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当時の日本は[[貞観_(日本)|貞観]]4年([[862年]])に[[唐]]よりもたらされた[[宣明暦]]を用いていた。宣明暦はかなりの誤差が生じていた。とくに、月食・日食の予報が天の運行に2日も遅れていた。春海は、1670年(寛文10年)32歳の時から天体を日夜観測{{Sfn|岡田|2011|p=37}}、その結果をもとにして[[元_(王朝)|元]]の[[授時暦]]への改暦を願い出た。ところが、[[延宝]]3年([[1675年]])に春海が授時暦に基づいて算出した[[日食]]予報が失敗したことから、申請は却下された。
当時の日本は[[貞観_(日本)|貞観]]4年([[862年]])に[[唐]]よりもたらされた[[宣明暦]]を用いていた。宣明暦はかなりの誤差が生じていた。とくに、月食・日食の予報が天の運行に2日も遅れていた。春海は、1670年(寛文10年)32歳の時から天体を日夜観測{{Sfn|岡田|2011|p=37}}、その結果をもとにして[[元_(王朝)|元]]の[[授時暦]]への改暦を願い出た。ところが、[[延宝]]3年([[1675年]])に春海が授時暦に基づいて算出した[[日食]]予報が失敗したことから、申請は却下された。


春海は失敗の原因を研究していくうちに、太陽の運行の遅速にかかわる基点(今日の天文学の用語でいえば[[近日点]])が授時暦では冬至と一致すると仮定されていた(13世紀にはよい近似であった)がすでに移動していたことと、 中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり今日でいう[[時差]]が発生してしまうことに気づいた<ref>{{Cite web |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C4E7B5FDCEF1.html|title=国立天文台 暦Wiki 貞享暦 (じょうきょうれき) / 大和暦|accessdate=2019-11-08}} {{Cite web |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B6E1C6FCC5C0A4CEB0DCC6B0.html|title=国立天文台 暦Wiki 近日点の移動|accessdate=2019-11-08}}</ref>。そこで、授時暦に通じていた[[朱子学者]]の[[中村てき斎|中村惕斎]]の協力を得ながら、自己の観測データをもとにして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、[[京都所司代]]・[[稲葉正往]]の家臣であった[[谷宜貞]](一齋・三介とも。[[谷時中]]の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの[[明]]の[[大統暦]]を採用する詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は里差の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は[[暦道]]の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて[[貞享暦]]となった<ref>{{cite journal|和書|author=保柳 睦美|title=伊能忠敬と根気 |trans-title=Extraordinary Persistence and Skill of Tadataka Ino, illustrated by His Land Survey and Map-making of the Whole of Japan accomplished between 1800 and 1816|journal=史苑|volume=29|number=2|date=1969-01|page=86|url= https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1052&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1 |format=pdf|accessdate=2019-11-30|publisher=[[立教大学]]}}</ref>。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の[[関孝和]]よりも劣っていたという説もある{{sfn|中山|1983}}が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた[[徳川光圀]]や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
春海は失敗の原因を研究していくうちに、太陽の運行の遅速にかかわる基点(今日の天文学の用語でいえば[[近日点]])が授時暦では冬至と一致すると仮定されていた(13世紀にはよい近似であった)がすでに移動していたことと、 中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり今日でいう[[時差]]が発生してしまうことに気づいた<ref>{{Cite web |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C4E7B5FDCEF1.html|title=国立天文台 暦Wiki 貞享暦 (じょうきょうれき) / 大和暦|accessdate=2019-11-08}} {{Cite web |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B6E1C6FCC5C0A4CEB0DCC6B0.html|title=国立天文台 暦Wiki 近日点の移動|accessdate=2019-11-08}}</ref>。そこで、授時暦に通じていた[[朱子学者]]の[[中村惕斎]]の協力を得ながら、自己の観測データをもとにして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、[[京都所司代]]・[[稲葉正往]]の家臣であった[[谷宜貞]](一齋・三介とも。[[谷時中]]の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの[[明]]の[[大統暦]]を採用する詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は里差の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は[[暦道]]の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて[[貞享暦]]となった<ref>{{cite journal|和書|author=保柳 睦美|title=伊能忠敬と根気 |trans-title=Extraordinary Persistence and Skill of Tadataka Ino, illustrated by His Land Survey and Map-making of the Whole of Japan accomplished between 1800 and 1816|journal=史苑|volume=29|number=2|date=1969-01|page=86|url= https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1052&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1 |format=pdf|accessdate=2019-11-30|publisher=[[立教大学]]}}</ref>。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の[[関孝和]]よりも劣っていたという説もある{{sfn|中山|1983}}が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた[[徳川光圀]]や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。


この功により[[貞享]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1685年]][[1月5日]])に初代幕府[[天文方]]に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。
この功により[[貞享]]元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]([[1685年]][[1月5日]])に初代幕府[[天文方]]に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。

