「秦氏」の版間の差分
m 曖昧さ回避ページ戦国時代へのリンクを解消、リンク先を戦国時代 (日本)に変更(DisamAssist使用) |
m Bot作業依頼: 繡蔣を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (天寿国繡帳) - log |
||
86行目: | 86行目: | ||
* [[秦酒公]] - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。 |
* [[秦酒公]] - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。 |
||
* [[秦河勝]] - [[聖徳太子]]に仕え、[[太秦]]に蜂岡寺([[広隆寺]])を創建したことで知られる。[[村上天皇]]の日記には「[[大内裏]]は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、[[平安京]]への遷都や造成に深く関わっていたと[[記紀]]にある。 |
* [[秦河勝]] - [[聖徳太子]]に仕え、[[太秦]]に蜂岡寺([[広隆寺]])を創建したことで知られる。[[村上天皇]]の日記には「[[大内裏]]は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、[[平安京]]への遷都や造成に深く関わっていたと[[記紀]]にある。 |
||
* [[秦久麻]] - [[天寿国 |
* [[秦久麻]] - [[天寿国繡帳]]([[中宮寺]])の製作者。 |
||
* [[朴市秦造田来津]] - [[白村江の戦い]]で戦死。 |
* [[朴市秦造田来津]] - [[白村江の戦い]]で戦死。 |
||
* [[秦吾寺]] - [[蘇我倉山田石川麻呂]]の謀反計画に連座し処刑。 |
* [[秦吾寺]] - [[蘇我倉山田石川麻呂]]の謀反計画に連座し処刑。 |
2020年9月15日 (火) 12:52時点における版
秦氏 | |
---|---|
氏神とする木嶋坐天照御魂神社 (京都府京都市) | |
氏姓 |
秦公 秦造 秦忌寸 |
氏祖 |
称・弓月君 (称・秦の始皇帝後裔) |
種別 | 諸蕃 |
本貫 |
豊前国 出雲国 伊予国 阿波国 吉備国 針間国 山背国葛野郡 山背国紀伊郡 大和国 河内国讃良郡 丹波国桑田郡 美濃国加茂郡 相模国大住郡など |
著名な人物 | 秦河勝 |
後裔 |
惟宗朝臣 東儀家(地下家) 小畑家(地下家) 瀬尾家(地下家) 土山家(地下家) 三上家(地下家) 調子家(地下家) 藤木家(地下家) 松室家(地下家) 平田家(地下家) 石川家(地下家) 大石家(地下家) 松尾家(社家) 東家(社家) 南家(社家) 西大路家(社家) 大西家(社家) 羽倉家(社家) 荷田家(社家) 川勝氏(武家) 大蔵氏(武家) 松下氏(武家) 島津氏(武家)など |
凡例 / Category:氏 |
秦氏(はたうじ・はたし)は、「秦」を氏の名とする氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。
歴史
神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、秦の始皇帝三世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師(王仁)によって論語と千字文が伝わったという。(『古事記』)
日本へ渡ると豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国神野郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。
丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)では湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた[1]。欽明天皇の時代には紀郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[2]。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦と云われており、また河内国讃良郡にも同名の「太秦」という地名がある(上述した寝屋川市の町丁)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある[要出典]。
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[3]。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝が広隆寺を建立している。
天智天皇は秦氏による山背国(山城国)への開拓(遷都)を薦めていたが未開のままとなる。天応元年の桓武天皇即位により再び開拓がなされ、延暦3年(784年)に長岡京を造営する。延暦13年(794年)には和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、平安京への遷都となった。
後に東国にも渡来人が多く入ってきたとされ、秦氏は相模国(秦野市)周辺地域に居住したとされる。東京都内では現在の杉並区久我山が拠点であったとされており、井の頭池より現在の玉川上水流域の北沢分水上堀、江下山堀を通る用水路を開削したと記されている(久我山の下流水域には八幡山や幡ヶ谷などの地名が残されている)。
出自
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)などが祖とされる[4]。朝廷の設立や土地の開拓などに深く携わった氏族であり、その勢力は8世紀、9世紀に更に拡大されたと云われている(明らかにされていない点も多く以下の諸説などがある)[5]。
- 中国の王朝秦の流れをくむ百済経由の渡来氏族。『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する(笠井倭人・佐伯有清)[6][7]。
