「釈迦」の版間の差分
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シッダールタはシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った{{要出典|date=2017年10月27日 (金) 03:54 (UTC)|title=}}。16歳または19歳で{{要出典範囲|母方の従妹の|date=2017年10月27日 (金) 03:54 (UTC)|title=}}[[ヤショーダラー]]と結婚し、跡継ぎ息子として[[摩睺羅伽]]1人のみをもうけた{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=595-599}}。[[仏画]]や[[仏像]]の[[釈迦如来]]像の造形の参考になるブッダの[[三十二相]](リンク先の三十二相の記事を参考)は[[男性器]][[陰部]]の形が体の中に隠れている。[[女性器]]のような姿をした男性として伝えられている。<ref>『ブッダのいのちの言葉』107ページの釈迦三十二面相の記述</ref> |
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これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、[[ |
これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、[[摩睺羅伽]]、[[アーナンダ]]、[[阿那律|アニルッダ]]、[[提婆達多|デーヴァダッタ]] 、また[[シュードラ]]の出身である[[優波離|ウパーリ]]が先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、[[ガンジス河]]を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえば[[クル国]]のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、[[ヴァンサ国]]の[[コーサンビー]]などである。成道後14年目の安居はコーサラ国の[[舎衛城|シュラーヴァスティー]]の[[祇園精舎]]で開かれた。 |
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このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんど[[ガンジス河|ガンジス]]中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。 |
このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんど[[ガンジス河|ガンジス]]中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。 |
2020年8月21日 (金) 08:51時点における版
釈迦 | |
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サールナート考古博物館のブッダ像 | |
生地 | コーサラ国カピラヴァストゥ |
没地 | マッラ国クシナガラ |
弟子 |
舎利弗・摩訶目犍連・摩訶迦葉 須菩提・富楼那弥多羅尼子 摩訶迦旃延・阿那律・優波離 羅睺羅・阿難 |
釈迦 | |||||||||||||||||||||
中国語 | |||||||||||||||||||||
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中国語 | 釋迦牟尼 | ||||||||||||||||||||
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朝鮮語 | |||||||||||||||||||||
ハングル | 석가모니 | ||||||||||||||||||||
漢字 | 釋迦牟尼 | ||||||||||||||||||||
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ベトナム語 | |||||||||||||||||||||
クオック・グー | Tất-đạt-đa Cồ-đàm | ||||||||||||||||||||
チュノム | 悉達多瞿曇 | ||||||||||||||||||||
タイ語 | |||||||||||||||||||||
タイ語 | พระโคตมพุทธเจ้า | ||||||||||||||||||||
RTGS | Phra Khotama Phuttha Chao | ||||||||||||||||||||
インドネシア語 | |||||||||||||||||||||
インドネシア語 | Siddhartha Gautama | ||||||||||||||||||||
ビルマ語 | |||||||||||||||||||||
ビルマ語 | ဂေါတမ ဗုဒ္ဓ | ||||||||||||||||||||
ヒンディー語 | |||||||||||||||||||||
ヒンディー語 | गौतम बुद्ध |
釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀前後の北インドの人物で、仏教の開祖である。姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(梵: गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha[1][2])、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ[3](巴: Gotama Siddhattha)とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である[2][注釈 1]。
名前と呼称
「釈迦」
シャーキヤ(梵: शाक्य Śākya)は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族[1]またはその領国であるシャーキヤ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキヤを音写[1]したものであり、旧字体では釋迦である[4]。
シャーキヤムニ(梵: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリットで「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼(しゃかむに)[5]を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった[1]。
姓名
パーリ仏典では、釈迦の父方の従兄弟・アーナンダもゴータマと呼ばれており、釈迦の母のマーヤーと母方の叔母で養母のマハー・プラジャーパティーはゴータマの女性形であるゴータミー(巴: Gotamī)と呼ばれている[6][7][8]。
ガウタマはアンギーラサ族(巴: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓(ゴートラ)であり、この姓を持つ一族のヴァルナはバラモンである。したがって、クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不可解であり、「先祖が養子だった」など諸説ある[9]。
名のシッダールタは、古い仏典に言及がなく意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられたもので本名ではない、という説がある[10][11]。
尊称・敬称・異名
