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「斉郡」の版間の差分

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[[新]]の[[王莽]]のとき、[[済南郡]]と改められた<ref>[[班固]]『[[漢書]]』地理志第八上。[[小竹武夫]]訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、330頁。</ref>。
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[[後漢]]の初年、斉郡は[[張歩]]に占拠された。[[29年]]([[建武 (漢)|建武]]5年)、張歩が後漢に降った<ref>『[[後漢書]]』王劉張李彭盧列伝</ref>。[[37年]](建武13年)、太原王劉章が斉公に徙封され、斉国が置かれた<ref>『後漢書』光武帝紀</ref>。斉国は臨菑・西安・昌国・臨朐・広・[[川区|般陽]]の6県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志四</ref>。


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北魏のとき、斉郡は臨淄・昌国・益都・般陽・平昌・広饒・西安・安平・広川の9県を管轄した<ref>『魏書』地形志二中</ref>。
北魏のとき、斉郡は臨淄・昌国・益都・般陽・平昌・広饒・西安・安平・広川の9県を管轄した<ref>『魏書』地形志二中</ref>。


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[[618年]]([[武徳]]元年)、[[唐]]が建国されると、斉郡は斉州と改められ、斉郡の呼称は姿を消した<ref>『[[旧唐書]]』地理志一</ref>。
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2020年9月11日 (金) 21:06時点における版

斉郡(齊郡、せい-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から隋代にかけて、現在の山東省に設置された。

概要

紀元前221年始皇26年)、秦がを滅ぼすと、臨淄に斉郡が置かれた[1]紀元前206年項羽が諸王を分封すると、田都が斉王となり、斉国が置かれた[2]

紀元前203年前漢高帝4年)、韓信が斉王となり、斉国が置かれた[3]紀元前202年(高帝5年)、韓信が楚王に徙封されると、斉国は臨菑郡済北郡膠東郡琅邪郡に分割された。紀元前201年(高帝6年)、皇子劉肥が斉王となり、臨菑郡・博陽郡・済北郡・膠東郡・膠西郡・琅邪郡・城陽郡の7郡73県を管轄する斉国が置かれた[4]紀元前165年文帝15年)、斉王劉則が死去すると、斉国は廃止されて、臨菑郡が置かれた。紀元前164年(文帝16年)、楊虚侯劉将閭が斉王となり、斉国が置かれた。紀元前127年元朔2年)、斉王劉次昌が自殺すると、斉国は廃止されて、斉郡が置かれた[5]紀元前117年元狩6年)、劉閎が斉王となり、斉国が置かれた。紀元前110年元封元年)、斉王劉閎が死去すると、斉国は廃止されて、斉郡が置かれた[6]。斉郡は青州に属し、臨菑昌国西安鉅定広饒昭南臨朐北郷平広台郷の12県を管轄した。『漢書』によれば、前漢末に15万4826戸、55万4444人があった[7]

王莽のとき、済南郡と改められた[8]

後漢の初年、斉郡は張歩に占拠された。29年建武5年)、張歩が後漢に降った[9]37年(建武13年)、太原王劉章が斉公に徙封され、斉国が置かれた[10]。斉国は臨菑・西安・昌国・臨朐・広・般陽の6県を管轄した[11]

265年西晋泰始元年)、司馬攸が斉王となると、斉国が置かれた。斉国は臨淄・西安・東安平・広饒・昌国の5県を管轄した[12]

南朝宋のとき、斉郡は臨淄・西安・安平・般陽・広饒・昌国・益都の7県を管轄した[13]469年泰始5年)、北魏慕容白曜が東陽を占領すると、斉郡は北魏の統治下に入った[14]

北魏のとき、斉郡は臨淄・昌国・益都・般陽・平昌・広饒・西安・安平・広川の9県を管轄した[15]

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、斉郡は廃止されて、青州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、斉州が斉郡と改称された。斉郡は歴城祝阿臨邑臨済鄒平章丘長山高苑亭山淄川の10県を管轄した[16]

618年武徳元年)、が建国されると、斉郡は斉州と改められ、斉郡の呼称は姿を消した[17]

前漢斉国沿革表
前201年 前193年 前181年 前179年 前178年 前165年 前164年 前154年 前153年 前122年 前48年
斉国 斉国 済川国
(呂国)
斉国 済北国 済北郡 済北国 済北国 済北国 済北国 泰山郡
泰山郡
平原郡 平原郡
斉国 済南郡 済南国 済南郡 済南郡 済南郡 済南郡
斉国 臨菑郡 斉国 斉国 斉国 斉郡 斉郡
千乗郡
菑川国 菑川郡 菑川国 菑川国 菑川国
膠西郡 膠西国 膠西郡 膠西国 膠西国 高密国
北海郡 北海郡 北海郡 北海郡
膠東郡 膠東国 膠東郡 膠東国 膠東国 膠東国
東莱郡 東莱郡 東莱郡
琅邪国 琅邪郡 琅邪郡 琅邪郡 琅邪郡 琅邪郡 琅邪郡
城陽郡 城陽郡 城陽国 城陽郡 城陽国 城陽国 城陽国 城陽国 城陽国

脚注

  1. ^ 史記集解』始皇本紀
  2. ^ 史記』項羽本紀
  3. ^ 『史記』高祖本紀
  4. ^ 漢書』高帝紀
  5. ^ 『史記』斉悼恵王世家
  6. ^ 『漢書』武帝紀
  7. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、330-333頁。
  8. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、330頁。
  9. ^ 後漢書』王劉張李彭盧列伝
  10. ^ 『後漢書』光武帝紀
  11. ^ 『後漢書』郡国志四
  12. ^ 晋書』地理志下
  13. ^ 宋書』州郡志二
  14. ^ 魏書』慕容白曜伝
  15. ^ 『魏書』地形志二中
  16. ^ 隋書』地理志中
  17. ^ 旧唐書』地理志一