- 『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読めることから、後で秦(はた)氏を名乗った百済人である。(本居宣長・新井白石)「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈する一説もある。
- 新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である[8](平野邦雄・直木孝次郎・上田正昭)[9][10][11]。
- 中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮)[12]。
- 中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄)[13][14]。
- 景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖とされる。(日ユ同祖論)。(『地理歴史 百号』1908年収載)。
- 『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており[15]、これを秦氏と結び付ける説もある[16]。
備考(その他)
日本人のルーツとしての多くは大陸から渡って来たとされヤマト王権成立後に同化が進んだ。渡来系氏族とは歴史用語として3世紀から7世紀に掛けて大陸より帰化した秦氏などの有力氏族を指すものだとされる。(現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民族としている。)
奈良時代の戸籍・半布里戸籍に秦氏の記述が残されてある(富加町)。
アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという平野邦雄の指摘もある[17]。
天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。
平安仏教を代表する最澄と空海も八幡神や秦氏とは縁が深かったとされている。
平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている[18]。
秦氏の系統(一覧)
- 豊前秦氏 - 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)[19]の秦部や氏名が横溢している。
- 播磨秦氏 - 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。秦河勝はこの地域に居住。
- 深草秦氏 - 拠点は山城国紀伊郡深草。秦大津父(おおつち)など。大蔵の財政官人を務める。
- 葛野秦氏 - 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族や秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)など。
- 近江依知秦氏 - 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
- 若狭秦氏 - 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
- 越前秦氏 - 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
- 東国秦氏 - 甲斐国や相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。
- 信濃秦氏 - 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる。[注釈 1]
(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。)
秦氏が創建に関係した主な神社・寺院
秦氏に関する人物
- 弓月君 - 秦の始皇帝三世直系。秦氏の中心的人物。
- 秦大津父 - 欽明天皇に仕えた。大蔵の司。
- 秦酒公 - 秦氏の再編に貢献。廷臣として朝廷に仕えた。
- 秦河勝 - 聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたと記紀にある。
- 秦久麻 - 天寿国繡帳(中宮寺)の製作者。
- 朴市秦造田来津 - 白村江の戦いで戦死。
- 秦吾寺 - 蘇我倉山田石川麻呂の謀反計画に連座し処刑。
- 秦伊侶具 - 伏見稲荷大社を建立。
- 上仙菩薩 - 一宮神社の社家実遠の第二子として生まれ萬願寺、善成寺などを開基した高僧。
- 藤原葛野麻呂 - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った[20]。
- 弁正 - 秦牛万呂の子で、次男が秦朝元。秦朝元の娘は藤原清成の室(妻)となり、藤原種継を生んだ[21]。
- 慧達 - 法相宗の僧侶。美濃国出身で俗姓は秦氏[22]。
- 賀美能宿禰 - 秦氏で嵯峨天皇の乳母。神野郡(伊予国)出身。退官後に石鉄山往生院正法寺を建立。
- 道昌 - 俗姓は秦氏。法輪寺を再興した僧侶で、恒貞親王に密教を教えた[23]。
- 法然 - 母が秦氏。
- 秦公春
- 秦助正
- 秦秋庭(秦常秋庭)
- 秦乳主(秦忌寸乳主)
- 秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
- 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年(天平18年)から771年(宝亀2年)まで、造東大寺司写経所で活動したことが正倉院文書から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)[25]。
前賢故実に記述されている秦氏
- 秦酒公(はた の さけのきみ)-【巻第一】
- 秦河勝(はた の かわかつ)-【巻第一】
- 秦部総成女(はたべ の ふさなりのむすめ)-【巻第四】
- 秦豊永(はた の とよなが)-【巻第四】
- 秦武文(はだ の たけぶん)-【巻第九】
末裔とされる氏族
末裔・枝氏は60ほどあるとされる[26]。
- 秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓[27]。
