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=== 現在 ===
=== 現在 ===
[[1991年]]にウクライナが独立して[[ソ連崩壊|ソ連が崩壊]]すると、キエフは新たな独立ウクライナの首都となった。
[[1991年]]にウクライナが独立して[[ソビエト邦の崩壊|ソ連が崩壊]]すると、キエフは新たな独立ウクライナの首都となった。


== 言語 ==
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2020年12月25日 (金) 23:18時点における版

キエフ
Київ
ウクライナの旗
キエフの市旗 キエフの市章
特別市 特別市
愛称 : 「ルーシの町々の母」[1];「第二のエルサレム」[2]
位置
の位置図
位置
キエフの位置(キーウ内)
キエフ
キエフ
キエフ (キーウ)
キエフの位置(ウクライナ内)
キエフ
キエフ
キエフ (ウクライナ)
キエフの位置(ヨーロッパ内)
キエフ
キエフ
キエフ (ヨーロッパ)
地図
座標 : 北緯50度27分0秒 東経30度30分0秒 / 北緯50.45000度 東経30.50000度 / 50.45000; 30.50000
歴史
建設 482年[3]
行政
 ウクライナ
 特別市 キエフ
市長 ビタリ・クリチコ
地理
面積  
  特別市 827 km2
標高 179 m (587 ft)
人口
人口 (2014年現在)
  特別市 2,950,800人
    人口密度   3,568人/km2
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 01000—06999
市外局番 +380-44
ナンバープレート АА
公式ウェブサイト : https://kyivcity.gov.ua/

キエフウクライナ語: Київ [ˈkɪjiu̯] ( 音声ファイル) キーイウ[4]ロシア語: Киев [ˈkʲiɪf] キーイフ)は、ウクライナ首都。他のとともにウクライナを構成する特別市である。

ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国ウクライナ国ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ287万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂キエフ洞窟大修道院世界遺産に登録されている。

名称

キエフという名称は「キーイの都市」を意味し、キエフを創建した伝説の公爵キーイの名前に由来する。キエフは他国の支配を受けた歴史があるため、文献によってその名称が異なっている。

  • ウクライナ語Київで、発音は[ˈkɪjiu̯]キーイウ)に近い。古ルーシ語Къıѣвъに由来する。ラテン文字転写としては簡略なKyivが正式な表記とされているが、政府の発表により表記が統一されるまでは各文字を機械的に転写したKyijvKyjivなどが用いられていた。
  • ロシア語Киевで、発音は[ˈkʲiɪf]キーイフ)に近い。ラテン文字転写としては、最も多いKievの他、KijevKiyevなどが用いられる。
  • ポーランド語Kijówで、発音は[ˈcijuf ]キーユフ)に近い。日本語転写としては「キユフ」と書かれる。日本語文献では、ポーランド支配時代に関する記述等でこの名称が使われることがある。
  • 英語KyivまたはKiev。独立以前はKievが公式のラテン文字表記であったが、独立以降は唯一の公用語国家語)のウクライナ語の名前であるКиївから、Kyivとの表記がウクライナ政府によって決められた。これに従い国内の道路標識や空港や駅等の表記は「Kyiv」で統一されている。ウクライナ国外では新聞や雑誌等のメディアは慣例からKievの表記を使う方が現状もっぱら一般的である一方、学術的な専門書ではKyivが使われることが多い[5]
  • 日本語:ウクライナ語名に沿った「キーウ」、「キーイウ」、「キーイヴ」等の表記がされる場合はあるが、現時点ではまだ使用頻度は少ない[6]在日ウクライナ大使館は一度「クィィヴ」表記を主張したものの[7]、その後の2019年9月、同大使館代表者の参加の下で開催されたウクライナ研究会主催の「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」にて、首都名は「『キーウ』、『キイフ』、『キエフ』の3例の併用を可とする」との結論が出され、同大使館案は採用されなかった[8]。ただし、現状、日本外務省も各メディアもロシア語名に沿った「キエフ」と表記が用いられることが一般的である。アクセントを表す長音符を保持して「キーエフ」と書かれることもある。また、「キイフ」、「キーフ」と書かれる場合もあるが、これらはウクライナ語の表記をロシア語等の読み方に沿って誤って転写したものである。また、漢字表記は「計由」である[9]。ウクライナ語に沿った「キイウ」という日本語の名称は、はじめて新訂万国全図に見られる。この地図は、1807年江戸幕府の命により高橋景保間重富馬場佐十郎が作成した世界地図である[10]