2020年8月13日 (木) 02:24時点における版

渋川春海
渋川春海。『天文大意録』(鳳晴堂光正著、1826年頃)より。
渋川春海[1]
人物情報
別名 六蔵(幼名)、順正、安井助左衛門、新蘆、保井春海
生誕 寛永16年閏11月3日1639年12月27日
京都四条室町
死没 正徳5年10月6日1715年11月1日
居住 江戸麻布
国籍 日本の旗 日本
学問
時代 江戸時代
研究分野 天文囲碁
特筆すべき概念 貞享暦
主要な作品 日本長暦三暦考貞享暦書天文瓊統、地球儀
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貞享暦。1729享保14)年版。(国立科学博物館の展示)

渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永16年閏11月3日1639年12月27日) - 正徳5年10月6日1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者囲碁棋士神道家。幼名は六蔵、は都翁(つつち)、は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。

生涯

天文分野之圖。保井春海(渋川春海)著。延寶5年(1677年)。
(上)渋川春海作の地球儀。1695年製。(下)渋川春海作の天球儀。1697年製。ともにレプリカ(国立科学博物館の展示)。

江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652年)、父の死によって二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子・算知が継いで、算哲は保井(後に改字)姓を名乗った。これより、秋冬は江戸に、春夏は京に住んだ。

そして万治2年(1659年)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。この後、算知、弟の知哲、算知の弟ともいわれる春知などとともに御城碁に出仕する。延宝6年(1678年)に本因坊道策碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。

数学暦法を池田昌意(まさおき)に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、和漢の書および垂加神道山崎闇斎に、土御門神道土御門泰福に学んだ。21歳(1659年)の時に天体観測に基づいて中国四国地方の各地の緯度経度を計測した[注 1]

当時の日本は貞観4年(862年)によりもたらされた宣明暦を用いていた。宣明暦はかなりの誤差が生じていた。とくに、月食・日食の予報が天の運行に2日も遅れていた。春海は、1670年(寛文10年)32歳の時から天体を日夜観測[2]、その結果をもとにして授時暦への改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675年)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。

春海は失敗の原因を研究していくうちに、太陽の運行の遅速にかかわる基点(今日の天文学の用語でいえば近日点)が授時暦では冬至と一致すると仮定されていた(13世紀にはよい近似であった)がすでに移動していたことと、 中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり今日でいう時差が発生してしまうことに気づいた[3]。そこで、授時暦に通じていた朱子学者中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データをもとにして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往の家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦を採用する詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は里差の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった[4]。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[5]が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。

この功により貞享元年12月1日1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。

囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元碁盤中央)であるべきと判断している。寛文10年10月17日1670年11月29日)の御城碁で本因坊道策との対局において実際に初手天元を打っており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語した。しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後、初手天元をあきらめることとなった。

貞享3年(1686年)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689年)に本所に天文台の建設が認められた。1690年、52歳の時、日本で最初の地球儀(直径25センチメートル)と天球儀[6]を造った。1697年にも直径33センチメートルの地球儀を作っている[7]。元禄5年(1692年)に幕府から武士身分が認められると蓄髪して安井助左衛門と名乗り、元禄15年(1702年)に渋川に改姓した。これは、先祖が河内国渋川郡を領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。元禄16年(1703年)、天文台は更に駿河台に移された。著書に天文暦学においては『日本長暦[6][8]『三暦考』『貞享暦書』[6]天文瓊統[6]、神道においては『瓊矛拾遺』がある。

また、朝鮮の「天象列次分野之図」(1395)を参考に「天象列次之図」(1670)、「天文分野之図」(1677)という星図を著し、さらに星の位置を測定して「天文瓊統」に示すとともに、子の昔伊と作成した「天文成象」(1699)で図に表した[9]。 改暦の際に「地方時」の存在を主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることを知っており、地球儀 [6]をはじめ、天球儀 [6]渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成している。

墓所(東京都品川区)

後に嫡男である昔尹に天文方の地位を譲ったが、正徳5年(1715年)に昔尹が子供のないまま急死すると、春海も後を追うように死去した。渋川家と天文方は春海の弟・知哲の次男敬尹が継承した。法号は本虚院透雲紹徹居士。墓は東京都品川区東海寺大山墓地にある。明治40年(1907年)に改暦の功績によって従四位が贈位された。平成24年(2012年)、第9回囲碁殿堂入りが決まる。

囲碁の戦績

御城碁

御城碁は天和3年(1684年)まで17局を勤めた。

  • 万治2年(1659年) 先番4目勝 本因坊道悦
  • 寛文4年(1664年) 先番中押負 本因坊道悦
  • 寛文5年(1665年) 先番1目勝 本因坊道悦
  • 寛文6年(1666年) 先番ジゴ 本因坊道悦
  • 寛文7年(1667年) 先番4目負 本因坊道悦
  • 寛文8年(1668年) 白番10目負 本因坊道策
  • 寛文9年(1669年) 白番13目負 本因坊道策
  • 寛文10年(1670年) 先番9目負 本因坊道策
  • 寛文11年(1671年) 不明 本因坊道策
  • 寛文12年(1672年) 先番10目負 本因坊道策
  • 延宝元年(1673年) 白番12目負 本因坊道策
  • 延宝2年(1674年) 先番6目負 本因坊道策
  • 延宝3年(1675年) 先番16目負 本因坊道策
  • 延宝4年(1676年) 先番10目負 本因坊道策
  • 延宝7年(1679年) 先番3目負 本因坊道策
  • 天和2年(1682年) 先番15目負 本因坊道策
  • 天和3年(1683年) 白番13目負 井上道砂因碩
「天元の局」寛文10年10月17日(1670年11月29日) 安井算哲(先番) - 本因坊道策

