三浦顕次
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三浦顕次 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 弘化4年1月4日(1847年2月18日)[1] |
死没 | 明治28年(1895年)9月11日[1] |
別名 | 旭州[2](号) |
墓所 | 岡山県真庭市勝山の安養寺 |
官位 | 従五位下・備後守、玄蕃頭[1] |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 | 三浦弘次、戸村荘嶽娘 |
妻 | 土井利則三女守巣[1] |
子 | 基次、ちょう、次女、三女 |
三浦 顕次(みうら たかつぐ[1][2]/あきつぐ[2])は、江戸時代幕末期の大名。美作国勝山藩(真島藩)第10代(最後)の藩主。美作勝山藩三浦家15代。号は旭州。
生涯
[編集]弘化4年(1847年)、第9代藩主・三浦弘次の長男[2]として生まれる。
父が病弱だったため、第一次長州征伐・第二次長州征伐に出陣している[2]。父は佐幕派だったが、顕次は勤皇派であり、慶応3年(1867年)からは津山藩(松平慶倫)・備中松山藩(板倉勝静)との佐幕同盟を脱している[2]。慶応4年(1868年)5月6日、父の隠居を受けて正式に家督を継いだ[1]。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となる。また、藩名を真島藩に改めた[3]。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。
明治17年(1884年)、華族令施行に伴い子爵に叙せられる。明治28年(1895年)9月11日、49歳で死去した。
系譜
[編集]『平成新修旧華族家系大成』には、子として1男3女を載せる[1]。男子は家督を相続した三浦基次(1872年 - 1946年)。長女[4]の「ちょう」[5]は澤宣元(男爵)夫人。
基次は1934年に隠居、基次の子の義次[6](1904年 - 1985年)のときに華族制度廃止を迎えた[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年。
外部リンク
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (勝山)三浦家初代 1884年 - 1895年 |
次代 三浦基次 |