コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ペトロー・モヒーラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペトロー・モヒーラ
キエフ、ハールィチおよび全ルーシの府主教
個人情報
出生 1596年12月21日
モルダヴィア公国スチャヴァ
死去 1647年12月22日
ポーランド・リトアニア共和国キエフ(現ウクライナ
両親 父:シメオン・モヴィラ
紋章 ペトロー・モヒーラの紋章
テンプレートを表示

ペトロー・モヒーラ[1]ウクライナ語: Петро Могила[2]1596年12月21日 - 1647年12月22日)は、モルダヴィア公国貴族モヒーラ家出身のポーランド・リトアニア共和国政治家聖職者である。

概要

[編集]

青年時代は軍人としてオスマン帝国との1620年ツェツォラの戦い1621年ホティンの戦いにおいて功名を立てた。しかし修道への希望を持つようになり、1625年キエフ洞窟大修道院で剪髪[3]を受けた。1627年に同大修道院の掌院となり、ウクライナにおける正教会の復興と改革に務めた。1632年には、イエズス会カレッジをモデルにキエフ・モヒーラ・カレッジを創立した。また、同年にキエフ洞窟大修道院において正教関係文献の出版を開始した。1629年には、聖体礼儀の改革を行った。1633年キエフハールィチおよび全ルーシ府主教、ならびにコンスタンディヌーポリ総主教総主教代理となり、キエフの聖ソフィア大聖堂を府主教座にした。その後、キエフ大公国時代の教会を多く復興させ、1642年に新たな正教要理を定めた。ウクライナ正教会ルーマニア正教会ポーランド正教会では聖人として崇敬されている。

ペトロー・モヒーラについてはカトリック教会からの影響が濃厚な事に対する否定的評価が正教会において述べられる事がある[4]

脚注

[編集]
  1. ^ アクセント音の表し方の関係で、ペトロ・モヒラとも表記される。
  2. ^ 関係各国語に基づく翻訳では、以下のように書かれる。
    • ポーランド語名として、ピョートル・モヒワPiotr Mohyła)。
    • モルドヴァ語ルーマニア語名として、ペトル・モヴィラPetru Movilă)。ă の文字の表し方の関係で、モヴィレとも表記される。
    • ロシア語名として、ピョートル・モギラПётр Могила)。アクセント音の表し方の関係で、ピョートル・モギーラとも表記される。[1][2][3]
  3. ^ 修道請願をして修道士となることを、その際に髪を切ることから正教会では「剪髪(せんぱつ)」という。
  4. ^ 高橋保行『ギリシャ正教』115頁 - 116頁、講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)

参考文献

[編集]
  • 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20) (日本語)
  • 高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]