ブッダ(梵: बुद्ध buddha)は、「目覚める」を意味するブドゥ(梵: बुध् budh)に由来し、「目覚めた人」という意味である[3][注釈 2]。もともとインドの宗教一般において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称であったが、仏教で用いられ釈迦の尊称となった[12]。このため、ゴータマ・ブッダ[3]ともいう。漢訳の音写は仏陀、旧字体では佛陀であり、意訳は覚者である。仏陀の略称が仏であり、「仏教」や「仏像」などの用語はこの尊称に由来する[13]。
釈迦の異名は多くあるが、その中でも十号がよく知られている[14]。
タターガタ(梵: तथागत tathāgata)は、「そのように来た者」または「そのように行った者」[15]を意味する釈迦の尊称である。音写は多陀阿伽度、意訳は如来であり[16][17]、釈迦如来ともいう。またバガヴァント(梵: भगवन्त् Bhagavant)は、世の中で最も尊い者を意味する釈迦の尊称であり[18]、漢訳は世尊である[18]。
仏教では、釈迦牟尼仏[19][20]、釈迦牟尼如来[19]、釈迦牟尼世尊[21]としたり、またそれらを省略して、釈尊[2]、牟尼[22]、釈迦尊、仏様、お釈迦様と呼ぶ。
生涯
誕生から青年期
釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキヤのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである[23]。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中に、カピラヴァストゥ郊外のルンビ二で子を産んだ[2][注釈 3]。この誕生に関して、釈迦はマーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』と言った(八正成道(はっしょうじょうどう)のうち降誕もしくは出胎)と物語られている[24]。マーヤーは出産した7日後に死んだ[25]。この子はシッダールタと名付けられた[23]。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、シッダールタはマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた[2][23][注釈 4]。
シッダールタはシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った[要出典]。16歳または19歳で母方の従妹の[要出典]ヤショーダラーと結婚し、跡継ぎ息子として摩睺羅伽1人のみをもうけた[2]。仏画や仏像の釈迦如来像の造形の参考になるブッダの三十二相(リンク先の三十二相の記事を参考)は男性器陰部の形が体の中に隠れている。女性器のような姿をした男性として伝えられている。[26]
出家
当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた[要出典]。
釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある[2]。ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時に老人に会い、南門より出る時に病人に会い、西門を出る時に死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)[要出典]。北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった[要出典]。
シッダールタは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常や苦を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した[2]。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜にシッダールタは王城を抜け出した[2]。当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った[2]。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った[27]。シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[2]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った[27][2][28]。
そしてウルヴェーラーの林へ入ると、父のシュッドーダナは、シッダールタの警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)を同行させた。その後6年の間に様々な苦行を行った[2][28]。釈迦が生きた時代にインドにあったバラモン教の苦行信仰の影響から様々な修行や瞑想行為をした。[29]仏教徒が仏教の教祖として神格化した仏典の内容では、出家した29歳から仏になる35歳までにブッダが行ったとされる激しい修行行為の苦行の内容では以下となっている。『しばらく息を止める修行を行った』『太陽の直射日光を浴びる修行を行った』『座ろうとすれば後ろへ倒れ立とうとすれば前に倒れたり片足立ちをするなどの激しい肉体運動など厳しい修行を行った』など断食思想の影響で食欲を抑制しても健康な身体と強い精神力があったなど、大村大次郎が研究した仏教の著書では現実の人間では不可能な事であり、他に性行為をしないで子供の父親になったなどの仏教徒の信仰があり、釈迦を神格化した仏教伝説にすぎないとしている。断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした。断食行為は心身を極度に消耗するのみであり、シッダールタの身体は骨と皮のみとなり、やせ細った肉体となっていた[30]。しかしスジャータの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ってシッダールタは苦行をやめた(苦行放棄)[2]。その際、五人の沙門はシッダールタを堕落者と誹り[2]、[28]彼をおいてワーラーナシーのサールナートへ[要出典]去った[2]。
悟り
35歳のシッダールタは、ガヤー地区のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け[4][2]、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)[2][注釈 5]。
この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、[要出典]悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって[要出典]考えた[2]。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った[31][32]。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)[32][31]。3度の勧請の末[31]、釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した[32][注釈 6]。
釈迦はまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると[28]、ともに苦行をしていた五人の沙門に説くことにした[28]。釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。[要出典]
ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五人の沙門に対して中道、四諦と八正道を説いた(初転法輪)[2][31][28]。五人は、当初はシッダールタは苦行を止めたとして蔑んでいたが[28]、説法を聞くうちに悟りを得て比丘(五比丘)となった[2]。最初の阿羅漢はコーンダンニャであった[31]。法を説き終えて、釈迦は「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。[要出典]
