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青木重兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青木重兼
方広寺所蔵
時代 江戸時代前期
生誕 慶長11年12月29日1607年1月27日
死没 天和2年9月14日1682年10月14日
改名 端山性正(法名)
別名 重壽、通称:源五、法号:端山、法諱:性正
戒名 竹岩院殿端山性正大和尚
墓所 方広寺(兵庫県三田市末吉)
官位 従五位下甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
摂津麻田藩
氏族 青木氏
父母 父:青木可直、母:関右京亮の娘
養父:青木一重
兄弟 重兼、女(谷衛之室)、直澄[1]直影[2]、女(朝倉庄三郎室)、正重
正室:酒井忠利の養女酒井忠季の娘)
慶雲院(青木重正(重成)正室)
養子:可一 [3]重成 [4]
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青木 重兼(あおき しげかね)は、江戸時代前期の大名摂津国麻田藩2代藩主。旗本青木可直[5]の長男で、初代藩主青木一重の養子。重壽(しげなか)ともいう。官位従五位下甲斐守

略歴

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慶長11年(1606年)、旗本青木可直[6]の長男として播磨国姫路にて誕生した。慶長15年(1610年)、徳川家康に初めて拝謁する。

麻田藩初代藩主・青木一重には嗣子がなく、正重を養嗣子として迎えていたが、大坂の陣および豊臣氏の滅亡を機に病気を理由に廃嫡して[7]元和5年(1619年)の一重の隠居に伴い、その養嗣子となって麻田藩1万石を継いだ。

寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に随行し、従五位下甲斐守に叙任された。寛永4年(1627年)、飛び地となっていた伊予国の領地を、摂津豊島郡川辺郡内に移転される。寛永13年(1636年)、初めて領国へ帰ることを許された。藩主としては有能で、藩政においては文武を奨励し、民政においても善政を第一とすることに尽力したため、藩政の基礎が固められた。

寛永18年(1641年)より、京都御室仁和寺の造営奉行を務め、功績を挙げた。10年に及ぶ京都滞在中、花園妙心寺近辺に仮寓した縁で、妙心寺の愚堂禅師に参禅するようになった。明暦2年(1656年)、摂津の普門寺で中国より渡来した禅師隠元と知遇を得た。万治2年(1659年)2月、摩耶山麓に佛日寺を創建し、隠元を開山に迎えた。翌年には第2代住持として隠元の弟子の慧林性機を招致した。

寛文3年(1663年)、摂津川辺郡の多田院再興の奉行も務めた。寛文7年(1667年)には、萬福寺大雄宝殿が造営されたが、この時も重兼は造営奉行を務めている。

隠元の招きにより明暦元年(1655年)に木庵性瑫が中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。この木庵を開山として、寛文10年(1670年)に江戸に瑞聖寺を創建した。 寛文12年(1672年)12月9日、隠居(致仕)した。重兼には女児しか子がなかったため、婿養子として重成(重正)[4]を迎えて家督を譲った。

以上のような縁もあり、重兼は仏門に傾倒しており、延宝7年(1679年)に萬福寺第2代住持となっていた木庵の下で出家した。僧名は端山性正という。その後、川辺郡に大覚山方広寺を開き、七堂伽藍を建立し、開山に木庵を招いた。後には自らがその2世住持となった。

天和2年(1682年)、麻田において死去した。享年77。

系譜

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脚注

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  1. ^ 可直の後を継ぐ。旗本2,000石。
  2. ^ 兄直澄の養子となる。
  3. ^ 酒井忠勝の三男、早世。
  4. ^ a b 駿河大納言徳川忠長の家臣朝倉宣親の長男。
  5. ^ 初代麻田藩主青木一重の四男。
  6. ^ 青木重直の子で、初代麻田藩主青木一重の四弟。家康に仕えており、のち一重から分与を受けて旗本2千石。
  7. ^ 一重と正重は共に豊臣方として大坂冬の陣に参戦。夏の陣は正重が参戦し、青木家は形式上、最後まで豊臣方の臣として戦っている。戦後、青木家は徳川家に敵した件を赦免されている。

参考文献

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