ウクライナの独立後、本国では公式な名称をロシア語名からウクライナ語名に変更された。現地では政策としてロシア語の使用は制限されている。また、上記にあるようにロシア語に沿ったラテン文字表記である Kiev (Kiyev) も同様の扱いである。近年英語圏における出版物では、政府発表の正式ラテン文字表記であるKyivと書かれる場合が増えている。日本でも、その傾向を受けて学者等から「キーウ」等とウクライナ語に準ずる表記が推奨される機会が増えつつある。しかし、現状では、日本やロシアにおけるウクライナ語の知識をもつ人口が少ないことや、以前は学会等でもウクライナに言及する場合、歴史的にロシア語文献を参照した研究が多かった経緯もあり、まだまだ慣例として「キエフ」と呼ばれる事例が圧倒的に多い。

ウクライナ語の認知度が相対的に低いため、政府や各メディア等々でもロシア語に沿った従来の「キエフ」という表記を用いている。しかし、上の問題を受けて、今後ウクライナ語名に沿った表記「キーウ」を用いることが必要との意見もある。

概要

ソフィア広場、キエフの中心地

東ヨーロッパ有数の大都市である。週末になると、歩行者天国になる市の中心部を通るフレシチャーティク通りや、2001年の独立10周年を記念して整備され、地下ショッピングセンターなどを備えた独立広場(マイダン・ネザレージュノスチ)などで人々が賑わっている。

市内にはキエフ大公国時代の建築物が多数残されているが、戦火や共産党政権などによって破壊されたものも少なくない。その上で、黄金の門のように復元されたものも少なくない。ウクライナは両大戦において主戦場となったためそれにまつわる多くの記念碑が建てられているが、キエフ市内及び郊外にも数多くの記念碑が見られる。それ以外には、現在のキエフに戦火の傷跡を見つけることは難しい。

町は年々発展しており、他の主要都市などと比べても外観・内容ともに豊かである。

5月には祭りが行われる。

地理

キエフとドニプロ川、ランドサット7による衛星写真

キエフの旧市街は、ドニプロ川を見下ろす小高い丘の上にある。

市はドニプロ川を挟んで広がっているが、その内丘陵地帯の西岸側が古い建物の残る従来の市街地で、それに対し低地である東岸側は、高層建築物の目立つ新市街となっている。川の中州にはかつてドイツ軍に破壊された村の跡にヒドロパールクがつくられている。

1986年4月26日、キエフの北130kmにあるチェルノブイリ原子力発電所原子力事故が発生した(チェルノブイリ原子力発電所事故)。直後にソビエト連邦上層部によって全住民350万人の疎開が検討されたが、風向きの関係で健康への影響は無いと判断され、疎開は中止された。現在はキエフを起点としたチェルノブイリの観光ツアーが存在し、事故を起こした4号炉を間近に見ることも可能である。

気候

大陸性気候であり、ケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。最も暑い7月の平均気温は20.5°Cで、30°Cを超えることも少なくない。最も寒い1月の平均気温は−3.5°Cで急速に平年値は上昇したものの、近年は寒冬になることも多く、時に零下20度を下回ることも珍しくない。過去最高気温は1936年7月31日観測された39.4 °C、過去最低気温は1929年2月7日と9日に観測された−32.2 °Cである。年間降雪量は355cmと欧州の大都市の中ではかなり多い方である。