(22手目まで)244手完、白9目勝

渋川春海が登場する作品

小説

映画

著作

  • 天文瓊統 巻之一
    渋川春海編 中山茂校注『日本思想大系 63(近世科学思想 下)』岩波書店 1971年
  • 天文分野之圖 (1677年)[10]

国の重要文化財

神宮奉納本として伊勢の神宮(三重県伊勢市)の収蔵する江戸時代の「渋川春海天文関係資料」12種は、1978年(昭和53年)6月15日付で国の重要文化財に一括で指定された[6][11][12]。その後、天球儀と対をなす地球儀1基も追加で指定を受けた[13][注 2]

渋川春海天文関係資料 12種[注 3]

  • 『天文瓊統』自筆本 元禄十一年正月内宮奉納奥書 8冊
  • 『日本長暦』自筆本 貞享二年夏内宮奉納奥書 2冊
  • 『日本長暦』自筆本 元禄六年九月宮崎文庫奉納奥書 2冊
  • 『日本長暦』自筆本 元禄五年正月応中川経晃需奥書 2冊
  • 『日本書紀暦考』自筆本 (内宮奉納本) 1冊
  • 『日本書紀暦考』自筆本 元禄五年正月応中川経晃需奥書 1冊
  • 『両宮御鎮座古暦』自筆本 貞享元年九月奥書 1巻
  • 『元禄二年七曜御暦』自筆本 元禄二年正月朔日奥書 1巻
  • 『元禄三年具注暦』自筆本 元禄二年十一月朔日奥書 1巻
  • 『元禄四年具注暦』自筆本 元禄三年冬日奥書 1巻
  • 天球儀 元禄庚午(三年)在銘 1基
  • 地球儀 1基[注 2]
    • 附 『貞享暦儀』 7冊 [注 3]
    • 附『日本古今交食考』 1冊
    • 附『春海先生実記』甲子(延享元年)書写奥書 1冊

参考文献

  • 岡田俊裕『日本地理学人物事典 [近世編]』原書房、2011年、37頁。 
  • 中山茂「関孝和」『天文学人名辞典』恒星社厚生閣〈現代天文学講座別巻〉、1983年。ISBN 978-4-769-90073-3 
  • 長谷川強、渡辺守邦、伊井春樹、日野龍夫、小倉親雄「カリフォルニア大学バークレー校蔵旧三井文庫写本目録稿」『国文学研究資料館調査研究報告』第5号、人間文化研究機構 国文学研究資料館、1984年3月31日、315(26)、ISSN 0289-0410 
  • 伊勢市内指定文化財等件数一覧 (令和元年7月25日現在)」(pdf)2019年7月25日、2019年11月30日閲覧 

関連文献

脚注

注釈

  1. ^ その方法として、昼間には一本の木の柱を立てて太陽の陰影を、夜間には北極星に対する仰角を測定した[2]
  2. ^ a b 1990年(平成2年)6月29日追加指定。
  3. ^ a b 1978年 (昭和53年) 6月15日指定。

出典

  1. ^ 鳳晴堂光正『天文大意録』1826年頃。
  2. ^ a b 岡田 2011, p. 37.
  3. ^ 国立天文台 暦Wiki 貞享暦 (じょうきょうれき) / 大和暦”. 2019年11月8日閲覧。 国立天文台 暦Wiki 近日点の移動”. 2019年11月8日閲覧。
  4. ^ 保柳 睦美「伊能忠敬と根気」(pdf)『史苑』第29巻第2号、立教大学、1969年1月、86頁、2019年11月30日閲覧 
  5. ^ 中山 1983.
  6. ^ a b c d e f g 伊勢市内指定文化財 2019, p. 4.
  7. ^ 岡田 2011, p. 39.
  8. ^ 長谷川ほか 1984, p. 315.
  9. ^ 美星町 星のデータベース”. 2017年10月22日閲覧。
  10. ^ 天文分野之図 - 国立天文台(NAOJ)”. 2017年10月22日閲覧。
  11. ^ 昭和53年6月15日文部省告示第131号
  12. ^ みんなで、守ろう!活かそう!三重の文化財 / 情報データベース / 渋川春海天文関係資料”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 三重県庁. 2019年11月30日閲覧。
  13. ^ 平成2年6月29日文部省告示第93号

関連項目

外部リンク