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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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1984年の[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[読売ジャイアンツ]]から5位指名を受け入団。
1984年の[[1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で[[読売ジャイアンツ]]から5位指名を受け入団。

2020年7月14日 (火) 20:12時点における版

井上 真二
読売ジャイアンツ 三軍監督 #72
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県玉名郡南関町
生年月日 (1966-07-12) 1966年7月12日(58歳)
身長
体重
181 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1984年 ドラフト5位
初出場 1985年10月9日
最終出場 1997年8月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2001 - 2006, 2016, 2019 - )

井上 真二(いのうえ しんじ、1966年7月12日 - )は、熊本県玉名郡南関町出身の元プロ野球選手外野手)。右投右打。

経歴

熊本工業高では四番打者、中堅手として活躍。2年生の時に高村洋介野村裕二のバッテリーを擁し、1983年春の選抜に出場。1回戦で湯上谷宏のいた星稜高に敗退[1]。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進むが、後藤慎治のいた東海大二高に惜敗。翌1984年夏の予選は同期のエース二宮正己を擁し出場。しかし決勝で鎮西高松崎秀昭に抑えられ敗退、甲子園出場を逸する。

1984年のプロ野球ドラフト会議読売ジャイアンツから5位指名を受け入団。

1年目の1985年から一軍で起用され、10月には右翼手として初の先発出場を果たす。2年目の1986年と3年目の1987年に2年連続でイースタン・リーグ本塁打王に輝くなど大器の片鱗を見せる。

5年目の1989年5月3日阪神タイガース池田親興から代打でプロ入り初本塁打を放つ。それをきっかけに右翼手に定着し、6月半ばまで打率は4割を超え、2か月足らずで11本塁打を放って一時期新人王の最有力候補に挙げられる。同じくこの年に台頭した2年後輩の緒方耕一と共に「熊工コンビ」と呼ばれ人気を集め、同年のオールスターゲームにも出場した。しかし6月下旬あたりから大きく失速し、8月中旬には緒方に右翼手のレギュラーを奪われ、守備固めや代打での起用が中心となった(8月の成績は32打数7安打.219、0本塁打)。また、8月31日の試合で阪神マット・キーオから左側頭部にデッドボールを受け[2][3]、その影響で9月6日に一軍登録を抹消されるが同月中に復帰を果たす。最終的に打率.298、12本塁打、38打点と自己最高の成績を残すが、新人王はヤクルトスワローズ笘篠賢治に奪われた。

1990年は、それぞれレフトセンターのレギュラーに元々定着していた原辰徳クロマティのほか、吉村禎章の復活や左投手対策で獲得した西岡良洋、新外国人マイク・ブラウンの加入や内外野兼任の緒方耕一の存在、大森剛の入団など、外野手の層がかなり厚くなったことから一軍定着もままならなくなる。それでも、8月には、2試合にまたがって3打数連続本塁打を記録するなど、潜在能力は前年の活躍を裏付けるものを持っていたが、突発的な活躍も前年のままで、結局その3本塁打に終わる。

その後は二軍では活躍するものの、一軍では8年間で1本塁打と振るわず、1998年を最後に現役を引退した。一軍定着時の活躍が鮮烈だったため、一部では頭部への死球をきっかけに打てなくなったと思われている節がある[4]。二軍での通算125本塁打は現在でもイースタン・リーグ記録である。

引退後は巨人で球団職員を経た後、2001年から二軍で打撃コーチや外野守備コーチを歴任、2004年2005年は一軍打撃コーチとなり、2006年に再び二軍打撃コーチとなった。2007年からは巨人のスカウトを務めていたが[5]2016年は二軍打撃コーチに復帰[6]。2軍監督の斎藤雅樹がインフルエンザと診断されたため4月9日のDeNA戦から監督代行を務めた[7]ほか、11月25日から台湾で開催されたアジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の監督を務めた[8]。2017年からはスカウトに戻り、新設職のチーフスカウトを務める[9]。 2019年からは巨人の三軍監督に就任する。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1985 巨人 7 12 11 0 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 1 4 0 .273 .333 .273 .606
1986 8 6 6 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
1988 26 15 15 1 4 0 0 0 4 0 0 0 0 0 0 0 0 4 1 .267 .267 .267 .533
1989 81 242 205 33 61 10 1 12 109 38 4 0 5 4 23 1 5 36 8 .298 .376 .532 .907
1990 53 93 85 10 23 5 1 3 39 12 0 1 1 1 4 0 2 18 2 .271 .315 .459 .774
1991 21 24 23 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 9 2 .043 .083 .043 .127
1992 6 9 9 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .000 .000 .000 .000
1993 10 9 7 0 3 1 0 0 4 0 0 0 0 0 2 0 0 0 1 .429 .556 .571 1.127
1994 11 13 10 2 1 0 0 1 4 1 0 1 1 0 2 0 0 6 0 .100 .250 .400 .650
1995 28 31 26 1 7 4 0 0 11 5 0 0 2 1 1 0 1 6 0 .269 .310 .423 .733
1996 28 45 40 1 7 2 0 0 9 4 1 0 1 0 4 0 0 12 0 .175 .250 .225 .475
1997 10 7 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
通算:12年 289 506 443 49 112 22 2 16 186 60 5 2 11 6 37 1 9 103 14 .253 .319 .420 .739

記録

初記録
  • 初出場:1985年10月9日広島戦(広島) 5回表に宮本和知の代打で出場、川端順の前に凡退
  • 初安打:1985年10月16日広島戦(後楽園) 川端順から
  • 初本塁打・初打点:1989年5月23日阪神戦(東京D) 7回裏に池田親興から代打2ラン
その他の記録

背番号

  • 52 (1985年 - 1998年)
  • 72 (2001年 - 2005年、2016年、2019年 - )
  • 71 (2006年)

代表歴

脚注

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 選手の運命を変える頭部死球――。高橋信二は巨人で復活できるか?
  3. ^ 【1月7日】1990年(平2) 巨人一番の人気者・井上真二 忙しくてごめなさい
  4. ^ 徳光和夫著『徳光和夫の巨人軍スカウティングレポート1999』では、あの死球がなければ今でも5番を打っていたのではないかと書かれている。
  5. ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P20
  6. ^ 来季の一、二軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月27日)
  7. ^ 【巨人】斎藤2軍監督がインフルでダウン 井上2軍打撃コーチが監督代行に - スポーツ報知(2016年4月9日)
  8. ^ a b 2016アジアウインターベースボールリーグ(AWB)NPBメンバー一覧”. NPB.jp (2016年11月22日). 2017年10月21日閲覧。
  9. ^ 巨人 岡崎氏がスカウト部長に、井上氏はチーフスカウト就任”. スポニチアネックス (2016年12月14日). 2017年10月30日閲覧。

関連項目

外部リンク