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あるとき、[[大将軍]]の[[何進]]が[[都尉]]の[[カン丘毅|毌丘毅]]を[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]]に派遣した。劉備は毌丘毅の従事として従軍して[[下邳郡|下邳]]に向かい、敵軍と戦い、軍功を残し下密県の[[丞]]に任じられたが、短期間で官職を辞した。後に、[[高唐県]]の尉となり昇進して[[県令]]となった<ref>『[[英雄記]]』によると、[[霊帝 (漢)|霊帝]]の末年に劉備は[[洛陽]]にいた。後に[[曹操]]とともに[[沛]]に行き、兵を募集して集めた。間もなく曹操と[[董卓]]討伐に向かった、と記されている。</ref>。 |
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[[191年]]([[初平]]2年)、敵軍に敗れて、昔なじみの[[中郎将]]・公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から[[司馬|別部司馬]]に任じられ、青州[[刺史]]の[[田楷]]を助けて[[袁紹]]軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の[[諸侯相|相]]となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い[[士大夫|士人]]を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。 |
2020年7月23日 (木) 03:43時点における版
昭烈帝 劉備 | |
---|---|
蜀漢 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 蜀漢 |
在位期間 | 221年 - 223年6月10日 |
都城 | 成都 |
姓・諱 | 劉備[1] |
字 | 玄徳[2] |
諡号 | 昭烈皇帝 |
廟号 | 烈祖[3] |
生年 | 延熹4年(161年) |
没年 |
章武3年4月24日[4] (223年6月10日) |
父 | 劉弘 |
后妃 | 呉皇后 |
陵墓 | 恵陵 |
年号 | 章武(221年 - 223年) |
劉 備 | |
---|---|
各種表記 | |
繁体字: | 劉 備 |
簡体字: | 刘 备 |
拼音: | Liú Bèi |
ラテン字: | Liu2 Pei4 |
発音: | リィゥ ベイ |
英文: | Liu Bei |
劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。
人物
性格について
劉備は読書を甚だしくは楽しまず、狗馬や音楽、見栄えがある衣服を好んだ。言葉は少なく、よく人にへりくだり、喜怒の感情を表にださなかった。豪侠と交わることを好んだため、若者は争って彼についていった。
風貌について
劉備は背丈が七尺五寸(約173センチ)、腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う[5]。
「蜀書」周羣伝には張裕に「潞涿君」(ひげの薄い人の意[6])とあげつらわれたとある[7]。
呼称について
名を備。字を玄徳(げんとく)[8]と言う。『三国志』(正史)では、劉備を諡号の昭烈帝ではなく、「先主」と呼んでいる[9]。生存中、後主劉禅と一緒に「主公」と尊称されている。『演義』では、この呼び方は主君に対する敬称として広く用いられた。
系譜について
劉備は前漢の景帝の第9子、中山靖王劉勝(? - 紀元前113年没)の庶子の劉貞の末裔という。劉勝は子と孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の祖とされる劉貞は、紀元前117年に涿郡涿県の列侯として陸城亭侯の爵位を賜った[10]。だが、紀元前112年の年始(正月)頃に、彼は列侯のみに課された漢朝への上納金(酎金)を納めなかったために、侯国を除かれ、史書の系譜もそこで止まっている。
また、「先主伝」注に引く『典略』では、劉備は臨邑侯[11]の庶流と記されている。
景帝-劉勝-劉貞 以後の系譜は不詳(『三国志』蜀書先主伝) 景帝-常山憲王劉舜-真定頃王劉平-真定烈王劉偃-真定孝王劉由-真定安王劉雍-真定共王劉普-臨邑侯劉譲(『典略』/下記の系譜も同様) 景帝-長沙定王劉発-舂陵節侯劉買-鬱林太守劉外-鉅鹿都尉劉回-南頓県令劉欽-斉武王劉縯-北海靖王劉興-臨邑侯劉復-臨邑侯劉騊駼
一方、『三国志平話』および『三国志演義』では、中山靖王劉勝、その子の陸城亭侯・劉貞以後の系譜では劉貞の子の劉昂は沛侯、その子の劉禄は漳侯、その子の劉欒は沂水侯、劉英は欽陽侯に封ぜられ、劉貞以後の数代は列侯の爵禄を受けた。しかし、家運が衰退し、劉備の父母の代より沓売りや蓆売りに落ちぶれている。劉備の代に献帝に拝謁し漢の宗親と認められ、左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、家運が上昇し、後漢の滅亡により、蜀漢を興してその皇帝として君臨していることになっている。これは一部を除いて創作である。