キエフの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 11.1
(52)
17.3
(63.1)
22.4
(72.3)
30.2
(86.4)
33.6
(92.5)
35.0
(95)
39.4
(102.9)
39.9
(103.8)
33.8
(92.8)
27.9
(82.2)
23.2
(73.8)
14.7
(58.5)
39.9
(103.8)
平均最高気温 °C°F −0.9
(30.4)
0.0
(32)
5.6
(42.1)
14.0
(57.2)
20.7
(69.3)
23.5
(74.3)
25.6
(78.1)
24.9
(76.8)
19.0
(66.2)
12.5
(54.5)
4.9
(40.8)
0.0
(32)
12.5
(54.5)
日平均気温 °C°F −3.5
(25.7)
−3
(27)
1.8
(35.2)
9.3
(48.7)
15.5
(59.9)
18.5
(65.3)
20.5
(68.9)
19.7
(67.5)
14.2
(57.6)
8.4
(47.1)
1.9
(35.4)
−2.3
(27.9)
8.4
(47.1)
平均最低気温 °C°F −5.8
(21.6)
−5.7
(21.7)
−1.4
(29.5)
5.1
(41.2)
10.8
(51.4)
14.2
(57.6)
16.1
(61)
15.2
(59.4)
10.2
(50.4)
4.9
(40.8)
0.0
(32)
−4.6
(23.7)
4.9
(40.8)
最低気温記録 °C°F −31.1
(−24)
−32.2
(−26)
−24.9
(−12.8)
−10.4
(13.3)
−2.4
(27.7)
2.4
(36.3)
5.8
(42.4)
3.3
(37.9)
−2.9
(26.8)
−17.8
(0)
−21.9
(−7.4)
−30.0
(−22)
−32.2
(−26)
降水量 mm (inch) 36
(1.42)
39
(1.54)
36
(1.42)
46
(1.81)
57
(2.24)
82
(3.23)
72
(2.83)
61
(2.4)
58
(2.28)
40
(1.57)
48
(1.89)
44
(1.73)
619
(24.37)
平均降水日数 8 7 9 13 14 15 14 11 14 12 12 9 138
湿度 83 80 74 64 62 67 68 67 74 77 85 86 74
平均月間日照時間 31.0 56.5 124.0 180.0 279.0 270.0 310.0 248.0 210.0 155.0 60.0 31.0 1,954.5
出典1:Pogoda.ru.net[11]
出典2:BBC weather (sun values).[12]

歴史

中世前期

ファイル:Kij szczek choryw lybedz.jpg
キエフ市内に建立された記念碑。三兄弟のキーイシュテークホリーウは船尾に立ち、末娘のリービジは船首に立つ
中世期のキエフの象徴。聖ミハイール黄金ドーム修道院

ウクライナの最古記録『ルーシ年代記』の伝説によれば、キエフはポリャーネ族公爵キーイ、ならびに彼の兄弟シュテークホリーウリービジによって創建されたという[13]。しかし、年代記には創建の年代は記載されていない。考古学の資料によると、キエフは5世紀末から6世紀初頭に形成した集落として発展してきたという[13]。当時の集落の中心地はドニプロ川の右岸に位置する城山にあったとされる[13]6世紀から7世紀にかけて集落は城山から周りの丘陵への拡大したのである[13]。キエフはドニプロ川の貿易ルート、森林草原が接する地帯、そして多民族が交わる境界地に位置していたため、ドニプロ川の中流における政治・経済・文化的拠点として成長した[13]6世紀ゴート人の歴史家ヨルダネスは、「ドニプロ川の町」という意味のダナピルスタディル (Danapirstadir) という名で記録している。