- 勝氏、忌寸氏、部氏[28]。
- 朴市秦氏(えちはた) - 近江国愛知(えち)郡。
- 内蔵氏、大蔵朝臣[26](漢氏と共通)[29]。
- 朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏[26]
- 惟宗氏[26]
- 長宗我部氏 - 信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓。
- 川勝氏[30][31]
- 赤松氏[32]
- 東儀家
- 松下氏 - 松下氏自体は宇多源氏(近江源氏)六角氏の末裔を自称。庶家に花井氏がある。
松尾氏は、秦氏の末裔。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
末裔を称する人物
- 長宗我部元親 - 戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。
- 赤穂浪士 - 大石内蔵助(おおいしくらのすけ)など元赤穂藩士47人の中に播磨秦氏の末裔。
- 荷田春満
- 東儀俊美 - 雅楽師で元宮内庁首席楽長。日本芸術院会員。
- 羽田貞義 - 羽田武嗣郎 - 羽田孜 - 羽田雄一郎 - 羽田家は秦氏の末裔と伝えられる[33]。
- つのだじろう - 秦氏の末裔と自称して漫画『うしろの始皇帝』を発表。
- 安田朗
参考文献
- 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
- 平野邦雄「秦氏の研究」(『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年、『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館、1969年所収)
- 上田正昭『帰化人』中公新書、1965年
- 関晃『帰化人』至文堂、1966年
- 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、1971年
- 太田亮著、丹羽基二編『新編 姓氏家系辞書』秋田書店、1974年
- 司馬遼太郎、上田正昭、金達寿編『日本の渡来文化』中央公論社〈中公文庫〉、1975年
- 直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学術文庫、1988年
- 大和岩雄『秦氏の研究』大和書房、1993年
- 佐伯有清編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年
- 中村修也『秦氏とカモ氏』臨川書店、1994年
- 加藤謙吉『秦氏とその民』白水社、1998年
- 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『古代の日朝関係と日本書紀』吉川弘文館、2000年
- 大江篤『日本古代の神と霊』臨川書店、2007年
関連項目
外部リンク
出典・注釈
- 注釈
- 出典
- ^ 太田[1974: 1016]
- ^ 太田[1974: 1017]
- ^ 稲荷神の由来となった秦伊侶具の出自について、『稲荷社神主家大西氏系図』に「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」とある。
- ^ 『新撰姓氏録』左京諸蕃
- ^ 上田[1965: 71]
- ^ 笠井倭人「朝鮮語より見た秦・漢両氏の始祖名」『考古学論考』『古代の日朝関係と日本書紀』所収
- ^ [佐伯:1994 369]
- ^ 上田[1965: 140]
- ^ 平野邦雄「秦氏の研究」『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年
- ^ 直木[1988: 45,53]
- ^ 上田[1965: 71-72]
- ^ 太田[1963: 4713-4716]
- ^ 田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章
- ^ 関[1966: 96-97]
- ^ 「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)
- ^ 大和岩雄『日本にあった朝鮮王国』白水社
- ^ 平野邦雄『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館、1985年。中屋宗寿『民衆救済と仏教の歴史 中』郁朋社、2012年、261-262頁
- ^ 西田長男『神道史の研究』第2巻、p86。雄山閣、1943年。
- ^ “重要文化財|豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡|奈良国立博物館”. www.narahaku.go.jp. 2020年5月2日閲覧。
- ^ 上田[1965: 20]
- ^ 上田[1965: 20-21]
- ^ kotobank,デジタル版 日本人名大辞典+Plus。大江[2007: 222]
- ^ 大江[2007: 271]
- ^ “正倉院文書データベース”. 正倉院文書データベース作成委員会. 2019年12月10日閲覧。
- ^ “宝物は語る(3)大量の墨書新発見……古櫃(こき)”. 讀賣新聞. 2019年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、34頁
- ^ 関晃[1966: 103]
- ^ 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」名古屋大学『言語文化論集』 v.26, n.2, 2005, 8頁
- ^ 『古語拾遺』。関[1966: 105]
- ^ 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年、150頁
- ^ 『川勝家文書』 東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年、437 - 438頁
- ^ 太田[1963: 36]
- ^ “日前首相羽田爱穿中山装”. 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。