「南満洲鉄道」の版間の差分
Greenland4 (会話 | 投稿記録) m →政党政治と満鉄: +年号 |
m Bot作業依頼: 愛新覚羅氏各記事の正式な用字への改名に伴うリンク修正依頼 (愛新覚羅奕劻) - log |
||
92行目: | 92行目: | ||
{{see also|満洲善後条約}} |
{{see also|満洲善後条約}} |
||
[[ファイル:Gentaro Kodama 2.jpg|170px|サムネイル|右|満鉄設立委員長となった[[児玉源太郎]]]] |
[[ファイル:Gentaro Kodama 2.jpg|170px|サムネイル|右|満鉄設立委員長となった[[児玉源太郎]]]] |
||
小村はアメリカから帰国してわずか2週間後の[[11月6日]]、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、[[11月17日]]からは北京会議に臨んだ<ref name="inoue105" /><ref name="katayama183">[[#片山|片山(2011)pp.183-185]]</ref>。日本側全権は小村寿太郎と駐清公使[[内田康哉]]、清国側は[[欽差大臣|欽差全権大臣]][[愛新覚羅奕 |
小村はアメリカから帰国してわずか2週間後の[[11月6日]]、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、[[11月17日]]からは北京会議に臨んだ<ref name="inoue105" /><ref name="katayama183">[[#片山|片山(2011)pp.183-185]]</ref>。日本側全権は小村寿太郎と駐清公使[[内田康哉]]、清国側は[[欽差大臣|欽差全権大臣]][[愛新覚羅奕劻|慶親王奕劻]]を首席全権とし、外務部尚書の{{仮リンク|瞿鴻禨|zh|瞿鸿禨}}、直隷総督の[[袁世凱]]が全権となって交渉に臨んだ<ref name="inoue105" />。小村・内田の実質的な交渉相手は袁世凱であった<ref name="inoue105" />。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、[[1896年]]の[[露清密約]](李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、元来、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった<ref name="iizuka146" />。したがって交渉はポーツマス会議以上に難航し、[[満洲善後条約]](北京条約)が結ばれたのは[[12月22日]]のことであった<ref name="katayama183" />。小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権の条項の遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には[[日本人]]と[[中国人|清国人]]以外は関与できないこととなった<ref name="sasaki316" />{{refnest|group="注釈"|ロシアと清国の間では[[旅順・大連租借に関する露清条約]](1898年)・[[満洲に関する露清協定]](1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた<ref name="sasaki316" />。}}。また、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの[[関東軍]])<ref name="iizuka146" />。 |
||
1906年[[7月13日]]、[[第1次西園寺内閣]]は、[[児玉源太郎]]を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した<ref name="inoue109">[[#井上|井上(1990)pp.109-114]]</ref>。この委員のなかには[[京釜鉄道]]会社の設立にもかかわった[[渋沢栄一]]、[[竹内綱]]といった財界人、のちに満鉄総裁となる[[仙石貢]]や野戦鉄道提理だった[[武内徹]]といった技術者、外務省からは[[山座円次郎]]政務局長、[[石井菊次郎]]通商局長、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚さらに軍部首脳もふくまれていた<ref name="inoue109" />。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは[[国策会社]]としての性格の濃いものであったことを示している<ref name="inoue109" />。 |
1906年[[7月13日]]、[[第1次西園寺内閣]]は、[[児玉源太郎]]を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した<ref name="inoue109">[[#井上|井上(1990)pp.109-114]]</ref>。この委員のなかには[[京釜鉄道]]会社の設立にもかかわった[[渋沢栄一]]、[[竹内綱]]といった財界人、のちに満鉄総裁となる[[仙石貢]]や野戦鉄道提理だった[[武内徹]]といった技術者、外務省からは[[山座円次郎]]政務局長、[[石井菊次郎]]通商局長、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚さらに軍部首脳もふくまれていた<ref name="inoue109" />。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは[[国策会社]]としての性格の濃いものであったことを示している<ref name="inoue109" />。 |
2020年7月18日 (土) 02:38時点における版
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
大日本帝国 (租借地) 満洲国 新京特別市(1931年以降) |
本店所在地 | 関東州大連市東公園町30 |
設立 | 1906年11月26日 |
事業内容 | 旅客鉄道事業、貨物鉄道事業他 |
代表者 | 当項目を参照 |
資本金 | 当項目を参照 |
主要株主 | 大日本帝国政府(50%) |
主要子会社 | 華北交通、大連都市交通、満州航空、昭和製鋼所 |
関係する人物 | 後藤新平(初代総裁) |
特記事項:1945年9月閉鎖、1957年清算結了。 |
南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ、旧字体:南滿洲鐵道株式會社[1]、英語: The South Manchuria Railway Co., Ltd.)は、1906年(明治39年)に設立された大日本帝国の特殊会社。南満州において鉄道運輸業を営んでいた。略称は満鉄(まんてつ、滿鐵)。
鉄道以外にも広範囲にわたる事業を展開し、日本の満洲経営の中核であった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、事実上の本社となった。最盛期には80余りの関連企業を持った。
1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の終結に伴って閉鎖された。
概要
南満洲鉄道(満鉄)は、日露戦争終結後、1905年(明治38年)9月に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)のこと[2]。また、支線を含む鉄道事業および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社「南満洲鉄道株式会社」を指す[2]。日本の満洲経略における重要拠点となった[2]。1931年(昭和6年)9月に満洲事変が勃発し、1932年(昭和7年)3月に満洲国が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された[2]。また、1935年(昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった[2]。最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、鉄道総延長1万キロ、社員数40万人を擁した[3]。満鉄は、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、1945年(昭和20年)のヤルタ協定によって接収が決まり、第二次世界大戦後は中国・ソ連の共同経営となった[2]。1952年、中華人民共和国に返還され、現在は中国長春鉄路と呼ばれている[2]。
事業内容
満鉄は単なる鉄道会社にとどまらず、日露戦争中に児玉源太郎が後藤新平の影響を受けて献策した「満州経営梗概」に「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ。」とあるように、それを具現するための組織であった。
満鉄は鉄道経営に加えて炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった。後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つであった。後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円を調達、これらの事業の原資とした。
