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「福建省 (中華民国)」の版間の差分

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福建新軍もこれに呼応し決起、同月17日に'''廈門軍政府'''を設立した。[[1912年]](民国元年)11月16日、民政長官として民政長を設置、[[1914年]](民国3年)5月23日、民政長は巡按使に、[[1916年]](民国5年)7月に更に省長に改称されている。
福建新軍もこれに呼応し決起、同月17日に'''廈門軍政府'''を設立した。[[1912年]](民国元年)11月16日、民政長官として民政長を設置、[[1914年]](民国3年)5月23日、民政長は巡按使に、[[1916年]](民国5年)7月に更に省長に改称されている。


[[1926年]](民国15年)12月24日、国民党は福建省臨時政務委員会を設置、翌年1月2日に省臨時政治委員会を改編、福建省の最高行政機関と定められた。[[1927年]](民国16年)4月12日、[[上海クーデター]]が勃発すると福建省は[[介石政権|南京国民政府]]に帰属、5月1日に臨時政治委員会は解体され福建省政府が成立した。
[[1926年]](民国15年)12月24日、国民党は福建省臨時政務委員会を設置、翌年1月2日に省臨時政治委員会を改編、福建省の最高行政機関と定められた。[[1927年]](民国16年)4月12日、[[上海クーデター]]が勃発すると福建省は[[介石政権|南京国民政府]]に帰属、5月1日に臨時政治委員会は解体され福建省政府が成立した。


[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が勃発すると福州は日本軍に占領され福建省政府は亡命政府となる。[[1945年]](民国34年)、日本の敗戦に伴い中華民国の施政権が回復したが、[[1949年]](民国38年)8月17日、[[中国共産党]]により福州市は「解放」され、中華民国は島嶼部の[[金門県]]及び[[連江県 (中華民国)|連江県]]・[[長楽区|長楽県]]の一部([[馬祖島]])、[[莆田市|莆田県]]のごく一部([[烏坵郷]])を除き実効支配権を喪失した。
[[1937年]](民国26年)、[[日中戦争]]が勃発すると福州は日本軍に占領され福建省政府は亡命政府となる。[[1945年]](民国34年)、日本の敗戦に伴い中華民国の施政権が回復したが、[[1949年]](民国38年)8月17日、[[中国共産党]]により福州市は「解放」され、中華民国は島嶼部の[[金門県]]及び[[連江県 (中華民国)|連江県]]・[[長楽区|長楽県]]の一部([[馬祖島]])、[[莆田市|莆田県]]のごく一部([[烏坵郷]])を除き実効支配権を喪失した。

2020年9月15日 (火) 14:59時点における版

福建省
福建省
中華民国の旗 中華民国台湾)の

1912年 - 2018年

福建の紋章

紋章

福建の位置
福建の位置
2018年時点の中華民国福建省(赤色)
政庁所在地 閩侯県(1912–1938)
永安県(1938–1946)
福州市(1946–1949)
金門県(1949–2018)
無し(2018–)
政府 福建省政府(1927–2018)
省主席中国語版
 - 1927–1932 楊樹莊中国語版 (初代省主席)
 - 1988–1998 呉金賛中国語版 (虚省化当時の省主席)
 - 2016–2018 張景森中国語版 (最後の省主席)
立法府 存在せず
歴史
 - 中華民国建国 1912年1月1日
 - 虚省化 1996年1月15日
 - 事実上の廃止 2018年12月31日[1][2]
行政区画 2(2018年時点)
現在 中華民国の旗 中華民国台湾
金門県金城鎮に置かれていた福建省政府庁舎

中華民国における福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian/Fukien)は、同国の実効支配地域のうち金門県金門島烏坵郷)、連江県馬祖島)を管轄する省で、2018年[3]までは行政組織が存続していたが、2019年から予算ゼロ[3]となり事実上廃止された。

ここでは1949年(民国38年)に中華民国が大陸地区の実効支配権を喪失する以前の行政区画を中心に、後半で現在の中華民国における行政区について説明する。

管轄区域

福建省は略称を「」(びん)と称し、管轄区域は現在の中華人民共和国福建省にほぼ相当する。

西は江西省、南は広東省、北は浙江省に接し、東は台湾海峡に面している。

行政沿革

1911年宣統3年)10月10日、武昌起義により辛亥革命が勃発すると11月9日、 福建新軍もこれに呼応し決起、同月17日に廈門軍政府を設立した。1912年(民国元年)11月16日、民政長官として民政長を設置、1914年(民国3年)5月23日、民政長は巡按使に、1916年(民国5年)7月に更に省長に改称されている。