なお、漢代の復除(徭役の免除)を研究している山田勝芳は、延熹2年(159年)以降、属尽と称されていた宗室の資格を失った歴代皇帝の子孫は各種の免税特権を受けていたことを指摘し、劉備の幼少期の逸話(一族の集住や学資援助を受ける話)は彼が属尽の一員として一族集団の保護を受けていた(一族の団結は官吏や外部の人々に特権の存在を明示する手段になる)、すなわち彼が属尽であっても宗室の家に連なる者であったことを確認できる証明になるとしている[12]。
生涯
若き日
涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)楼桑里の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。
幼い時に、家の前に生えている大きな桑の木を見て少年だった劉備は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという[13]。また涿郡の人李定は劉備の生家を見て「この家から貴人が出るだろう」と述べた[14]。
熹平4年(175年)、15歳の時に母の言いつけで、従叔父の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な盧植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚と同郷の高誘がおり、劉備は公孫瓚と高誘らに対して兄事しており大変仲が良かったという。同時に牽招とも交流があり、「刎頸の交わり」を誓った仲と伝わる[15]。
学生時代の劉備は乗馬や闘犬、音楽を好み、見栄えがある衣服で身なりを整えた。口数が少なく人にはよくへりくだり、喜怒の感情を顔に出すことがなかった。天下の豪傑と好んで交わったので、若者らはみな先を争って劉備に近づき交わった。中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。なお、張世平は馬商人であることやこの頃に公孫瓚が涿県の県令を務めていたため、劉備は乗馬の趣味や公孫瓚とのつながりから張世平の面識を得たとする見方もある[16]。このおかげで劉備は資金を手にして仲間を集めることが出来た。
決起
黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された[17]。
しかし、郡の督郵(監察官の職)が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した[18]。
あるとき、大将軍の何進が都尉の毌丘毅を丹陽郡に派遣した。劉備は毌丘毅の従事として従軍して下邳に向かい、敵軍と戦い、軍功を残し下密県の丞に任じられたが、短期間で官職を辞した。後に、高唐県の尉となり昇進して県令となった[19]。
191年(初平2年)、敵軍に敗れて、昔なじみの中郎将・公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬に任じられ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。
公孫瓚は袁術と手を結んでおり、初平3年(192年)、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。
この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は、刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった[20]。
初平4年(193年)、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷は劉備を補佐として陶謙の元へと向かった。陶謙は劉備を評価して4千人の丹陽兵を与えた。そのため劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。
興平元年(194年)、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙の推挙で豫州刺史に任じられた時とする)。陳到は劉備の豫州刺史時代からの配下とされ、陳羣も劉備が豫州刺史に任じられた時に登用され、別駕となった。
曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、1ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。苦境に陥った劉備を援助したのは、徐州の大地主であった麋竺であり、劉備は後々まで彼を重用することになる[16]。
流浪