鉄道付属地行政
満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられており、地方部のもとで大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など)を進めた。上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。
しかし、満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年(昭和12年)に満洲国に返還された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。
資本金
- 設立時 - 2億円。うち1億円は政府の現物(鉄道施設とその付属物)出資。
- 1920年(大正9年) - 4億4千万円(第1次増資)
- 1933年(昭和8年) - 8億円(第2次増資)
- 1940年(昭和15年) - 14億円(第3次増資)
歴史
ポーツマス条約と桂・ハリマン協定
日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道(南満洲鉄道)と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された[4]。ポーツマス会議での小村寿太郎外相の交渉相手であったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国蔵相としてシベリア鉄道および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった[5]。会議において日本側は当初、南支線の旅順・ハルビン間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した[6][7]。日本側はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた[7][注釈 2]。
伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるかについて自信がもてなかった[4]。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、日露戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した[4]。ハリマンは、日本銀行の高橋是清副総裁と大蔵次官の阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム駐日アメリカ合衆国公使の招きによって、自身の娘をともない、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフらとともに来日した[8][9][10]。
ハリマン一行の来日の目的は、世界を一周する鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった[10][11]。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた[10]。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した[4][11][12]。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり[9]、南満洲鉄道を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようというものであった[11][注釈 3]。
この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂太郎首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した[12][13]。ハリマンの提案が好意的に受け止められた理由は、ハリマンの売り込みの手腕もさることながら、「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に根強かったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその一因であった[9]。桂太郎はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、外交責任者である小村の了解を得てからのこととした[10][12]。
ポーツマス会議より帰国した小村寿太郎は、ハリマン提案に断固反対した[10]。彼は、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったと反省を求めつつ、その撤回を説得して歩いた[10][4][11][12]。形式論からすれば、ポーツマス講和条約の規定によって南満洲鉄道の日本への譲渡は清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、桂・ハリマン協定は不適切であるということを強調した[4][14]。すなわち、清国の承認を得て確実に日本のものとならない以上、その権利を半分譲るなどということはできかねるという論理を小村は持ち出したのである[10]。小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した[4][12]。小村の報告により、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことが判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れたのである[9]。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマン一行の乗った船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配した[10][4]。サンフランシスコ総領事の上野季三郎は、サイベリア号に乗り込み、覚書中止(suspend)のメッセージをハリマンに手渡した[10][15]。ハリマンは次いで、桂首相代理として仲介役添田寿一からの覚書取消の婉曲な申し込みを記した長電を受け取った[10]。こうして第1次桂内閣は外国資本の参加を見送った。
満洲善後条約と満鉄設立委員の選任
小村はアメリカから帰国してわずか2週間後の11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ[15][16]。日本側全権は小村寿太郎と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ[15]。小村・内田の実質的な交渉相手は袁世凱であった[15]。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年の露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、元来、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった[9]。したがって交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった[16]。小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権の条項の遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人と清国人以外は関与できないこととなった[14][注釈 4]。また、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍)[9]。
1906年7月13日、第1次西園寺内閣は、児玉源太郎を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した[17]。この委員のなかには京釜鉄道会社の設立にもかかわった渋沢栄一、竹内綱といった財界人、のちに満鉄総裁となる仙石貢や野戦鉄道提理だった武内徹といった技術者、外務省からは山座円次郎政務局長、石井菊次郎通商局長、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚さらに軍部首脳もふくまれていた[17]。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは国策会社としての性格の濃いものであったことを示している[17]。
南満洲鉄道の設立
南満洲鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、ポーツマス条約によりロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南満州支線の鉄道施設、付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設された軽便鉄道の安奉線(安東(現、丹東) - 奉天(現、瀋陽)間)とその付属地の経営をおこなう半官半民の特殊会社として設立させた。設立は、勅令(南満洲鉄道株式会社に関する件(明治39年勅令第142号))に基づいてなされ、総裁は勅任であった。
