「慧林性機」の版間の差分
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生家の鄭氏は、代々地元の学校の教師を職としており、慧林自身も、科挙の勉学に勤しんでいたが、[[明]]末[[清]]初の混乱期に遭遇したため、官途に望みが絶たれ、40歳にして、補山の万歳山に入り、祇園のもとで出家した。 |
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[[1654年]]([[承応]]3年)、隠元に随行して来日し、[[長崎市|長崎]]の[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]と[[興福寺 (長崎市)|興福寺]]でも、記室や[[維那]]の任に当たった。隠元が[[摂津国]]の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]に赴いた際にも動向し、この地で大悟し、隠元に西堂に任じられた。[[1658年]]([[万治]]元年)に隠元が江戸に向かった際には、留守を預かった。 |
2020年8月2日 (日) 22:08時点における版
慧林性機 | |
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1609年 - 1681年 | |
生地 | 福建省福州府福清県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派(黄檗宗) |
寺院 | 崇福寺、興福寺、普門寺、仏日寺、黄檗山萬福寺 |
師 | 隠元隆琦 |
慧林性機(えりん しょうき、明万暦37年9月8日(1609年10月5日) - 天和元年11月11日(1681年12月20日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は鄭氏。慧林は号で、法諱が性機。
生涯
生家の鄭氏は、代々地元の学校の教師を職としており、慧林自身も、科挙の勉学に勤しんでいたが、明末清初の混乱期に遭遇したため、官途に望みが絶たれ、40歳にして、補山の万歳山に入り、祇園のもとで出家した。
1649年(順治6年)、黄檗山の隠元隆琦に師事し菩薩戒を受戒した。翌年には記室となった。
1654年(承応3年)、隠元に随行して来日し、長崎の崇福寺と興福寺でも、記室や維那の任に当たった。隠元が摂津国の普門寺に赴いた際にも動向し、この地で大悟し、隠元に西堂に任じられた。1658年(万治元年)に隠元が江戸に向かった際には、留守を預かった。
1659年(万治2年)、摂津国麻田藩(現在の池田市)の藩主青木重兼が麻耶山仏日寺を創建し、翌年、隠元を開山に招致した。1661年(寛文元年)2月、慧林は、仏日寺の第2代に招請され、この際に隠元から付法されている。この冬の黄檗山での授戒会において尊証阿闍梨の任に当たった。仏日寺に帰山すると、普観堂を建立し、手書した『妙法蓮華経』『大方広仏華厳経』『大般涅槃経』を納めた。
1680年(延宝8年)、木庵に推挙されて、萬福寺の第3代住持に就任した。同年9月には、江戸に上り、新たに就任した将軍の徳川綱吉に賀を述べた。しかし、老齢の慧林の体調は思わしくなく、1681年(天和元年)には、住職の座から隠退し、塔頭の龍興院に移った。住持は独湛性瑩に譲り、高泉性潡にも後事を託した。享年73。
参考文献
- 木村得玄著『初期黄檗派の僧たち』春秋社、2007.7、ISBN 9784393177051
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