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「三浦氏」の版間の差分

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2020年9月18日 (金) 21:49時点における版

三浦氏
家紋
三浦三つ引みうらみつひき(中白)
本姓 桓武平氏良文流坂東平氏
家祖 平忠通
種別 武家
出身地 相模国三浦
主な根拠地 相模国三浦
著名な人物 三浦義澄
支流、分家 安西氏武家
宮沢氏(武家)
平子氏(武家) 
津久井氏(武家)
蘆名氏(武家)
岡崎氏(武家)
杉本氏(武家)
和田氏(武家)
大多和氏(武家)
多々良氏(武家)
佐久間氏(武家)
長井氏(武家)
杜氏(武家)
佐原氏(武家)

美作勝山藩主家(武家→華族
凡例 / Category:日本の氏族

三浦氏(みうらし)は、坂東八平氏の一つで、平安時代相模国「みうら」の地を本拠地とする武家三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。

出自

三浦一党武者行列

諸説あるが、三浦氏は平姓直系の氏族である。源頼朝公によって建立された横須賀市の義明山満昌寺には,三浦氏の祖を平高望(高望王)の子・良兼とする系図(『満昌寺差上系図』)が存在し,『二中歴』に示される良文流の血統と矛盾するため,良文流か良兼流かを特定することは困難であると言わざるを得ない。『二中歴』を始めとする諸資料による十分な検証が行われておらず正確な史実は明らかでない。

三浦党の歴史

三浦氏は、為通・為継・義継・義明・義澄・義村の6代に渡って一族を形成した。

三浦為通(為通流)

平良文の孫である平忠通の子 為通の代に初めて「三浦」の苗字を名乗ったとされる。地名に由来する苗字である[1]。相模国のこの半島は日本書紀で「御浦」(みうら)と記され、万葉集では「御宇良崎」(みうらさき)と記され(当て字はその後も揺れるが)、いずれにせよこの地は「みうら」という音で呼ばれていたので、その地名を苗字として採用したのである。

その三浦為通前九年の役で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられる。ただし、為通については数種類現存する家系図の中には記載されていないものもあり、その他信頼性が低い史料にしか見られないことから実在を疑う説も強い。

安西氏・宮沢氏

為通の次男・為俊の息子である為景安西氏を称した。また、為俊の養子である公俊宮沢氏の祖となった。

三浦為継(為継流)

三浦氏の動向が比較的明らかになるのは、為通の息子の三浦為継からである。なお、為通と為継の間に為直(為名)を置く系図も存在する[2]。為継は後三年の役に従事して功を立て、三浦氏発展の礎を築いた。この合戦中の鎌倉景正との遣り取りは有名である。為継以降の系図はほとんど差異がないが、三浦氏は寧ろ為継を初代と見做していたともいわれる。『吾妻鏡』には和田合戦直前に北条氏に寝返った三浦義村胤義兄弟が、為継のことを「嚢祖」と言う台詞が記載されている。

平子氏(周防三浦氏)

為継の三男・通継平子氏を称して周防三浦氏の祖となり、四男・景継は安西氏の養子となった。

三浦義継(義継流)

為継の子・三浦義継(1067年-1159年)は相模国三浦郡を支配し、三浦荘司また三浦介を称した[3]。以降、三浦党は相模の有力在庁官人として相模介となり、相模東半分と安房に勢力を振るう。

三浦義明(義明流)

義継の嫡男・三浦義明(1092年-1180年)は義澄とともに1156年の保元の乱・1160年の平治の乱源義朝に従う。平治の乱では義朝が敗れ、三浦一族は戦線離脱に成功し、京都から落ち延び帰国する。その後、自領で雌伏していたが、大番役の行き帰りに源頼朝の配所を訪ねるなど、源氏との繋がりを保った。義明は父にならい三浦介と号し、三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人を務める。治承4年(1180年)、頼朝の挙兵に応じて、三浦一族は挙兵する。しかし石橋山の戦いで頼朝敗戦の報せを聞き、義明ら一族は引き返し、籠城戦、義明は一族を安房国に逃したあと、衣笠城合戦で戦死(享年89)。

また、猪苗代氏北田氏藤倉氏蘆名氏新宮氏加納氏等、奥州で栄えた子孫もいる。

三浦義澄(義澄流)

家督を継いだ三浦義澄(1127年-1200年)は矢部次郎とも荒次郎とも号した。義澄は千葉常胤上総広常土肥実平らと共に頼朝の宿老となった。この時、一族である和田義盛侍所別当職に就いている。その後も三浦氏は頼朝に従い平氏追討奥州合戦に参戦し、武功を挙げる。頼朝の死後は十三人の合議制のメンバーとなる。和田義盛も入り、三浦党は鎌倉幕府内で大きな権力を持った。