1906年11月、ロシアより委譲された東清鉄道の長春・旅順線(南満洲支線)の経営に当たる南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平が任じられた[8][14][18]。資本金は2億円であった[19]。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった[19]。
政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田・煙台炭田などの現物出資となった[8][19]。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず[14]、民間からの投資は日本での株式募集が2000万円、のこり8000万円は外資による社債で賄うこととした[8][19]。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集では99,000株の募集に対して1億株余りの応募が殺到し、倍率は1,000倍を超えた[20]。一方、外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた[11][19]。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった[11][19]。
政府による事業資金は日本興業銀行から社債などのかたちで投資され、南満洲鉄道への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた[21][注釈 5]。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった[21]。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる[21][注釈 6]。
後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長(1906年4月11日より陸軍参謀総長)となった児玉源太郎であった[8][18][22]。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる[8][22]。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望、原敬ら)といった人びとからも期待された[22][18][23]。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」(関東都督府、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本の領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの要因があった[22]。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待されたのである[22]。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで首相の西園寺公望と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。
総裁となった後藤は、さっそく積極的な経営を展開し、部下の中村是公とともに、戦争中に狭軌に直して使用したの改築をともなう満鉄全線の国際標準軌化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、大連港の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の社会資本整備などを強力に推し進めた[8][19][22]。
こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた[8]。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができるということを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった[8]。満鉄の初代総裁・後藤新平は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職にスカウトした。そのうちの1人である三井物産元門司支店長の犬塚信太郎は32歳であった。
一方、清国は満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた[24]。具体的には、
- 清国側が新奉鉄道(新民屯 - 奉天)の奉天停車場を奉天城付近に移し、途中で満鉄線を横断する計画を満鉄に打診したが、日本は貨物の流通ルートが変わり、満鉄が打撃を受けるとしてこれを拒否した件
- アメリカの奉天総領事ウィラード・ディッカーマン・ストレイトが奉天巡撫の唐紹儀を促してイギリスのポーリング商会と新法鉄道(新民屯 - 法庫門)の工事請負契約を結んだことに対し、日本側が抗議した件
- 撤去予定の大石橋・営口間鉄道について、貿易港である営口と満鉄の連絡線として重要であるため、清側にその存続を認めさせる件
- 日本が経営していた撫順・煙台の炭坑の権利が不明確であるとして、経営をつづけるために権利を確固としたものに改める件
- 安奉鉄道沿線の鉱山採掘について日清両国人の合同事業とする件
などであった[24]。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、第2次桂内閣へと持ち越された[24]。
南満洲鉄道は、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満州鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線各地に配備されるようになった。
政党政治と満鉄
明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた[25]。1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された[25]。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである[25]。中村・国沢の更迭も大正政変で第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり[25]、これは政友会出身の内務大臣・原敬の差し金であったといわれる。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した[25]。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた[25]。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した[25]。
折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものであったので、事態はいっそう紛糾した[25]。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿や大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた[25]。こうして特別運賃は事実上撤回された[25]。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗した[25]。その結果、野村、伊藤、犬塚の3名は、1914年7月の株主総会で更迭された。なお、この7月、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発している[26]。大戦は直接戦場にならなかったアメリカ合衆国や日本に大戦景気と呼ばれる特需をもたらしたが、朝鮮や台湾、満洲を含む中国大陸にも好景気をもたらした[26]。
大隈重信内閣は1914年7月、野村と伊藤に代わり、中村雄次郎を満鉄総裁に送り込み[25]、中村は1917年7月まで総裁を務めた。中村は、軍人出身で陸軍省次官、総務長官、八幡製鉄所長官を歴任した人物であった[25]。こうして内閣が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった[25]。アジアが好景気に沸くなか、加藤高明外相は、1915年1月に中華民国の袁世凱政権に対し「対華21カ条要求」を突きつけた[26][27]。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた[26][27]。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国ナショナリズムを引き起こし、日貨排斥運動が起こった[26][27]。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった[27]。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『満洲日日新聞』1915年4月6日付)、「大連駅の大混雑」(同4月7日付)といった混乱状況が生じた[26]。
