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2020年8月10日 (月) 06:30時点における版
朱 熹 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 朱 熹 |
簡体字: | 朱 熹 |
拼音: | Zhū Xī |
ラテン字: | Chu1 Hsi1 |
和名表記: | しゅ き |
発音転記: | ヂュ シー |
英語名: | Zhu Xi |
儒教 |
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朱 熹(しゅ き、1130年10月18日〈建炎4年9月15日〉- 1200年4月23日〈慶元6年3月9日〉)は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄州病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。諡は文公。
南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。
「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。
その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。
生涯
父・朱松
朱熹の祖先は五代十国時代に呉に仕えた朱瓌(しゅかい)で、婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たったことからこの地に籍を置くようになったと言う。その八世の子孫が朱熹の父の朱松(1097年 - 1143年)である。
朱松は周敦頤・程顥・程頤らの流れを組む「道学」の学徒であり、1123年(宣和5年)より任官して県尉(県の治安維持を司る)に任命されていた。1127年(建炎元年)に靖康の変が起き、北宋が滅んで南宋が成立した後の1128年(建炎2年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されるが、翌年に辞職して尤渓県の知人の元に身を寄せた。
1130年(建炎4年)、この尤渓県にて朱熹が生まれる。
その後、朱松は南宋の朝廷に入り、国史編纂の仕事に就くが、宰相秦檜の金に対する講和策に反対して中央を追い出されている。1140年(紹興10年)に州知事に任命されるが、これを辞退して祠官[注釈 1]の職を希望して認められ、以後は学問に専念して、1143年(紹興13年)に47歳で死去した。
師との出会い
父と同じく学問の道に入った朱熹は、9歳にして『孟子』を読破し、病床の父から『論語』を学んでいた。父が病死した後は父の遺言により、胡憲・劉勉之・劉子翬の三者に師事するようになる。
1148年(紹興18年)、19歳の時に科挙に合格。この時の席次は合格者330人中278番だった。この頃は高宗の信頼を受けた秦檜が権勢を振るっており、秦檜は金との講和に反対する者を弾圧していた。科挙にもその影響がでており、講和に反対するような答案を提出したものは点が低くなった。朱熹が低い席次であるのにはそうした理由があると考えられている。
1151年(紹興21年)、朱熹は左迪功郎と言う階官(官職の上下を表すもの)を与えられ、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)の主簿(帳簿係)に任官された。この任官途中で父の同門であった李侗(李延平)と出会い、その教えを受けている。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたのだが、李延平の禅宗批判を聞いてその考えに同調し、以後は禅宗を捨てて儒学だけを志すようになる。
1156年(紹興26年)には主簿の任期である3年を過ぎたが、後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞している。1160年(紹興30年)、朱熹は父親と同じように祠官に任命されることを希望し、それが認められると李延平の元で学問に励むようになった。李延平は朱熹に「道学」の真髄を伝授し、朱熹も李延平の教えを次々と吸収したので、やがて李延平に「自分の後継者は朱熹しかいない」と認められるまでになった。
政治家として
1162年(紹興32年)に高宗は退位し、孝宗の治世となる。朱熹は孝宗により武学博士(兵法書や武芸の教授)への就任を命じられるが、これを辞退して祠官を続けられるように望み、地元の崇安県に戻った。朱熹と朝廷はその後もこうしたやり取りを何度も繰り返している。
1170年(乾道6年)には崇安県に社倉を設け、難民の救済に当たった。王安石の青苗法を参考にしたと思われる。社倉とは収穫物を一時そこに保存しておき、端境期や凶作などで農民が窮乏した時に低利で貸し付けるというものである。こうした貸付は地主も行っていたが、利率が10割にも及ぶ過酷なものであり、これが原因で没落してしまう農民も少なくなかった。1175年(淳熙2年)、呂祖謙の誘いで陸象山と会談(鵝湖の会)。互いの学説の違いを再認識して終わった。なお陸象山の死に際して朱熹は「惜しいことに告子を死なせた」と孟子の論敵になぞらえてその死を悼んでいる。
