「丹陽郡 (江蘇省)」の版間の差分
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[[620年]]([[武徳]]3年)、唐が[[杜伏威]]を屈服させると、[[丹徒県]]に[[潤州]]を置いた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、潤州は丹陽郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、丹陽郡は潤州と改称され、丹陽郡の呼称は姿を消した<ref>『[[旧唐書]]』地理志三</ref>。 |
2020年9月15日 (火) 15:09時点における版
丹陽郡(たんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。丹楊郡とも書かれる。漢代から唐代にかけて、現在の江蘇省の長江以南に設置された。
概要
秦のとき故鄣郡が立てられた。
紀元前109年(元封2年)、故鄣郡が丹陽郡と改められた。前漢の丹陽郡は揚州に属し、宛陵・於潜・江乗・春穀・秣陵・故鄣・句容・涇・丹陽・石城・胡孰・陵陽・蕪湖・黝・溧陽・歙・宣城の17県を管轄した。
後漢のとき、丹陽郡は宛陵・溧陽・丹陽・故鄣・於潜・涇・歙・黝・陵陽・蕪湖・秣陵・湖熟・句容・江乗・春穀・石城の16県を管轄した[1]。
西晋のとき、丹陽郡は建業・江寧・丹楊・于湖・蕪湖・永世・溧陽・江乗・句容・湖熟・秣陵の11県を管轄した[2]。
318年(大興元年)、東晋が建てられ、建康に都が置かれたことから、丹陽郡は丹陽尹と改められた。
南朝宋のとき、丹陽尹は建康・秣陵・丹楊・江寧・永世・溧陽・湖熟・句容の8県を管轄した[3]。
南朝斉のとき、丹陽尹は建康・秣陵・丹陽・溧陽・永世・湖熟・江寧・句容の8県を管轄した[4]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、丹陽尹は廃止されて、蔣州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、蔣州は丹陽郡と改称された。丹陽郡は江寧・当塗・溧水の3県を管轄した[5]。
620年(武徳3年)、唐が杜伏威を屈服させると、丹徒県に潤州を置いた。742年(天宝元年)、潤州は丹陽郡と改称された。758年(乾元元年)、丹陽郡は潤州と改称され、丹陽郡の呼称は姿を消した[6]。