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彼は生来聡明であったのでバラモンの跡継ぎとして期待されながら[[ヴェーダ|ヴェーダ聖典]]を着実に修めていたが、次第に[[バラモン教]]への不信感を募らせるようになり、隣の村に住んでいた親友の[[目連]]と共にバラモン教にとらわれず自由に思考を巡らせて真実の理法を求める[[出家|出家修行者]]、すなわち[[沙門]]になった。初め二人は王舎城で名を馳せていた自由思想家([[六師外道]])の一人、不可知論者[[サンジャヤ・ベーラッティプッタ]]に師事する。舎利弗はすぐにサンジャヤの教義を体得してサンジャヤ教団の高弟となったが、ある日、[[釈迦]]の弟子の一人[[阿説示|アッサジ(阿説示)]]と出会い、アッサジを通じて釈迦の教えの一部<ref>そのとき[[阿説示]]が舎利弗に語ったのが「[[縁起法頌]]」だとされる。『縁起法頌・・・諸法は因より生じる。それら諸法の因を如来は説いた。また、それら諸法の滅をも。大沙門はこのように説きたもう。(律蔵『大品』)』 </ref>を聞いたとたんに[[四向四果|預流果]](悟りの最初の段位)に達したと伝えられる。舎利弗は目連と相談して釈迦教団への改宗を決断すると、サンジャヤ教団の弟子信徒250人も二人に追従してサンジャヤの下を離れて、釈迦仏に帰依した。王舎城で名声と勢力を誇っていたサンジャヤ教団から高弟2人と徒弟250人が離脱したことに対する世間の動揺も大きく、釈迦教団の存在が知れ渡る一因にもなった。
彼は生来聡明であったのでバラモンの跡継ぎとして期待されながら[[ヴェーダ|ヴェーダ聖典]]を着実に修めていたが、次第に[[バラモン教]]への不信感を募らせるようになり、隣の村に住んでいた親友の[[目連]]と共にバラモン教にとらわれず自由に思考を巡らせて真実の理法を求める[[出家|出家修行者]]、すなわち[[沙門]]になった。初め二人は王舎城で名を馳せていた自由思想家([[六師外道]])の一人、不可知論者[[サンジャヤ・ベーラッティプッタ]]に師事する。舎利弗はすぐにサンジャヤの教義を体得してサンジャヤ教団の高弟となったが、ある日、[[釈迦]]の弟子の一人[[阿説示|アッサジ(阿説示)]]と出会い、アッサジを通じて釈迦の教えの一部<ref>そのとき[[阿説示]]が舎利弗に語ったのが「[[縁起法頌]]」だとされる。『縁起法頌・・・諸法は因より生じる。それら諸法の因を如来は説いた。また、それら諸法の滅をも。大沙門はこのように説きたもう。(律蔵『大品』)』 </ref>を聞いたとたんに[[四向四果|預流果]](悟りの最初の段位)に達したと伝えられる。舎利弗は目連と相談して釈迦教団への改宗を決断すると、サンジャヤ教団の弟子信徒250人も二人に追従してサンジャヤの下を離れて、釈迦仏に帰依した。王舎城で名声と勢力を誇っていたサンジャヤ教団から高弟2人と徒弟250人が離脱したことに対する世間の動揺も大きく、釈迦教団の存在が知れ渡る一因にもなった。


釈迦の弟子となった舎利弗はすぐに最高の[[悟り]]を得て教団の上首となった。釈迦からの信任も厚く、時には釈迦に代わって説法を委ねられることもあり、釈迦の実子である[[羅羅|羅睺羅(ラーフラ)]]の[[和尚|師僧]]も任されていた。またある時、教団の上首の一人[[提婆達多|デーヴァダッタ(提婆達多)]]が法臈の浅い比丘500人を引き連れ象頭(ガヤ)山に籠り釈迦教団からの分離独立を謀った事件(破和合僧罪)では、そこに舎利弗が出向いて説法をしたことによって下臈の比丘たちを挽き戻すことに成功しており、その際、彼が説法をした時に起きた[[ブロッケン現象]]に比丘たちが驚いたことが引き戻る契機になったともいわれる。
釈迦の弟子となった舎利弗はすぐに最高の[[悟り]]を得て教団の上首となった。釈迦からの信任も厚く、時には釈迦に代わって説法を委ねられることもあり、釈迦の実子である[[羅羅|羅睺羅(ラーフラ)]]の[[和尚|師僧]]も任されていた。またある時、教団の上首の一人[[提婆達多|デーヴァダッタ(提婆達多)]]が法臈の浅い比丘500人を引き連れ象頭(ガヤ)山に籠り釈迦教団からの分離独立を謀った事件(破和合僧罪)では、そこに舎利弗が出向いて説法をしたことによって下臈の比丘たちを挽き戻すことに成功しており、その際、彼が説法をした時に起きた[[ブロッケン現象]]に比丘たちが驚いたことが引き戻る契機になったともいわれる。


