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「琅邪郡」の版間の差分

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[[新]]の[[王莽]]のとき、'''填夷郡'''(ちんいぐん)と改称された<ref>班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、334頁。</ref>。
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2020年8月26日 (水) 05:20時点における版

琅邪郡(琅琊郡、瑯邪郡、瑯琊郡、ろうや-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域に設置された。

概要

紀元前221年始皇26年)、秦がを滅ぼして中国を統一すると、天下を36の郡に分けたが、このとき瑯琊郡が置かれた。郡治は瑯琊県に置かれた。

前漢のとき、琅邪郡は徐州に属し、東武不其海曲贛楡朱虚梧成霊門姑幕虚水臨原琅邪雩叚黔陬計斤皋虞平昌長広東莞魏其茲郷高広高郷即来武郷伊郷新山高陽崑山参封折泉博石房山慎郷駟望安丘高陵臨安石山の51県を管轄した。『漢書』によれば前漢末に22万8960戸、107万9100人があった[1]

王莽のとき、填夷郡(ちんいぐん)と改称された[2]

後漢が建国されると、琅邪郡の称にもどされた。41年建武17年)、光武帝の子の劉京が琅邪王に封じられると、琅邪郡は琅邪国に改められ、開陽県に郡治が置かれた。開陽・東武・琅邪・東莞・西海・諸・東安陽都臨沂即丘・姑幕の13県を管轄した[3]

のとき、琅邪国は開陽・臨沂・陽都・繒・即丘・・東安・蒙陰の9県を管轄した[4]

南朝宋のとき、琅邪郡は費・即丘の2県を管轄した[5]

北魏のとき、琅邪郡は北徐州に属し、即丘・費の2県を管轄した[6]

北周のとき、北徐州は沂州と改称され、琅邪郡は沂州に属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、琅邪郡は沂州と改められた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、沂州は琅邪郡と改称された。臨沂・費・顓臾新泰・沂水・東安・莒の7県を管轄した[7]

621年武徳4年)、徐円朗が唐に滅ぼされると、琅邪郡は唐の沂州となった。742年天宝元年)、沂州は琅邪郡と改称された。758年乾元元年)、琅邪郡は沂州と改称され、琅邪郡の呼称は姿を消した[8]

関連項目

脚注

  1. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、334-338頁。
  2. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、334頁。
  3. ^ 後漢書』郡国志三
  4. ^ 晋書』地理志下
  5. ^ 宋書』州郡志一
  6. ^ 魏書』地形志二中
  7. ^ 隋書』地理志中
  8. ^ 旧唐書』地理志一