劉備は兵を一万余り集めたが、劉備が多数の兵を集めたことを不快に思った呂布は劉備を攻め敗走させた。劉備は曹操の元へ身を寄せた。ここで、曹操は劉備の器量を評価して優遇した。しばらくして曹操が上奏し、劉備を鎮東将軍とし、宜城亭侯に封じ、豫州の牧に任命して、劉備を援助して再び小沛に入らせた。
建安2年(197年)、楊奉と韓暹は呂布と同盟を結び、袁術を大いに撃破し、徐州・揚州付近を荒らしていたため[21]、劉備は楊奉・韓暹を討ち取る[22]。
建安3年(198年)春、呂布が攻めて来たので、劉備は曹操に援軍を要請した。曹操は夏侯惇を派遣したが、呂布の部下の高順に撃破され、張遼、高順らは半年以上も包囲を続け9月、遂に沛城は陥落し、劉備は逃走した(先主伝注引く『英雄記』)。劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して劉備軍と合流すると共同して呂布を攻めて、呂布を生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少しためらったが、劉備は呂布がかつて丁原と董卓を殺したことを挙げて曹操を諌めた。これを聞いた呂布は激怒し、劉備に対して「この男が一番信用できんのだぞ!」[23]と罵倒したが、結局、呂布は絞首刑に処された。
劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許昌へ入り、左将軍に任命された。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出す時には常に同じ車を使い、席に座る時には席を同格にすると言う異例のものであった。曹操と歓談していた時に曹操から「今、この天下に英雄と申せる者は、君とこのわしのみだ。本初ごときでは不足よ」と評されている。
この頃、宮中では献帝よりの密詔を受けた董承による曹操討伐計画が練られており、劉備はその同志に引き込まれた。その後、討伐計画が実行に移される前に朱霊・路招らと共に袁術討伐に赴き、都から徐州に逃げ出す名分を得たという。袁術は袁紹と合流しようとしたが、劉備に道をふさがれたので、引き返し、やがて病死した[24]。
袁術が死去したので、朱霊らは帰還したが、劉備は徐州に居残り、下邳を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺した。下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移ると、多数の郡県が曹操に背いて劉備に味方した。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を破った。劉備は劉岱らに向かって「お前達百人が来たとしても、私をどうする事もできぬ。曹公が自身で来られるなら、どうなるかわからぬがね」と言った[25]。
だが、劉備の裏切りに激怒した曹操自身が攻めて来ると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われた。『三国志』蜀書先主伝の注に引く『魏書』によれば、劉備は攻めて来た曹操の指揮の旗を見ると、戦わずして逃走したという。袁紹の長子袁譚をかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目の一つ)に推挙していたので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。
袁紹が、曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので、劉備は袁紹の命を受けこれに合流して、数県を攻め取ると、多くの県が曹操に背いて劉備らに味方した。この時に関羽が曹操の元を去り、劉備のところへ帰ってきた。曹操は曹仁を派遣して、劉備を撃退した。その後、劉備は袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は蔡陽を派遣し劉備らを攻撃させたが、蔡陽は敗北し討たれた。『三国志』趙儼伝によれば、このとき袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたという。
袁紹が敗北したあと、自ら兵の指揮を執り劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。
三顧の礼
劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望にて撃破した。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。
この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。このことから髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。
