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劉楊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 楊(りゅう よう、? - 26年)は、中国前漢時代末期から後漢時代初期にかけての武将・政治家。真定王。新末後漢初の群雄の一人で、景帝から七世の孫にあたる宗室の身分である。父は真定共王劉普。弟は臨邑侯劉譲[1]。従兄は劉紺[2]。子は劉得[3]。また、後の光武帝(劉秀)の皇后である郭聖通は劉楊の姪、光武帝配下の将軍耿純は甥(姉妹の子)である。

なお、『漢書』諸侯王表第二、『後漢書』光武帝紀は、「劉楊」と表記しているが、『後漢書』劉植伝・耿純伝は「劉揚」と表記している。本記事では、両書で採用されている「劉楊」を便宜的にとるが、どちらが正しいかは不明である。

事跡

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姓名 劉楊または劉揚
時代 前漢時代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 26年建武2年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 真定王〔前漢〕→真定公〔新〕

→真定王〔後漢〕

陣営・所属等 哀帝平帝孺子嬰王莽

王郎→劉秀(光武帝

家族・一族 父:真定共王劉普

弟:臨邑侯劉譲
従兄:劉紺 子:劉得
一族:郭聖通〔姪〕、耿純〔甥〕

初期の事跡

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綏和2年(紀元前7年)、死去した父の真定共王劉普の後を継ぎ、劉楊は真定王となる。16年後の始建国元年(9年)に王莽を建国すると、劉楊は真定公に降格され、始建国2年(10年)に公からも廃された。

更始元年(23年)12月、河北で王郎が天子を称すると、劉楊は劉林と共に王郎に与し、十数万の軍勢を集めた。この時、河北平定に来ていた劉秀が、配下の驍騎将軍劉植に劉楊を説得させると、劉楊は劉秀に投降した。

その後、劉秀が真定に留まると、劉楊の姪の郭聖通を娶り、劉楊との関係を強化した。劉楊は、劉秀配下の諸将と郭氏が居住する漆里の邸宅で酒を酌み交わし、筑を弾いて楽しんだ。そして劉楊も王郎討伐のための邯鄲への進軍に加わり、王郎は劉秀により滅ぼされた。劉秀が光武帝として即位した頃に、劉楊は真定王に復帰したと見られる。

謀反により誅殺

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しかし劉楊は、真定王の地位だけでは物足りず、皇帝の地位を望んだようである。劉楊は「赤九之後、癭楊為主(火徳の九代目[4]の後に、首筋に瘤ある揚が主となる)」との讖記(予言書)を捏造して、衆を惑わし、綿曼(真定国)の賊と連絡をとった。建武2年(26年)春、光武帝は騎都尉陳副・游撃将軍鄧隆を派遣して劉楊を召還しようとしたが、劉楊は城門を閉ざして陳副らを入れようとしなかった。

そこで、光武帝は劉楊の外甥である前将軍耿純に符節を持たせて派遣し、幽州冀州に大赦令を布告させ、王侯を慰労する傍ら、「劉楊と会うことがあれば、これを生け捕れ」と秘密裏に命令した。耿純は陳副・鄧隆と元氏で合流してから、真定国に向かい、伝舎に入った。劉楊はやはり病と称して会おうとしなかったが、耿純は外甥であることから、彼にだけは会おうとした。ただし、警戒は怠らず、「会いたければ伝舎に留まれ」と使者を派遣して耿純に告げた。

劉楊は弟の臨邑侯劉譲・従兄の劉紺とともに各々1万人余りの軍勢を擁して現われ、その威勢を恃んだが、耿純は沈着に対応した。まず劉楊が属官だけを連れ、伝舎に入って耿純に面会すると、耿純は恭しい礼で応対する。安堵した劉楊は、劉譲・劉紺らも招き入れる。しかし、劉楊の兄弟たちが入った途端に、耿純は伝舎の門を閉ざし、即座に劉楊以下残らず誅殺してしまった。真定はこれにより、平定されたのである。

ただ光武帝は、劉楊らが実際には謀反を発動しなかったことを憐れむとして、同年5月、劉楊の子の劉得を真定王に復帰させるという寛大な措置をとった。

脚注

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  1. ^ 彼が誅殺されると、はるか後の54年に斉武王劉縯の孫の劉復がその後継者となった。
  2. ^ 『東観漢紀』・『続漢書』
  3. ^ 「劉徳」とする書も存在する。
  4. ^ 高祖劉邦から九世の孫、すなわち光武帝を指す。

参考文献

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  • 漢書』巻14諸侯王表2
  • 後漢書』本紀1上光武帝紀上
  • 同列伝11劉植伝、耿純伝

関連項目

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