「梁郡」の版間の差分
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2020年8月21日 (金) 08:42時点における版
梁郡(りょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の河南省東部と安徽省北部にまたがる地域に設置された。
概要
秦の碭郡を前身とした。
紀元前202年(前漢の高帝5年)、彭越がこの地に封じられ、梁国が立てられた。紀元前196年(高帝11年)、梁王彭越が謀反の罪で処断されると、高祖の子の劉恢が梁王に封じられた[1]。後に呂産や劉揖が入封した。梁国は豫州に属し、碭・甾・杼秋・蒙・己氏・虞・下邑・睢陽の8県を管轄した。王莽のとき、陳定郡と改められた[2]。
新末に梁王劉永が割拠すると、梁国の称にもどされた。29年(後漢の建武4年)、劉永の子の劉紆が殺害されて、光武帝が梁国を平定する[3]と、梁郡に改められた。79年(建初4年)、汝南王劉暢が梁王に封じられ、再び梁国が立てられた[4]。梁国は下邑・睢陽・虞・碭・蒙・穀熟・己氏・寧陵・薄の9県を管轄した[5]。
曹魏が建てられると、梁国は廃止され、梁郡に改められた。232年(太和6年)、元城王曹悌が梁王に封じられる[6]と、また梁国が立てられた。
265年(泰始元年)、西晋が建国されると、司馬肜が梁王に封じられた[7]。梁国は睢陽・蒙・虞・下邑・寧陵・穀熟・陳・項・長平・陽夏・武平・苦の12県を管轄した[8]。
北魏のとき、梁郡は南兗州に属し、襄邑・睢陽の3県を管轄した[10]。
596年(開皇16年)、隋が宋州を立てた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、宋州は梁郡と改称された。宋城・雍丘・襄邑・寧陵・虞城・穀熟・陳留・下邑・考城・楚丘・碭山・圉城・柘城の13県を管轄した[11]。
621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、梁郡は宋州と改められ、梁郡の呼称は姿を消した[12]。