この頃(建安12年(207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。
劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。
劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民十数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。
その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、娘は曹操に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。 殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流することで態勢を立て直し、更に劉表の長子・劉琦の軍と合流した(長坂の戦い)。
そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。
赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。
劉備の荊州牧就任後、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。
天下三分
建安16年(211年)、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。
関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正と数万人の兵を引き連れて、蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない(これは重大なことであるから、あわててはいけない[26]、他国に入ったばかりで恩愛や信義はまだあらわれていない、それはいかん[27])」と述べて退けた。劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。
その後、劉備は兵を指揮して前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。建安17年(212年)、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の高沛と楊懐の二将を謀殺して、葭萌城を霍峻に守らせ、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた(劉備の入蜀)。諸葛亮・張飛・趙雲らも長江をさかのぼり、益州の郡県を攻略した。関羽は本拠地の押さえとして引き続き荊州に残った。
劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉璝・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去している。劉備が龐統に賛美と慨嘆の言葉をもらした際に、張存はかねてより龐統を買っていなかったので、「龐統は忠義を尽くして惜しむべき人物でありますが、しかし君子の道に反しておりました」と述べた。劉備は腹を立て、「龐統は身を殺して仁を成し遂げたのだ。お前はそれを悪いと申すか」と言って、張存を免官にした。張存はほどなく病没した。[28]そして、長い抗城戦の末雒を落とすことに成功し、荊州から進軍してきた諸葛亮や張飛らも加わり成都を包囲した。馬超は劉備が成都を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。劉備は李恢を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。馬超はかくて命令に従った。劉備は馬超が到着したと聞いて喜び、「私は益州を手に入れたぞ」といった。使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と言い、降伏した。こうして劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。これにより天下三分の形勢がほぼ定まった。
三国争覇
蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁の勝利は孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備の荊州統治を認めていたのは、曹操への防備に当たらせるためであり、劉備の勢力が伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである。
