漢高安茂
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漢高安茂(あやのこうあんも、かんのこうあんも、生没年不詳)は、継体天皇の在位中である516年に、朝鮮の百済が倭国に貢上したとされる古墳時代後期の五経博士である。中国人名であるため、百済に帰化していた中国人とみられる[1][2]。
人物
[編集]『日本書紀』によると、継体天皇10年(516年)、先に来日していた段楊爾の交換要員として百済が倭国に貢上したとされる(貢上=「貢ぎ物を差し上げる」)[3]。五経博士の貢上は、512年から513年に倭国が百済に任那を割譲したことへの返礼という指摘がある[3]。
当時、百済は己汶(こもん)を巡って、伽耶の伴跛(はへ〔はえ〕、本彼)国と抗争を繰り返しており、同年5月には将軍の物部伊勢連父根をねぎらっている。漢高安茂を派遣した際に、物部連を送還し、己汶の地を賜ったことを感謝している。これらは百済の朝鮮半島南岸への進出であるとともに、高句麗や新羅に対抗する外交政策のひとつであったともとれる。この後、しばらく五経博士の記事はしばらく現れないが、553年(欽明天皇14年6月)には医博士・易博士・暦博士を交替で勤仕することが勅令で定められており、引き続き交替派遣されていたようである。一方、『日本書紀』に読まれる歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝説伝承は、事実とは認め難いとする指摘もある[4][5][6][7]。
脚注
[編集]- ^ “고안무(高安茂)”. 韓国民族文化大百科事典 2022年4月10日閲覧。
- ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 日本大百科全書『五経博士』 - コトバンク
- ^ 田中健夫、石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496。
- ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房〈斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847。
- ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057。
- ^ 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 6. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。
参考文献
[編集]- 『日本書紀 (三)』岩波書店〈岩波文庫〉、1994年。
- 宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』講談社〈講談社現代新書〉、2017年5月17日。ISBN 4062884283。