8世紀末にキエフは、「ルーシの地」と呼ばれる南方の東スラヴ人の共同体の中核的都市であった[13]882年北欧ヴァリャーグヴァイキング)がその都市を征服すると、キエフは「ルーシ」という国家首都、いわゆる「ルーシの都市の母」[14]となった[13]。8世紀から9世紀にかけてキエフでは、古キエフ山にある山の手古キエフ)と山麓にある下町ポジール)というの2つの区域が形成された。前者では貴族聖職者、後者では庶民が暮らしていた[13]。当時のキエフは、東ローマ帝国北欧西欧イスラム系諸国と貿易をし、国際都市として発展した。10世紀前半にキエフでは初めてのキリスト教聖堂が建立された[13]

ヴォロディーミル聖公の代(980年1015年)には、キエフの山の手の範囲が拡大され、防衛が強化された。研究史では改善された山の手は「ヴォロディーミルの町」と呼ぶ[13][15]。山の手は高い土塁によって囲まれて、土塁には3つの大門が設けられた。正門であるソフィア門は町の南方に置かれた[15]988年にルーシがキリスト教を国教にすると、キエフはコンスタンディヌーポリ総主教庁キエフ府主教区の中心となった。キエフの最大の教会は、「像の市」と呼ばれる市場と大公の宮殿の隣に建立された什一聖堂であった[15]。ヴォロディーミル聖公の子息、ヤロスラーウ賢公1019年1054年)は、さらに山の手をおよそ80ヘクタールまで拡大させ、いわゆる「ヤロスラーウの町」を建設した[15]。本城を囲む土の城壁の長さは3.5キロメートまで達した[15]。これによってキエフは東欧の最大の都市となった[15]。ヤロスラーウ賢公はキエフの正門を黄金の門に改め、キエフ府主教の座として聖ソフィア大聖堂を建立した。ヤロスラーウ賢公の子孫イジャスラーウ (1054年1068年, 1069年1073年)とスヴャトポールク (1093年1113年)は新たな「イジャスラーウ・スヴャトポールクの町」を建設した。この町における中心的な建造物になったのは聖ミハイール黄金ドーム大聖堂であった[15]

キエフの最大の地区は下町ポジールであった。12世紀から13世紀前半にかけてポジールの面積は約200ヘクタールに及んでおり、土塁と柵によって囲まれていた[15]。ポジールの中欧にはキエフ最大の市場「市の場」(トルホーヴィシュチェ)が位置しており、その周りにプィロホーシュチャ聖堂、ボリス・フリブ聖堂、ミハイール聖堂などが並んでいた[15]。古キエフの西部ではコープィル隅という地区があり、スヴャトスラーウ2世の代(1073年1076年)にはそこで聖シメオン修道院が建立された[15]。キエフ郊外ではキリーロ修道院クローウ修道院洞窟修道院1598年以降はキエフ洞窟大修道院)、ヴィードゥビチ修道院などの正教会の修道院が置かれた[15]。キエフの周りにプレドスラーヴィネ村、ベレストーヴェ村、公爵と貴族の別荘、ドロホージチ谷ハンガリー谷があった[15]

12世紀半ばにキエフは約5万人の人口、400の教会と8つの市場を有していた。キエフの総合面積はおよそ400ヘクタールであった[15]

中世後期

12世紀後半以降、キエフはルーシの聖地の役割を保ちながら、政治的な中心として衰退した。ムスチスラーウ大公1125年 - 1132年)の後、キエフを治める有能な統治者がなく、ルーシというキエフ大公国を構成して諸公国は独立しはじめた。1169年ウラジーミル・スーズダリ公国の公爵アンドレイは武力でキエフを占領して掠奪し、キエフ大公に即位せず帰国した。さらに、1203年チェルニーヒウ公国の公爵リューリク2世はキエフを攻略して同様な掠奪を行った。このような事件によってキエフ大公の地位と威厳は大きく損なわれた。また、1223年にキエフの軍勢はカルカ川でモンゴル軍に敗北し、1235年にチェルニーヒウの公爵ミハイール2世キプチャクを連れてキエフを陥落させた。1239年ハリーチ公国の公爵ダニーロはキエフを獲得し、最後のキエフ大公となった。

