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ノート:劉備

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>蜀漢を正統の王朝と認めない立場からは、先主と呼ばれる。

この部分ですが、陳寿は孫権は「孫権」呼ばわりですが、劉備に対しては「先主」と呼んでいます。

また、三国志に「季漢輔臣賛」という書を引用していますが、これは特に必要の無い引用と思われます。

では、なぜこれを引用したのかというと蜀に「季漢輔臣賛」という書がありましたよ、蜀は「季漢」なんですよ、ということを主張したかったためと思われます(季には「最後の」という意味があります)。

当時の陳寿の立場は晋の臣であり、その晋は後漢から禅譲された扱いになっていますので、蜀を漢と認めるとその正当性が揺るいでしまうので、陳寿本人は蜀が漢であるとは書けなかった、そこで「季漢輔臣賛」が引用されるということになったわけです。

纏めますと、陳寿は劉備を先主と呼んでいますが、「蜀漢を正統の王朝と認めない立場」と言い切るのは少々行き過ぎかな、と思ったわけです。

いかがでしょうか。 Rerasiu 16:58 2004年2月26日 (UTC)


Rerasiu さんのおっしゃるとおりだと思います。陳寿は蜀漢を正統の王朝と「認められない立場」にあったけれども、劉備にシンパシーを抱いていた。そのため、呉の「皇帝」の扱いとは異なる先主という言葉で呼んでいると解釈すべきです。 ちなみに陳寿は蜀志の中では、先主・後主(劉禅)とよんでいますが、残る魏志、呉志では、「備」と呼んでいます。 okamich 13:10 2004年6月19日 (UTC)

曹操が莚売りが・・・って言ったってのが正史にありましたっけ?記憶にないんだけど。らりた 2005年11月6日 (日) 06:05 (UTC)[返信]

>(曹豹の離反や陳羣の出奔、劉巴の仕官拒否など)
と書いていましたが、曹豹は張飛との個人的な対立(あるいは唐突にやってきた劉備たちに対する反感があったかもしれませんが、劉備ら三人の関係が原因とは言いがたい)ですし、陳羣が寄る辺なくした劉備よりも献帝を要する曹操を選んだのはごく当たり前のことですし、劉巴は劉備・張飛の身分の低さが原因です。劉備ら三人の関係がこれらの原因となったとは考えにくい(少なくとも『三国志』には書いてない)ので消しました。らりた 2005年12月18日 (日) 07:53 (UTC)[返信]

  • ただし、個人的見解として言わせて戴ければ、劉備にはいわゆる関羽・張飛などの古くからの人間の言う事を聞いていた側面があり、逆に新参家臣が疎外感を感じやすかった面があると思います(劉備が寄る辺を無くしたのは陳羣が徐州に譲り受けるべきではないという諫言を無視して受け取った事が遠因ですし)。そうした意味ではそんな側面もあったのでは? という気がします。--水野白楓 2005年12月25日 (日) 00:19 (UTC)[返信]

'らりた'さんへ

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出来事をまとめてくださったようですが、正史として書かれている内容をわかり易くするには、箇条書きを交えながらの説明の方が良いと思います。以前に筑摩学芸文庫の「正史 三国志 5 蜀書」先主伝での出来事を箇条書きにしただけで、おおまかな流れがわかりました。tomo 2006年4月8日 (土) 02:12 (UTC)[返信]

ここに私への呼びかけがあることに気づいておりませんでした。tomoさん、大変失礼いたしました。
ただ私は箇条書きを好みません。ある人物の身に起きた事はほとんどの場合、互いに連関しあっており、順番に書き連ねる書き方ではそれが解りにくくなると思います。
年表と言う形で付けた方が良いかもしれませんが、検討いたします。らりた 2006年6月5日 (月) 12:46 (UTC)[返信]

系譜に付いて

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>中山靖王(113年没)から、劉備生誕(161年)に至るまでの約250年の間に13代もの系譜が連なるには、先祖が平均で10代後半で子供を生んでいる家系でなくてはならず、この創作から「三国志演義」の作者である羅貫中は、劉備が中山靖王の末裔である事に懐疑的であった事が伺える。
とありましたが、劉貞が陸城侯に立てられたのが紀元前117年、この時点で当然成人であったでしょうし、子供もおそらくはいたでしょう。ここから161年までの278年間に12代ですから平均で23歳と言う無理の無い数字ですので、この文章は削除しました。らりた 2006年6月5日 (月) 12:46 (UTC)[返信]
自分の勘違いを訂正。ただ278年間に13代でも21くらいで無理は無いと思います。らりた 2006年6月6日 (火) 08:26 (UTC)[返信]