教化と伝道
釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の神通力を目の当たりにして改宗した[34]。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。
釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。
釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した[34]。このころシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが改宗した。
以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。
これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、摩睺羅伽、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、ヴァンサ国のコーサンビーなどである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。
このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。
死までの1年間
死後の世界
弟子の一人が『人間は死んだ後に一体どうなるのですか』霊界や死後への疑問を釈迦に尋ねたら『死後の世界を思考するな。今世の今を大切に生きよ』と死後の世界より今世の今を重視する教えを弟子に話していた。[35] これは釈迦が称えた因果論と輪廻転生からの解脱思想の延長である。ブッダの思想では死後を含めた未来というのは現在の生きている時の行いで未来や死後の世界を決めると思考していた。釈迦は今現在の生き方が死後の世界と解脱を決めると思考していた。
最晩年の記録
釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。
シャーキャ国の滅亡
涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになった。
このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィドゥーダバが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。
ヴィドゥーダバは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。 その後、このヴィドゥーダバも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。
釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。
自灯明・法灯明
釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(巴: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。
釈迦はこのパータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、
「 | 比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には、(弟子に何かを隠すというような)教師の握り拳(ācariyamuṭṭhi、秘密の奥義)はない。[36] | 」 |
と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。
「 | アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように[37] | 」 |
と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、
「 | ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassī)、熱心につとめ(ātāpī)、明確に理解し(sampajāno)、よく気をつけていて(satimā)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[38] | 」 |
「 | アーナンダよ、このようにして、比丘は自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである[39] | 」 |
として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。
これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。
入滅
やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[40]。
托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。
釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。80歳没。
「 |
悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。[41][42] |
」 |
仏教では死を入滅、釈迦の入滅を仏滅と言う。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。
死後
釈迦の死後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。
その八大国とは、
- クシナーラーのマッラ族
- マガダ国のアジャタシャトゥル王
- ベーシャーリーのリッチャビ族
- カピラヴァストゥのシャーキャ族
- アッラカッパのプリ族
- ラーマ村のコーリャ族
- ヴェータデーバのバラモン
- バーヴァーのマッラ族
である。
弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。
生涯についての歴史学的検証
文献
釈迦の生涯を伝える経典
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。
- 修行本起経 〔大正・3・461〕
- 瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
- 過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
- 中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。
- 仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
- 仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
- 十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。
- 方広大荘厳経(普曜経) - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている[要出典]。
- 仏所行讃 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴著
- マハーヴァストゥ
- 遊行経 『長阿含経』中
- 仏般泥洹経 白法祖訳
- 大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
- 『自説経(ウダーナ)』 - パーリ語による仏典[注釈 7]。
検証
釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で、仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。