1240年にモンゴル帝国の軍勢キエフを包囲して破壊させた。決定的な打撃を受けた古キエフは全滅され、ルーシというキエフ大公国は名実と共に亡国となった。キエフの中心地は下町ポジールへ移った。

支配する勢力は、1264年までのハールィチ・ヴォルィーニ大公国から非スラヴ系国家のリトアニア大公国に移り、1569年にリトアニアが同君連合を結んでいたポーランド王国ルブリン合同を結んでポーランド・リトアニア共和国を形成すると、ウクライナ貴族はシュラフタとして共和国のうちのポーランド王国への帰属移動を求め、キエフ県としてポーランド王国に加盟した。その後、ドニプロ川の中流に興ったザポロージャ・コサックの統治地域に加わった。コサックたちはポーランド・リトアニア共和国の中央政界(セイム)との対立を深め、1648年には県全体がヘーチマン国家(コサック国家)の一部としてポーランド・リトアニア共和国からの自治権を得た。キエフはヘーチマン国家の文化的中心として再び栄え、ウクライナ・バロック文化が養われた。

近世・近代

コサックの頭領によって復元されたキエフ洞窟大修道院における至聖三者大門教会

1654年、ヘーチマン国家はモスクワ大公国ロシア帝国に対する政治的な闘争に敗れ、その宗主権下に入ることとなった。1667年、ウクライナ・コサックを巡るポーランドとロシアの戦争が講和を迎え、キエフを含むヘーチマン国家は正式にロシア帝国の版図と定められた。

その後、キエフは徐々にロシアの一地方に地位を落としていったが、それでもやはりウクライナ文化や政治運動の中心地のひとつとしての機能を担っていた。そのため、モスクワ政府はキエフを強力な監視下に置くようになり、時期により差異はあるとはいえ、ウクライナの文化的あるいは政治的運動は「マゼッパ主義」や「裏切り独立主義」などと呼ばれ弾圧を加えられた。

現代

キエフにおけるウクライナ人民共和国の士官

1917年ロシア革命後の同年秋、キエフのウクライナ中央ラーダウクライナ人民共和国の事実上の独立宣言をするとロシアのボリシェヴィキはウクライナに侵攻を始め、ウクライナ・ソビエト戦争が開始された。共和国の首都となったキエフは赤軍による攻撃を受けた。1918年1月29日ウクライナ人民共和国軍はキエフ郊外のクルトィ駅の戦いで赤軍に敗れ、ウクライナ勢力の劣勢が決定的になった。その後、1918年2月8日にロシアの占領軍によってキエフの住民の虐殺が行われた。

この戦闘で、ウクライナの古都キエフはウクライナ民族主義の拠点となった。一方、赤軍に協力するウクライナ人民共和国(ウクライナ・ソビエト共和国)の首府は、ロシア人ユダヤ人の多いハルキウに置かれた。

1918年4月29日にはドイツ帝国の軍事力と農民層の支持を後ろ盾とするヘーチマンの政変キエフ・サーカス場にて発生し、キエフを首都とするウクライナ国が建設された。だが、12月にはドイツ軍の撤退により同国はディレクトーリヤに倒され、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を再建した。

1918年にウクライナからの要請によって始められたポーランド・ソビエト戦争でも、キエフは主戦場の一つとなった。1920年には、ポーランド軍と合同したディレクトーリヤ軍によるキエフ攻勢が実行され一時はキエフを奪還したが、最終的には赤軍に敗れた。

結局、ウクライナの独立各派は相互の協力に失敗し、またイギリスフランス、そしてポーランドなどのような外国勢力も非協力的であったことからソビエト政府に対して敗北を喫し、ウクライナの独立は潰えた。それに伴い、ソ連時代初期のウクライナ社会主義ソビエト共和国の首都は民族主義熱の高かったキエフを避け、1934年6月24日にキエフに戻るまでハリコフに置かれた[16]1937年、国号は「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」に改称されたが、キエフはその首都であり続けた。