質問ですが、そもそも13代だと言うのは演義の作者である羅貫中の創作であって、実際の正史では真ん中の部分は抜けているのですから、本当は何代目の子孫にあたるのかは分からないのではないですか? ちなみに当時の税制面の問題から劉備が漢室の子孫である可能性が高いと言われていた東北大の山田勝芳氏は確か劉貞から劉備の祖父の劉雄までの空白は当時の社会通念と重ねると凡そ7・8世代ではないかと書かれていたような記憶があります。--水野白楓 2006年8月25日 (金) 16:47 (UTC)[返信]

>その一方で、当時の後漢では前漢以来の歴代皇帝の末裔に対して幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に漢の皇帝の末裔の証しとも言える劉姓を名乗る事は重大な違法行為であり、もちろんそのような事を行なうことは困難であったとされている。そのため、劉備の主張を単純に嘘と決め付ける事は出来ない。

という文については、出典が明確ではないので当面コメントアウトとしましょう。皇帝の末裔に労役免除などの特典があったのは事実ですが、本当に「劉姓を名乗る事」だけで重大な違法行為なのか、困難だったのか、については私は出典となる事実を知りません。もちろん私が知らないだけかもしれませんので、ご存知の方をお待ちします。--てぃーえす 2007年7月5日 (木) 22:47 (UTC)[返信]

一応、出典は山田勝芳氏の『秦漢財政収入の研究』(汲古書院、1993年)に漢朝属尽者に関する免税特権に関する件です。私なりに相当端折った部分もあると思いますが、当時皇族として認められる範疇にない劉氏(高祖劉邦の末裔だが、光武帝劉秀(長沙王系)とは疎遠の人々)には労役や臨時課税の免除などなどの特権が与えられていました。ところが、劉氏の末裔は数が多く、それ以外の人々との間に格差が生じたたために、安帝・桓帝の時代には激しい政治論争になるなど属尽者の免税を巡る問題は深刻になっていました(劉備の出自問題もこの論争との関連で触れられています)。免税特権というのは、国家財政収入にも関わる問題ですからある程度国家の管理が行き届いていたという意味合いで触れた積りだったのですが、過剰表現であれば何らかの修正があっても良いと思いますが。--水野白楓 2007年7月5日 (木) 23:06 (UTC)[返信]

(劉備と属尽者の関係について不足していたので追記)山田氏の同書に拠れば、属尽者であった人々にとって、自己の身分の証明のためにはも自分達の一族を把握しておくことが重要であり、そのためには一族間の共同体を保持して一族の離散を防ぐことが必要とされていました。他の後漢の名族と同様に中山靖王劉勝を共通の先祖とする属尽者の一族共同体も当然存在したと考えられ、山田氏は先主伝における劉備幼少期の件に登場する『一門』をこの共同体であるとする考えを出されています。劉備も「母とともに草履を販売し、蓆を織るのを家業としていた」とされながらも、幼少時に一族の子供達と遊んでいて「蓋車に乗ってやる」と言って叔父に「吾が一門を滅ぼすでない」と説教を受け、後に劉元起が「一門の中でも見込みがある」と言って盧植の元に遊学に出されたのも、家庭的に零落してもなおも共同体の一員として劉備が扱われ、劉備が遊学によって官仕の可能性を掴む事で属尽者集団の求心力や社会的影響力の強化につながることを期待していたのではないかという意見を述べられています(同書を読んだのが大分以前のことなので細かいところで間違えているかもしれませんが大まかはそういったところであっていると思われます)。--水野白楓 2007年7月6日 (金) 01:59 (UTC)[返信]
識者の指摘や議論は「端的な説明として有用」もしくは「どうしてもその事実を語るに不可欠」なケースのみにとどめるべきではないでしょうか。あまりに広範・細緻に議論を紹介すると独自研究に接近してしまう恐れがあると感じます。Geso 2007年7月6日 (金) 02:33 (UTC)[返信]
当該論文は劉備と漢の宗室との関係という、関心を集めやすい(と思われる)問題についての手掛りとして一定の意義があると考えています。「端的な説明として有用」かは判断し兼ねますが、論文を簡潔に、かつ趣旨を損ねないように要約するのであれば許容されると考えます。--六尺兄貴 2007年7月6日 (金) 09:23 (UTC)[返信]