1917年のロシア革命は、満洲に大きな衝撃をあたえた[28]。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争(シベリア出兵)がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化した[28]。革命に対する満鉄の反応は迅速であった[28]。満鉄は1917年[28]6月、理事の川上俊彦をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた[28]。11月15日、川上は帰国して本野一郎外相にロシア十月革命も含めた「露国視察報告書」を提出した。この報告書は寺内正毅や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた[28]。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた[28]。
一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。1918年(大正7年)原敬内閣が成立すると、原は1919年(大正8年)4月、理事長・国沢新兵衛を更迭した。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚・中西清一が就任した[29]。1920年、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入した[30]。塔連炭坑は政友会の幹部である森恪が経営していた[29][30]。内田汽船の経営者は政友会系の内田信也であった[30]。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられた[30](満鉄疑獄事件)。1921年、野党の憲政会はこの問題を帝国議会で追及し、中西を背任罪で告訴した。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがいた。興業部庶務課長であった山田潤二は野村と中西に直言し、容れられないと職を辞し、検事に決定的証拠を提出した[29]。中西は逮捕、起訴されたが、控訴審では証拠不十分として無罪となった[30]。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、1927年(昭和2年)には社員会が結成された。
張作霖爆殺事件と満洲事変
1926年7月1日、蒋介石が北京政府撲滅を目指すとして北伐を宣言して軍事行動を開始した[31]。南京、上海占領ののち、1927年5月、山東省にせまると、田中義一内閣は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した(山東出兵)[32]。6月27日から7月7日にかけては東京で東方会議が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、張作霖を排除して傀儡政権を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた[32]。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は田中義一首相兼外相や陸軍省首脳部のものであった[32]。大陸政策に深くかかわっていた実業家出身の衆議院議員(当時はまだ当選2回)、山本条太郎は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた[32]。山本条太郎は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれた。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。
1928年(昭和3年)6月4日、満鉄の車両が奉天付近で爆破され、乗車していた奉天派軍閥の領袖、張作霖が死亡した(張作霖爆殺事件)。これを機に、田中は首相を辞任し、山本も満鉄社長の座をおりた。張作霖の暗殺後に後継者となった張学良は、日本を憎むようになり、排日政策を展開した。満州中の貨物を満鉄から奪還する目的で、満鉄を包囲する路線を敷設して葫蘆島に結び、さらに海吉(海龍‐吉林)、奉海(奉天‐海龍)、京奉の三線を結んで、吉林から奉天まで直通列車を運転するようになった。また、張学良は、日本が敷設権をもっている鉄道の建設を許可せず、奉天政府の鉄道建設のために満鉄が与えた一億円の借款に対しては、元利ともその支払いを拒否した。このこともあり、1930年(昭和5年)の満鉄は利益が前年の3分の1に減少したため、2000人の従業員を解雇した。
1931年(昭和6年)9月、柳条湖事件を発端に満州事変が起こり、関東軍が軍事的に勝利して満洲全土を支配下に置いた。
当時の満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳は事変の不拡大を望んでいたが、理事の中でただ一人事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が関東軍司令官・本庄繁と面談すると、急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することになる。この満洲事変、および満州国の成立によって満鉄の性格は大きく変わった。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。
満鉄改組
1932年(昭和7年)、軍部に批判的だった江口定条副総裁が解任され、これを了知していなかった内田総裁が辞表を提出する事態となるが、軍部の慰留を受け、内田は辞任を撤回した[33][34]。
満洲事変以来、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。こうした勢力は、満州国の経済における満鉄の独占的地位をよしとしなかった。1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満州重工業開発(満業)に譲渡し、鉄道と炭鉱部門および調査部門に特化することになった。
こうしたなか、総裁松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門を強化するが、1942年(昭和17年)、1943年(昭和18年)の二度に亙る「満鉄調査部事件」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。
子会社の東亜勧業は満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。
消滅とその後
1945年(昭和20年)の日本の降伏の直前に満洲に侵攻したソ連軍に接収された。その施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。その後、国共内戦による中華人民共和国成立を挟んで、1955年に中華人民共和国政府への路線引き渡しが完了した。
一方、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によりポツダム宣言受諾にともなう閉鎖機関令が公布され、満鉄は1945年9月30日に遡って閉鎖されたものとされた。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は1957年(昭和32年)までかかった。
満鉄は消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者は不足しており、総裁だった山崎元幹ら旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事(留用)させられた。留用は1949年に建国した中華人民共和国でも続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出され[35]、その成果として天水 - 蘭州間の天蘭線開通が挙げられる(1953年に帰国後「天水会」を組織)[36][37]。また、大村卓一は満鉄総裁を務めた罪で、中国共産党軍に逮捕され、獄死した。
満鉄が満洲に残した各種インフラは、日本が撤退し、1955年の中国返還後、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や付近で発見された大慶油田と共に、国内が不安定であった中華人民共和国の経済を長く支えた。
長春(旧・新京)や大連、瀋陽(旧称・奉天)といった主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数目にすることが出来る。満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。
満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。
かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている[38]。
2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心地として「満鉄研究センター」を設立した[39]。
鉄道事業
標準軌への改軌
レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1067mm)の狭軌に改築していた。これを、政府の命令書により中国や朝鮮などに合わせて4フィート8.5インチ(1435mm)の国際標準軌間に改築しなければならなかった。1908年(明治41年)には大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。
代表的な列車
- 特急「あじあ」 大連 - 新京 - 哈爾濱
- 急行「はと」 大連 - 新京
- 急行「ひかり」 釜山 - 新京
- 急行「のぞみ」 釜山 - 新京
- 急行「大陸」 釜山 - 奉天 - 北京
- 急行「興亜」 釜山 - 奉天 - 北京
- 急行「あさひ」 羅津 - 新京
特急「あじあ」
1934年(昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hを上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシナ型」がこれを牽引した。1935年(昭和10年)には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。
経営路線
鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年(昭和10年)にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・中東鉄道)をはじめとする満州国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年(昭和11年)、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転した。
以下は、1945年(昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である[40]。
凡例 : [貨] 貨物線
社線
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
連京線 | 大連 - 新京 | 701.4 | 本線 (開業 - 1921年7月20日) 満洲本線 ( - 1925年3月31日) 連長線 ( - 1932年10月31日) |
大連埠頭 - 沙河口 [貨] | 6.9 | 通称「埠頭線」 | |
大連 - 吾妻 [貨] | 2.9 | 通称「吾妻線」 | |
安奉線 | 安東 - 蘇家屯 | 260.2 | |
入船線 [貨] | 沙河口 - 入船埠頭 | 5.8 | |
旅順線 | 周水子 - 旅順 | 50.8 | |
柳樹屯線 | 大房身 - 柳樹屯 | 5.8 | 休止線 |
甘井子線 [貨] | 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 | 11.9 | |
金城線 | 金州 - 城子疃 | 102.1 | |
営口線 | 大石橋 - 営口 | 22.4 | |
煙台炭礦線 | 煙台 - 煙台炭礦 | 15.6 | 非営業線 |
撫順線 | 蘇家屯 - 撫順 | 52.9 | |
渾楡連絡線 [貨] | 渾河 - 楡樹台 | 4.1 |
北鮮線
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
北鮮西部線 | 上三峰 - 南陽 | 36.0 | 図們線(朝鮮総督府鉄道) |
北鮮東部線 | 図們 - 雄基 | 147.3 | 図們線(朝鮮総督府鉄道) |
雄羅線 | 雄基 - 羅津埠頭 | 18.2 | |
南羅津線 [貨] | 羅津 - 南羅津 | 3.0 |
国線
満州国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)
路線名 | 区間 | キロ程 | 旧路線名・備考 |
---|---|---|---|
奉山線(現瀋山線) | 奉天 - 山海関 | 419.6 | 奉山鉄路 |
奉裕連絡線 [貨] | 奉天 - 裕国 | 17.5 | |
于洪連絡線 [貨] | 于洪信号場 - 大成信号場 | 4.6 | |
皇姑屯連絡線 [貨] | 皇姑屯 - 北奉天 | 2.8 | |
高新線 | 高台山 - 新立屯 | 60.6 | |
大鄭線 | 大虎山 - 鄭家屯 | 366.2 | 奉山鉄路(大虎山-通遼) 四洮鉄路(通遼-鄭家屯) |
新義線 | 新立屯 - 義県 | 131.5 | |
河北線 | 溝幇子 - 河北 | 91.1 | 奉山鉄路 |
錦古線 | 錦県 - 古北口 | 542.3 | 奉山鉄路(錦県-口北営子) |
北票線 | 金嶺寺 - 北票 | 17.9 | 奉山鉄路 |
葉峰線 | 葉柏寿 - 赤峰 | 146.9 | |
壺蘆島線 | 錦西 - 壺蘆島埠頭 | 12.1 | 奉山鉄路 |
奉吉線 | 奉天 - 吉林 | 447.4 | 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮) 吉海鉄路(朝陽鎮-吉林) |
瀋陽連絡線 [貨] | 奉天 - 瀋陽 | 10.7 | |
将軍堡連絡線 [貨] | 撫順 - 将軍堡信号場 | 3.6 | |
撫順城連絡線 [貨] | 撫順 - 撫順城 | 4.5 | |
梅輯線 | 梅河口 - 満浦 | 255.5 | |
新通化線 | 通化 - 新通化 | 4.2 | |
大栗子線 | 鴨園 - 大栗子 | 112.3 | |
平梅線 | 四平 - 蓮河 | 149.2 | 瀋海鉄路(西安-蓮河) |
京図線 | 新京 - 図們 | 528.0 | 吉長吉敦鉄路(新京-敦化) 敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺) |
龍豊線 | 龍潭山 - 大豊満 | 22.4 | |
金珠線 | 江北 - 金珠 | 18.8 | 吉林鉄路(新吉林-金珠) |
小新連絡線 [貨] | 小姑家 - 新站 | 9.1 | |
朝開線 | 朝陽川 - 上三峰 | 60.6 | |
和龍線 | 龍井 - 和龍 | 61.1 | |
合水連絡線 [貨] | 萱穂信号場 - 合水信号場 | ― | |
図佳線 | 図們 - 佳木斯 | 580.2 | |
佳木斯埠頭線 [貨] | 佳木斯 - 佳木斯埠頭 | 3.6 | |
興寧線 | 新興 - 城子溝 | 216.1 | |
汪清連絡線 [貨] | 汪清 - 小汪清 | 9.0 | |
虎林線 | 林口 - 虎頭 | 335.7 | |
恒山線 | 鶏寧 - 恒山 | 12.4 | |
拉浜線 | 三棵樹 - 拉法 | 265.5 | |
煤窯線 | 舒蘭 - 煤窯 | 30.4 | 吉林鉄路 |
京浜線 | 新京 - 哈爾浜 | 242.0 | 北満鉄路 |
浜洲線 | 哈爾浜 - 満洲里 | 934.8 | 北満鉄路 |
浜綏線 | 哈爾浜 - 綏芬河 | 546.4 | 北満鉄路 |
開道廻線 | 亜布洛尼 - 横道河子 | 59.2 | |
香坊連絡線 [貨] | 香坊 - 東門信号場 | 5.1 | |
東門連絡線 | 東門信号場 - 新香坊 | 6.2 | |
城鶏線 | 下城子 - 西鶏家 | 103.4 | 穆棱鉄路(下城子-梨樹鎮) |
綏寧線 | 河西 - 東寧 | 91.1 | |
浜江線 | 哈爾浜 - 三棵樹 | 8.8 | 北満鉄路(哈爾浜-浜江) |
三棵樹埠頭線 [貨] | 浜江 - 三棵樹 | 4.0 | |
哈爾浜埠頭線 | 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 | 2.9 | 北満鉄路(哈爾浜-八区) |
江南連絡線 [貨] | 太平橋 - 江南信号場 | 2.2 | |
浜北線 | 三棵樹 - 北安 | 326.1 | 呼海鉄路(新松浦-海倫) 海克鉄路(海倫-北安) |
綏佳線 | 綏化 - 佳木斯 | 381.8 | |
鶴岡線 | 蓮江口 - 鶴岡 | 54.3 | |
蓮江口埠頭線 [貨] | 蓮江口 - 蓮江口埠頭 | 3.5 | |
北黒線 | 北安 - 黒河 | 302.9 | |
黒河埠頭線 [貨] | 黒河 - 黒河埠頭 | 4.2 | |
斉北線 | 斉斉哈爾 - 北安 | 231.5 | 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安) 泰克鉄路(泰安-克山) 海克鉄路(克山-北安) |
寧霍線 | 寧年 - 霍龍門 | 284.0 | 斉克鉄路(寧年-拉哈) |
平斉線 | 四平 - 斉斉哈爾 | 571.4 | 四洮鉄路(四平-洮南) 洮昂鉄路(洮南-三間房) 斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾) |
京白線 | 新京 - 白城子 | 332.6 | |
白杜線 | 白城子 - 杜魯爾 | 376.5 | 洮索鉄路(白城子-寧家) |
楡樹線 | 楡樹屯 - 昂昂渓 | 6.4 | 斉克鉄路 |
渓堿線 | 宮原 - 田師府 | 86.0 |
新線
安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)
社内専用線
湯旺森林線
廃止線
- 社線
- 霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
- 西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
- 国線
- 馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