第二次世界大戦中の1941年9月19日、侵攻して来たナチス・ドイツ軍がバルバロッサ作戦の一環としてキエフを占領した。同年の9月29日30日に、キエフ近郊のバビ・ヤールで、ナチス親衛隊の特別殺戮部隊が、33771人のユダヤ人を虐殺した。 キエフ市は1943年11月6日に赤軍によって奪還されるまでドイツの占領下にあった。市街や郊外はドイツ軍による激しい破壊を受けたが、戦後復興に力が入れられ、比較的早い時期に復興を果たした。1941年の激しい戦いを記念し、キエフは戦後「英雄都市」の称号を贈られた。

現在

1991年にウクライナが独立してソ連が崩壊すると、キエフは新たな独立ウクライナの首都となった。

言語

母語話者(2001年)
ウクライナ語
  
72.1%
ロシア語
  
25.4%

独立後は、それまでのロシア語優遇政策が改められ、市内の表記も広告等ふくめ全てウクライナ語に制限されるようになった。テレビ放送は放送法により、外国語の放映に関してはウクライナ語字幕をかぶせなければならなくなった。そのためロシアで製作されたロシア語番組はウクライナ語字幕つきロシア語放送となっている。 地下鉄もウクライナ語のみのアナウンスとなっている。

ただ、母語調査ではロシア語ではなくウクライナ語が7割と大半を占めているものの、キエフ市民の間では日常的な会話には公用語ではないロシア語が主に用いられている。2003年の調査によると、日常生活でロシア語を主に使う人が52%、ロシア語とウクライナ語の両方が32%、主にウクライナ語が14%、大半がウクライナ語は4.3%に過ぎなず、ウクライナ語のみで生活している人はむしろ圧倒的に少数派である[17]。そのため、街中で見られる表記はウクライナ語であるものの、聞こえる言語はむしろロシア語の方が多くなっている。

行政区分

面積(km²) 人口(人)
ドニプロ川の右岸(西部):
ホロシーイウ区 Голосіївський район  156 232.800
オボローニ区 Оболонський район 110 314.900
ペチェールシク区 Печерський район 27 139.800
ポジル区 Подільський район 34 190.300
スヴァトシネ区 Святошинський район 101 334.300
ソロミャンカ区 Солом'янський район 40 342.500
シェウチェーンコ区 Шевченківський район 25 231.100
ドニプロ川の左岸(東部):
ダルヌィツャ区 Дарницький район 134 312.000
デスナ区 Деснянський район 148 356.700
ドニプロ区 Дніпровський район 67 345.800

人口

2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。

  • 総人口2,611,300人[18]
  • 都市人口2,611,300人(100%)[19]
  • 性別人口:男性1,218,700人(47%);女性1,392,700人(53%)[20]
民族構成[21]
ウクライナ人
  
2,110,800人 (82.2%)
ロシア人
  
337,300人 (13.1%)
ユダヤ人
  
17,900人 (0.7%)
ベラルーシ人
  
16,500人 (0.6%)
ポーランド人
  
6,900人 (0.3%)
アルメニア人
  
4,900人 (0.2%)

交通

トロリーバス
キエフ市電

市内交通

キエフ市内には、いくつかの公共交通手段と半公共交通手段が存在する。

公共機関としては、まず地下鉄が、3路線が走っている。これらは現在も建設中であり、今後路線数と総延長共に伸びる予定である。旧市街と新市街にはそれぞれキエフ市電が、また旧市街と南西の郊外を結ぶキエフ・ライトレールも運行されている。この他、トロリーバスと路線バスが走っている。公共交通機関は充実しており、また料金も乗車1回に付き一律4フリヴニャという低価格に抑えられている。