1179年(淳熙6年)からは南康軍(江西省。軍は州の下、県の上の行政単位)の知事となる。この地に於いて朱熹は自ら教鞭を取って民衆の中の向学心のある者に教育を授け、太宗によって作られた廬山の白鹿洞書院を復興させた。また税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に言上している。更に1180年(淳熙7年)には凶作が酷かったので、主戸(地主層、主戸客戸制を参照)に食料の供出を命じ、貧民にこれを分け与えさせた。もし供出を拒んで食料の余剰を隠した場合には厳罰に処すると明言し、受け取った側が後に供出分を返還できない場合は役所から返還すると約束した。この施策により、凶作にもかかわらず他地域へ逃げる農民はいなかったと言う。しかし朱熹はこのように精力的に政治を行った一方で、何度も知事の任命を辞退し、着任してからも自分自身に対する弾劾を出して罷免と元の祠官の地位を求めている。
1181年(淳熙8年)、南康軍での手腕を認められた朱熹は提挙両浙東路常平茶塩公事に任命される。ここで朱熹は積極的に官僚に対する弾劾を行った。中でも1182年(淳熙9年)7月から始まる知台州(台州の知事。台州の治所は現在の浙江省台州市臨海市)の唐仲友に対する弾劾は激しく、六回に及ぶ上奏を行っており、その内容も非常に詳細であった。しかしそれに対する朝廷の反応は冷たかった。
これは朱熹を嫉視した官僚たちによる冷遇と見ることも出来るが、朱熹のこの弾劾が当時の状況と照らし合わせて妥当であったかどうかも疑問視されている。朱熹の弾劾文で指摘されている唐仲友の悪行が事実だとしても、当時の士大夫階級の官僚の中で唐仲友だけが飛び抜けて悪辣であったのかどうかは疑わしい。朱熹がなぜ唐仲友だけをこれほど執拗に弾劾したのかは不明である[注釈 2]。 結局、唐仲友は孝宗によって軽い罪に問われただけであった。これに不満を持ったのか、朱熹はその後の何度かの朝廷からの召し出しを断り、かねてからの希望通り祠官に任ぜられて学問に専念するようになった。
偽学の禁
1189年(淳熙16年)、孝宗が退位してその子の光宗が即位するが、暗愚であったため、1194年(紹熙5年)の孝宗の死後、趙汝愚と韓侂冑らが協力して光宗を退位させた。光宗の後に寧宗が即位すると、趙汝愚の与党だった朱熹は長沙の知事から政治顧問(煥章閣待制兼侍講)に抜擢された。しかし功労者となった韓侂冑と趙汝愚が対立し、趙汝愚が失脚すると朱熹も罷免されてしまい、わずか40日あまり中央に出仕しただけに終わった。
その後の政界では韓侂冑が独裁的な権限を握る。1196年(慶元2年)、権力をより強固にするため、韓侂冑らは朱熹の朱子学に反対する一派を抱き込んで「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧を始めた。朱熹はそれまでの官職を全て剥奪され、著書も全て発禁とされてしまった。そして1200年(慶元6年)、そうした不遇の中で朱熹は71歳の生涯を閉じたのである。
朱子の業績
経書の整理
『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。これら四書は『四書集注』(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)整理された。これは後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は儀礼に関する研究も行っている。孔子の祭りである釈奠の儀礼を整備したり儒服の深衣の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある[1]。
朱子学の概要
朱熹はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川による性即理説(性(人間の持って生まれた本性)がすなわち理であるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅への批判とそれと異なる静座(静坐)という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。
なお朱熹の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。
朱熹の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、タイム誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。
後世への影響