水野白楓さま、さっそくの回答ありがとうございます。出典自体は理解いたしました。ただ、そこからこのたびコメントアウトした「一般の住民が勝手に漢の皇帝の末裔の証しとも言える劉姓を名乗る事は重大な違法行為であり」まで言えるのでしょうか?それを言うのであれば史書なり出土資料なりから「一般の住民」が劉氏を名乗って罰せられたといった事実などが出典として必要でしょう。更に、「もちろんそのような事を行なうことは困難であったとされている」についても、劉備が生きていた後漢末においてもそういった取り締まりが厳格に行われていたという証拠が必要ではないでしょうか。劉敬や劉舎のように高祖の血を引かない劉氏も実際に罰せられることなく存在していましたし、劉氏ではないですが董卓が同姓というだけで献帝の外戚と同族と称したといった話があるわけですから。--てぃーえす 2007年7月6日 (金) 13:45 (UTC)[返信]

こちらこそ、ありがとうございます。なお余談ですが、大庭脩氏の「古代中世における日中関係史の研究」(1996年、同朋舎出版)の注記部分にさらっと触れられているのですが、こうした免税特権についての監督は後漢では宗正が行っていたこと、後漢最末期にはこうした特権が有名無実化して甘粛の甘宮(当時で言えば雍州あるいは涼州のいずれかと思われます)から見つかった「甘宮漢簡」の中に属尽者と地方役人のトラブルについて書かれた当時の文書が残されているそうです。--水野白楓 2007年8月5日 (日) 22:49 (UTC)[返信]

劉安のもてなしを喜んだか悲しんだか

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こちらの版で、劉安が妻を殺してその肉で劉備をもてなしたところ、劉備はいたく悲しんだとの記述の変更がありました。これ以前の版には、もてなしに劉備は喜んだとあります。はたしてどちらが正確でしょうか?
私の知る範囲では、劉安のもてなし方は当時の価値観に則すと大変礼を尽くしたやり方であり、劉備は感激したという話だったと思うのですが……。--ライール 2007年12月12日 (水) 18:22 (UTC)[返信]

原文は「玄德不勝傷感、洒涙上馬」です。訳によってブレはありますが、一連の文章を読む限りではゲラゲラ手を叩いて喜んだわけではないでしょうね。ちなみに最初玄徳は「狼の肉です」と偽られて食べたのであり、後から真相を知って驚いたのです。--Geso 2007年12月13日 (木) 00:48 (UTC)[返信]

原文の提示ありがとうございます。なるほど、原文ではそのような描写になっているんですね。検索したところWikisourceの中文版に三國演義の原文があったので、劉安のもてなしのくだりを読みました(最初にこちらを当たるべきでした)。原文にしたがえば、劉備はもてなしの真実を事後に知って驚き悲しみつつも劉安に感謝して去ったという事のようですね。そして劉備が曹操の元に合流した後、話を聞いた曹操が劉安に金百両を与えたと。--ライール 2007年12月13日 (木) 14:59 (UTC)[返信]

涿県は現在どこにあるのか

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劉備の出身地であり、「桃園の誓い」と旗揚げの舞台ともなった涿県ですが、この記事では現在の張家口市涿鹿県だということになっています。しかし英語版や中文版を見ると(手元の本、たとえば井波律子『中国の五大小説』をみても)涿県とは保定市涿州市ということになっています。

涿州市のサイトでは劉備らの大々的な紹介がある一方[1][2]、涿鹿県のサイトでは劉備らについては触れられていません。涿鹿県は「三祖文化」というものを前面に出していますが、これは劉備・関羽・張飛のことではなく、黄帝・炎帝・蚩尤の三人のことのようです[3]。--Nopira 2008年8月31日 (日) 05:23 (UTC)[返信]

中国歴史地図集を見る限り、涿鹿県は古代、現代とも漢の上谷郡内にあるようなので、間違いではないかと思います。--てぃーえす 2008年12月7日 (日) 15:07 (UTC)[返信]