「有馬英二」の版間の差分
→外部リンク: 修正。 |
|||
5行目: | 5行目: | ||
旧[[福井藩]][[藩医]]の次子として生まれ、[[1888年]]に有馬家の養嗣子となった。[[第四高等学校 (旧制)]]卒業。[[1908年]][[東京大学|東京帝國大學]][[東京大学大学院医学系研究科・医学部|医科大学]]卒業。その後、同大学青山内科に入局。[[1914年]][[朝鮮総督府]]医院内科に勤務。[[1916年]]朝鮮総督府医院第2内科科長。[[1921年]][[北海道大学病院|北海道大学附属医院]]の院長に就任。同年、[[北海道大学|北海道帝國大學]]医学部第一内科教授にも就任。[[断層撮影]]や、集団間接撮影および[[BCG]]の研究など、[[結核]]の[[診断]]・[[予防]]に尽力。中央結核研究会会長や日本胸部疾患学会会長なども務めた。[[1941年]]11月には、北方結核研究会を設立し、同会長に就任した。1944年[[樺太医学専門学校 (旧制)]]2代目校長に就任。 |
旧[[福井藩]][[藩医]]の次子として生まれ、[[1888年]]に有馬家の養嗣子となった。[[第四高等学校 (旧制)]]卒業。[[1908年]][[東京大学|東京帝國大學]][[東京大学大学院医学系研究科・医学部|医科大学]]卒業。その後、同大学青山内科に入局。[[1914年]][[朝鮮総督府]]医院内科に勤務。[[1916年]]朝鮮総督府医院第2内科科長。[[1921年]][[北海道大学病院|北海道大学附属医院]]の院長に就任。同年、[[北海道大学|北海道帝國大學]]医学部第一内科教授にも就任。[[断層撮影]]や、集団間接撮影および[[BCG]]の研究など、[[結核]]の[[診断]]・[[予防]]に尽力。中央結核研究会会長や日本胸部疾患学会会長なども務めた。[[1941年]]11月には、北方結核研究会を設立し、同会長に就任した。1944年[[樺太医学専門学校 (旧制)]]2代目校長に就任。 |
||
1946年3月31日に北海道帝国大学を停年退官。同名誉教授。同年4月10日[[第22回衆議院議員総選挙]]に[[無所属]]で[[立候補]]して初当選。[[1947年]]、[[1947年北海道庁長官選挙]]に[[民主党 (日本 1947-1950)]]から立候補するも4月5日投開票で[[次点]]で落選。同年の[[第23回衆議院議員総選挙]]に[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]から立候補を要請されるも体調不良を理由に辞退した。同年、北海道庁立女子医学専門学校(後の[[札幌医科大学]])[[客員教授]]に就任。[[1950年]]3月に同専門学校を退職し、同年6月4日[[第2回参議院議員通常選挙]]と同時に行われた[[補欠選挙]]で[[国民民主党 (日本 1950 |
1946年3月31日に北海道帝国大学を停年退官。同名誉教授。同年4月10日[[第22回衆議院議員総選挙]]に[[無所属]]で[[立候補]]して初当選。[[1947年]]、[[1947年北海道庁長官選挙]]に[[民主党 (日本 1947-1950)]]から立候補するも4月5日投開票で[[次点]]で落選。同年の[[第23回衆議院議員総選挙]]に[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]から立候補を要請されるも体調不良を理由に辞退した。同年、北海道庁立女子医学専門学校(後の[[札幌医科大学]])[[客員教授]]に就任。[[1950年]]3月に同専門学校を退職し、同年6月4日[[第2回参議院議員通常選挙]]と同時に行われた[[補欠選挙]]で[[国民民主党 (日本 1950)]]より当選。[[1953年]]4月24日[[第3回参議院議員通常選挙]]にて[[改進党]]から立候補し再選。[[1959年]]6月2日[[第5回参議院議員通常選挙]]には立候補せず政界を引退した。 |
||
なお、1941年より1969年まで学校法人北星学園理事長も併任していた。 |
なお、1941年より1969年まで学校法人北星学園理事長も併任していた。 |
2020年12月26日 (土) 10:40時点における版
有馬 英二(ありま えいじ、1883年(明治16年)5月25日 - 1970年(昭和45年)4月6日[1])は、日本の明治時代・大正時代・昭和時代の医学者・政治家。北海道帝国大学名誉教授。衆議院議員(当選1回)、参議院議員(当選2回)。福井県坂井郡三国町生まれ。
来歴
旧福井藩藩医の次子として生まれ、1888年に有馬家の養嗣子となった。第四高等学校 (旧制)卒業。1908年東京帝國大學医科大学卒業。その後、同大学青山内科に入局。1914年朝鮮総督府医院内科に勤務。1916年朝鮮総督府医院第2内科科長。1921年北海道大学附属医院の院長に就任。同年、北海道帝國大學医学部第一内科教授にも就任。断層撮影や、集団間接撮影およびBCGの研究など、結核の診断・予防に尽力。中央結核研究会会長や日本胸部疾患学会会長なども務めた。1941年11月には、北方結核研究会を設立し、同会長に就任した。1944年樺太医学専門学校 (旧制)2代目校長に就任。
1946年3月31日に北海道帝国大学を停年退官。同名誉教授。同年4月10日第22回衆議院議員総選挙に無所属で立候補して初当選。1947年、1947年北海道庁長官選挙に民主党 (日本 1947-1950)から立候補するも4月5日投開票で次点で落選。同年の第23回衆議院議員総選挙に民主党から立候補を要請されるも体調不良を理由に辞退した。同年、北海道庁立女子医学専門学校(後の札幌医科大学)客員教授に就任。1950年3月に同専門学校を退職し、同年6月4日第2回参議院議員通常選挙と同時に行われた補欠選挙で国民民主党 (日本 1950)より当選。1953年4月24日第3回参議院議員通常選挙にて改進党から立候補し再選。1959年6月2日第5回参議院議員通常選挙には立候補せず政界を引退した。
なお、1941年より1969年まで学校法人北星学園理事長も併任していた。
脚注
- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』30頁。
参考文献
外部リンク