「木庵性瑫」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
12行目: | 12行目: | ||
|宗派=[[黄檗宗|臨済宗黄檗派(黄檗宗)]] |
|宗派=[[黄檗宗|臨済宗黄檗派(黄檗宗)]] |
||
|寺院=太平寺、[[福済寺]]、[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]、黄檗山[[萬福寺]] |
|寺院=太平寺、[[福済寺]]、[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]、黄檗山[[萬福寺]] |
||
|師=[[費隠通容]]、[[ |
|師=[[費隠通容]]、[[隠元隆琦]] |
||
|弟子= |
|弟子= |
||
|著作= |
|著作= |
||
21行目: | 21行目: | ||
16歳で[[出家]]して開元寺の印明の門に入った。[[1629年]]に[[得度]]し、[[杭州市|杭州]]や[[天童山]]、[[西湖 (杭州市)|西湖]]等を歴参して、28歳の時には、[[金粟山]]の[[費隠通容]]に参禅した。費隠の許で、副寺・侍者から[[知客|知賓]]を経て[[維那]]にまでなった。その後も、[[紹興市|紹興]]や[[天台山]]等を遍歴した。 |
16歳で[[出家]]して開元寺の印明の門に入った。[[1629年]]に[[得度]]し、[[杭州市|杭州]]や[[天童山]]、[[西湖 (杭州市)|西湖]]等を歴参して、28歳の時には、[[金粟山]]の[[費隠通容]]に参禅した。費隠の許で、副寺・侍者から[[知客|知賓]]を経て[[維那]]にまでなった。その後も、[[紹興市|紹興]]や[[天台山]]等を遍歴した。 |
||
[[1648年]]には、天童山の費隠の許に行こうとするも戦乱のために果たせず、中国黄檗山に登り[[ |
[[1648年]]には、天童山の費隠の許に行こうとするも戦乱のために果たせず、中国黄檗山に登り[[隠元隆琦]]からその法を受けた。[[1650年]]より剣石の太平寺に晋住した。[[1653年]]には太平寺の住持を[[即非如一]]に譲った。 |
||
[[1654年]]に来日していた隠元に招かれ[[1655年]]に来日、[[長崎市|長崎]]の[[福済寺]]の住持となった。[[1660年]]に[[摂津国]]の普門寺、[[1661年]][[山城国]]宇治の黄檗山[[萬福寺]]に入り、[[1664年]]9月4日、隠元の法席を継いだ。翌[[1665年]]江戸にくだり4代将軍[[徳川家綱]]に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。[[1669年]]、将軍より[[紫衣]]を賜った。 |
[[1654年]]に来日していた隠元に招かれ[[1655年]]に来日、[[長崎市|長崎]]の[[福済寺]]の住持となった。[[1660年]]に[[摂津国]]の普門寺、[[1661年]][[山城国]]宇治の黄檗山[[萬福寺]]に入り、[[1664年]]9月4日、隠元の法席を継いだ。翌[[1665年]]江戸にくだり4代将軍[[徳川家綱]]に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。[[1669年]]、将軍より[[紫衣]]を賜った。 |
||
39行目: | 39行目: | ||
*[[范道生]] |
*[[范道生]] |
||
{{先代次代|[[黄檗宗]]|[[萬福寺]]第2代|[[ |
{{先代次代|[[黄檗宗]]|[[萬福寺]]第2代|[[隠元隆琦]]|[[慧林性機]]}} |
||
{{禅}} |
{{禅}} |
||
{{Buddhism2}} |
{{Buddhism2}} |
2020年8月2日 (日) 22:06時点における版
木庵性瑫 | |
---|---|
1611年 - 1684年 | |
諡号 | 慧明国師 |
生地 | 福建省泉州府晋江県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派(黄檗宗) |
寺院 | 太平寺、福済寺、普門寺、黄檗山萬福寺 |
師 | 費隠通容、隠元隆琦 |
木庵性瑫(もくあん しょうとう、万暦39年2月3日(1611年3月16日)- 貞享元年1月20日(1684年3月6日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。福建省泉州府晋江県の出身。勅諡号は慧明国師。
生涯
16歳で出家して開元寺の印明の門に入った。1629年に得度し、杭州や天童山、西湖等を歴参して、28歳の時には、金粟山の費隠通容に参禅した。費隠の許で、副寺・侍者から知賓を経て維那にまでなった。その後も、紹興や天台山等を遍歴した。
1648年には、天童山の費隠の許に行こうとするも戦乱のために果たせず、中国黄檗山に登り隠元隆琦からその法を受けた。1650年より剣石の太平寺に晋住した。1653年には太平寺の住持を即非如一に譲った。
1654年に来日していた隠元に招かれ1655年に来日、長崎の福済寺の住持となった。1660年に摂津国の普門寺、1661年山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、1664年9月4日、隠元の法席を継いだ。翌1665年江戸にくだり4代将軍徳川家綱に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。1669年、将軍より紫衣を賜った。
1680年2月、黄檗山の法席を第3代の慧林性機に譲り、山内の紫雲院に隠退した。1684年1月20日、病により没した。享年74。
能書家としても知られ、その書風は中国人ならではのものがあり、隠元、即非とともに黄檗三筆と称されている。三人には共通した書風があり、隠元の「穏健高尚な書」、木庵の「雄健円成の書」、即非の「奔放闊達な書」と評され「唐風」あるいは「黄檗風の書」として珍重されている。
関連項目
|
|