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[[前漢]]のとき、巴郡は[[益州]]に属し、[[江北区 (重慶市)|江州]]・[[忠県|臨江]]・[[涪陵区|枳]]・[[閬中市|閬中]]・[[合川区|墊江]]・[[雲陽県|朐忍]]・[[順慶区|安漢]]・[[渠県|宕渠]]・[[魚復県|魚復]]・[[西充県|充国]]・[[彭水県|涪陵]]の11県を管轄した。前漢末に15万8643戸、70万8148人があった<ref>[[班固]]『[[漢書]]』地理志第8上。[[小竹武夫]]訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、362-363頁。</ref>。 |
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[[後漢]]のとき、巴郡は江州・宕渠・朐忍・閬中・魚復・臨江・枳・涪陵・墊江・安漢・[[豊都県|平都]]・充国・[[宣漢県|宣漢]]・[[巴州区|漢昌]]の14県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志五</ref>。[[190年]]([[初平]]元年)、益州牧の[[劉璋]]が趙穎の建議を受けて巴郡を分割した。江州から臨江までの県が[[永寧郡]]となり、朐忍から魚復までの県が[[固陵郡]]となり、墊江以上の県が巴郡となり、巴郡は安漢に郡治を移した。[[201年]]([[建安 (漢)|建安]]6年)、劉璋が永寧郡を巴郡とし、固陵郡を[[巴東郡]]とし、もとの巴郡を[[巴西郡]]とした<ref>『[[華陽国志]]』巴志</ref>。ただしこの後漢末の三巴成立の経緯は、[[ |
[[後漢]]のとき、巴郡は江州・宕渠・朐忍・閬中・魚復・臨江・枳・涪陵・墊江・安漢・[[豊都県|平都]]・充国・[[宣漢県|宣漢]]・[[巴州区|漢昌]]の14県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志五</ref>。[[190年]]([[初平]]元年)、益州牧の[[劉璋]]が趙穎の建議を受けて巴郡を分割した。江州から臨江までの県が[[永寧郡]]となり、朐忍から魚復までの県が[[固陵郡]]となり、墊江以上の県が巴郡となり、巴郡は安漢に郡治を移した。[[201年]]([[建安 (漢)|建安]]6年)、劉璋が永寧郡を巴郡とし、固陵郡を[[巴東郡]]とし、もとの巴郡を[[巴西郡]]とした<ref>『[[華陽国志]]』巴志</ref>。ただしこの後漢末の三巴成立の経緯は、[[譙周]]『巴記』を引く正史の諸書に異説がみられる。 |
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[[晋 (王朝)|晋]]のとき、巴郡は[[梁州]]に属し、江州・臨江・墊江・枳の4県を管轄した<ref>『[[晋書]]』地理志上</ref>。 |
[[晋 (王朝)|晋]]のとき、巴郡は[[梁州]]に属し、江州・臨江・墊江・枳の4県を管轄した<ref>『[[晋書]]』地理志上</ref>。 |
2020年8月20日 (木) 00:24時点における版
巴郡(は-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の重慶市と四川省東部にまたがる地域に設置された。
概要
秦が巴国を滅ぼし、巴郡を置いた。
前漢のとき、巴郡は益州に属し、江州・臨江・枳・閬中・墊江・朐忍・安漢・宕渠・魚復・充国・涪陵の11県を管轄した。前漢末に15万8643戸、70万8148人があった[1]。
後漢のとき、巴郡は江州・宕渠・朐忍・閬中・魚復・臨江・枳・涪陵・墊江・安漢・平都・充国・宣漢・漢昌の14県を管轄した[2]。190年(初平元年)、益州牧の劉璋が趙穎の建議を受けて巴郡を分割した。江州から臨江までの県が永寧郡となり、朐忍から魚復までの県が固陵郡となり、墊江以上の県が巴郡となり、巴郡は安漢に郡治を移した。201年(建安6年)、劉璋が永寧郡を巴郡とし、固陵郡を巴東郡とし、もとの巴郡を巴西郡とした[3]。ただしこの後漢末の三巴成立の経緯は、譙周『巴記』を引く正史の諸書に異説がみられる。
晋のとき、巴郡は梁州に属し、江州・臨江・墊江・枳の4県を管轄した[4]。
480年(南朝斉の建元2年)、巴州が立てられ、巴東・建平・巴郡の3郡を管轄した。483年(永明元年)、巴州は廃止され、巴郡は益州の属郡に戻された[6]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、巴郡は渝州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、渝州は巴郡と改称された。巴・江津・涪陵の3県を管轄した[7]。
618年(武徳元年)、唐が郡制を廃すると、巴郡は渝州と再び改称され、巴郡の呼称は姿を消した[8]。