建安20年(215年)、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権が荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)[29]を引き渡すようにと言ってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の地を再分割しよう」と答えた[30]。涼州は益州(蜀)の遥か北であり、劉備がこれを奪うことはその時点で不可能に近く、引き渡すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入った。
しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備は荊州の呂蒙に奪われた長沙郡・桂陽郡の領有を認めることで孫権と和解し、奪われた零陵郡の返還と南郡の領有を認めさせ、漢中の攻略を目標とすることになった。
建安24年(219年)、自ら指揮を執り漢中の夏侯淵・張郃を攻め、法正と黄権の策に従い撃破し、夏侯淵・趙顒らを斬り殺した(定軍山の戦い)。その後、曹操自身が指揮を執って漢中を奪還すべく攻めてきたが、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させた。
漢中を手に入れた劉備は曹操が建安21年(216年)に魏王になっていたことを受けて漢中王を自称した。前漢の高祖劉邦が漢王であった故事に倣ったものであった。また、献帝より大司馬に任命された。なお、群臣が劉備を漢中王に推挙した際の文章は、李朝の書いたものである[31]。
一方、東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった。
劉備の養子の劉封は関羽の救援に赴かず、対立していた孟達の軍楽隊を没収し、孟達が曹操に寝返り、曹操軍に上庸を奪われた。劉備は諸葛亮の提案に従い、劉封を軍規により処刑させた。
夷陵(猇亭)の戦い
劉備は曹操が死んだことを聞くと弔問の使者韓冉を遣わせて、蜀錦を曹丕に貢献した[32]。曹丕は劉備が曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた。
建安25年(220年)に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。これに対抗して蜀の群臣は、建安26年(221年)に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。即位に反対した雍茂は、他のことにかこつけて処刑されたいう(零陵先賢伝)。また費詩は左遷された[33]。
劉備が派遣した使者韓冉は病気と称して上庸より先へは行かず、劉備の弔問の書は上庸から曹丕の元まで届いたという。その返答を得た劉備は自ら帝を称した。こうして、劉備は皇帝に即位したが、同年6月、張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。張達と范彊は、その首を持って長江を下って孫権の下へ逃亡した。劉備は「ああ、飛が死んだ」と、死を嘆いた。
劉備は章武元年(221年)、孫権に対する報復として親征(夷陵の戦い)を行った。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。しかし、翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、孫桓は、敗走する劉備を追って、夔城(きじょう)に通じる道を断ち、その道の要所要所を閉鎖した。劉備は、山中をたどり険害を乗り越えて、やっとのことで脱出すると、憤り嘆息して「私が昔孫権を頼りに(呉の)京城(都、首都の意)に行った際には、孫桓はまだ子供であったのに、その孫桓に今私がこのように追いつめられるとは」と言った[34]。そして、白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営して死去するまで滞在した。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らをやって返事をさせた。
遺言
ここで劉備は病を発し病床に臥せってしまう。章武3年4月24日(223年6月10日)、劉備は丞相・諸葛亮と劉永・劉理ら諸子を呼び寄せた。諸葛亮には「そなたの才能は魏の曹丕の10倍はある。必ずや国に安定をもたらしてくれる事だろう。我が子(劉禅)が皇帝としての素質を備えているようならば、彼を補佐して欲しい。だが、もし我が子が補佐するに足りない暗愚であったならば、迷わずそなたが国を治めてくれ」、「馬謖は自分の実力以上の事を口にする。だから彼に重要な仕事を任せてはいけない。そなたはそれを忘れずにな」と言い遺し、息子たちに対しては「悪事はどんな小さな事でも行ってはいけない。善事はどんな小さな事でも行いなさい。お前達の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』・『六韜(呂尚の著と伝えられる兵法書)』・『商君書(商鞅の著と伝えられる法律論)』等々を読んでしっかり勉強しなさい。これより丞相(諸葛亮)を父と思って仕えなさい。いささかも怠ったらばお前達は不孝の子であるぞ」と言い遺して間もなく崩御した。享年63であった。