これらに加え、半公共交通機関といえる営業免許制のマルシュルートカ(ワゴン車・マイクロバス等を利用した個人経営のバス・乗り合いタクシー)が無数に運行されている。これは、料金は乗車距離に応じた運賃制度で公共交通機関よりかなり割高であるとは言え、低速の路線バスなどに比べ所要時間や運用本数・路線数で大きなメリットがあり、やはり市民にとっては欠かせない交通手段である。しかし、路線網が複雑なので外国人が利用する際には注意を要する。

地下鉄車両や路面電車、バスやトロリーバスには、ソ連時代に製造されたソ連製やチェコスロヴァキア製、ハンガリー製の車両の他、新型のウクライナ製やドイツ製のものも多く見られる。しかし、一般に設備の悪い古い車両が多いというイメージは利用者の間で根強い。

郊外・国際交通

郊外に向かって運行される交通機関には、キエフ旅客駅などから発着するウクライナ鉄道がある。鉄道には近距離の「エレクトルィーチュカ」と長距離の「ポーイズド」があり、夜行列車や国際列車も運行されている。この他、鉄道のない地域を補うための長距離バスが地下鉄スヴャトーシン駅前ターミナルなどから発着している。

この他の交通機関としては、ドニプロ川を航行する遊覧船などの発着する船着場キエフ河川港がある。また、旧市街の低地から高台を結ぶキエフ・ケーブルカーも運行されている。

空港

キエフには、周辺都市を含めいくつかの空港が所在する。

市内に所在するキエフ・ジュリャーヌィ国際空港は、かつてはウクライナの空の玄関口として機能した空港であるがその後衰退し、現在では主に国内線と近距離の国際線が乗り入れている。この他、個人の所有するビジネスジェットなども数多くこの空港を利用している。これについては、空港の私物化との批判がある。この他、空港にはウクライナ空軍の使用機等を展示する国立航空博物館も併設されている。この空港は、市内にあり利用の便は非常によいが、安全面と土地の問題から本格的な国際空港への拡張は困難である。

スヴャトーシン地区に所在するキエフ・スヴャトーシノ空港は、ウクライナの航空産業初期から存在する空港であるが規模が小さく、また町に隣接しているため拡張できない。現在では、O・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体アヴィアーント・キエフ航空機工場の使用する小規模な飛行場となっている。

キエフ市外に隣接するキエフ・チャイカ空港は、民間のスポーツ用の小規模な空港である。

ボルィースピリ国際空港は、厳密にはキエフ市ではなく東隣のボルィースピリ市に所在するが、「キエフ空港」と呼ばれる空港のひとつとなっている。主に国際線が乗り入れる国際空港である。長らく鉄道や地下鉄のアクセスがなく、バスやタクシーが必要になるなどキエフ市内からのアクセスは不便であったが、近年はキエフ旅客駅から定期的にシャトルバスが運行されて利便性が向上した。所要時間は1時間ほど。また2018年11月にキエフ旅客駅との間を結ぶ空港連絡鉄道が開業した。こちらの所要時間は40分ほどで、深夜帯も運行されている。

ホストーメリ空港もキエフ市に所在する空港ではなく、隣のホストーメリ市に所在する。小規模な空港で、別名アントーノフ空港と呼ばれるとおり、アントーノフの機体の試験に使用されている。

教育

キエフの風景

建物

キエフの聖ソフィア大聖堂は、キリスト教を広めようとする東ローマ帝国の協力の下、ビザンティン様式の華麗な教会を模して、1037年に建てられた。コンスタンティノープルにあるハギア・ソフィア大聖堂と同じように、「聖なる知恵」に捧げたものであったが、建物の姿形は全く異なるものである。四角い建物の上に一つの半球状のドームがあるコンスタンティノープルの大聖堂に対して、キエフのハギア・ソフィアは、円柱状の建物の上に13のハート状のドームがある。この教会は過去に幾度か損傷を受け、最近の修復作業により装飾しなおされている。

