共著 共立出版 1984年12月 ISBN 9784320030046)
- 21世紀の希望と統一運動 大学教授がみた世界救済への道 (光言社 1990年09月 ISBN 9784876560202)
- 文鮮明師と金日成主席 開かれた南北統一の道 (世界日報社 1992年6月 ISBN 9784882010494 )
関連項目
脚注
- ^ a b 20世紀日本人名事典
- ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 4 日本の原爆』pp.165 - 166 1968年
- ^ 第091回国会 予算委員会 第13号 昭和55年(1980年)3月22日
- ^ 102 第102回国会 決算委員会 第11号 昭和60年(1985年)6月18日
- ^ 筑波大学元学長・福田信之博士と久保木修己・統一教会名誉会長の対談