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2020年9月3日 (木) 11:11時点における版
沁州(しんしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から民国初年にかけて、現在の山西省長治市西部に設置された。
隋代
596年(開皇16年)、隋により潞州が分割され、沁州が置かれた。605年(大業元年)、沁州は廃止され、その管轄県は潞州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、潞州は上党郡と改称された[1]。617年(義寧元年)に上党郡が分割されて義寧郡が置かれた。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |
---|---|
開皇16年 沁州 |
義寧元年 義寧郡 |
沁源県 | |
義寧県 | 和川県 |
銅鞮県 | |
綿上県 | |
安沢県 | - |
唐代
618年(武徳元年)、唐により義寧郡は沁州と改められた。742年(天宝元年)、沁州は陽城郡と改称された。758年(乾元元年)、陽城郡は沁州の称にもどされた。沁州は河東道に属し、沁源・和川・綿上の3県を管轄した[2]。
宋代
981年(太平興国6年)、北宋により沁州は廃止され、沁源県は威勝軍に、和川県は平陽府に転属した[3]。
1128年(天会6年)、金により威勝軍は沁州に昇格した。沁州は河東南路に属し、銅鞮・沁源・武郷・綿上の4県と南関鎮を管轄した[4]。
元代
元のとき、沁州は晋寧路に属し、銅鞮・沁源・武郷の3県を管轄した[5]。
明代以降
1369年(洪武2年)、明により沁州は山西等処行中書省に転属した。1376年(洪武9年)、行中書省が承宣布政使司に改組されると、沁州はそのまま山西等処承宣布政使司に属した。1595年(万暦23年)、沁州は汾州府に転属した。1604年(万暦32年)、沁州は山西等処承宣布政使司の直属にもどされた。沁州は沁源・武郷の2県を管轄した[6]。
清のとき、沁州は直隷州となった。沁州直隷州は山西省に属し、沁源・武郷の2県を管轄した[7]。
1913年、中華民国により沁州は廃止され、沁県と改められた。