スポーツ

出身の人物

Category:キエフ出身の人物を参照。

姉妹都市

  1. ^ ルーシ年代記』の882年の条に、ルーシ族の公オレーグルーシの都をキエフに定めた時、キエフを「ルーシの町々の母」と名づけた(Полное собрание русских летописей (ПСРЛ). — Т. 2. Ипатьевская летопись. — СПб., 1908. — c. 17.)。
  2. ^ キエフは東欧キリスト教の発祥地で、1453年コンスタンティノープルの陥落後、エルサレムに次ぐ正教会の聖地であると主張したウクライナの聖職者の概念。1622年にキエフ、ハールィチおよび全ルーシの府主教イオウ・ボレーツィクィイによる書状、1633年に彼の後継者となったペトロー・モヒーラによる『洞窟大修道院のアテナイオス』、またキエフ・モヒラ・アカデミーの校長およびロシア正教会会議の会長を務めたフェオファン・プロコポーヴィチマサーパ時代の聖職者・文人の著作などにおいてにしばしば見られる(Рибалка І. К. Історія України (частина перша) — К.,1994 — 7. Культура в Україні у XVIII ст. )。
  3. ^ kyivpost.com/ Kyiv’s 1,530th birthday marked with fun, protes (May 31, 2012)
  4. ^ 公用語のウクライナ語に沿った表記では「キーウ」などと転写されるが、本項ではロシア語名に沿った表記で、日本語名として公式に用いられている「キエフ」で記述する。
  5. ^ 2011年現在確認。補足だが、主要メディアに対してKievからKyivへと表記を変えるようにウェブ署名を行う等の活動が散見される。また、英語版ウィキペディアのノートでもこの表記に関して長年議論が繰り返されている。
  6. ^ 使用例は以下の通りである。
    キーウ
    『ニューエクスプレス ウクライナ語』中澤英彦著. 白水社, 2009
    『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』小泉悠著. 東京堂出版, 2019
    『1989 If You Love Somebody Set Them free ベルリンの壁が崩壊してジプシーの歌が聴こえてきた』石田昌隆著. アカツキプレス, 2019
    BBCやウクルインフォルム通信の日本語ニュース・サイト
    キーイウ
    『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫共著. 山川出版社, 1998(巻末の地図のみ)
    キーイヴ
    『ウクライナ語のための日本語学習辞典 Українсько-Японський Японсько-Український Словник Навчальний Словник Японських Ієрогліфів』ボンダレンコ I.・日野貴夫共著. アリテルナティーヴィ出版所, 1998
  7. ^ ウクライーナの地名の正しいスペルと使用法に関する公式ガイド”. 在日ウクライーナ大使館 (2019年7月17日). 2019年8月24日閲覧。
  8. ^ 「ウクライナの地名のカタカナ表記に関する有識者会議」議事抄録”. ウクライナ研究会. 2019年10月29日閲覧。
  9. ^ 重訂萬國全圖 明治4(1871)年。
  10. ^ 新訂万国全図
  11. ^ Pogoda.ru.net” (Russian). 3 July 2012閲覧。
  12. ^ BBC Weather: Kiev, BBC. Retrieved 3 July 2012.
  13. ^ a b c d e f g h i j Толочко 2007:201.
  14. ^ 「都市の母」とは、スラヴ語の翻訳借用で、ギリシア語メトロポリス(「メトロ」(母)・「ポリス(都市)」)に由来する。
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m Толочко 2007:202 .
  16. ^ 中井 1998:040.
  17. ^ Welcome to Ukraine (2014年2月3日). “What language is spoken in Ukraine?”. http://www.wumag.kiev.ua/index2.php?param=pgs20032/72 2016年5月6日閲覧。 
  18. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  19. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  20. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  21. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。

関連項目

参考文献

  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (ウクライナ語) Історія міст і сіл Української РСР: Київ. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1968.
  • (ウクライナ語) Толочко П. П., Івакін Г. Ю., Верменич Я. В. Київ // Енциклопедія історії України. — Київ : Наукова думка, 2007. — Т. 4. — С. 201–218.

外部リンク

公式
旅行