1926年(民国15年)12月24日、国民党は福建省臨時政務委員会を設置、翌年1月2日に省臨時政治委員会を改編、福建省の最高行政機関と定められた。1927年(民国16年)4月12日、上海クーデターが勃発すると福建省は南京国民政府に帰属、5月1日に臨時政治委員会は解体され福建省政府が成立した。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると福州は日本軍に占領され福建省政府は亡命政府となる。1945年(民国34年)、日本の敗戦に伴い中華民国の施政権が回復したが、1949年(民国38年)8月17日、中国共産党により福州市は「解放」され、中華民国は島嶼部の金門県及び連江県長楽県の一部(馬祖島)、莆田県のごく一部(烏坵郷)を除き実効支配権を喪失した。

1954年、烏島を暫定的に金門県の管轄下とする。

1996年1月15日、福建省の地方政府としての機能が「凍結」された。

2019年1月1日、福建省の政府機能を事実上廃止[1][2]。以降、実体のない名称のみの存在となる。同日に行政院金馬聯合服務中心(総合サービスセンター)中国語版英語版を設立した。(後述

省会

1937年(民国26年)以前は閩侯県に、1945年8月に林森県1946年(民国35年)1月以降は福州市に設置された。

日中戦争期間中は、洪山郷(現在の鼓楼区)、甘蔗郷(現在の閩侯県)、小箬郷(現在の閩侯県)、永安県に疎開している。

行政区画

道制

中華民国が建国されると清代の各道は廃止されたが、1913年(民国2年)2月12日、東路道南路道西路道北路道の4道が設置された観察使が任命されている。1914年(民国3年)5月、それぞれ閩海道廈門道汀漳道建安道と改称され、観察使も道尹と改められた。1927年(民国16年)、北伐軍が進駐すると道制は廃止されている。

県級行政区画

中華人民共和国成立直前の管轄行政区画は2市68県。(50音順)

行政督察区

金馬地区

1955年大陳島撤退作戦以降、中華民国が実効支配する福建省は、中国大陸とは海峡をはさんだ島嶼部、金門島(金門県)と烏坵郷(元は莆田県の島嶼部。現在は暫定的に金門県)、馬祖島連江県の島嶼部)のみとなっている。中華民国統治下の福建省について、台湾地域(台湾省と台湾島内の行政院直轄市)との対比から、現在では金門島と馬祖島の頭文字を使用した「金馬地区」という呼称がなされている。

行政組織の廃止へ

虚省化

1996年1月15日をもって福建省政府は地方政府としての機能を「凍結」(事実上の廃止)させられ、省政府は行政院の出先機関として中央政府に組み込まれた。このような省から地方政府としての機能を喪失させる動きを、台湾では「虚省化」と呼んでおり、1997年憲法増修条文第四次改憲以降は中華民国で実質的に「省」という地方行政区分が機能していない。その後はわずかに、公務員試験等における地域区分や地方法院(裁判所)等の名称で「福建省」の名称が使用されていた。

事実上の廃止

2019年1月1日、福建省政府を閉鎖し[1][2]、以降は福建省政府という名称と福建省主席の職位のみの存在となった。福建省政府が行っていた業務は行政院金馬聯合服務中心(総合サービスセンター)中国語版英語版に引き継がれた。

上記の2県は国共内戦以来、防共の拠点として戒厳令のもと厳しい軍事態勢下にあったが、近年中華人民共和国による軍事的な脅威が減少したこと、また対岸の中国大陸との交流が活発化した事により、観光地へと変貌を遂げている。

教育

脚注

  1. ^ a b c 「資源の有効活用と行政の効率化のため」として、行政院が2019年度予算から省級機関への予算配分をゼロにすると決定したため。
  2. ^ a b c 台湾当局が金門島にある「福建省政府」を年内で閉鎖―中国メディア - Recordchina、2018年12月30日配信。
  3. ^ a b 賴清德:108年省級機關預算全歸零 | 政治 | 重點新聞 | 中央社 CNA” (中国語). www.cna.com.tw. 2020年7月14日閲覧。

関連項目

外部リンク


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1911年 - 現在
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