陵墓
陵墓は成都市南西郊外の恵陵。現在は諸葛亮をまつる武侯祠の区内にある。前面には乾隆53年建立と刻された「漢昭烈皇帝之陵」の碑がある[35]。しかし、彭山県蓮花村にある三国時代の墓に比定する説もあり、白帝城のあった奉節県に墓所を求める説もあり、お国自慢もからんで現在もにぎやかに議論が続いている[36]。
後世の評
陳寿の評:「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう[37]」(『蜀書』「先主伝」)。
習鑿歯はいう。先主は顛倒し困難に陥ったときであっても、信義をますます明らかにし、状況が逼迫し事態が危険になっても、道理に外れぬ発言をした。景升(劉表)の恩顧を追慕すれば、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人々に慕われ(後についてこられ)れば、(見捨てることなく)甘んじてともに敗北した。彼が人々の心に結びついた経過を観察すれば、いったい、どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、蓼(にがい)を口に含み、民の病気を見舞った程度のことであろうか。彼が大事業を成し遂げたのも当然であろう[38]。
明末の学者・王夫之は劉備の遺言について、君主として出してはいけない「乱命」であるとしている。簒奪を警戒する劉備が、諸葛亮および他の臣下に対し釘を刺したのではないか、そしてその結果が、簒奪を警戒されないようにと北伐の際の諸葛亮の行動を縛る事になったという見解に基づくものである[39]。
子孫
劉備の子孫は、永嘉年間の八王の乱によりほとんどが殺されたが、劉永の孫である劉玄のみが生き残った[40]。彼はチベット系氐族の一派である巴氐の酋長の李雄が蜀で建国した成蜀を頼ったという。
中華民国14年(1926年)に『富陽劉氏宗譜』なる族譜が公表され、浙江省杭州市富陽区漁山郷曙星村なる村落に劉備の子孫がいると主張され、現在でも大々的に喧伝されている。ただこの族譜では、光武帝の末裔と自称した劉川なる人物が西晋の時代に蜀漢の親族とみられることを恐れて金と改姓したことが述べられているのみで、史書での劉備の血統とするつながりは確認できない。
逸聞
- 呂布が下邳を占拠すると、張飛は敗走した。劉備はこれを聞くと軍勢をまとめて引き揚げ、下邳に至ったところで、軍が崩壊した。崩壊した兵を集めながら東行して広陵を攻略したが、袁術と戦いになって、またも敗北した。飢餓のため困窮し、劉備軍の兵士が互いに食いあったというのである。(『英雄記』)
- 劉備は成都攻略にあたって、率いる部下たちに「ことが定まった際には、成都の国庫内のあらゆる物を私は預からない」と約束した。成都を落とすと、部下たちは矛を捨て競って国庫に所蔵された財貨を取った。このため、軍事用資金や物資が枯渇し劉備はこれを憂いた。劉巴は劉備に「百銭の貨幣(直百五銖)を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」と進言し、劉備がこれに従ったところ数か月で蔵が一杯になった。部下たちに成都に住居や城外の園畑を恩賞として与えようという議論があった、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。(『趙雲別伝』『資治通鑑』)
- 彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は劉備に処刑された(『三国志』蜀志「彭羕伝」)。
- 劉備が漢中に出陣すると兵力不足を補うため至急の文書をよこし兵を微発せよといってきた。諸葛亮は楊洪の進言を聞き入れ、漢中に益州百姓を送り込んだ[41]。(『楊洪伝』)
- 建安末年ごろに、張裕はある人に漢朝の滅亡と劉備の死を予言した。その人がこれ密かにを訴え出ると。劉備は以前から彼の不遜な態度もあったため、今回の漏らした言葉に激怒した。さらに漢中についての予言が当たらなかったことを明らかにさせ、張裕を処刑しようとした。諸葛亮が張裕のために助命を嘆願したが、劉備は美しい蘭でも門の前に咲いていれば刈り取らなければならないとの返答をしたという。結局、張裕は処刑され、後に彼が予言した通り魏が成立して漢が滅び、劉備が亡くなった(『周羣伝』)。
『三国志演義』における劉備
小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。
史書が伝える劉備が、その武勇と人気によって諸勢力に重んじられ、同時に警戒されたのに比べて、『演義』の中の劉備は、武勇を関羽、張飛をはじめとする武臣たち、知略を諸葛亮などの謀臣に預け、多様な個性を周囲に惹き付ける中心として位置している。しかも、若い時は母子で草鞋を作り行商し、吉川英治の小説『三国志』では当時庶民では高級品であったと言われる茶を母に飲ませるために金を貯めていたという苦労人として描かれている。ここから儒教の理想とする君子的高潔さが描かれ、これによって奸雄・曹操と対立軸を構成している。