しかしその後、北条氏による他氏排斥運動が起こり、和田義盛は建暦3年(1213年)の和田合戦で滅ぼされた。

三浦義村(義村流)

義澄の跡は長子の三浦義村(?-1239年)が継いだ。義村の弟である有綱重澄は、それぞれ山口氏大河戸氏を称した。義村は評定衆の宿老に就任。

北条氏による滅亡

義村の子には朝村、泰村、三浦長村、光村、三浦重村、家村、三浦資村三浦胤村(のち親鸞の弟子)、三浦重時三浦良賢らがいる。

泰村と光村は権力を持ち北条氏を凌ぐほどになったため、宝治元年(1247年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅ぼされた。

吾妻鏡』には、三浦氏が喧嘩を起こしたという記事が極めて多い。義村、泰村、家村などが喧嘩を起こした記事がある。ただし、『吾妻鏡』は三浦氏が宝治合戦で滅ぼされた後、北条氏側の視点で書かれた史料であるため、三浦氏を貶める為に曲筆がなされた可能性もある[4]千葉胤綱三浦義村和田合戦での変節を「三浦の犬は友を食らうぞ」[注釈 1]と非難したという『古今著聞集』のエピソードから、より口汚く「狂犬(マッドドッグ)」と評する人もいる[5]。三浦氏は鎌倉幕府内部において、評定衆として枢要な地位についていたが、その地位を悪用した振る舞いをすることが度々あった[6]

滅亡後

家村の末裔と言う正次江戸時代に時の将軍徳川家光に仕えて若年寄となり下総矢作藩で大名に列し、明次の代に美作勝山藩に封じられ廃藩置県を迎えた。

泰村長男である景村若狭氏を、次男である景泰沼田氏を称した。

三浦朝村の三男・三浦員村宝治合戦惣領の泰村と共に自害したが、員村の次男・三浦盛明は無事であり、その子・三浦義継石井氏を称した。

相模三浦氏による再興

その後、三浦氏は傍流の佐原氏三浦盛時により再興された。盛時は宝治合戦前には既に北条時頼に懐柔されていたらしく、以降の三浦氏は御内人となって幕府内で活躍した。盛時の子の三浦頼盛北条時輔の遺子を捕縛して幕府に引き渡している。盛時によって再興された佐原流三浦氏はやがて戦国大名相模三浦氏となってゆく。

現在

三浦氏の繁栄の名残は現在も各地に残っている。三浦氏の本拠があった横須賀市衣笠衣笠商店街では「衣笠さくら祭り」の一環として三浦氏に扮した市民によるパレードを毎年4月に見ることができる。

北条氏により滅ぼされた後、三浦氏の落人は各地に散った。現在でも東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っている。中には、三浦氏の落人たちが各地に散り散りになる時に約束したという、「その地に三浦氏の者が住む目印として、庭に三浦氏のシンボルであるかやの木を植える」という伝承が残っている家があり、未だに三浦氏の祭神である三浦大明神を祀っている家もある。

三浦党の人物


一族

系譜

脚注

注釈

  1. ^ そもそもは義村が千葉胤綱に対し「下総の犬めは寝場所を知らぬな」と言ったことによる返し。
  2. ^ 三浦時高の子もしくは三浦義時三浦義同の弟)の子とも。
  3. ^ 正木弘季正木通綱の末子)の子もしくは正木時忠の子。
  4. ^ 安房館山藩主里見義康の子、正木時茂正木通綱の子)の外孫。
  5. ^ a b 安房館山藩主一門・里見康俊の子、三浦忠尭の従兄弟。
  6. ^ 旗本・大久保忠当の三男。
  7. ^ 榊原家臣・竹本長之の子。
  8. ^ 越前丸岡藩主有馬徳純の長子。
  9. ^ 水戸徳川家臣・朝比奈泰尚の四男。
  10. ^ 中川某の子。
  11. ^ 嫡孫相続。

出典

  1. ^ 高澤等、森岡浩 著『日本人の名字と家紋』プレジデント社、2017、p.33
  2. ^ 『桓武平氏系図(群書類従)』
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus,講談社。コトバンク。
  4. ^ 佐藤 & 谷口 2007, pp. 256–257.
  5. ^ 佐藤 & 谷口 2007, p. 255.
  6. ^ 佐藤 & 谷口 2007, p. 256.
  7. ^ 日本の名字七千傑 ,武家家伝,近世系図堂,[1]

参考文献

  • 佐藤和彦; 谷口榮 編『吾妻鏡事典』東京堂出版、2007年。ISBN 978-4-490-10723-4 
  • 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史ーその発祥から江戸期まで』新人物往来社、2007年。ISBN 978-4-404-03473-1 

関連項目

外部リンク