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{{by|2000年}}にもチーム最多タイの9勝を挙げリーグ2連覇に貢献した。
{{by|2000年}}にもチーム最多タイの9勝を挙げリーグ2連覇に貢献した。

2020年12月23日 (水) 05:05時点における版

若田部 健一
福岡ソフトバンクホークス 三軍投手コーチ #72
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県鎌倉市
生年月日 (1969-08-05) 1969年8月5日(55歳)
身長
体重
185 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 1992年4月9日
最終出場 2004年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

若田部 健一(わかたべ けんいち、1969年8月5日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者プロ野球コーチ。愛称は「若様」。

1女2男の父で、妻は福岡でローカルタレントとして活動する若田部佳代(旧姓:徳丸)、第一子である長女は元HKT48若田部遥である。現在は福岡ソフトバンクホークス三軍投手コーチ。「オフィス・ミラソール」とマネジメント契約。

経歴

プロ入り前

少年時代には(後に所属するベイスターズの前身)横浜大洋ホエールズのファンで「ホエールズ友の会」に入っていた[1]鎌倉学園高ではエースとして活躍し、1987年には神奈川大会ベスト4。

駒澤大学進学後は東都大学リーグで活躍し、1990年秋季には7勝1敗、防御率0.94、71奪三振の活躍で最優秀投手、ベストナイン(投手)。1991年秋季では5勝1敗で優勝に貢献し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナイン(投手)を獲得し、IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選出されている。リーグ通算48試合登板し20勝10敗、防御率1.76、223奪三振。大学時代は、日大落合英二とはライバル関係にあった。また大学時代、のちにダイエーで同僚となる青学大小久保裕紀からホームランを打ったことがある。

1991年ドラフト会議では福岡ダイエーホークス読売ジャイアンツ(巨人)・広島東洋カープ西武ライオンズと4球団が1位指名で競合し、抽選の結果ダイエーの田淵幸一監督が当たりくじを引き当てたためダイエーが交渉権を獲得した[2]。このとき在京のセ・リーグ球団を希望していた若田部が会見の席で用意されていたアイスティーを一気飲みした[3]。ダイエーとの推定契約金は近鉄バファローズ野茂英雄(1億2,000万円)を1,000万円上回り、当時の史上最高となる1億3,000万円だった[4]

プロ入り後

ダイエー時代

プロ1年目の1992年から先発の軸として活躍し、同年10月1日には平和台球場の最終試合となった対近鉄バファローズ戦で野茂英雄との投げ合いを制して1-0の完封勝ちを収めている[5]最優秀新人(新人王)は高村祐に奪われたが、片岡篤史河本育之とともにパ・リーグ会長特別表彰を受けている[6]

1993年には、同じく近鉄戦でラルフ・ブライアントに被弾しながら4失点完投でホークス史上初の福岡ドーム公式戦勝利投手にもなった。しかしシーズン通しては2年目のジンクスに陥り、規定投球回数はクリアできたが5勝に終わった。

1994年に10勝を挙げたあと数年間の不振に苦しむが、1999年に投手コーチに就任した尾花高夫からは「投手陣には磨けば光る宝がいっぱい。1番手は若田部」と評価され[7]、同年には10勝を挙げダイエー福岡移転後初のリーグ優勝に貢献。

2000年にもチーム最多タイの9勝を挙げリーグ2連覇に貢献した。

  • リーグ連覇を目指していた2000年の8月24日、西武ドームでの西武戦で3タテを阻止する1-0の完封勝利を収め、その後の逆転優勝に繋げている。ヒーローインタビューでは、「みんなの気持ちを球に込めて僕が代表して投げました」とコメントした。
  • チームメイトだった藤井将雄とは仲が良く、2000年のリーグ連覇達成時には、藤井の背番号15とネームがプリントされたハリーホーク人形(通称「藤井ハリー」)を持って胴上げに参加し、入院中の藤井に捧げた。藤井本人は病院で胴上げの映像を観て「ありがとう…」と呟きながら男泣きに泣いたという(2014年放送の『背番号クロニクル』より)。この藤井ハリーは各メディアでも取り上げられた。若田部は祝賀会で「一番ここにいて欲しかったのは藤井さん」と語っており、亡くなった直後には「これからは藤井さんにあまり頼り過ぎないように、藤井さんに心配をかけないように頑張らなきゃいけない」と話している。またこの年の「球団MVP授賞式」では、若田部が藤井ハリーを抱えて藤井の代役を務めた[8]