舎利弗と目連の二大弟子は、釈迦よりも年長ではあったものの教団の後継者になるであろう人物として注目されていた。しかし最有力とされた目連が外道に撲殺されてしまい、相次いで舎利弗もまた晩年に重い病に罹ると、釈迦の許しを得て侍者チュンダとともにナーラカ村({{lang|pi|Nālakagāma}})<ref name="Rupasari" />に帰郷し、母に看取られながら病没した<ref>[[田上太秀]] (監修)『[https://books.google.co.jp/books?id=7XSZAwAAQBAJ&pg=PA102&lpg=PA102&source=bl&ots=Lcz1vRuTWe&sig=wTt_QgoIlgdxDV_PK-irhfC4WBU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjvzumjiaLQAhVKVbwKHSqxAJMQ6AEIHzAB#v=onepage&q&f=false いちばんやさしい ブッダの教え]』、[[西東社]]、2014年5月、ISBN 978-4791622870、pp. 102-103</ref>。実際に[[仏滅|釈迦の入滅後]]に教団の後継者となったのは十大弟子の頭陀第一と称された[[大迦葉|摩訶迦葉]]であった。
舎利弗と目連の二大弟子は、釈迦よりも年長ではあったものの教団の後継者になるであろう人物として注目されていた。しかし最有力とされた目連が外道に撲殺されてしまい、相次いで舎利弗もまた晩年に重い病に罹ると、釈迦の許しを得て侍者チュンダとともにナーラカ村({{lang|pi|Nālakagāma}})<ref name="Rupasari" />に帰郷し、母に看取られながら病没した<ref>[[田上太秀]] (監修)『[https://books.google.co.jp/books?id=7XSZAwAAQBAJ&pg=PA102&lpg=PA102&source=bl&ots=Lcz1vRuTWe&sig=wTt_QgoIlgdxDV_PK-irhfC4WBU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjvzumjiaLQAhVKVbwKHSqxAJMQ6AEIHzAB#v=onepage&q&f=false いちばんやさしい ブッダの教え]』、[[西東社]]、2014年5月、ISBN 978-4791622870、pp. 102-103</ref>。実際に[[仏滅|釈迦の入滅後]]に教団の後継者となったのは十大弟子の頭陀第一と称された[[大迦葉|摩訶迦葉]]であった。
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== 関連項目 ==
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* [[十大弟子]]('''シャーリプトラ'''/[[目連|'''モッガラーナ''']]/[[大迦葉|大カッサパ]]/[[須菩提|スブーティ]]/[[富楼那|プンナ]]/[[迦旃延|大カッチャーナ]]/[[阿那律|アヌルッダ]]/[[優波離|ウパーリ]]/[[羅羅|ラーフラ]]/[[阿難|アーナンダ]])
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* [[バラモン|婆羅門]]
* [[バラモン|婆羅門]]

2020年8月21日 (金) 08:45時点における版

舎利弗

Śāriputra、Śāradvatīputra(梵)

Sāriputta(巴)
幼名 優波抵沙(ウパティッサ)
尊称 智慧第一
生地 マガダ国ナーランダ
没地 マガダ国ナーランダ
宗派 声聞初期仏教

サンジャヤ・ベーラッティプッタ(六師外道)

釈迦仏(仏教)
弟子 羅睺羅、堅満菩薩
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舎利弗(しゃりほつ、:ŚāriputraŚāradvatīputra[1] शारिपुत्र、शारद्वतीपुत्र シャーリプトラ、シャーラドヴァティープトラ、: Sāriputta सारिपुत्त サーリプッタ)は古代インド修行僧であり、仏教の開祖釈迦仏十大弟子の一人である。

