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河村若芝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
群仙星祭図 1669年 絹本着色 神戸市立博物館
石灯篭図 1685年 絹本着色 個人蔵

河村 若芝(かわむら じゃくし、寛永15年(1638年) - 宝永4年10月1日1707年10月25日))は、江戸時代前期に長崎で活躍した画家工芸家逸然に就いて画を修め、長崎漢画の発展に尽くした。その奇矯な画様は伊藤若冲や曾我蕭白などの「奇想の画家」のルーツとされる。また、腐食象眼の技を学び細工に優れた。

を蘭渓、道号を道光、煙霞比丘(師から襲名)・風狂子・紫陽山人・散逸道人・普馨などとした。また釈道光・意山和尚とも呼ばれた。

略伝

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肥前国佐嘉の豪族龍造寺家の出自という。なんらかの理由で隠遁生活を送り、長崎に出て黄檗僧と交友するうち、逸然に就いて画を学ぶ。渡辺秀石とともに長崎漢画を代表する画人となり、ともに師と共通の画号である煙霞比丘を襲名。逸然と同じく、道釈人物図を得意とするが、山水図花鳥画も画き、喜多元規風の頂相も画いている。若芝の画風は風狂子の画号通り奇矯な造形美を有し、後の伊藤若冲曾我蕭白などの奇想の先駈けともいわれる。若芝流の祖となり、門下に上野若元・河村若軌・山本若麟・芦塚若鳳・牛島若融上野若龍(写真家上野彦馬の父)らがつらなり幕末まで続いた。唐絵目利職になった小原慶山も一時若芝の門下にあった。また紀州の南画家祇園南海に中国絵画の添削指導を行ない、日本南画の発展に寄与した。

木庵から鉄腐象眼の金工技術を学び、若芝鐔工の開祖となった。二代目河村若芝はこの鐔工を継承し優れた刀鍔を残している。

法号蘭渓若芝上座。墓所は海雲山晧台寺後山。現在確認されている作品は50点余である。

作品

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作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 款記・印章 備考
群仙人星祭図 絹本著色 1幅 神戸市立博物館 寛文9年11月1日(1669年12月23日)
観音・難陀竜王・娑羯龍女図 絹本著色 3幅 聖福寺 寛文12年2月1日(1672年2月29日)
十八羅漢図 18幅 聖福寺 前述の「観音・難陀竜王・娑羯龍女図」と一具か。
芦葉達磨図 絹本著色 1幅 長崎歴史文化博物館 寛文12年7月(1672年)/同10月着賛 隠元隆琦
十八羅漢図 絹本著色 18幅 正明寺(滋賀県蒲生郡日野町松尾) 寛文12年10月(1672年)着賛 印章「蘭渓」朱文長方印・「若芝」白文方印 隠元隆琦賛
韋駄天緊那羅王 絹本著色 対幅 崇福寺 延宝元年7月1日(1673年8月12日)
山水図 絹本著色 1幅 神戸市立博物館 延宝3年12月1日(1676年1月15日)
達磨図 絹本著色 1幅 神戸市立博物館 貞享元年(1784年)着賛 款記「煙霞道人若芝敬寫」/「釋蘭渓印」朱文方印・「若芝氏」朱白文方印 高泉性潡
布袋図 絹本著色 1幅 長崎歴史文化博物館 元禄8年(1695年)以前 高泉性潡賛
牡丹図 絹本著色 1幅 本法寺 元禄10年8月1日(1697年9月15日)
朱衣達磨図 絹本著色 双幅 東京国立博物館 款記「埜衲若芝薫浴敬寫」/「釋蘭渓印」朱文方印・「若芝氏」朱白文方印

参考文献

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  • 渡辺秀実『長崎画人伝』
  • 田能村竹田『屠赤瑣瑣録』
  • 『瓊浦画工伝』(文化元年 春孔撰 文化10年 今井孝寛増訂)
  • 古賀十二郎『長崎画史彙伝』大正堂書店、1983年

出典

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  • 成澤勝嗣「物はやりの系譜」(『隠元禅師と黄檗宗の絵画展』所載、神戸市立博物館、1991年)
  • 阿野露団 『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』形文社、1995年
  • 赤木美智 「河村若芝の研究 ─文献と初期作品を中心に─」『フィロカリア』22号、大阪大学大学院文学研究科芸術学・芸術史講座、2005年3月29日、pp.65-120。
「十八羅漢図」のうち5幅 隠元賛 1672年 紙本着色 正明寺
布袋渡水図 1686年 絹本着色 長崎歴史文化博物館