2001年は6勝4敗の成績で終わった。

2002年は開幕を二軍で迎えたが、一軍昇格後には先発の柱として活躍し3年ぶりの二桁勝利、かつチーム最多となる10勝[注 1]を挙げ、防御率も自己最高を記録した。同年のオールスターゲームにも初出場した。そのオフにFA宣言し、「残りの野球人生は地元ファンの声援を受けてプレーしたい」と地元の横浜ベイスターズ(幼少期に応援していたホエールズの後身)へ移籍[1](契約期間は3年)。背番号は同学年で同年オフに引退した野村弘樹の付けていた21

横浜時代

2003年は故障や不振でわずか4試合の登板に終わり、未勝利でシーズンを終えた。

2004年佐々木主浩が横浜に復帰し、吉見祐治が背番号を21へ変更したことを受け、自身のダイエー時代の背番号である14[注 2]へ変更。同年は前年オフの右ひじ手術のため出遅れたが、3試合目の登板となった[10]8月10日の対阪神タイガース16回戦(札幌ドーム)にて5回から2番手投手として登板し、味方が6回裏に逆転したことで[9]、移籍後初勝利を挙げた[注 3][10]。しかし同年の先発登板は1試合、リリーフを含めても13試合の登板にとどまった。

2005年はプロ入り後初めて一軍登板がなく、同年10月8日に横浜から戦力外通告を受ける。他球団での現役続行を模索し12球団合同トライアウトを受けるも、獲得に乗り出す球団はなく、現役を引退。横浜時代はわずか1勝に終わった。

引退後

2006年からは、FOX SPORTS ジャパンTOKYO MXTVQ九州放送および日刊スポーツの解説者。また、タレントとしては福岡の芸能事務所であるオフィス・ミラソールに所属し、KBCテレビアサデス。九州・山口」月曜コーナー『主婦の鷹』にコメンテーターとして不定期出演。「アサデス。」で共演しているおすぎからは「ホークスイケメン選手の元祖」と言われている。

ダイエー時代に取材を通して知り合った徳丸佳代と結婚、今に至る。自身が引退後にタレント業も始めた影響もあって、長女の遥は2011年HKT48の結成オーディションに合格し、研修を積んでデビューメンバー入りを勝ち取った[12]。そしてHKT48が注目を集めるようになると、それまで旧姓で活動していた妻・佳代までもが本名である「若田部」姓で活動するようになっている。なおこれに合わせ、健一自身は“本業”の野球解説等に再び軸足を戻している。

2015年2月6日に「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表投手コーチを務めることが発表された[13]2017年からは古巣ソフトバンクの二軍投手コーチを務める[14]2018年は一軍投手コーチを務め[15]2019年は再び二軍投手コーチを担当している[16]

選手としての特徴

現役時代前半は150km/h近いストレートが持ち味だったが、後半期では純粋なストレートはほとんど投げず、大小様々な変化を加えた投球を持ち味とした。 また、制球力に優れ、プロでは一度も押し出しがなかった。

人物

遥のGoogle+投稿[17]では時折若田部家の日常が垣間見えており、遥によって以下のことが明らかにされている。

  • ベイスターズ移籍時は単身赴任ではなく一家で引っ越し、現役引退で福岡に戻る(2013年5月3日投稿)
  • 佳代はユーモアもある(2013年5月2日投稿)が子どもの教育や躾に関しては厳しい方である(2013年4月30日ほか投稿)

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1992 ダイエー 27 27 13 2 1 10 13 0 -- .435 825 193.1 190 26 63 3 11 97 5 1 95 86 4.00 1.31
1993 23 22 3 0 1 5 10 0 -- .333 558 131.0 143 17 36 1 1 49 0 0 81 74 5.08 1.37
1994 25 24 7 0 2 10 7 0 -- .588 685 160.2 173 12 38 3 4 97 2 0 80 72 4.03 1.31
1995 9 9 2 0 1 1 6 0 -- .143 251 55.0 71 6 15 1 3 37 0 0 33 27 4.42 1.56
1996 23 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 126 29.2 39 3 5 0 1 16 0 0 17 17 5.16 1.48
1997 35 19 3 0 0 7 8 0 -- .467 534 118.0 150 12 34 0 6 63 2 0 66 63 4.81 1.60
1998 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 29 6.0 8 1 3 0 1 3 0 0 5 5 7.50 1.83
1999 26 26 3 1 1 10 6 0 -- .625 661 158.2 153 18 42 1 8 114 1 1 66 58 3.29 1.23
2000 31 25 3 2 0 9 11 0 -- .450 710 168.2 165 20 53 3 1 103 5 0 87 83 4.43 1.29
2001 22 16 2 1 1 6 4 0 -- .600 469 106.1 134 20 23 1 1 66 1 0 56 52 4.40 1.48
2002 26 20 7 1 2 10 8 0 -- .556 617 147.2 152 10 36 4 6 96 2 0 59 49 2.99 1.27
2003 横浜 4 4 0 0 0 0 2 0 -- .000 97 21.0 27 3 7 0 1 16 0 0 16 13 5.57 1.62
2004 13 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 84 19.0 22 2 8 0 0 4 2 0 9 8 3.79 1.58
通算:13年 271 193 43 7 9 71 75 0 -- .486 5646 1315.0 1427 150 363 17 44 761 20 2 670 607 4.15 1.36
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