原語名シャーリプトラのシャーリ(サーリ)は母親の名前「シャーリー(鶖鷺)」から取られており、プトラ(プッタ)は「息子」を意味するため、漢訳では舎利子(しゃりし)や鶖鷺子(しゅうろし)とも表記される。

舎利弗は釈迦の直弟子の中でも上首に座した。特に十大弟子の筆頭に挙げられ智慧第一と称され、親友かつ修行者として同期であった神通第一の目連(モッガラーナ)と併せて二大弟子とも呼ばれる。

生涯

舎利弗は北インドのマガダ国の首都王舎城(ラージャグリハ)北部のナーラカ村出身で司祭階級(バラモン)の家柄であり、幼名はウパティッサ(: Upatissa[2]といった。

彼は生来聡明であったのでバラモンの跡継ぎとして期待されながらヴェーダ聖典を着実に修めていたが、次第にバラモン教への不信感を募らせるようになり、隣の村に住んでいた親友の目連と共にバラモン教にとらわれず自由に思考を巡らせて真実の理法を求める出家修行者、すなわち沙門になった。初め二人は王舎城で名を馳せていた自由思想家(六師外道)の一人、不可知論者サンジャヤ・ベーラッティプッタに師事する。舎利弗はすぐにサンジャヤの教義を体得してサンジャヤ教団の高弟となったが、ある日、釈迦の弟子の一人アッサジ(阿説示)と出会い、アッサジを通じて釈迦の教えの一部[3]を聞いたとたんに預流果(悟りの最初の段位)に達したと伝えられる。舎利弗は目連と相談して釈迦教団への改宗を決断すると、サンジャヤ教団の弟子信徒250人も二人に追従してサンジャヤの下を離れて、釈迦仏に帰依した。王舎城で名声と勢力を誇っていたサンジャヤ教団から高弟2人と徒弟250人が離脱したことに対する世間の動揺も大きく、釈迦教団の存在が知れ渡る一因にもなった。

釈迦の弟子となった舎利弗はすぐに最高の悟りを得て教団の上首となった。釈迦からの信任も厚く、時には釈迦に代わって説法を委ねられることもあり、釈迦の実子である羅睺羅(ラーフラ)師僧も任されていた。またある時、教団の上首の一人デーヴァダッタ(提婆達多)が法臈の浅い比丘500人を引き連れ象頭(ガヤ)山に籠り釈迦教団からの分離独立を謀った事件(破和合僧罪)では、そこに舎利弗が出向いて説法をしたことによって下臈の比丘たちを挽き戻すことに成功しており、その際、彼が説法をした時に起きたブロッケン現象に比丘たちが驚いたことが引き戻る契機になったともいわれる。

舎利弗と目連の二大弟子は、釈迦よりも年長ではあったものの教団の後継者になるであろう人物として注目されていた。しかし最有力とされた目連が外道に撲殺されてしまい、相次いで舎利弗もまた晩年に重い病に罹ると、釈迦の許しを得て侍者チュンダとともにナーラカ村(Nālakagāma)[4]に帰郷し、母に看取られながら病没した[5]。実際に釈迦の入滅後に教団の後継者となったのは十大弟子の頭陀第一と称された摩訶迦葉であった。

家族

彼の親族や兄弟、またそれらの名前などは諸経によって差異がある。それぞれ、

  1. 父ヴァンガンタ(Vanganta)[6]、母ルーパサーリー(Rūpasārī)[4]の下に、男子がウパティッサ(舎利弗)、ウパセーナ(Upasena)、マハーチュンダ(Mahācunda)、末弟レーヴァタ・カディラヴァニヤ(Revata Khadiravaniya, 離婆多[7]、女子が妹チャーラー(Cālā)[8]、ウパチャーラー(Upacālā)[9]、シスーパチャーラー(Sisūpacālā)[10]という7人の兄弟姉妹であった。(ダンマパダやテーラガーターの説)。
  2. 父・檀嬢耶那(檀那達多、ダーニャヤナ)の下に、優波低須(舎利弗)、大膝(摩訶・倶絺羅)、純陀(仏入滅時の純陀とは別人)、姜叉頡利拔多(レーヴァタ)、闡陀、閻浮呵迦、憍陳尼、蘇達離舎那の八男、また一女・蘇尸弥迦がいたとする。(『仏本行集経』47の説)
  3. 父母記載なし、長男から順に、達摩、蘇達摩、優波達摩、抵沙、優波抵沙(舎利弗)、頡利拔多、優波波離拔多とする。(摩訶僧祇師説の説による)
  4. 父・底沙、母・鸚鵡、祖父・摩吒羅、鄔波低沙(舎利弗)とする。(有部出家事の説)
  5. 母サーリーの子に、ダルマ、ウパダルマ、サタダルマ、シャハスラダルマ、ティッシャ、ウパティッシャ(舎利弗)とする。(マハーヴァストゥの説)