朱子学は身分制度の尊重、君主権の重要性を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。元代に編纂された「宋史」には、朱子学者の伝を「道学伝」としてそれ以外の儒学者の「儒林伝」とは別に立てている。13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)とした[2][3]。
日本においても、中近世ことに江戸期に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたため、後世にも影響を残している。 また、朱熹の死後朱子学の学術思想を各地にいた朱熹の弟子たちが朱子学を広め最終的に真徳秀(1178-1235)と魏了翁(1178-1237)が活躍し朱子学の地位向上に貢献し1241年に朱子学は国家に正統性が認められた。このような朱子学の流れの中で朱子学の影響を受け考証学という学問が形成される。南宋末の王応麟の『困学紀聞』がとりわけ重要でその博識ぶりは有名で朱熹に対して極限の敬意を払っている。このころの考証学は後に博大の清朝考証学に受け継がれる。 [4] また朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『易経(周易)』に関する注釈書『周易本義』『書経』に関する注釈書『書集伝』『詩経』に関する注釈書(朱熹)『詩集伝』などがある。[5]。
著作
70余部、460余巻あるとされる。
- 著作の一部
朱子の書
朱子は書をよくし画に長じた。その書は高い見識と技法を持ち、品格を備えている。稿本や尺牘などの小字は速筆で清新な味わいがあり、大字には骨力がある。明の陶宗儀は、「正書と行書をよくし、大字が最も巧みというのが諸家の評である。」(『書史会要』[7])と記している[8][9][10][11]。
古来、朱子の小字は王安石の書に似ているといわれる。これは父・朱松が王安石の書を好み、その真筆を所蔵して臨書していたことによる。その王安石の書は、「極端に性急な字で、日の短い秋の暮れに収穫に忙しくて、人に会ってもろくろく挨拶もしないような字だ。」と形容されるが、朱子の『論語集注残稿』も実に忙しく、何かに追いかけられながら書いたような字である。よって、王安石の書に対する批評が、ほとんどそのまま朱子の書にあてはまる場合がある[12]。
韓琦が欧陽脩に与えた書帖に朱子が次のような跋を記している。「韓琦の書は常に端厳であり、これは韓琦の胸中が落ち着いているからだと思う。書は人の徳性がそのまま表れるものであるから、自分もこれについては大いに反省させられる。(趣意)」(『朱子大全巻84』「跋韓公与欧陽文忠公帖」)朱子は自分の字が性急で駄目だと言っているが、字の忙しいのは筆の動きよりも頭の働きの方が速いということであり、それだけ着想が速く、妙想に豊富だったともいえる[12][13]。
朱子は少年のころ、既に漢・魏・晋の書に遡り、特に曹操と王羲之を学んだ。朱子は、「漢魏の楷法[14]の典則は、唐代で各人が自己の個性を示そうとしたことにより廃れてしまったが、それでもまだ宋代の蔡襄まではその典則を守っていた。しかし、その後の蘇軾・黄庭堅・米芾の奔放痛快な書は、確かに良い所もあるが、結局それは変態の書だ。(趣意)」という。また、朱子は書に工(たくみ)を求めず、「筆力到れば、字みな好し。」と論じている。これは硬骨の正論を貫く彼の学問的態度からきていると考えられる[15][8][16][10][17][12][13]。
朱子の真跡はかなり伝存し、石刻に至っては相当な数がある。『劉子羽神道碑』、『尺牘編輯文字帖』、『論語集注残稿』などが知られる[8][9][16][10]。
劉子羽神道碑
『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は1179年(淳熙6年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。
劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。
劉珙が1178年(淳熙5年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される[10][17][18][16][19]。
尺牘編輯文字帖
『尺牘編輯文字帖』(せきとくへんしゅうもんじじょう)は、行書体で書かれた朱子の尺牘で、1172年(乾道8年)頃、鍾山に居を移した友人に対する返信である。内容は「著書『資治通鑑綱目』の編集が進行中で、秋か冬には清書が終わるであろう。(趣意)」と記している。王羲之の蘭亭序の書法が見られ、当時、「晋人の風がある。」と評された。紙本で縦33.5cm。現在、本帖を含めた朱子の3種の尺牘が合装され、『草書尺牘巻』1巻として東京国立博物館に収蔵されている[10][20][21]。
論語集注残稿
『論語集注残稿』(ろんごしっちゅうざんこう)は、著書『論語集注』の草稿の一部分で1177年(淳熙4年)頃に書したものとされる。書体は行草体で速筆であるが教養の深さがにじみ出た筆致との評がある。一時、長尾雨山が蔵していたが、現在は京都国立博物館蔵。紙本で縦25.9cm[20][10][15][22]。
