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「高密郡」の版間の差分

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'''高密郡'''(こうみつ-ぐん)は、[[中国]]にかつて存在した[[郡]]。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]から[[唐|唐代]]にかけて、現在の[[山東省]][[イ坊市|濰坊市]]一帯に設置された。
'''高密郡'''(こうみつ-ぐん)は、[[中国]]にかつて存在した[[郡]]。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]から[[唐|唐代]]にかけて、現在の[[山東省]][[濰坊市]]一帯に設置された。


== 概要 ==
== 概要 ==

2020年9月6日 (日) 04:47時点における最新版

高密郡(こうみつ-ぐん)は、中国にかつて存在した南北朝時代から唐代にかけて、現在の山東省濰坊市一帯に設置された。

概要

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秦代に置かれた膠西郡を前身とする。前漢の初年、斉国に属した。紀元前164年文帝16年)、劉卬が膠西王となると、膠西国が置かれた[1]紀元前108年元封3年)、膠西王劉端が死去すると、後嗣がなく、膠西国は廃止され、膠西郡と改められた[2]紀元前73年本始元年)、広陵王劉胥の末子劉弘が高密王となり、膠西郡は廃止され、高密国が立てられた[3]。高密国は青州に属し、高密昌安石泉夷安成郷の5県を管轄した[4]

37年後漢建武13年)、北海郡に編入された[5]

西晋元康年間、隴西王司馬泰が高密王に改封される[6]と、高密国が置かれた。高密国は黔陬・壮武・淳于・昌安・高密・平昌・営陵・安丘・広・劇・臨朐の11県を管轄した[7]

南朝宋のとき、高密郡は黔陬・淳于・高密・夷安・営陵・昌安の6県を管轄した。孝武帝のとき、北海郡に編入された[8]

北魏延昌年間に再び高密郡が立てられ、高密郡は高密・夷安・黔陬・平昌・東武の5県を管轄した。529年永安2年)、膠州が設置されると、高密郡は膠州に属した[9]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、高密郡は廃止されて、膠州に編入された。585年(開皇5年)、膠州は密州と改められた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、密州は高密郡と改称された。高密郡は諸城・郚城・安丘・膠西・高密・東莞・琅邪の7県を管轄した[10]

622年武徳5年)、唐により高密郡は密州と改められた。742年天宝元年)、密州は高密郡と改称された。758年乾元元年)、高密郡は密州と改称され、高密郡の呼称は姿を消した[11]

脚注

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  1. ^ 史記』斉悼恵王世家
  2. ^ 漢書』景十三王伝
  3. ^ 『漢書』宣帝紀
  4. ^ 『漢書』地理志下
  5. ^ 後漢書』郡国志四
  6. ^ 晋書』宗室伝
  7. ^ 『晋書』地理志下
  8. ^ 宋書』州郡志二
  9. ^ 魏書』地形志二中
  10. ^ 隋書』地理志中
  11. ^ 旧唐書』地理志一