- 奶子山線[貨] (蛟河 - 奶子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
- 松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
- 道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
- 新線
- 東当線(1944年4月1日廃止)
満鉄の車両
南満洲鉄道株式会社歴代代表者
代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る。
代 | 氏名 | 在任期間 | 出身地 | 出身校 | 前職・備考など | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 後藤新平 | 1906年11月13日 - 1908年7月14日 | 陸奥国 | 須賀川医学校 | 台湾総督府 | |
2 | 中村是公 | 1908年12月19日 - 1913年12月18日 | 安芸国 | 東京帝国大学 | 台湾総督府 | |
3 | 野村龍太郎 | 1913年12月19日 - 1914年7月15日 | 美濃国 | 東京帝国大学理学部 | 鉄道院副総裁 | |
4 | 中村雄次郎 | 1914年7月15日 - 1917年7月31日 | 伊勢国 | 陸軍兵学寮 | 貴族院勅選議員 | |
5 | 国沢新兵衛 | 1917年7月31日 - 1919年4月12日 | 江戸 | 東京帝国大学工科大学 | 鉄道省 | |
6 | 野村龍太郎 | 1919年4月12日 - 1921年5月31日(再任) | 同上 | 同上 | 同上 | |
7 | 早川千吉郎 | 1921年5月31日 - 1922年10月14日 | 加賀国 | 東京帝国大学法科大学 | 三井合名会社副理事長 | |
8 | 川村竹治 | 1922年10月24日 - 1924年6月22日 | 羽後国 | 東京帝国大学法科大学 | 貴族院勅選議員 | |
9 | 安広伴一郎 | 1924年6月22日 - 1927年7月19日 | 豊前国 | 慶應義塾 香港中央書院 |
枢密顧問官 | |
10 | 山本条太郎 | 1927年7月19日 - 1929年8月14日 | 越前国 | 共立学校 | 立憲政友会幹事長 | |
11 | 仙石貢 | 1929年8月14日 - 1931年6月13日(不) | 土佐国 | 東京帝国大学理学部 | 九州鉄道社長 | |
12 | 内田康哉 | 1931年6月13日 - 1932年7月6日 | 肥後国 | 東京帝国大学 | 外務大臣 | |
13 | 林博太郎 | 1932年7月26日 - 1935年8月2日 | 東京都 | 東京帝国大学文科大学 | 貴族院伯爵議員 | |
14 | 松岡洋右 | 1935年8月2日 - 1939年3月24日 | 山口県 | オレゴン大学 | 中華民国総領事 | |
15 | 大村卓一 | 1939年3月24日 - 1943年7月14日 | 福井県 | 札幌農学校 | 関東軍交通監督部長 | |
16 | 小日山直登 | 1943年7月14日 - 1945年4月11日 | 福島県 | 東京帝国大学 | 南満洲鉄道株式会社 | |
17 | 山崎元幹 | 1945年5月5日 - 1945年9月30日 | 福岡県 | 東京帝国大学法科大学 | 満州電業副社長 |
満鉄刀と満鉄会
満鉄刀(興亜一心刀)
満鉄は不純物の少ない鉄鉱石と石炭を用いて低温還元のスポンジアイアンを製造し特殊鋼の材料としていた。これをアーク炉で炭素量を調整して芯金と皮金を製造、皮金に穴をあけ芯金をいれ日本刀とした。(パイプ法またはもろ包という)行程は13に分けて流れ作業で製造され1日100振りを目標とした。昭和12年から試作が開始され14年から19年まで約5万振りが製造されている。松岡総裁により興亜一心と命名され1振り40円で販売された。日本刀製法である刀工自ら槌で折り返す鍛錬をすると心金と呼ばれる刀身真ん中の柔らかい鉄が均等にならないが、満鉄刀は心金を均等に真ん中にしている。切れ味も優れている[41]。
満鉄会
1946年(昭和21年)、未払い退職手当の支払い、元社員の就職斡旋や未帰還者の早期帰国などを目的として、「満鉄会」が設立された[42][43]。1954年(昭和29年)11月25日には、財団法人「満鉄会」となった。旧満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行った。
会員は多い時で約15,000人にのぼり、都道府県ごとの会や、在籍時の職種や職場、教育機関のグループによる会も設立された[43]。しかし、会員の高齢化に伴って減少し、元社員への退職手当支払いという当初の目的を達したこともあり[43]、2012年(平成24年)10月19日に最後の大会を開催し、翌2013年(平成25年)3月末をもって解散した。2013年4月から3年間は情報発信のみをおこなう「満鉄会情報センター」として運営された[42]が、これも2016年(平成28年)3月末で解散した[44]。解散後、満鉄会が保有していた資料は、2017年(平成29年)に国立国会図書館へ寄贈されている[45]。
主な満鉄出身者
役員
- 金井章次(満鉄地方部衛生課長)
- 安井武雄(建築家。満鉄で大連税関長官舎を1911年に設計)
- 村上義一(理事)
- 河本大作(理事)
- 十河信二(理事。終戦後しばらくして国鉄総裁に就任、東海道新幹線の整備に尽力。)
- 久保田政周(理事)
- 中西敏憲(理事)
- 北條秀一(理事)
- 田代由紀男(吉林局)
- 野田俊作(参事)
- 伊藤顕道(満鉄安東、奉天第二中学教諭)
- 筒井省二(皮膚科学者。満鉄病院で勤務後、鶴岡市立荘内病院長)
- 岸一太(理事、満鉄病院院長)
社員
|
|
営業実績
南満洲鉄道株式会社各種事業収支(单位:万円)[46]
会計年度(西暦) | 鉄道 | ホテル | 船舶 | 自動車 | 港湾 | 鉱業 | 製鉄 | 製油 | 附属地 | その他 | 合計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1907 | 366.7 | -3.1 | - | - | 1.2 | 55.3 | - | - | -13.0 | -205.5 | 201.7 |
1908 | 737.6 | -1.2 | -12.6 | - | 17.4 | 102.7 | - | - | -12.5 | -620.1 | 211.4 |
1909 | 919.8 | -1.9 | -25.5 | - | 24.7 | 123.0 | - | - | -23.0 | -439.9 | 577.2 |
1910 | 912.9 | -7.7 | -19.3 | - | 11.2 | 166.7 | - | - | -49.7 | -571.4 | 370.8 |
1911 | 1061.8 | -4.7 | -14.8 | - | 9.6 | 217.9 | - | - | -61.5 | -827.4 | 366.7 |
1912 | 1206.1 | -3.6 | -2.2 | - | -19.9 | 184.7 | - | - | -76.8 | -835.4 | 492.6 |
1913 | 1436.1 | -2.1 | -12.7 | - | 18.3 | 180.1 | - | - | -105.1 | -797.9 | 716.7 |
1914 | 1487.1 | -5.7 | -16.9 | - | 32.7 | 221.7 | - | - | -108.6 | -856.2 | 754.1 |
1915 | 1572.0 | -4.8 | 4.6 | - | 37.1 | 200.7 | - | - | -97.4 | -904.2 | 808.0 |
1916 | 1937.9 | -0.7 | 21.4 | - | 36.4 | 200.7 | 12.3 | - | -126.8 | -1077.5 | 1010.8 |
1917 | 2359.9 | 3.7 | 106.3 | - | 39.3 | 602.5 | - | - | -160.8 | -1458.3 | 1492.6 |
1918 | 2795.4 | 9.8 | 28.6 | - | 3.9 | 713.7 | - | - | -240.7 | -1039.7 | 2219.3 |
1919 | 3653.2 | -0.3 | -25.1 | - | -133.5 | 1359.9 | -148.7 | - | -421.6 | -1876.4 | 2437.5 |
1920 | 4855.7 | -16.8 | -84.9 | - | -56.3 | 606.7 | -642.3 | - | -616.0 | -1307.0 | 2739.2 |
1921 | 4503.1 | -21.9 | -24.5 | - | 66.9 | 329.6 | -287.4 | - | -643.2 | -783.1 | 3138.6 |
1922 | 5364.4 | -32.8 | -2.2 | - | 128.2 | 671.6 | -319.8 | - | -683.6 | -500.1 | 3508.0 |
1923 | 5648.2 | -33.7 | - | - | 7.4 | 407.9 | -224.1 | - | -829.8 | -1496.4 | 3479.6 |