おびただしい数の仏典のうち、いずれが古層であるかについて、中村元はパーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[43]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。
しかし、釈迦の伝記としての仏伝はこれと成立時期が異なるものも多く、歴史学の常ではあるが、伝説なのか史実なのか区別が明確でない記述もある。
釈迦はインド大陸の北方にあった十六大国時代の一つコーサラ国の部族シャーキャ族の出身であるのは確実で、釈迦自身が、パセーナディ王とのやりとりの中でシャーキャ族をコーサラ国の住民であると語っている[44]。
遺跡
ルンビニ
1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラーがネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。
カピラヴァストゥ
シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教にとってかわられ、それらの宗教のもとにあったインドやネパールの国家では釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。
ネパール中南部のティロリコートと、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワーの両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って異なった見解が唱えられ論争になっている。
1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている[45]。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている[46]。
生没年
釈迦の没年は、アショーカ王の即位年(紀元前268年ごろ)を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に北伝仏教と南伝仏教の経典で100年以上の差があるが、いずれが正確であるかを具体的に確認する術はない[注釈 8]。
日本の宇井伯寿や中村元は北伝仏教の経典に基づき、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国や欧米の学者の多くは南伝仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。
主な推定生没年は、
- 紀元前1029年 - 紀元前949年 : 道元が著わした「正法眼蔵」による説
- 紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝仏教による説
- 紀元前565年 - 紀元前486年 : 北伝仏教の『衆聖点記』による説 ※数え年で80歳、満年齢で79年間となる
- 紀元前466年 - 紀元前386年 : 宇井説
- 紀元前463年 - 紀元前383年 : 中村説
等があるが、他にも様々な説がある[注釈 9]。
なお、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された[49]。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。ただし、問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある[50]。
評価
宗教
上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとする。
釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派のプラーナ文献に釈迦はヴィシュヌのアヴァターラとして描写されている。ただし、ヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ、必ずしも肯定的な評価ではない。
この件に関して、20世紀に新仏教運動を興したアンベードカルはヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している[51]。一方で、新ヴェーダーンタ学派のサルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、『法句経』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッドから派生したもの、と評価している[52]。なお、インド憲法でも仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている[53]。
マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。
マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[54]あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[55]としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。釈迦はマルコ・ポーロの時代より1世紀前に、ローマ教会よりインドの聖ジョサファットの名で聖人として加えられていたが、マルコ・ポーロはそんな事はまったく知らなかった[56]。
釈迦の像
仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。
ラホール博物館[57](ラホール)には苦行する釈迦の像が所蔵されている[58]。
釈迦を題材にした作品
小説
漫画
映画
- 『亜細亜の光』 (原題: "DIE LEUCHTE ASIENS" 1925年、ドイツ)
- 『釈迦』 (1961年、大映 釈迦役: 本郷功次郎)
- 『リトル・ブッダ』(1993年、アメリカ 釈迦役: キアヌ・リーブス)
音楽
演劇
- ニコス・カザンザキス 『仏陀』
脚注
注釈
- ^ 名の漢訳は悉達多のほかに悉多もある[2]。
- ^ ブッダの尊称を漢訳したのが「覚王」である(覚王山日泰寺の名称の由来ともなった)。
- ^ シャーキャ族が当時住んでいた地域は、現代ではネパールに属する[2]。
- ^ 当時は姉妹婚の風習があり[23]、マハープラージャーパティはシュッドーダナの後妻となった[2]。
- ^ 後世では、悟りに至るまでに様々な誘惑を斥けていく過程を、悪魔を降伏させるのにたとえて降魔ともいう[2]。
- ^ 釈迦の教えは、一切衆生の救済を対象とするものではなかった[33]
- ^ 日本語訳:小部経典3:ウダーナ
- ^ 南北両伝の間には約100年の違いがあるが、これを会通し、万人を納得せしめる結論を導き出すことは、現在としては不可能である。[47]
- ^ 仏滅年代論については、異説が極めて多く、100種以上ある。[48]
出典
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Sāmodati kāmaguṇehi pañcahi, parivāritā devagakhehi tehi. - ^ en:Paul Carus, The Gospel of Buddha, Compiled from Ancient Records, p. 281, - Google ブックス Pajāpatī, p., Prajāpatī or Mahā-Prajāpatī, skt., the sister of Māyā-devī, second wife of Shuddhodana, aunt and fostermother of Buddha. She is also called by her husband's family name Gotami (feminine form of Gotama).
