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[[1928年]]の[[第16回衆議院議員総選挙]]に出馬し、当選を果たして1期務めた。
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戦後は[[参議院議員]]に当選。[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]にて参議院議員会長、総裁代行委員、最高委員などの幹部役員を歴任。初代[[弾劾裁判所]]裁判長として[[:s:弾劾裁判所規則|弾劾裁判所規則]]に署名。その後、[[国民協同党]]と合同して結成した[[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]でも最高委員、最高顧問などを歴任した。1954年、死去。68歳。
戦後は[[参議院議員]]に当選。[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]にて参議院議員会長、総裁代行委員、最高委員などの幹部役員を歴任。初代[[弾劾裁判所]]裁判長として[[:s:弾劾裁判所規則|弾劾裁判所規則]]に署名。その後、[[国民協同党]]と合同して結成した[[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]でも最高委員、最高顧問などを歴任した。1954年、死去。68歳。


==著述==
==著述==

2020年12月26日 (土) 10:40時点における版

鬼丸義斎

鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年(明治19年)9月5日[1][2]1954年(昭和29年)11月13日)は、日本の政治家弁護士。「義」または「義」と表記される場合がある[3]

概要

大分県に出生。愛知県の巡査となり、やがて警部補にまで昇進したが、上司と衝突して辞職した。その後明治大学に入学して、法律を学んだ。1919年に大学を首席で卒業した後は、弁護士事務所を開業した。1933年には名古屋弁護士会長に選出されている[4]

1928年第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たして1期務めた。

戦後は参議院議員に当選。民主党にて参議院議員会長、総裁代行委員、最高委員などの幹部役員を歴任。初代弾劾裁判所裁判長として弾劾裁判所規則に署名。その後、国民協同党と合同して結成した国民民主党でも最高委員、最高顧問などを歴任した。1954年、死去。68歳。

著述

脚注

  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』156頁。
  2. ^ 衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、15頁。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』276頁。
  4. ^ 『名古屋市公職者名鑑』33頁。

参考文献

  • 『名古屋市公職者名鑑』(1933 名古屋市公職者名鑑刊行会)
  • 『鬼丸義斎とはどんな人か』(1935 金吉菅生)NDLJP:1092581
  • 小松丘彦『政界第一線に立つ人々』「鬼丸義斎」、1936年。森田書房。NDLJP:1444603/17
  • 『昭和物故人名録』(1983 日外アソシエーツ)
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク

ウィキソースには、鬼丸義斎に関する文献の原文があります。