1924 | 5600.8 | -24.4 | - | - | 7.6 | 810.3 | -295.6 | - | -976.4 | -1640.3 | 3455.3 |
1925 | 5859.5 | -21.5 | - | - | 63.3 | 646.7 | -372.0 | - | -1140.0 | -1548.8 | 3486.5 |
1926 | 6197.1 | -33.7 | - | - | 99.4 | 548.9 | -380.7 | - | -1256.7 | -1768.7 | 3415.8 |
1927 | 6800.8 | -26.4 | - | - | 97.0 | 974.8 | -15.8 | - | -1300.6 | -1890.3 | 3627.4 |
1928 | 7428.1 | - | - | - | 246.2 | 1160.3 | 121.6 | - | -1319.5 | -1834.4 | 4255.3 |
1929 | 7489.0 | - | - | - | 355.7 | 1227.5 | 54.3 | - | -1359.9 | 1707.3 | 4550.6 |
1930 | 5856.2 | - | - | - | 182.1 | 182.1 | -66.7 | 3.3 | -1071.9 | -1066.3 | 2167.3 |
1931 | 4818.5 | -9.7 | - | - | 128.9 | 1.7 | -298.0 | 29.0 | -1087.7 | -1880.4 | -340.1 |
1932 | 6505.1 | -8.8 | - | - | 303.9 | 12.8 | -390.0 | 53.8 | -1168.7 | -1150.8 | 6128.8 |
1933 | 7576.6 | -1.3 | - | - | 321.7 | 501.6 | -54.4 | 82.5 | -1067.0 | -1853.0 | 4292.0 |
1934 | 7324.4 | 2.8 | - | - | 358.0 | 1039.1 | - | 47.2 | -1367.6 | -2246.4 | 4646.8 |
1935 | 8403.0 | -9.4 | - | - | 359.5 | 1269.8 | - | 105.1 | -1421.8 | -3100.1 | 4962.4 |
1936 | 7959.7 | -4.9 | - | - | 394.6 | 1225.0 | - | 92.2 | -1663.4 | -1758.3 | 5017.4 |
1937 | 8971.3 | - | - | - | 495.1 | 1050.5 | - | 148.7 | -1085.5 | -3272.7 | 7392.9 |
1938 | 9711.1 | - | - | - | 589.5 | 1657.9 | - | 226.0 | - | -4897.5 | 7287.5 |
1939 | 10592.2 | - | - | - | 294.3 | 1126.0 | - | 127.5 | - | -4355.1 | 7784.5 |
1940 | 14494.5 | - | -307.1 | -422.6 | 167.0 | 1348.7 | - | 101.9 | - | -7711.3 | 7671.1 |
1941 | 15058.9 | - | -111.2 | 5.2 | 136.4 | 1401.1 | - | 250.2 | - | -9527.4 | 7213.1 |
1942 | 19926.1 | - | -266.5 | 14.3 | -4.4 | 1439.3 | - | 310.5 | - | -12930.3 | 8488.8 |
1943 | 22963.6 | - | -356.3 | -419.1 | -624.4 | 510.5 | - | 102.8 | - | -12881.4 | 9295.6 |
1944 | 298232.6 | - | -801.1 | -593.5 | -1141.1 | -1244.5 | - | -549.9 | - | -14113.5 | 11379.9 |
合計 | 260178.6 | -264.2 | -1922.0 | -1414.7 | 3094.7 | 23242.5 | -3307.3 | 1130.8 | -21557.5 | -108200.8 | 140703.8 |
関連会社一覧
- 満鉄衛生研究所
- 満鉄調査部
- 満洲映画協会
- 満州日日新聞
- 満州航空
- 華北交通
- 華中鉄道
- 大連都市交通
- 南満州電気
- 阪神築港(現在の東洋建設)
- 大連汽船(現在のNSユナイテッド海運)
- 昭和製鋼所(現在の鞍山鋼鉄集団)
- 日満倉庫(現在の東洋埠頭)
- 日満マグネシウム(現在の宇部マテリアルズ)
- 日本精蝋
- 満鉄会
- 扶桑レクセル - 南満州鉄道、華北交通、華中鉄道従業員の雇用対策のため設立された。
脚注
注釈
- ^ 現在の麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた。
- ^ ポーツマス条約の第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた[7] → 条約本文は「日露講和條約(ウィキソース)」参照。
- ^ 「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった[4]。
- ^ ロシアと清国の間では旅順・大連租借に関する露清条約(1898年)・満洲に関する露清協定(1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた[14]。
- ^ 残りは、東洋拓殖会社や韓国政府への貸付などに投資された[21]。
- ^ 鈴木良は、この状況を称して「借金帝国主義」と呼んでいる[21]。
出典
- ^ THE SOUTH MANCHURIA RAILWAY CO.
- ^ a b c d e f g コトバンク「南満州鉄道」
- ^ 西澤(2000)
- ^ a b c d e f g h i 隅谷(1974)pp.382-384
- ^ 和田(1994)pp.307-308
- ^ 横手(2007)pp.191-194
- ^ a b c 井上(1990)pp.96-101
- ^ a b c d e f g h i 小林(2008)pp.37-39
- ^ a b c d e f 飯塚(2016)pp.146-148
- ^ a b c d e f g h i j 「小村外交史」第8章第9節」(外務省)
- ^ a b c d e f 古屋(1966)pp.238-240
- ^ a b c d e 片山(2011)pp.181-183
- ^ 井上(1990)pp.101-105
- ^ a b c d e 佐々木(2010)pp.316-318
- ^ a b c d 井上(1990)pp.105-109
- ^ a b 片山(2011)pp.183-185
- ^ a b c 井上(1990)pp.109-114
- ^ a b c 井上(1990)pp.114-119
- ^ a b c d e f g 飯塚(2016)pp.188-190
- ^ 山口県文書館「満鉄の設立」一般郷土史料「南満州鉄道株式会社株券」
- ^ a b c d e 鈴木(1969)p.447
- ^ a b c d e f 日向(2018)pp.317-321
- ^ 飯塚(2016)pp.148-150
- ^ a b c 飯塚(2016)pp.183-186
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 小林(2008)pp.74-75
- ^ a b c d e f 小林(2008)pp.52-53
- ^ a b c d 伊藤(2010)pp.69-71
- ^ a b c d e f g 小林(2008)pp.53-54
- ^ a b c 小林(2008)pp.75-77
- ^ a b c d e 伊藤(2010)pp.162-163
- ^ 伊藤(2010)p.272
- ^ a b c d 伊藤(2010)pp.278-279
- ^ コトバンク「江口定条」
- ^ 中村『昭和史(上)』(2012)
- ^ 堀井(2015)
- ^ 天水会について―中国の天蘭線建設と日本帰国後の活動―
- ^ 天蘭鉄路建設に携わった日本人技術者は、食料にも特別待遇を供与した (中国語)
- ^ 久保田(2005)p.131
- ^ “歴史問題で圧力? 中国、「満鉄研究センター」設立”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2017年4月6日) 2017年9月30日閲覧。
- ^ 満鉄会『満鉄四十年史』(2007) 高山拡志「満鉄全線全駅一覧」
- ^ 満鉄会報 227号
- ^ a b “「満鉄会」最後の大会、高齢化で来年3月に解散”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2012年10月19日). オリジナルの2014年3月14日時点におけるアーカイブ。 2012年11月10日閲覧。
- ^ a b c 荒木泰玄 (2013-02-03). “戦後68年、さよなら「満鉄会」。”. 東京人 (都市出版) 321: 116-123.
