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[[後漢]]が建てられると、長沙郡の称にもどされた。後漢の長沙郡は臨湘・攸・茶陵・安城・酃・湘南・連道・昭陵・益陽・下雋・羅・醴陵・容陵の13県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。 |
[[後漢]]が建てられると、長沙郡の称にもどされた。後漢の長沙郡は臨湘・攸・茶陵・安城・酃・湘南・連道・昭陵・益陽・下雋・羅・醴陵・容陵の13県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。 |
2020年8月7日 (金) 11:06時点における版
長沙郡(ちょうさ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の湖南省長沙市一帯に設置された。
概要
秦のとき長沙郡が立てられた。
紀元前202年(高帝5年)、呉芮が長沙王となり、長沙国が立てられた[1]。紀元前157年(文帝後7年)、長沙王呉著が死去し、後嗣がいなかったため、長沙国は廃止された[2]。紀元前155年(景帝2年)、劉発が長沙王となり、長沙国が立てられた[3]。前漢の長沙国は荊州に属し、臨湘・羅・連道・益陽・下雋・攸・酃・承陽・湘南・昭陵・茶陵・容陵・安城の13県を管轄した。王莽のとき、填蛮郡と改められた[4]。
後漢が建てられると、長沙郡の称にもどされた。後漢の長沙郡は臨湘・攸・茶陵・安城・酃・湘南・連道・昭陵・益陽・下雋・羅・醴陵・容陵の13県を管轄した[5]。
晋のとき、長沙郡は臨湘・攸・下雋・醴陵・劉陽・建寧・呉昌・羅・蒲圻・巴陵の10県を管轄した[6]。
南朝宋のとき、長沙国は湘州に属し、臨湘・醴陵・瀏陽・呉昌・羅・攸・建寧の7県を管轄した[7]。
南朝斉のとき、長沙郡は臨湘・羅・湘陰・醴陵・瀏陽・建寧・呉昌の7県を管轄した[8]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、長沙郡は廃止されて、潭州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、潭州は長沙郡と改称された。長沙郡は長沙・衡山・益陽・邵陽の4県を管轄した[9]。
621年(武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、長沙郡は潭州と改められた。742年(天宝元年)、潭州は長沙郡と改称された。758年(乾元元年)、長沙郡は潭州と改称され、長沙郡の呼称は姿を消した[10]。