  • パ・リーグ連盟特別表彰:1回 (新人特別賞:1992年)

記録

背番号

  • 14 (1992年 - 2002年、2004年 - 2005年)
  • 21 (2003年)
  • 85 (2015年)
  • 72 (2017年 - )

代表歴

関連情報

出演

CM

脚注

注釈

  1. ^ 10勝のうち5勝を西武から挙げた。ダイエー時代最後の勝利は2002年10月5日・対西武戦(西武ドーム)だった[9]
  2. ^ 2003年シーズンは森中聖雄(同年限りで現役引退)が着用していた。
  3. ^ この試合での投球内容は2イニング3与四球1失点だった[11]

出典

  1. ^ a b 『Yokohama BayStars fan book 2003』(発行元:横浜ベイスターズ・雑誌『Yokohama BayStars』2003年4月号別冊)p.34
  2. ^ 【11月22日】1991年(平3) ドラフト4位大当たり!阪神のあの2人はハズレだった」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2010年11月1日(原著1991年11月22日)。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  3. ^ 「別冊週刊ベースボール早春号 プロ野球 新ドラフト史」、ベースボール・マガジン社、1998年。 
  4. ^ プレーバック日刊スポーツ! 若田部が年俸史上最高 野茂超えた/復刻」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2016年11月30日(原著1991年11月30日)。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  5. ^ 【10月1日】1992年(平4) さらば平和台…フィナーレを飾ったのはルーキーと記録男」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2008年9月29日(原著1992年10月1日)。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  6. ^ パ・リーグ/BLUE BOOK”. パ・リーグ特別表彰. 2021年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月29日閲覧。
  7. ^ Hawks vs.Dragons 99日本シリーズ/挫折を経て」『朝日新聞朝日新聞社、1999年10月15日。オリジナルの2020年1月18日時点におけるアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  8. ^ 追悼特集 藤井将雄」『西日本スポーツ西日本新聞社、2000年11月27日。オリジナルの2002年10月31日時点におけるアーカイブ。2011年10月29日閲覧。
  9. ^ a b 横浜・若田部が移籍後初勝利!うれしい2年ぶり白星」『SANSPO.COM産業経済新聞社、2004年8月11日。オリジナルの2004年10月23日時点におけるアーカイブ。2004年10月23日閲覧。
  10. ^ a b 石橋学「デイリーベイスターズ 若田部が移籍後初勝利 ◆横浜8-4阪神/打線は6回集中打」『神奈川新聞』神奈川新聞社、2004年8月11日。オリジナルの2004年8月11日時点におけるアーカイブ。2004年8月11日閲覧。
  11. ^ 若田部セ移籍後初勝利」『スポーツ報知報知新聞社、2004年8月10日。オリジナルの2004年10月31日時点におけるアーカイブ。2004年10月31日閲覧。
  12. ^ “「HKT48」お披露目!AKBの妹分は平均13・8歳”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2011年10月24日). オリジナルの2011年10月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111024190006/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111024-OHT1T00021.htm 2011年10月24日閲覧。  若田部自身も取材を受けコメントを寄せた。
  13. ^ 「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」コーチングスタッフについて”. 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト. 野球日本代表 (2015年2月6日). 2020年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  14. ^ 2017年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト. 福岡ソフトバンクホークス (2016年12月21日). 2020年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  15. ^ 2018年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト. 福岡ソフトバンクホークス (2017年11月9日). 2020年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  16. ^ 2019年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト. 福岡ソフトバンクホークス (2018年11月8日). 2020年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月18日閲覧。
  17. ^ 若田部遥[リンク切れ] - Google+

関連項目

外部リンク