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五経博士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五経博士(ごきょうはかせ、ごきょうはくし)は、古代中国の官職の一つ。前漢時代、太常の属官に置かれた。儒家の経典である五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官であった。

概要

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中国

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博士は秦からの官吏であり、古今に通じ、意見を求められた。漢初には儒家の経典のみならず他の諸子百家の経典も学官に立てられていたと考えられる。文帝景帝の時期、『詩経』『』『春秋』はすでに学官に立てられていた。

建元5年(紀元前136年)、武帝董仲舒の献策(天人三策)を聞き入れて五経博士を置いた。

儒教では従来、これを他の諸子百家を退けて儒家のみを採用した(いわゆる儒教の国教化)と考えているが、最近では博士官に単に五経博士を増員しただけだと考えられている。最初は5人だけであり、宣帝の時期に12人に増員された。五経博士のもとには博士弟子員が置かれている。後漢では十四博士が置かれた。

後漢の十四博士[1]
施讎易、孟喜易、梁丘易、京房易
欧陽尚書、大夏侯尚書、小夏侯尚書
魯詩(申公)、斉詩(轅固生)、韓詩(韓生
大戴礼戴徳)、小戴礼戴聖
春秋 厳氏春秋、顔氏春秋(公羊伝

百済

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日本書紀』によると、513年百済倭国に五経博士段楊爾を貢したが、3年後に段楊爾を帰国させ、かわって漢高安茂を貢し、554年馬丁安にかえ、王道良王柳貴王保孫王有㥄陀潘量豊丁有陀倭国に貢した(貢した=「貢ぎ物を差し上げる」)と記録している[2][3]。五経博士の貢上は、512年から513年に倭国が百済に任那を割譲したことへの返礼という指摘がある[3]

一方、『日本書紀』に読まれる歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝説伝承は、事実とは認め難いとする指摘もある[4][5][6][7]。また、これらの人物(五経博士)は、朝鮮史料三国史記』『三国遺事』には登場しない[8]

なお、百済倭国に派遣した五経博士、すなわち、段楊爾漢高安茂馬丁安王道良王柳貴王保孫王有㥄陀潘量豊丁有陀などはすべて百済帰化していた中国人である[9]

五経博士の派遣について、日本学者の意見は大体3つに要約でき、第1は、百済が領土(任那)を拡張したことに対する代価として、日本に官人と五経博士を派遣した[10]。第2は、中国人が日本に来て交代に勤めた[10]。第3は、百済が日本に献する人質が制度化されていたということである[10]。第2の点を付言すると、平野邦雄は「五経博士を率いた百済官人を除いては南朝人である」と述べている[11][12]

博士一覧

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前漢の博士[13]
春秋
文帝 鼂錯 韓生
申公
景帝 轅固生 董仲舒
胡毋生
武帝 張生 韓商 公孫弘
孔安国 徐偃 褚大
魯賜 張叔
昭帝 夏侯勝 蔡義 疏広
孔覇 韋賢
欧陽高 江翁
宣帝 張禹 夏侯建 義倩 戴聖 貢禹
施讎 欧陽地余 王式 厳彭祖
林尊 張長安 周慶
孔覇 薛広徳 丁姓
張山拊 食子公
王吉
后蒼

脚注

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  1. ^ 福井 2005, p. 223.
  2. ^ 服部敏良日本医学史研究余話科学書院、1981年10月1日、22頁。ISBN 4760301003https://books.google.co.jp/books?id=nIYL5t84rJ4C&pg=PA22=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false 
  3. ^ a b 五経博士』 - コトバンク
  4. ^ 田中健夫石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496 
  5. ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847 
  6. ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057 
  7. ^ 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 6. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151018092951/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf 
  8. ^ 松木明知 (1983年10月). “欽明朝に来日した百済の医師王有稜陀について”. 日本医史学雑誌 29(4) (日本医史学会): p. 450 
  9. ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  10. ^ a b c 崔福姫 (2002年3月1日). “古代韓日仏教文化交流について : 人的交流に見られる二・三の問題点を中心に”. 佛教大學大學院紀要 30 (佛教大学): p. 21 
  11. ^ 平野邦雄『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館日本史学研究叢書〉、1969年5月1日、250-258頁。ISBN 4642020381 
  12. ^ 崔福姫 (2002年3月1日). “古代韓日仏教文化交流について : 人的交流に見られる二・三の問題点を中心に”. 佛教大學大學院紀要 30 (佛教大学): p. 30 
  13. ^ 福井 2005, p. 228.

参考文献

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  • 福井重雅『漢代儒教の史的研究 : 儒学の官学化をめぐる定説の再検討』汲古書院、2005年3月30日。