- ^ 産経ニュース 満州経営の中核「満鉄会」解散控え最後の懇談会 「人生そのもの…寂しい」 東京
- ^ “満鉄会旧蔵資料(旧「満鉄社員名簿類(MF)」含む)”. リサーチ・ナビ. 国立国会図書館. 2020年4月1日閲覧。
- ^ 西澤(2000)p.127
参考文献
- 飯塚一幸『日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本』吉川弘文館、2016年12月。ISBN 978-4-642-06814-7。
- 伊藤之雄『日本の歴史22 政党政治と天皇』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年4月(原著2002年)。ISBN 978-4-06-291922-7。
- 井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』中央公論新社〈中公新書〉、1990年11月。ISBN 4-12-100992-4。
- 片山慶隆『小村寿太郎』中央公論新社〈中公新書〉、2011年11月。ISBN 978-4-12-102141-0。
- 久保田博『日本の鉄道史セミナー』(初版)グランプリ出版、2005年5月18日。ISBN 978-4876872718。
- 小林英夫『〈満洲〉の歴史』講談社〈講談社現代新書〉、2008年11月。ISBN 978-4-06-287966-8。
- 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年3月(原著2002年)。ISBN 978-4-06-291921-0。
- 鈴木良「5 東アジアにおける帝国主義 五 日清・日露戦争」『岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I』岩波書店、1969年8月。
- 隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論社〈中公文庫〉、1974年8月。ISBN 4-12-200131-5。
- 中村隆英『昭和史 (上)』東洋経済新報社、2012年7月(原著1992年)。ISBN 978-4492061855。
- 西澤泰彦『図説 満鉄―「満洲」の巨人』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2000年8月。ISBN 978-4309726458。
- 日向玲理 著「植民地経営の開始―統治形態の模索と立憲主義」、小林和幸(編) 編『明治史講義【テーマ篇】』筑摩書房〈ちくま新書〉、2018年3月。ISBN 978-4-480-07131-6。
- 古屋哲夫『日露戦争』中央公論社〈中公新書〉、1966年8月。ISBN 4-12-100110-9。
- 堀井弘一郎『「満州」から集団連行された鉄道技術者たち』創土社、2015年1月。ISBN 978-4-7988-0220-6。
- 高山拡志 著「満鉄全線全駅一覧」、財団法人 満鉄会(編) 編『満鉄四十年史』吉川弘文館、2007年11月6日。ISBN 4642037810。
- 横手慎二『日露戦争史』中央公論新社〈中公新書〉、2005年4月。ISBN 4-12-101792-7。
- 和田春樹 著「第7章 近代ロシアの国家と社会」、田中陽児・倉持俊一・和田春樹(編) 編『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4。
関連文献
- 貴志俊彦 『満洲国のビジュアル・メディア――ポスター・絵はがき・切手』 吉川弘文館、2010年
- 『忘れえぬ満鉄』 世界文化社、復刻版2006年、左記は鉄道本、この3冊は主に図版と解説。
- 原田勝正 『満鉄』 岩波新書黄版
- 原田勝正 『満鉄』 日本経済評論社、増補版も出された
- 天野博之 『満鉄を知るための十二章』 吉川弘文館
- 加藤聖文 『満鉄全史』 講談社選書メチエ
- 草柳大蔵 『実録満鉄調査部』 上下、朝日新聞社、のち朝日文庫
- 小林英夫編 『近代日本と満鉄』 吉川弘文館
- 小林英夫 『満鉄調査部』 平凡社新書、のち講談社学術文庫
- 小林英夫 『満鉄調査部の軌跡』 藤原書店
- 小林英夫 『満鉄 「知の集団」の誕生と死』 吉川弘文館
- 『「別冊環」12号 満鉄とは何だったのか』 藤原書店-満鉄創立百周年記念出版
- 『図説 満鉄 「満洲」の巨人』 西澤泰彦編・解説、<とんぼの本>河出書房新社
- 『南満洲鉄道株式会社十年史』、大正8年刊の複製:原書房
- 『南満洲鉄道株式会社第二次十年史』、上下巻.昭和3年刊の複製:原書房
- 『南満洲鉄道株式会社第三次十年史』、4冊組.昭和13年刊の複製:龍渓書舎
- 『南満洲鉄道株式会社第四次十年史』 満鉄会編、龍渓書舎
- 山崎元幹・田村羊三 『忘れえぬ満鉄』 満鉄会叢書1:龍渓書舎
- 渡辺諒 『満鉄史余話』 満鉄会叢書2:龍溪書舎
- 松岡洋右 『満鉄を語る』 慧文社 復刊
- 菊池寛 『満鉄外史』 原書房 復刊
関連項目
外部リンク
- 外務省編纂『小村外交史』第8章第9節(1953年2月)
- 満鉄創業30周年を迎う 満鉄副総裁 大村卓一 『土木建築工事画報』 第13巻 第4号 工事画報社 昭和12年4月発行
- 満鉄ビルディング新築工事 昭和11年、東京市赤坂区葵町に完成した満鉄ビルについて 『土木建築工事画報』 第12巻 第6号 工事画報社 昭和11年6月発行
- "The South Manchurian Railway Company and the Mining Industry: The Case of the Fushun Coal Mine" Tsu-yu Chen, Institute of Modern History, Academia Sinica(英語)