『演義』の中の劉備は「双股剣」と「的盧」を愛用している[42]。「双股剣」は、桃園の誓いで義兄弟の契りを果たしたあと、張世平と蘇双から贈られた軍用金の一部で鋳させた二本合わせの剣。吉川の小説では、「大小の二剣」と表記され、呂布との戦いで使用された。また同小説では先祖から伝わる剣を所持しており、旅先で黄巾族に襲われているところを救ってくれた張飛に対し礼としてこの剣を渡したが、旅先から戻りこれを知った劉備の母がひどく悲しんだとされている。この剣は張飛と再会し義兄弟の契りを交わした際に劉備の手に戻った。
『演義』では、呂布に追われている時に逃げ込んだ家の主人劉安は、劉備をもてなす食料がなかったので妻を殺害して、オオカミの肉と偽って、その肉を差し出し、そうとは知らず感激していた劉備だったが、顛末を知るやひどく悲嘆したという逸話が存在する(和訳本では削除されるか、価値観の違いについて注釈の上で紹介されている。また吉川の小説ではこの描写前に、中国と日本の文化の違いについて明記している)。『演義』では、蜀を奪ったあと、義兄弟である関羽を魏呉連合軍に殺され、また部下に張飛を殺され呉に逃亡したことにより怒り狂い、義兄弟の敵討ちを大義名分として呉に向かう。その際に黄忠を老人扱いしたり、自軍が75万という大軍勢な上に呉軍の士気が低いのを見て傲慢になっていた。そこを突いた陸遜により大敗し白帝城へ落ち延び、まもなく後悔の念にさいなまれ病気になる。病の床で見た夢に現れた関羽と張飛から「遠くなく兄弟三人がまた集うことになるでしょう」と言われ、自らの死期を悟る。そして諸葛亮を呼び寄せ、後のことを託して世を去る。
妻子・血縁
- 妻妾
- 穆皇后呉氏(呉懿の妹)
- 甘夫人(甘梅):劉備が豫州刺史となった興平2年(195年)に、納められた妾である。糜夫人が正妻に迎えられた年にはすでに妾であったことになる。劉備が正妻をしばしば失ったため、甘夫人は妾でありながら、奥向きのことを取り仕切ったという。建安12年、甘夫人は荊州で男の子を生む。これが劉禅である。[43]
- 糜夫人(糜竺、糜芳の妹):建安元年(196年)、呂布により劉備の妻子が捕虜にされたため、劉備に正妻として迎えられた。その際の持参金により、劉備は再び勢力を盛り返したという。[43]
- 孫夫人(孫権の妹)
- これ以外にも、流浪の時数名の妻を持つ、詳細は不明。
- 子
- その他、2人の娘がいた[44]。
- その他の血縁
脚注
- ^ 簡体字での表記:刘备、ピン音:Liú Bèi
- ^ 現代中国語ではXuándé
- ^ 『晋書』巻一百・列伝第七十では、劉備を「烈祖」と称しているが、これが廟号なのかどうかは断定できない。
- ^ 四分暦(太陰太陽暦)
- ^ 渡辺精一『三国志人物鑑定辞典』では、「膝まで垂れる長い手」は「手を動かせる範囲が広い」≒「多才」と解釈でき、さらに「自分の耳を見ることもできる目」は「細かい所までよく見ることができる」という意味に取れるため、劉備の身体的特徴についての記録は「聡明である」という意味に解釈できる、との説明がされている。
- ^ 潞は露(あらわ)と同音、涿は啄(くち)と同音で、口があらわな人という意味になる。
- ^ 劉備はこのことを根に持ち、皇帝に即位すると過去の罪を挙げて張裕を処刑している。
- ^ 「玄徳」は「明徳」に相対する言葉であり、明徳とは外に表れやすい意識的な仁徳を言い、玄徳とは無意識的にして玄妙無限なる仁徳を指す。この字については、劉備が若い時に教えを受けた盧植が付けたのではないかと、漢学者の安岡正篤は、推測している(安岡正篤『十八史略』)。なお、盧植は黄巾の乱を鎮定した武将の一人である。
- ^ 「蜀書」における劉備の伝は「先主伝」とある。また劉備の後を継いだ劉禅は後主とされている。
- ^ 『漢書』「王子侯表」によると陸成侯。「亭侯」は後漢の爵位の制度で、前漢には存在していなかった。引き続き「王子侯表」で劉貞は紀元前127年に侯に封じられたと、記されている(詳しくは劉貞を参照)。
- ^ 『後漢書』には3人の臨邑侯の名が記録されている。一人は建武2年(西暦26年)に真定王劉楊と共に後漢への謀反を起こした劉譲であり、もう一人は建武30年(54年)に臨邑侯に封じられた劉復、いま一人は劉復の子の劉騊駼である。劉譲は劉楊の弟であり、劉楊は前漢の景帝の7代の孫である。劉復は北海靖王劉興の子であり、劉興は光武帝の兄の斉武王・劉縯(伯升)の子である。
- ^ 山田勝芳『秦漢財政収入の研究』(汲古書院、1993年) ISBN 4-7629-2500-4 pp.631-632
- ^ 『漢晋春秋』より。
- ^ 『漢晋春秋』より。
- ^ 『太平御覧』より。
- ^ a b 柿沼陽平「後漢末の群雄の経済基盤と財政補填策」(初出:『三国志研究』第11号(2016年)/所収:柿沼『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P119-120・123-124.