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- ^ 春日井真也, インド仏教文化の学際的研究, p. 199, - Google ブックスまたシッダールタ(悉達多)は釈尊の個人名であったと一般に伝えられているが、それは「目的を達成せる」「義を成した」という意味であるが、古い聖典にはこの名は現れて来ないので、後代の信者達が奉った尊称ではないかという疑いをもたれるのである。
- ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 702.
- ^ 以下ではブッダの音写として、佛陀、浮陀、浮圖、浮頭、勃陀、勃馱、部陀、母陀、没馱が、意訳として覺者と智者が挙げられている。
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参考文献
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- 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』法蔵館、1988年1月。ISBN 4831870609。
- 廣澤隆之 監修『一冊でわかるイラストでわかる図解仏教』成美堂出版、2014年。ISBN 9784415111865。
- 櫻部建『倶舎論』大蔵出版、1981年。ISBN 978-4-8043-5441-5。
関連文献
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- 中村元『ゴータマ・ブッダ 原始仏教2 2』春秋社〈決定版 中村元選集 第12巻〉、1992年5月。ISBN 4-393-31212-0。
- 中村元『釈尊の生涯』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2003年9月。ISBN 4-582-76478-9 。
- 並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版、2005年12月。ISBN 4-8043-0563-7。
- 並川孝儀『スッタニパータ 仏教最古の世界』岩波書店〈書物誕生〉、2008年12月18日。ISBN 4-00-028285-9 。
- 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダ』春秋社、1999年5月。ISBN 4-393-13297-1。
- 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダの仏教』春秋社、2003年12月。ISBN 4-393-13514-8。
- 早島鏡正『ゴータマ・ブッダ』講談社〈講談社学術文庫〉、1990年4月。ISBN 4-061-58922-9。
- 増谷文雄『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯/ブッダ・ゴータマの弟子たち』佼成出版社〈増谷文雄名著選〉、2006年2月。ISBN 4-333-02193-6 。
- 水野弘元『釈尊の生涯』(新装版)春秋社、1985年6月。ISBN 4-393-13701-9。
- 水野弘元『原始仏教入門 釈尊の生涯と思想から』佼成出版社、2009年8月。ISBN 978-4-333-02395-0。 - 『釈尊の生涯と思想』 (平成元年刊) の新装改題版。
- 宮元啓一『仏教誕生』筑摩書房〈ちくま新書〉、1995年12月。ISBN 4-480-05653-X。
- 宮元啓一『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実』光文社〈光文社文庫 グラフィティにんげん謎事典〉、1998年8月。ISBN 4-334-72670-4。
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- 宮元啓一『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む』春秋社、2005年11月。ISBN 4-393-13537-7。
- 渡辺照宏『新釈尊伝』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2005年8月。ISBN 4-480-08928-4。
- 中村元 ; 三枝充悳『バウッダ(佛教)』講談社学術文庫、2009年。ISBN 978-4062919739。
- Oldenburg, Hermann (1882). Buddha: His Life, His Doctrine and His Order. Williams and Norgate
関連項目
- 弥勒菩薩 - 釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏
- 地蔵菩薩 - 弥勒菩薩が現れるまで六道すべての世界に現れる菩薩
- シッダ - インドの宗教・文化で使用される修行によって悟り、神通力、究極的な肉体と精神を得た者。サンスクリットで意味は「完成した者」、もしくは「達成した者」
- 灌仏会(花まつり)
- 成道会
- 涅槃会
- ウェーサーカ祭
- 仏教美術
- 釈迦十大弟子
- 釈迦頭 - 果物
- ヴィパッサナー瞑想
- 覚王山日泰寺 - 釈迦の遺骨が安置されている。
外部リンク
- 釈迦 - 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
- 世界大百科事典 第2版『釈迦』 - コトバンク
- 中央学術研究所 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究
- The Buddhist's Resource[疑問点 ]
- Buddha - スタンフォード哲学百科事典「釈迦」の項目。