コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「沁州」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 秭睢潞漳泮洮洱淄などを含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (潞州) - log
2行目: 2行目:


== 隋代 ==
== 隋代 ==
[[596年]]([[開皇]]16年)、[[隋]]により[[ロ州|潞州]]が分割され、沁州が置かれた。[[605年]]([[大業]]元年)、沁州は廃止され、その管轄県は潞州に編入された。[[607年]](大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、潞州は[[上党郡]]と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。[[617年]]([[義寧]]元年)に上党郡が分割されて'''義寧郡'''が置かれた。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
[[596年]]([[開皇]]16年)、[[隋]]により[[潞州]]が分割され、沁州が置かれた。[[605年]]([[大業]]元年)、沁州は廃止され、その管轄県は潞州に編入された。[[607年]](大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、潞州は[[上党郡]]と改称された<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。[[617年]]([[義寧]]元年)に上党郡が分割されて'''義寧郡'''が置かれた。隋代の行政区分に関しては下表を参照。


{| align=center class="wikitable" style="width:400px; text-align:center"
{| align=center class="wikitable" style="width:400px; text-align:center"

2020年9月3日 (木) 11:11時点における版

沁州(しんしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の山西省長治市西部に設置された。

隋代

596年開皇16年)、により潞州が分割され、沁州が置かれた。605年大業元年)、沁州は廃止され、その管轄県は潞州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、潞州は上党郡と改称された[1]617年義寧元年)に上党郡が分割されて義寧郡が置かれた。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
開皇16年
沁州
義寧元年
義寧郡
沁源県
義寧県 和川県
銅鞮県
綿上県
安沢県 -

唐代

618年武徳元年)、により義寧郡は沁州と改められた。742年天宝元年)、沁州は陽城郡と改称された。758年乾元元年)、陽城郡は沁州の称にもどされた。沁州は河東道に属し、沁源・和川・綿上の3県を管轄した[2]

宋代

981年太平興国6年)、北宋により沁州は廃止され、沁源県は威勝軍に、和川県は平陽府に転属した[3]

1128年天会6年)、により威勝軍は沁州に昇格した。沁州は河東南路に属し、銅鞮・沁源・武郷・綿上の4県と南関鎮を管轄した[4]

元代

のとき、沁州は晋寧路に属し、銅鞮・沁源・武郷の3県を管轄した[5]

明代以降

1369年洪武2年)、により沁州は山西等処行中書省に転属した。1376年(洪武9年)、行中書省が承宣布政使司に改組されると、沁州はそのまま山西等処承宣布政使司に属した。1595年万暦23年)、沁州は汾州府に転属した。1604年(万暦32年)、沁州は山西等処承宣布政使司の直属にもどされた。沁州は沁源・武郷の2県を管轄した[6]

のとき、沁州は直隷州となった。沁州直隷州は山西省に属し、沁源・武郷の2県を管轄した[7]

1913年中華民国により沁州は廃止され、沁県と改められた。

脚注

  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志二
  3. ^ 宋史』地理志二
  4. ^ 金史』地理志下
  5. ^ 元史』地理志一
  6. ^ 明史』地理志二
  7. ^ 清史稿』地理志七