有名な言葉
- 「少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」という「偶成」詩は、朱熹の作として知られており、ことわざとしても用いられているが、朱熹の詩文集にこの詩は無い。平成期に入ってから、確実な出典や日本国内での衆知の経緯が詳らかになってきていることについては「少年老いやすく学なりがたし」の記事を参照。
- 精神一到何事か成らざらん
子孫
朱熹は朱塾、朱埜、朱在の三子があり、曾孫である朱潜は、南宋の翰林学士・太学士・秘書閣直学士の重臣を歴任するが、高麗に亡命して朝鮮の氏族新安朱氏の始祖となった。
著作注解
- 市川安司『新釈漢文大系37 近思録』明治書院、1975年
- 湯浅幸孫訳著 『近思録』 たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉(上中下)、1996年
- 元版 『中国文明選4・5 近思録』 朝日新聞社、1972-74年
- 吹野安・石本道明『朱熹詩集伝全注釈』全9巻、明徳出版社、1996-99年
- 土田健次郎訳注 『論語集注』 平凡社東洋文庫(全4巻) 2013年 - 2015年
- 石本道明・青木洋司『論語 朱熹の本文訳と別解』 明徳出版社 2017年
参考文献
- 衣川強 『朱熹』〈中国歴史人物選 第七巻〉 白帝社 1994年
- 岡田武彦 『朱子の伝記と学問』〈全集16〉明徳出版社 2008年
- 木下鉄矢 『朱子』(書物誕生:あたらしい古典入門)岩波書店 2009年
- 木下鉄矢 『朱子学』 講談社選書メチエ 2013年
- 三浦國雄訳注 『「朱子語類」抄』 講談社学術文庫 2008年
- 元版 『中国文明選3 朱子集』 三浦国雄ほか訳・解説、朝日新聞社(1976年)を改訂。
- 三浦國雄 『朱子伝』 平凡社ライブラリー 2010年
- 元版 『朱子 人類の知的遺産19』 講談社(1979年)を改訂。
- 朱子の書
- 西川寧編 「書道辞典」(『書道講座 第8巻』 二玄社、新版1969年(初版1955年))
- 西林昭一・石田肇 「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 雄山閣、1992年)ISBN 4-639-01036-2
- 「中国11 宋II」(『書道全集 第16巻』 平凡社、新版1971年(初版1967年))
- 飯島春敬編 『書道辞典』(東京堂出版、初版1975年)
- 中西慶爾編 『中国書道辞典』(木耳社、初版1981年)
- 木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、初版1971年)
- 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明 『中国書人名鑑』(二玄社、初版2007年)ISBN 978-4-544-01078-7
- 魚住和晃 『書の歴史 宋〜民国』(講談社、新版2008年(初版2005年))ISBN 4-06-213183-8
脚注
注釈
出典
- ^ 湯浅邦弘『概説中国思想史』(新)ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書房〉、2010年、117頁。ISBN 978-4-623-05820-4。
- ^ 「科挙からみた東アジア―科挙社会と科挙文化」 東京大学 06年中国社会文化学会大会シンポジウム ニューズレター
- ^ 金京欄「日・韓語り物文芸における女性像と担い手たち : 「堤上」説話・「まつらさよ姫」から『沈清歌』まで」『早稲田大学文学学術院』、早稲田大学リポジトリ保管、2005年、p153。
- ^ 湯浅邦弘『概説中国思想史』(新)ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ書〉、2010年10月25日、120-121頁。ISBN 978-4-623-05820-4。
- ^ 木下鉄矢『朱子学』講談社選書メチエ、2013年7月、107頁。ISBN 978-4-06-258558-3。
- ^ 新版『宋名臣言行録』梅原郁編訳、ちくま学芸文庫、2015年
- ^ 『書史会要』の原文
- ^ a b c 中西 P.421
- ^ a b 鈴木洋保 P.94
- ^ a b c d e f 飯島 P.341
- ^ 西川 P.62
- ^ a b c 宮崎 PP..17-18
- ^ a b 西林 PP..120-121
- ^ 中国の書論#楷の定義を参照。
- ^ a b 魚住 P.62
- ^ a b c 木村卜堂 P.177
- ^ a b 日比野 P.170
- ^ 日比野 PP..155-156
- ^ 中西 P.991
- ^ a b 木村英一 PP..156-157
- ^ 東京国立博物館(館蔵品詳細、草書尺牘巻)
- ^ 中西 P.1037