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山本厚三が代議士になったことを機に上京し、在京秘書のかたわら[[1927年]]に[[中央大学]][[法律|法律科]]を卒業。大学時代は[[中央大学辞達学会]]に所属していた。[[1942年]]の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]に旧北海道5区から非推薦候補として出馬。この時は落選したが、[[1946年]]の[[第22回衆議院議員総選挙]]では[[公職追放]]に遭った山本の後継として、[[北海道政治同盟]]の公認候補として初当選。北海道政治同盟が[[日本進歩党]]系の地方政党だったため、当選後は進歩党に所属。[[1947年]]の[[第23回衆議院議員総選挙]]以降は旧[[北海道第1区 (中選挙区)|北海道1区]]を選挙区とし、[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]・[[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]・[[改進党]]・[[日本民主党]]を経て、[[保守合同]]に伴い[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に属した。 |
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政治家としての椎熊の業績としては、衆議院[[日米安全保障条約]]等特別委員会理事、自由民主党北海道支部連合会会長等の要職を歴任したことが挙げられる。 |
政治家としての椎熊の業績としては、衆議院[[日米安全保障条約]]等特別委員会理事、自由民主党北海道支部連合会会長等の要職を歴任したことが挙げられる。 |
2020年12月26日 (土) 10:36時点における版
椎熊 三郎 しいくま さぶろう | |
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生年月日 | 1895年4月11日 |
出生地 | 北海道小樽市 |
没年月日 | 1965年7月27日(70歳没) |
出身校 | 中央大学 |
所属政党 |
立憲民政党 北海道政治同盟 日本進歩党 民主党 改進党 日本民主党 自由民主党 |
称号 | 勲一等瑞宝章(1965年) |
椎熊 三郎(しいくま さぶろう、1895年4月11日 - 1965年7月27日)は、日本の政治家。衆議院議員、衆議院副議長(第39代)、衆議院議院運営委員長(第10代)などを務めた。
来歴・人物
北海道利尻郡鴛泊村(現・利尻富士町)に生まれ、単身で小樽市に渡る。苦学しながら1914年に小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、へき地教育に携わった後に1918年に『小樽新聞』社会部記者となる。社内の賃上げ争議に加わって退職処分に遭うが、小樽商業会議所会頭だった山本厚三に認められ、秘書として迎えられる。小樽に普通選挙期成同盟を設立して幹事長となり、普選運動に邁進する[1]。立憲民政党院外団を指導した。
山本厚三が代議士になったことを機に上京し、在京秘書のかたわら1927年に中央大学法律科を卒業。大学時代は中央大学辞達学会に所属していた。1942年の翼賛選挙に旧北海道5区から非推薦候補として出馬。この時は落選したが、1946年の第22回衆議院議員総選挙では公職追放に遭った山本の後継として、北海道政治同盟の公認候補として初当選。北海道政治同盟が日本進歩党系の地方政党だったため、当選後は進歩党に所属。1947年の第23回衆議院議員総選挙以降は旧北海道1区を選挙区とし、民主党・国民民主党・改進党・日本民主党を経て、保守合同に伴い自由民主党に属した。
政治家としての椎熊の業績としては、衆議院日米安全保障条約等特別委員会理事、自由民主党北海道支部連合会会長等の要職を歴任したことが挙げられる。
1965年7月27日死去。享年70。追悼演説は横路節雄が行った。
略歴
- 1946年 衆議院帝国憲法改正案委員会委員に就任。
- 1947年 片山内閣で逓信政務次官に就任。
- 1951年 地方公共団体の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律案両院協議会において衆議院側の協議委員に選出。
- 1955年 第10代衆議院議院運営委員長に就任。
- 1958年 衆議院副議長に就任。
- 1965年 春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。70歳にて没。叙・従三位。
脚注
- ^ “第49回国会 衆議院 本会議 第4号 昭和40年8月3日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム シンプル表示”. kokkai.ndl.go.jp. 2020年11月21日閲覧。
議会 | ||
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先代 杉山元治郎 |
衆議院副議長 第39代:1958年 |
次代 正木清 |
先代 中村梅吉 |
衆議院議院運営委員長 第10代:1955年 - 1957年 |
次代 保利茂 |