なお、

  • 有部出家事、『大智度論』は摩訶・倶絺羅を長爪梵士として、舎利弗の叔父とする。
  • 『仏本行集経』では大膝(倶絺羅)を舎利弗の弟とする。
  • パーリ語文献では、摩訶倶絺羅を長爪梵士と関係せしめず、長爪を舎利弗の甥とする。
  • テーリーガーター(長老尼偈)では、チャーラー、ウパチャーラー、シスーパチャーラーは皆、釈迦仏に帰依し、比丘尼として出家したとされる。

大乗経典の舎利弗

般若波羅蜜多心経』 2行目と3行目に「舎利子」の文字がある。

般若経』などの大乗経典において、舎利弗は声聞乗(śrāvakayāna)[11]の代表者、聴衆の代弁者として、菩薩と対話をする役割を担う人物として登場することが多い。

  • 法華経』の第三章「譬喩品」において、舎利弗は釈迦牟尼仏から作仏の記別を授かった。曰く舎利弗は、延々と未来世においても修行に励み続けて、その最末後(凡夫としての最後の転生)において一国の王子として生まれてもなおすべてを投げ棄て出家修行すると、ついに成仏を果たして「華光」(けこう, 梵:Padma-prabha パドマプラバ[12])という名のに作(な)ることが予言されている。華光如来の浄土は「離垢」、その時代は「大宝荘厳」と号される。華光如来の後継となる弟子は堅満菩薩(Dhṛti-paripūrṇa ドリティパリプールナ)といい、彼もまた華足安行仏(Padma-vṛṣabha-vikrāmi パドマヴリシャバヴィクラーミン[13])と呼ばれる仏に成るという。


関連項目

脚注

  1. ^ 蒋忠新, 大江平和「梵文法華経のテキストに関する若干の問題 (特集 「法華経」とシルクロード)」『東洋学術研究』第38巻第1号、東洋哲学研究所、1999年5月、184-170頁、ISSN 02876086NAID 40002651597 
  2. ^ 1. Sāriputta Thera - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  3. ^ そのとき阿説示が舎利弗に語ったのが「縁起法頌」だとされる。『縁起法頌・・・諸法は因より生じる。それら諸法の因を如来は説いた。また、それら諸法の滅をも。大沙門はこのように説きたもう。(律蔵『大品』)』
  4. ^ a b Rūpasārī - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  5. ^ 田上太秀 (監修)『いちばんやさしい ブッダの教え』、西東社、2014年5月、ISBN 978-4791622870、pp. 102-103
  6. ^ Vanganta - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  7. ^ 3. Revata (called Khadiravaniya) - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  8. ^ 1. Cālā Therī - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  9. ^ 1. Upacālā - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  10. ^ Sīsupacalā Therī - Buddhist Dictionary of Pali Proper Names
  11. ^ 小乗(hīnayāna)とも呼ばれるが、ヒーナ(hīna)は「打ち捨てられた、卑しい」を意味し、蔑称であることに注意。
  12. ^ 「紅蓮の光輝をもつ者」の意。『妙法蓮華経』では「華光如来」、『正法華経』では「蓮華光如来」と漢訳される。(坂本幸雄・岩本裕 訳注 『法華経(上)』ワイド版岩波文庫41,岩波書店,1991年6月26日,393頁)
  13. ^ 「堅満」は「決心を完全に成就した者」の意。「華足安行」は「紅蓮地獄を雄々しく越えて行く者」の意であり、『正法華経』では「度蓮華界」と漢訳される。(坂本・岩本『法華経(上)』,394頁)

外部リンク