- ^ 『典略』によると、187年に張純が反乱を起こした。青州刺史は張純討伐を命じた。その討伐軍が平原を通過したとき、劉子平(劉平?)は劉備が武勇に優れていると述べて従事に推薦した。劉備は従軍し、田野で敵軍と戦い負傷し、死んだ真似をした。友人に助けられ脱出した。後に軍功で安熹県の尉になった、と記されている。
- ^ 『典略』によると、当時、郡は勅命により軍功によって官吏となった人間の罷免の審議を行っていた。劉備は自分がそこに含まれているのではないかと疑い、旧知で郡の監察官である督郵が県にやってきたと聞き、これに面会を申し込んだところ詐病によって拒否された。これを恨んだ劉備は吏卒を率いて門に押し入り、督郵を縛り上げて100回余り叩き、命乞いを受けて立ち去った
- ^ 『英雄記』によると、霊帝の末年に劉備は洛陽にいた。後に曹操とともに沛に行き、兵を募集して集めた。間もなく曹操と董卓討伐に向かった、と記されている。
- ^ 『魏書』より。
- ^ 『太平御覧』巻838引『英雄記』によれば、劉備の領土の作物を奪い取って軍糧としていた。
- ^ 『英雄記』によれば、一計を案じた劉備は楊奉を誘って会見し、会見の席上で楊奉を謀殺した。韓暹は逃げ出したが、杼秋の守備隊長の張宣に討ち取られ、その首級は劉備に届けられたという。
- ^ 『三国志』呂布伝では「是兒最叵信者」といった記録が後代の『後漢書』呂布伝では「大耳兒最叵信」に改変されている。
- ^ 『後漢書』袁術伝
- ^ 『献帝春秋』
- ^ 『三国志』「蜀書 巻二 先主伝」
- ^ 『三国志』「蜀書 巻七 龐統伝」
- ^ 季漢補臣賛
- ^ 『三国志』「呉書魯粛伝」
- ^ 蜀書先主伝 孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言「須得涼州、當以荊州相與」
- ^ 『華陽国志』
- ^ 『典略』
- ^ 習鑿歯は費詩が左遷されたのは当然であると述べており、裴松之は習鑿歯の議論の内でこの論が最も優れていると意見している。それに反論して盧弼は、費詩の論に賛同します。劉備の即位行為には王夫之に批判された。「費詩伝」
- ^ 孫桓伝
- ^ 『四川文物』1987年第1期「劉備墓及真偽考弁」
- ^ 奉節県公式ページによる議論の概要。もちろんこのページでは奉節県に墓所があると主張されている。
- ^ 原文:「弘毅寛厚、知人侍士。蓋高祖之風、英雄之器焉。及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無疑貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機権幹略、不逮魏武、是以基宇亦狭。然折而不撓、終不為人下者、抑揆彼之量必不容己。非唯競利、且以避害云爾」
- ^ 先主伝 第二
- ^ ただし、似たような遺言を孫策も張昭にしている。呉書張昭伝の注に引く『呉歴』によれば、「もし仲謀(孫権の字)に仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい」と述べている。
- ^ 族譜によると劉永には劉晨という子がいて、劉備の血統を伝えたことになっているが疑わしい。劉晨の系図は外部リンクを参照。
- ^ 諸葛亮がそのことを楊洪にたずねると、楊洪は「男子は戦い、女子は輸送に当たるべきだ」と進言した
- ^ 『三国志』にはそのような剣があったという記録はない。的盧は『三国志』「先主伝」の注や『先主伝集解』にその名がある。
- ^ a b 渡邉義浩・仙石知子『「三国志」の女たち』山川出版社、2010年6月5日、76-77頁。
- ^ 『三国志』「魏書九 曹仁伝」には、曹純が劉備の娘2人を捕らえたとある。
参考書籍
- 陳寿著:裴松之注『正史 三国志 5 蜀書』(井波律子 訳、ちくま学芸文庫)- ISBN 4-480-08045-7
- 渡辺精一『三国志・人物鑑定事典』(学研)- ISBN 4-05-400868-2
外部リンク
- 翰堂劉氏世系總表 - エンコードを簡体中国語に設定すると正しく表示される。左の番号で94番の人物が劉備である。